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「東北本線/奥中山 D51 三重連」 その2
319.  十三本木峠を登る、吉谷地の大カーブ  T ・御堂―奥中山

〈0001:040822:吉谷地カーブ手前の下り三重連遠望、カラー〉
『筆おろしの300mm望遠レンズの威力はいかがでしょうか?。』


〈0002:040833:紅葉真っ盛りの奥中山高原を登る2191レ〉
《国道1号線に架けられた吉谷地架道橋に先掛かった下り三重連。』




〈0003:040816:めずらしい後補機付き下り三十連、【鈴木修整】カラー〉
『昭和40年10月24日、紅葉真っ盛りの奥中山高原辺り。』


〈0004:bO60362:吉谷地カーブ直前の力闘〉
『この辺りが北上川の最北の源流の谷であろうか。』


〈0005:国鉄時代、奥中山、縮小033-02〉
『奥中山高原で懸命に力闘する下り三重連と、軽快に下って来る客車列車のすれ違い。渦巻く3本の黒煙にしびれた。』
『御堂―奥中山間が当時、盛岡以北で唯一の複線区間であった。』


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〈紀行文〉
 コノシリーズの幕開けには、東北本線、奥中山 D51三重連貨物列車の撮影地の代表である御堂駅と奥中山駅の中間にある“吉谷地の大カーブ”を昭和40年(1965年)に初めて訪れた時の作品を掲げた。

奇しくも、この時のフイルムは新発売間もない「さくらからー100」であった。いま、すでに役50年間アルバムにはさまれていたフイルムからは何とか鑑賞に耐える紅葉真っ盛りの当北の空閨が再現出来たのにはいささか驚いている。
ここでは御堂駅を通過して吉谷地大カーブへ好かう下り列車を中心にまとめてみた。
撮ったのが昭和四〇年10月24、25日であること以外は記録が失われてしまってしまいました。
この古い写真をまとめるにあたっては、数枚を選んで、 「なめくじ会鉄道写真館」 を主宰されておられる寺井洋一さまに撮影場所の確認をして頂いた。一方、いささか崩れている画像を 「米坂線の蒸気機関車」 を主宰されておられる鈴木さまのご厚意に甘えて修整をして頂いております。ここにお二人に厚く御礼を申しあげます。
何しろ、SL撮影を初めて僅かな初心者が55o標準レンズ付きのあさぺん一代と、買ったばかりの300o望遠レンズを携えての旅でした。SL撮影初心者が無謀にも試みた 300o望遠レンズは一枚だけ成功しましたが、残りの数枚が絞り忘れて失敗してしまいました。
今からおもうと、初心者で無心で撮っていた頃のほうがスッキリと列車が撮れているように存じます。前景は背景や日照に気を使うようになると列車が、それらに負けてしまいがちのように思われるのが、この古い作品を見ての私の反省です。
 ここで、この辺りの地形を説明しておきましょう。沼宮内から北へ向かうと、その東側には早池峰山(はやちねさん、標高 1,917m)を盟主とする北上山地の山麓が迫っており、一方の西側には東北の背骨をなす奥羽山の前衛のように連なる七時雨(ななしぐれ)火山横列があって、それらの噴火にロリ吐き出された噴出物が東から東南方向に堆積して長い裾のを引いた高原が広がっており、その先端は北上山地の山麓にまで到達していた。この地域を南北に通じている国道4号線も東北本線も共に開けた高原風の谷間を登って十三本木峠を目指していた。
この東北本線では、この区間 7,2qの中に最急 23.9‰の勾配が4.6kmも連続すると云う過酷な線型が続いていた。この奥中山駅寄りには三重連運転でSLブームの1大聖地となった“吉谷地の大カーブ”があって、急勾配を登ってくる長大編成の下り貨物列車の通過を俯瞰(ふかん)できる丘陵があると云う好撮影地であった。しかし、昭和40年代の初めには複線化されていた上り線のサイドには電化のためのポールが建植されてしまっていた。
もともと、この御堂−奥中山間は優先的に複線化が実施されたくかんであった。それは、太平洋戦争末期の昭和19年に北海道からの石炭輸送力を増強するために、御堂駅の北 4.3q、奥中山駅から南へ 2.9qの地点に吉谷地信号場が設けられた。そこは吉谷地川の開けた谷を大きなカーブを描いた単線が通過していた場所に引き上げ線のための築堤を増設して、X字状の通過可能なスイッチバック式の信号場が建設されたのであった。やがて、戦後の昭和22年になると、アメリカ占領軍基地の最寄り駅となった東北本線の八戸の近くの陸奥石川駅の構内の拡張整備が急務となった。そのための建設資材の一端を担うために、この吉谷地信号場の引き上げ線のレールが撤去されてしまい、昭和24年には信号場は廃止となってしまった。ところが、戦後の復興が進んだ昭和30年代になると東北本線沿線はもとより、北海道との輸送量増大への対応として、それまでの日本海まわりだった貨物ルートを東北本線に戻す施策が昭和33年10月から始まった。その対策の一環として御堂-奥中山間の複線化が優先して行われたとある。その複線化に際しては信号場の跡地が充分なスペースを確保するのに役だったものと思われる。ちなみに、信号場の引き上げ線の跡地が活用されたのであろうか、今の上下線の間には異様に広い間隔が開いているのだった。私には信号場の出来る以前の単線時代の路線の様子は知る由もないのだが、ここの地形は“谷地”との地名が示すように大きく開けた谷間になっていたことがうかがえる。北上川の本流は御堂駅の近くで国道4号線をくぐって東北方向の山地に水源を求めてさかのぼっているが、北上山地の麓から流れ下ってきた吉谷地川は開けた谷を作って流れ下り御堂駅の近くで北上川本流に合流していた。この吉谷地川は七時雨火山列からの噴出物の堆積の影響を免れていたようで、明治の初めに馬車道が開かれた時にはこの谷の入り口付近を通って十三本木峠へとむかっていたが、日本鉄道の東北本線は蛇行する道路を築堤と架道橋で跨いで勾配を抑えながら奥中山へ大カーブの築堤を築いてルートを確保していたものと思われる。丁度その谷を渡る辺りに吉谷地信号場が位置していたようにおもわれる。
web上に、吉谷地信号場の在りし日の姿をレポートしたサイトを発見したので、ご参考に下に掲げた。
「吉谷地信号場」:東北本線/御堂−奥中山
http://www5f.biglobe.ne.jp/~switchback/yoshiyachi.htm
この複線化と同時に、その本格的対応には十三本木峠越えにおける長大貨物列車のスピードダウン対策として補機の追加が行われて、この三重連が実現したのはプロローグでも述べた。
 ここで沿線の様子をたどっておこう。沼宮内駅で補機を一台追加した貨物列車は街並みを抜けると国道4号に沿って北上しつつ次第に高度を上げて行く。その左側には北上川が流れ下っており、周辺には水田が営まれていた。やがて60q/hの制限速度の御堂駅を過ぎると民家もまばらとなり、線路の勾配は9‰からいきなり23‰との急勾配になり辺りはゆるやかに起伏する高原の風景の中を北上して行く。そして東側の北上山地から西へ張り出してきた尾根の裾を等高線をたどるように迂回しれいる国道を架道橋で跨いだ列車は急勾配を維持しながら登り続ける。この辺りから北西方向に七時雨山の外輪山だとされる西岳(にしだけ、標高 1018m)が長くすそ野を引いた雄大な姿が遠望できた。しかし、列車を入れた西岳遠望の写真はなかなか撮れなかった。ここは現在“奥中山高原”として売り出しなかである所だ。最近(2014ねん)、思わぬことから、雄大にすそを引いた西岳をバックに3重連を見事に捉えた作品をweb上で見つけた。それは冒頭に掲げさせてもらった堀越さま撮影の写真であった。ここに転載を快諾して暮れた「蒸気機関車のいる時代」の堀越さまに厚く御礼申し上げます。
ここを過ぎると吉谷地のダイカーブに差し掛かる。この吉谷地(よしやち)は岩手県岩手町の北部に当たり北上川流域の最北部に当たる吉谷地側の流域であった。この幅広い谷をカーブした築堤で登り詰めると、両側から小さな丘陵の尾根がせりだしていて、そこを短いトンネルで抜ければ中山駅は近い。ここの低い尾根が北上川水系と馬淵川水系との分水嶺であり、しかも岩手町と二戸郡一戸町との境界でもあった。かっては、青森県と岩手県の県境でもあったし、また明治初期に定められた陸奥(むつ)の国の分割に際して陸奥国と陸中国国との国境でもあった。
 当時、補機に常務されていた機関士の語られることには、『御堂から吉谷地の手前までが相当苦しい。吉谷地の国道の鉄橋を越えて直線区間に入ると少し楽になって、35〜40km/hくらいだったと思う。』とあった。正にこの分水嶺を越えて奥中山駅の構内へ掛かろうとしているのであろうか。
 末尾になってしまったが、日本鉄道が盛岡以北の工事を明治21年(1888年)に着工した頃に話を戻そう。この奥州線の建設工事を委託されていた官設鉄道では東海道線の長大な天竜川鉄橋を完成させていた長谷川謹介(はせかわきんすけ)技師を鉄道曲盛岡出張所長に任命して、盛岡よ南18.5qにある日詰から小繋間の約70qの第4工区の北端部の建設を担当させた。その小繋から先の青森間は先に宇都宮〜白河間を完成させた先輩の小川資源技師が担当していた。この長谷川技師は「鉄道建設に当たって質素堅牢を旨とし、極端に装飾を嫌った」が知られている。明治25年に完成した盛岡、好摩、沼宮内、奥山中の沿線にはは今でもその面影をとどめていると云われている。この工事の最中には常に馬に乗って工事監督をし、荒くれ工事請負業者を指揮していたと伝えられている。この長谷川謹介(1855-1921年)さんは山口県生まれで、大阪英語学校に学び、明治7年鉄道寮の通訳、測量手伝いとなる。その3年後に技手となり、鉄道寮の鉄道頭の井上勝が、将来は日本人の手で鉄道建設を行う目標の実現のために大阪駅構内に創設した工技生養成所で学び、優等生で卒業した。そして京都−大津間の大津線建設に従事、明治13年長浜〜敦賀間の敦賀線の柳ケ瀬−麻生口間の工事を担任し、長さ1,273mの柳ケ瀬トンネルなどを約4年間で完成させて、その技倆(ぎりょう)を示した。明治17年に欧米視察に派遣された。帰国後、東海道線の揖斐川(いびがわ)、長良川、そして天竜川(全長1,210m)などの架橋を好成績で完成させた。明治25年4月鉄道局を辞して日本鉄道会社へ入り、翌年水戸建築課長となって常磐線344kmの建設工事を担当、30年10月岩越鉄道会社技師長となって郡山−若松間64kmの工事を担当した。その後の明治32年4月に台湾総督府鉄道部技師長に任ぜられ、台湾縦貫鉄道の建設工事を担当し、悪疫その他多くの困難と戦いなから明治41年に完成させた。同年再び欧米およびアフリカの鉄道視察を行い、明治41年12月鉄道院創設の際招かれて、各部鉄道管理局長、技監となり、難工事の丹那トンネル工事を担当した。そして副総裁を務め、大正7年に官を辞している。その間に、東亜鉄道研究会、土木学会、工業倶楽部等の役職員となるなど、交通界・土木界等の発展に尽くした明治の鉄道人であったことも知っておきたい。

撮影:昭和40年(1965年)10月24〜25日。
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・「東北本線/奥中山 D51三重連」シリーズのリンク
198. 鉄道100年記念・SL三重連 (東北本線・好摩〜奥中山)
293. 沼宮内駅/三重連牽引の下り貨物列車の発車・沼宮内→御堂
320. 十三本木峠を登る、吉谷地の大カーブ U ・御堂 -奥中山
281. 奥中山駅界隈(かいわい)・御堂−奥中山−西岳(信)
299. 十三本木峠を登る、中山トンネル前後・奥中山−西岳(信)
291. 十三本木峠を登る三重連・一戸→小鳥谷
280. 十三本木峠を登る小鳥谷の大築堤・小鳥谷→滝見(信)
305. 十三本木峠を登る下平踏切りあたり・滝見(信)→小繋
321. 十三本木峠を登る、西岳信号場あたり・小繋→西岳(信)
185. 冬の奥中山三重連 (東北本線・御堂→奥中山)
171.さよなら沼宮内駅の三重連発車・東北本線
289. 十三本木峠を登るSLアラカルト・沼宮内〜一戸