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・「東北本線/奥中山D51三重連」
410.  西岳バックの奥中山三重連 ・御堂―オクナカヤマ
--北上川の源流を訪ねて/西岳山麓源流説のあれこれ--

〈0001:西岳をバックに力走する下り三重連:堀越庸夫さま撮影〉


〈写真の典拠〉:
 「鉄道写真・蒸気機関車がいた時代・堀越 庸夫」  
http://locomotivesteam.web.fc2.com/PhotoTouhoku.htm
東北本線、15、 奥中山 【昭和39年7月撮影】
これは135o望遠レンズ付きの35mm一眼レフで撮ったとのことです。
快く転載をさせて頂き厚くお礼を申し上げます。

〈0002:bO81052:53レ、下り急行貨物列車〉


〈0003:bO81044:重連後補機付き三重連が軽快にに下って行く〉


「0004:021024西岳遠望、西岳−小繋 間〉」



〈撮影メモ 昭和41年11月5日撮影
西岳が遠望出来るポイントは吉谷地カーブと、この西岳−小繋間の二か所だけである。天候の変りやすいことで知られる西岳は初雪を冠っていた。

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〈紀行文〉
 昭和40年代初めの東北本線、その全長  
740qを北へ1/3ほど行った盛岡以北は蒸気機関車が主役の地域であって、D51三重連が活躍する地帯でもあった。この東北本線は仙台平野へ出ると間もなく延長 249 kmもある大河の北上川に沿うように北上するようになる。そして盛岡を過ぎると右手には姫神山(標高 1,123m)から北へ連なる北上山地がドッシリと迫っており、一法の西側では、手近の岩手山(標高 2,037m)の先には八幡平(標高 1,613m)から北へ連なる七時雨山(ななしぐれやま)火山横列(七時雨山(標高 1063m)を主峰とし西岳(標高 1,018m)、田代山(標高 945m)、毛無森(標高 903m)などを外輪山とする複式火山)が奥羽山脈の前衛のように遠望された。この山々を形成した七時雨火山の活動は第四紀前半(約200万年から100万年前)と古く、それによって生まれた膨大な量の火山噴出物は南側と北東側に流れたり積もったしして、長く尾を引く裾野(すその)が出来上がったと云う。その高原が北上山地の山麓と接する開けた谷底を北上川、それに沿うように9奥州街道(国道4号線)と東北本線が並んで北上していたが、やがて北上かわは国道の下を抜けて水源へ近ずいて行く。
このサイトでは、東北本線の御堂から奥中山に掛けての旧勾配を登って行くD51三重連牽引の貨物列車を、七時雨(ななしぐれ)火山横列の東端にあり西岳の美しい山容をバックに捉えた『西岳バックの奥中山三重連』をおめに掛けたい。合わせて東北本線と共に長い旅を共にしている北上川の源流
には諸説がそんざいしているが、その中でも西岳の山麓を源流としる説について調べたので、付け加えましたのでご覧ください。
どうも、河川の水源は河口から一番遠い所を源流とする定義はないようであった。
 一般には、この北上川は岩手県北部の岩手町御堂にある御堂観音堂境内に湧き出る「弓弭(ゆはず)の泉」を源流とし、北上山地と奥羽山脈の間を南流しつつ、東西両山地から流れる多くの支流を合流して、岩手県の穀倉地帯を南に縦貫し、一関下流の狭窄部を経て
宮城県に入り、石巻市中北部辺りで北東に方きを変えた北上川本流は追波湾(おっぱわん)で太平洋に注いでいる大河であるとされている。ここで水源とされている湧水の位置は分水界に近いわけでもなく、それとて河口から一番遠い訳でもなく、歴史的に知られた地点であることだけが際立っていた。そして、盛岡を過ぎて北上川の上流部にさしかかると、この先には本流よりも流れの延長が長い大支流が存在観ていて、それぞれが“北上川の源流”を主張していたのであった。
その最初は西側に連なる八幡平の山山からの流れを集めて渋民−好摩の間で北上川右岸へ注いでいる松川で地区第一の長さと流量を誇っている。この本流は延長38qで、大深岳湯ノ沢であるが、この支流に松尾鉱山から流下る赤川があり、カッテ硫黄鉱山からの賛成廃水で汚染されていたため下流の松川、そして北上川をも汚染しする大問題となったことで知られている。この赤川の支流に七時雨山火山列の中の田代山(標高 945m)山麓からの湧水 「北上川北限の湧泉」を源とする染田川が、平舘に入って涼川となり、松尾村から流れてくる赤川へ合流していることが判っている。この経路の延長は松川のそれより可なり長くなるので、北上川の源流として一躍注目を浴びている。
次に、その上流では、岩手川口付近で左岸へ注いでいる丹藤川があり、北上川北部の支流では一番長く約60qを誇っている大支流であった。この川は北上山地の天峰山(てんぽうさん、標高 850m)と姫神山(標高 1,123m)の間あたりに源流があり、それが柴沢川となり岩洞湖に注ぐ、東に流れ、西に流れを変えて北上川と合流していた。これは河口からの距離で云えば一番遠いので源流としては一番有望であるとされている。
この岩手川口付近で右岸から合流する西岳源流説の一番手が西岳南西の927m峰を源とする一方井川で、同盟のダムを水系に持っている。この支流に太田川があって、ここを北上川源流とする説がある。
次は、沼宮内の街並みを過ぎると大河の北上川も細いながれとなって、その左手に東北本線、秘儀手に国道4号線を従えてほくじょうしていた。その先の水堀集落付近で北上川に注いでいるのが西岳南西の927.2m峰から流れる上川と合流する小山沢を源流とする説も残っていた。
やがて左手に御堂駅を見てさらに約2qほど北上した地点で明治に名って開かれた国道と、鉄道の北上する経路から右折して東側の山の中へ旧奥州街道は北上川と共にさかのぼっていた。この先数q程の所に御堂観音堂がある。この天台宗の寺は大同2年(807年)、北征して来た坂上田村麻呂将軍が祈願所として創建したのが始とあった。この境内に「弓弭(ゆはず)の泉」があって、国土交通省の1級河川指定では、この湧水を北上川の源流としていた。
この泉の名の由来は、平安時代の天喜5年(1057年)、前九年の役で、阿部頼時征伐のため八幡太郎源頼義が兵馬を進めた折、ここで義家が、弓弭を持って岩を穿つと、
清水が湧き出て、炎天下で苦しむ兵馬を救ったことを感謝し、千手観音像を安置した観音堂を建立した。それ以来、この泉は、「弓弭の泉」と呼ばれるようになった。この弓弭とは、弓の両端の弦の輪をかける部分のことで、「ゆみはず」とも読ばれていたからである。
実は、ここへの途中で朽木川と云う支流が合流しており、一見して支流の方が水量が多かった、この辺が標高389mであった。この川は東側をさかのぼり北上川の源とされている泉の東約2.3qに位置する御堂新田の滝(落差8m、巾12mの三条の滝)を経て流下って着ていたのであった。

この上流では東からの支流を受け入れた先は流れのムキをに見に転換して吉谷地しと呼ばれる谷間をさかのぼり、高原の開拓のちを抜けて西岳の中腹まで登り詰めた所で谷は分水嶺の尾根の斜面に消えていた。この西岳山頂から東面山麓は奥中山高原と呼ばれる馬渕川水系の平糠川(ひらぬかがわ)などの流域となっていたのである。従ってここがとうほくを南北に二分する北上川と馬淵川の分水界なのであった。
この最後は、西岳山ろく説の一つに奥中山源流説が残っているので、話を東北本線の御堂駅まで戻そう。
御堂駅を出て急勾配に入った東北本線を左手に国道4号線は旧奥州街道と判れて北上する。やがて東側から張り出して来た丘陵の端を西へ迂回して北へ進んで行くが、後年に建設された東北本線は国道を跨いで丘陵を切り削って通り抜けて、その先に現れた吉谷地と呼ばれた谷間を大カーブを描いた築堤を築いて越えてから小高い丘陵の尾根を短いトンネルで抜けると奥中山駅構内は近い。この尾根こそが北上川と馬淵川の分水界をなしていて、明治の初めに陸奥の国が三分割された時の陸奥の国(青森県)と陸中の国(岩手県)との国境であって、現在は岩手県内の岩手郡と二戸郡との郡京、岩手町と一戸町とと町境となってる重要な尾根であった。この奥中山一帯は意外と平坦な地形をしていて、その先には東北本線、国道4号線の最高地点である十三本木峠の低いピークが控えていた。
さて、奥中山駅の西方向に『無名の湧水池』が地形図にも記されており、ここか南への廃水は小さな流れを経て北上川の最北の支流である朽木川へ注いで、吉谷地のを経て南下していたのであったから、れっきとした北上川の水源の一つとして奥中山説を成立させていたのであった。
一方、ここから東北への流れは大荒目沢から谷地川、そして平糠川を経て馬淵川へ流れていることが見て取れた。これは明らかに北上川水系と馬淵川水系との谷中(こくちゅう)分水界の様相を呈しているのだった。一般に、山に雨が降ると、稜線を境として、雨水は互いに反対方向に流れて行って、それぞれが川の源流となる。稜線を境として、それぞれの源流は別の川の始まりとなるので、ここを分水界と呼んでいる。分水界が山脈である場合には、分水嶺と呼び、分水界が谷の中にできると谷中分水界(こくちゅうぶんすいかい)と呼んでいる。このように谷の中で流域の境界ができるのは、谷の一部に隆起などの地殻変動が起こったり、「河川争奪」と云う川が流域を奪い合う現象が生じた場合に形成されると説明されている。奥中山の場合は七時雨火山列の噴出物が奥中山駅の付近でも厚さ27mほども堆積していることが判っているから、これによる地形の変化が谷中分水界の成因の一つではないかと推察しれいるのだが、いかがであろうか。
これで、北上川の源流が一級河川の源流を取り巻いて西岳の南東斜面に散在していることが明確となり、『西岳は北上川の母なる山』であるととになった。ここに掲げた写真には北上川の姿が見えないが、西岳山ろくからの幾筋かの源流が灯高見川を目指して南下しているのである。

撮影:昭和42年(1967年)11月3日。

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・「東北本線/奥中山 D51三重連」シリーズのリンク
198. 鉄道100年記念・SL三重連 (東北本線・好摩〜奥中山)
293. 沼宮内駅/三重連牽引の下り貨物列車の発車・沼宮内→御堂
319. 十三本木峠を登る、吉谷地の大カーブ T ・御堂−奥中山
320. 十三本木峠を登る、吉谷地の大カーブ U ・御堂 -奥中山
281. 奥中山駅界隈(かいわい)・御堂−奥中山−西岳(信)
299. 十三本木峠を登る、中山トンネル前後・奥中山−西岳(信)
291. 十三本木峠を登る三重連・一戸→小鳥谷
280. 十三本木峠を登る小鳥谷の大築堤・小鳥谷→滝見(信)
305. 十三本木峠を登る下平踏切りあたり・滝見(信)→小繋
321. 十三本木峠を登る、西岳信号場あたり・小繋→西岳(信)
185. 冬の奥中山三重連 (東北本線・御堂→奥中山)
171.さよなら沼宮内駅の三重連発車・東北本線
289. 十三本木峠を登るSLアラカルト・沼宮内〜一戸