自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役
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SL写真展 ( INJEX )
にある送付先へドウゾ。)
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・「東北本線/奥中山 D51 三重連」
291.
十三本木峠を登る三重連
・
一戸→小鳥谷
〈0001:2-9-1-3/馬淵川橋梁の上り三重連・一戸−小鳥谷〉
『流下って八戸で太平洋に注ぐ馬淵川に掛かる上流から二番目の第11馬淵川橋梁ではなかろうか。』
〈0003:2-9-3-2/国道四号線に沿って築堤を登る・一戸−小鳥谷〉
〈0002:6515:梅が満開の5月の欧州炉〉
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〈写真キャプション〉
最初の〈0001〉は一戸〜小鳥谷間に架かる第十一馬淵川橋梁を渡る上り三重連の牽引する貨物列車の勇姿です。ところで、この鉄橋の話題ではないが、東北本線では馬淵川本流に架かる鉄橋は12ヶ所も数えられ、その中には高さ15mの鉄製トレッスルを用いた橋脚をが多く建設されていた。この鋼材はイギリスの(PATENT社 1889年制」を輸入していたとされている。実は足尾線の足尾−間藤に架かる第一松木川橋梁には東北本線北部の馬淵川橋梁から移設されたトレッスルが現在も活躍している。詳細は、
283. “あかがね”の故郷への道・足尾線/足尾−間藤−足尾本山
をご覧下さい。
二枚目の〈0003〉は一戸駅を出て狭い谷間を目指して、蛇行する馬淵川を渡った直後に続く築堤を同じように馬淵川を渡った国道が寄り添って谷間を目指している所である。この先で国道は架道橋を潜って一足先に馬淵川を野中橋で左岸に戻ってしまう。
最後の作品の撮影場所は定かでない。谷が広いから小鳥谷の前後であろうか。昭和42年5月の撮影であった。こんなに遅い時期に梅が満開とは驚いた。
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〈紀行文〉
今回からの3つのサイトは十三本木峠(鉄道では奥中山峠とも呼ばれている)の北側を訪ねる。こちらの小繋(こつなぎ)側は吉谷地方の高原らしい風景とは撃って変わって山の迫る山岳路線であった。特に“小鳥谷(こずや)の大カーブ”などのように昔ながらの単線の急勾配を登って来る列車風景が楽しめた。それは複線化工事の開始が遅く、開通は昭和42年7月だったからでもあった。
ここでは一戸から小小鳥谷までの沿線の風景と、ほぼ並行して南下している国道4号線(現在は集落付近はバイパスが開通している)をドライブしながらたどってみたい。この区間での昔ながらの奥州街道は集落を通る所を除いては、川筋を避けて西側の山中の急坂を上下ししながら通り抜けているのがつねであって、それだけ地形がけわしかったものと思われる。
コノ奥州街道の一戸宿は馬淵川の左岸に開けた宿場街であった。ここは南隣りの沼宮内宿からは何と“9里(約36km)”も離れていて、その間には峠や多くの急坂が続いている交通の難路が控えていたから、大いに宿場として繁盛していた。今でも町の中心であった向町に入ると街並みは古めかしくなり、冠木門を配した商店、二階建て格子造りの町屋、白壁のまぶしい屋敷、情緒ただよう黒漆喰の土蔵などの宿場街が残っている。明治になって日本鉄道の奥州線が東京から青森へ全通した年の二年後の1893年(明治26年)に宿場の南外れに「一ノ戸駅」が開業した。
このように遅れたのは、一戸宿の有力者が鉄道の通過を喜ばなかったことから、日本鉄道の計画したルートや駅の設置に反対したからであったが、鉄道の効用が認められて遅ればせながら開業したのであったと云う。
そして駅前を通る街道の左手にも家並みが伸びてきて、そこには一段と高い「火の見櫓(ひのみやぐら)」を備えた防火番所の古風なたたずまいを見せていた。その反対側の右手には一の戸駅の駅舎があり、それに続いて広大な構内が広がっていた。やがて、駅名が「一戸駅」と改められ、1912年(明治45年)には構内に盛岡機関区一戸給水転向所が設けられた。そして戦後の1947年(昭和22年)になると盛岡機関区一戸支区から一戸機関区に格上げされた。やがて、貨物輸送の需要増大への対応策として、1,000噸牽引の長大貨物列車の運行が計画された。その峠越えのためには補機を1台増結して三重連運転が必要となった。そこで、北上山地の西麓の標高 150mに位置する一戸にある機関区を十三本木峠越えのための補機専門の機関区とするための増強が行われた。その最盛期には、200人を越える職員と、重油併燃装置を備えた強力なD51蒸気機関車が13両も配属されていた。こを通る機関車は盛岡、青森、尻内のカマであったが、十三本木峠越えの補機には一戸のカマがもっぱら、その任に当たっていた。この一戸から盛岡へ向かう上り列車は狭い谷間をトンネルとダラダラとした長い旧勾配と急カーブを登らねばならず、“機関士/助手泣かせ”の難所であった。それに下り列車では峠から小鳥谷までの約15kmもの長い下り勾配でのブレーキ操作には機関士の腕の見せ所でもあった。
私の訪ねた昭和41年代には、国道四号線(昭和57年に開通した一戸バイパスが国道四号せんとなり、旧道は県道274号一戸二戸線に格下げとなっている)が宿場の街並みを抜けて、未だ古めかしさの残っている駅前を通って馬淵側の左岸を南下していた。その一戸駅の駅舎は特徴のあるコンクリート建てで、待合室には大きな石炭ストーブが夏でも鎮座していた。その駅舎は上り線のすぐ脇にあるため、一旦線路をくぐる必要があり地下道になり、ホームへは階段で登るようになっていた。まるで都会の駅みたいな風情であった。それほど広くない駅前からは国鉄バスが北へは二戸へ、南へは小鳥谷を経て葛巻まで発着していた。この先の右手には一戸駅の構内が続きており、左手には馬淵川の流れがかいま見られた。この一戸駅構内の最も手前にある上り本線には尻内から重連牽引で到着した長大編成の貨物列車を見ることができた。そこの前部に前々補機として一戸区のD51が連結されると、三重連牽引の貨物列車ができあがり、ら三本の黒煙を噴き上げて発車準備に余念がなかった。やがて長音三発の発車の汽笛が広い谷間に響き渡ると、猛然とダッシュに掛かった。街並みが途切れると左手の国道の背後を流れる馬淵川と並行して南下し始めるが、目前には両側から山が迫ってきて一戸の広かった谷間は蛇行する馬淵側峡谷へと吸い込まれて行くようであった。次第に築堤が高ふなって、高架橋を過ぎて小さなトンネルを抜けると、やがて蛇行する馬淵川の谷間を全長55mの第11馬淵川橋梁で右岸に渡って築堤を維持しながら谷間をさかのぼって行く。この東北本線の鉄橋より下流にある小姓堂橋で、一足早く馬淵川を渡っていた国道4号線が東北本線の築堤の東側に寄り沿って来たかと思うと、まもなく東北本線を架道橋でくぐって、馬淵川の刻む断崖の上を走り、やがて野中橋で馬淵川左岸へと渡って南下してゆく。現在は野中橋の南の先で小鳥谷バイパスが右へ分岐している。この先で馬淵川に沿ってさかのぼって遠く三陸海岸へ通じている子本街道(県道小鳥谷子本線、今の県道15号一戸葛卷線)を分岐する。この先で一戸と小鳥谷の谷を分ける狭い谷間を抜ければ小鳥谷の平地に入り、野中一里塚跡(盛岡から13番目)の脇を抜けて小鳥谷の集落の北の入り口となり、左に入ればすぐに小鳥谷駅前に出る。
一方の東北本線は国道の野中橋の上流で平糠川を合流したばかりの馬淵川を全長76mの第12馬淵川橋梁で渡って、平糠川の狭い谷間に沿って南下して抜けると小鳥谷の少し開けた谷間に出た。やがて葛卷町へ通じている県道踏切を過して、小鳥谷集落の北の外れに設けられた小鳥谷駅に付いた。
ここの駅前は意外に広くて、ここでも国鉄バスが発着していた。
少し戻るが、先に第12馬淵川鉄橋で渡って来た馬淵川は向きを東南に変えて狭くなった谷間をその水源の山々を目指してさかのぼっていた。そこは東に連なる北上山地の稜線の南項に位置する袖山高原(標高約 1,200m余り)の北麓であった。この上流には葛巻町があって、袖山高原もこの町の地内に位置していた。この街からは三陸海岸の野田を経て久慈方面への道があり、南へは沼宮内への道も塩の路として通じていると云う山中の交通の要とも言うべき不思議な山の中の街であった。それに付け加えたいのは、この馬淵川と平糠川の合流点から馬淵川上流5km、その支流の根反川上流5.5km、平糠川上流3kmの範囲の河床や川岸に広く露出する珪化木が天然記念物である。これは元の木の組織を残したまま、シリカ(珪酸)やメノウに置き換わった木材化石のことである。特に根反の珪化木は1500〜2500万年前の火山灰に埋まり化石化したメタセコイア杉で、直径2m・高さ4・6mで直立した姿であると云う。
さて、小鳥谷駅前から西へ約80mほど歩くと国道4号線にでるが、そこは小鳥谷集落に入ろうとする交差点であった。国道からの喧噪は駅までは届かなかったので、静寂な田舎の駅の雰囲気が保たれていた。この駅にも奥中山駅と同様に中線が設けられていて、長大な貨物列車が待避するための列車の取り扱いが時折見られて、その汽笛の会津が楽しめた。それは、小繋からここまでの複線化の完成は比較的早かったがここから一戸までの複線化は最も遅かったからであろう。
この駅の開業は日本鉄道の開通と同時の1891年(明治24年)であって、隣の一の戸駅より早かった。それで当所は機関車の転向のためのターンテーブルが設けられていたと云われている。
ところで当時、北上山地の山中の岩泉町の一角に、良質な石炭を小規模ながら産出していた小川(こがわ)鉱山があった。ここの石炭は蒸気機関の燃料に適していたことから、これを大規模に採炭して鉄道用燃料として国鉄に販売しようとする規格が、そこの経営者たちの間で盛り上がった。それを実現するには先ず、石炭を経済的に輸送するための鉄道の建設が必須であることから、大正10年(1921年)に地元の賛同を得て東北鉄道鉱山(株)を設立した。この鉄道は岩泉から葛卷に掛けて埋蔵する良質の石炭の輸送だけでなく、付近の豊富な木材資源の輸送、馬淵川筋に埋蔵する珪石鉱脈の開発、それに地元住民への旅客サービスなども見込んで、小川鉱山のある門(かど)を中心に西へは国境峠(くにざかいとうげ、標高 646m)を越えて葛巻町を経て東北本線の小鳥谷駅へ、東へは三陸海岸の子本までの北上山地を横断する鉄路であった。
折しも、その翌年に、全国で建設すべき地方路線をすべて予定線として規定した「改正鉄道敷設法」が施行されて、その別表の8号に次の路線が掲示された。
『岩手縣小鳥谷ヨリ葛巻ヲ經テ袰野(ほろの)附近ニ至ル鐵道、および落合附近ヨリ分岐シテ茂市ニ至ル鐵道』
これは、あたかも国が東北鉄道鉱山(株)が計画しているルートの鉄道建設を取り挙げてくれたと同様であったから、地元での鉄道熱は大いに高まったし、小鳥谷では岩手県の中央通る東北本線と三陸海岸沿線とを連絡する北上山地横断鉄道の起点として発展が約束されたと大喜びに沸いた。
早くも、同じ年5月に東北鉄道鉱業(株)は小鳥谷〜葛巻〜門〜茂市間の鉄道敷設免許を取得した。その概要は、1)総延長 120q余。2)軌間:1067o。3)動力:蒸気機関車。4)建設資金:1,000万円。5)路線ルート:
東北本線の小鳥谷(こずや)を起点に、馬淵(まべち)川と小本街道に沿って葛巻町を経て、さらに南東に進み、国境峠(くにざかいとうげ)を越え、小川炭鉱近くの門(かど:付近を経て、東へ岩泉町内を進み三陸海岸の小本(おもと)にあった茂師港に至る本線の77qと、落合(現在の岩泉線浅内駅付近)から分岐して茂市(もいち、現在の山田線繁市駅)間の支線。
続いて、株式増資による資金調達などが進められた。遂に大正15年11月4日には小鳥谷駅前て盛大な起工式が催された。第一期工事として小鳥谷〜門 間の50qが着工されて、施工困難なトンネルや橋脚などの工事が始められた。しかしながら、昭和4年(1929年)頃に、関東大震災や世界恐慌の影響を受け、資金難となり、工事は中止された。その後、1936年(昭和11年)に岩手炭鉱鉄道株が引き継いだものの、鉄鋼界の不景気などで鉄道建設計画は破棄されてしまい、壮大な北上山地横断鉄道は幻となってしまった。
これで改正鉄道敷設法の8号線は未成セントなってしまい、国鉄バスが、沼宮内線、岩泉線、小鳥谷線などを続けて運行していた。ところが、昭和13年になると小川鉱山の単層の下に埋蔵されている日本で最高品質の耐火粘土が発掘され、戦中の製鉄需要の重要性から、耐火煉瓦の原料として釜石製鉄所への輸送が急務となった。そして、国鉄は昭和16年に山田線の繁市駅から岩泉町への鉄道の建設を始めた。これこそは先の改正鉄道付設法の別表8号の支線に相当する部分であって、現在の岩泉線となった路線である。一方の小鳥谷駅では相変わらず国鉄バスが葛卷と一戸・二戸の二方面へと発着を続けていたのだった。
さて、話を元に戻そう。この駅の標高は 180mだから、一戸から僅か標高差を30mほど登っただけだった。この谷間の平糠川に沿った水田の広がる平地も南から尾根が迫って来て、小鳥谷駅を発車した上り列車は、いよいよ15qも長く連続する急勾配の中山峠越えの正念場への前哨戦とでも云うべ大築堤を目指してダッシュして行く。
ここから昔の街道の話題に入ろう。このシリーズで取りあげている沼宮内〜一戸の間の交通路を古い順に挙げてみると、江戸時代から明治初期の奥州街道(松前道)、明治6年に制定された陸羽街道(馬車へ)、国道6号線、日本鉄道の奥州線(東北本線)、国道4号線(一部はバイパス化)となるであろう。それぞれが互いに踏襲して改良されたり、別ルートを採ったり新しい交通路の建設で、消失してしまったり、保存活動で復旧整備されたりして様々である。一戸から小鳥谷の間では北の女鹿口(めかぐち)から野中までの間が国道4号線とは別ルートである西側の山の中腹の起伏の多い坂道で通じている。この経路を小鳥谷駅前から国道4号線のら小姓橋西詰めまでの相田を簡単にたどってみた。
小鳥谷駅前から国道四号線に出て、しばらく北上して旧街道に入ると、左側に野中一里塚跡があった。その先で県道小鳥谷小本線(今の県道15号一戸葛卷線)との交差点を左折して小鳥谷 野中集落を抜け、馬部地川沿いを北に進む。やがて、登り坂となり、小鳥谷 小姓堂集落となり、ここを抜けて、日影坂を登って行く。この辺の下には東北本線のトンネルがあると思われる。左側に、明治天皇御野立之碑がある。峠から日影坂を下ると、正面に女鹿口集落が見えてきた。
さらに坂を下ると、女鹿川の手前にある丁字路である。右は東北本線の踏切を渡り国道4号線方面である。街道は馬淵川支流の女鹿川に架かる女鹿橋を渡り、荷坂の上りに入る。坂の上は老ヶ舘(おいがたて)と呼ばれているようだ。このあたりから白子坂の下となり、前方が開けてきた。右の道は東北本線の関屋踏切に出る。白子坂の途中に開けた土地があり、百姓一揆の集結地跡であると云う。
やがて白子坂の坂下で東北本線の高架橋をくぐると国道4号線(現在は一戸バイパスが開通して、ここは県道274号一戸二戸線となった)に合流して一戸駅前に向かっていた。ここでも旧街道は馬淵川と平糠川の合流点を避けて山の中腹を縦断していたのであった。
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・「東北本線/奥中山 D51三重連」シリーズのリンク
198. 鉄道100年記念・SL三重連 (東北本線・好摩〜奥中山)
293. 沼宮内駅/三重連牽引の下り貨物列車の発車・沼宮内→御堂
319. 十三本木峠を登る、吉谷地の大カーブ T ・御堂−奥中山
320. 十三本木峠を登る、吉谷地の大カーブ U ・御堂
-奥中山
281. 奥中山駅界隈(かいわい)・御堂−奥中山−西岳(信)
299. 十三本木峠を登る、中山トンネル前後・奥中山−西岳(信)
280. 十三本木峠を登る小鳥谷の大築堤・小鳥谷→滝見(信)
305. 十三本木峠を登る下平踏切りあたり・滝見(信)→小繋
321. 十三本木峠を登る、西岳信号場あたり・小繋→西岳(信)
185. 冬の奥中山三重連 (東北本線・御堂→奥中山)
171.さよなら沼宮内駅の三重連発車・東北本線
289. 十三本木峠を登るSLアラカルト・沼宮内〜一戸