自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・「東北本線/奥中山D51三重連」 その4
299.  十三本木峠を登る、中山トンネル前後 ・奥中山−西岳(信)

〈0001:041156:奥中山駅を通過して中山トンネルへ向かう61レ急貨”〉
『ここの踏切は岩手県道30号葛巻日陰線です。この道は国道4号線を横断して交差しています。』


〈0002:021024:サミットの中山トンネルはほど近い、昭和41年11月撮影〉




〈0003:縮小034-01:影絵の三重連〉
『ようやくサミットの中山のトンネルが機関士の視界に入って来る。ここまで来れば一安心。中山跨線橋の上から撮った上り前部三重連列車。』




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〈写真キャプション〉
 最初の〈0001〉の写真は、奥中山駅を通過して県道の踏切を渡ってサミットの中山トンネルへ向かうのは 61レ 急行貨物の“第1ほっかい“
の勇姿である。このような“きたたから”や“ほっかい”などの名称の付けられた急行貨物列車はコンテナ貨車と二段リンクを備えたワム80000形で編成されていて
急行ろ旅客列車と同等の高速運行が可能であった。したがって、正に三重連の本領発揮のシーンといえよう。ここに写っている踏切りの道筋は、東は三陸海岸から北上山地の中の葛巻を経て黒森峠(標高 877m)を越えて平糠川に沿ってさかのぼり奥中山高原を通って西岳南麓を抜けて馬淵川の支流の安比川流域の旧安代町(荒屋新町)へ出て、さらに西へは鹿角方面へ通じていた古いもので、塩の道として利用されていたと云うのだった。
 二枚目の〈0002〉は昭和41年11月5日の撮影の上り列車である。サミットの中山トンネルはもうすぐであろう。との手前は国道4号線がピッタリと線路に沿っていた。近くの山々の背後には北上山地の主稜線に連なる1200m級の山頂が白銀の顔を見せていた。山の名前は判らなかった。実はフイルムをスシャンニングして初めて気がついた次第なのです。

〈0003〉は朝の陽光が北上山地の山並みの上に顔を出したころ、国道4号線の中山跨線橋のあたりに近ずいて来た上り貨物の爆煙の三重連の姿である。
左側の土手に黒い煙をもくもくと吐いたSLの影絵が印象的だ。
昭和41年11月18日の早朝であった撮影場所が判らなかったが、「なめくじ会の館」を主宰されておられる寺井さまに教えて頂いた。国鉄時代、2014年3月号(VOL 37)に掲載された。

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〈紀行文〉
 ここでは「十三本木峠を登る」のサミットに当たる中山トンネルにアプローチしつつある上りと下りの列車の風景をご覧に入れた。
この東北本線の前身である
日本鉄道の奥州線の建設が始まる明治16年の頃に定められた建設ルート選定の方針三箇条の三番目には
「急勾配はやむを得ないが、トンネルはなるべく避ける。」
とあった。ここ東北本線では奥中山駅の北側約1.5kmの十三本木峠の直前で短いトンネルで標高456mのサミットの山越えをしているが、南からは御堂、北からは小鳥谷からそれぞれ約10km、峠に向かって最急勾配23.8‰の行程であった。
そのほぼ100年後に建設された東北新幹線では「いわて沼宮内駅と二戸駅の間」にある世界最長の山岳トンネルであった岩手一戸トンネル(全長 25.8q)で一気に通ぬ抜けている。この区間を在来線の東北本線で云えば沼宮内〜小鳥谷駅間の27.8qに相当しており、ここは「D51三重連」で聞こえた沼宮内〜一戸間に位置していたのだった。鉄道建設の技術の進歩には驚くばかりである。
この“中山峠”の名を聞いて、思い出すのが、先ず東北本線の十三本木峠(中山峠)であり、続いてC58重連の陸羽東線の中山峠(堺田越)であり、それにD50の後補機重連の磐越西線の中山峠であって、いずれも東北地方に位置していた。最近は上越新幹線の中山トンネルが通過する旧 三国街道の中山峠が加わった。そこで、どのくらいの数の峠が“中山峠(なかやまとうげ、なかやまたお)”と名付けられているのだろうかと思いつき、「峠データベース」、「Wikipedia−無料百科辞典」、「国土地理院地形図閲覧システム」などを調べてしたところ、何と46箇所を数えることができた。ほぼ全国にちらばってはいるものの、その1/4が東北地方に集中していたのには“がてん”ができたのだった。
ここでD51三重連の走った地域を南北に貫いていた交通路の今昔を一望して、“中山峠”のルーツを探ってみよう。
古代(八世紀)の中央から陸奥(むつ)に至る官道の東山道(あずまやまみち)が中部・関東・東北の山地を通って陸奥の国府の多賀城(今の宮城県)まで達していた。続く中世の平安の後期になると奥州平泉に本拠を構えた藤原清衡(きよひら:1056−1128年)は東山道に代って奥大道(オクオオドウ)を白河関から外が浜(陸奥湾)に至る幹道を整備した。そのコースは阿武隈川の谷を北上し,宮城・福島県境の国見峠を越えて国府の多賀城に達し,そこからは奥羽山脈の東麓を北上して平泉に出,北上川沿いに北進して蝦夷地(えぞち)に達していた。この徒歩20日の行程の道筋には、一町(108m)ごとに金色の阿弥陀像(あみだぞう)を描いた卒塔婆(そとば)を建て、中心の奥州平泉に関山中尊寺を配していたと云う。やがて、江戸時代に入り、江戸幕府は江戸を中心に街道を利用して全国各地をつなぐ宿駅伝馬制を設け、その整備として一里ごとに一里塚を設けたほか、一定間隔ごとに宿場を用意した。主要な五街道を幕府直轄で管理し、それにつながる主な街道を脇街道と定めて、各地方による管理を督励した。
東北では、1602年(慶長7年)に奥州道中(江戸日本橋〜白河)が五街道の一つとして定められ、1646年(正保3年)に完成した。それ以北は、白川から仙台までの仙台道、仙台から函館までのる松前道が脇街道と定められた。この二つの脇街道が奥州道中の延長路に当たることから、これらの三街道を便宜上まとめて“奥州街道”と呼ばレることが多いが、これは制式の名称ではない。このサイトでも使わせてもらっている。
明治時代に入ると、街道の関所が廃止され街道の整理が始められ、1873年(明治6年)には奥州道中+仙台道+松前道が“陸羽街道”(東京〜三厩−函館)に改称されて、馬車がかろうじて通れるように改良が続けられた。そして、明治の初期に「沼宮内-一戸間」での馬車道への改良の際には、「御堂−小繋間の“よの坂”」、笹目子-小鳥谷間」の“船底の道”、「小鳥谷-一戸間の“日陰坂”」などがルートを変更した新道に切り替えられた者と思われる。
そして、1876年(明治9年)の太政官達第60号で、日本の道路は国道、県道、里道の三種に分ける制度がスタートした。ここで国道と県道については各府県が調査、図面の調製を行い、明治18年に改めて路線番号による路線認定を全国的に行う予定であった。ここでの国道は、一等国道(幅員は約12.7m)は東京日本橋から各開港場までを結ぶ道路と規定された。
やがて1885年(明治18年)に国道の等級が廃止され、陸羽街道は国道6号(東京-青森−函館港)となった。
その6年後の1891年(明治24年)日本鉄道の奥州線 盛岡〜青森間がほぼ国道6号線に沿った形で建設、開通することになった。
さて、奥州街道での沼宮内宿-一戸宿の間の峠としては、現在「奥州街道最高地点の標高484mを示した標識」が建てられている中山集落の手前辺りなのだが、文献などには峠の名は見いだせなかったが、小繋側の坂道は“よの坂”の名が付けられていた。
そして、新しく開かれた御堂-小繋間の馬車道の越えた峠は“中山峠”と呼ばれたものと推察される。この峠に最も近い集落は、ここより東側に位置する奥州街道の中山集落であったからであり、その後に開通した日本鉄道の奥州線の駅は“中山駅”と名付けられていたからである。
ところが、一般に中山峠と呼ばれていたはずなのに、地形図には「十三本木峠」と表記されている。私は、この意味ありそうな“十三”にこだわって、そのルーツを探してみたところ、次のようなことが判った。
その昔、陸奥国の北部に郡が置かれたのは先に述べた藤原清衡の時代だとされており、現在の青森県東部から岩手県北部にかけての広大な地域は糠部郡(ぬかのぶぐん)となり、中世を通じて南部馬と云う名馬の産地として日本中に知られていたのだった。明治7年になって陸軍省内に軍馬局が設けられ、東京の第一厩(うまや)と仙台の第二厩の支部がおかれた。その後発展して、仙台の第二調馬隊の三本木出張所が青森県三本木町(今の十和田市)に設けられた。ここは最大規模を誇る軍馬育成所となった。続いて岩手県二戸郡小鳥谷村中山(現在の奥中山高原)にも中山派出部が設けられて約300頭の軍馬育成が行われたと云う。この軍馬牧場を「十和田の3本木」の出先として“十三本木”と略してよんでいたのではなかろうか。実は、明治17年(1884年)の頃から全国の地形図の作成は陸軍参謀本部の陸地測量部(現在の国土地理院の前身)が行っており、この地域の20万文の1地形図の作成に当たって、国道 陸羽街道の峠名に全国に多数存在する中山峠をさけたのであろうか、陸軍の軍馬局にちなんで十三本木峠”が採録されたのではなかろうか。決して十三本の松が生えていた訳ではないようだ。しかし、この峠は通称は「中山峠」であり、鉄道人には「奥中山峠」と呼ぶ人もおり、「十三本木峠」はあくまでも地形図での標記に留まっているように思われた。
 最後に、撮影の前に一三本木峠一帯の地形図を眺めていて不思議に思ったことがあった。それは詳細に地図を観察すると、新旧の街道筋にも東北本線沿線にも大小二つの峠が並んでいたことであった。その南側では小さいとうげで、奥州街道は北上川本流の水源と認定されている御堂観音堂の先の御堂一里塚の残っている辺りが峠の頂上であった。この尾根は西へも続いていて国道4号線では沼宮内の岩手町吉谷地と一戸町の奥中山のあいだにあって登坂車線が設けられている所であり、東北本線は短いトンネルで抜けていた。このおねは北上川水系と馬淵川水系の分水嶺であり、現在の岩手県岩手郡岩手町と二戸郡一戸町との郡境/町境であった。さかのぼって中世には糠部郡と岩手郡との郡境であって、明治になって陸奥刻が分割された際には陸奥と陸中との国境であり、1時は青森県と岩手県との県境でもあったと云うのだ。これはやはり水系の分水嶺であることにもとずいているのであろう。
もう一つの大きい峠は奥州街道、東北本線、国道4号線での最高標高地点をなすおねであって北上山地から奥羽山地とを結ぶ尾根であった。この尾根の両側の水系について、十三本木峠付近での様子を調べて見た。この峠の北側では西岳北麓を源とする小繋川が東流して、峠の辺りで北へ向きを変えて流れ下り、小鳥谷の手前で平糠川へ注ぎ、そさらに馬淵川となって太平洋へ注いでいる。ところが十三本木峠の南側では、同じ西岳の東麓を源とする平糠川と、その南側を流れる支流の谷地川が並行して東へ流れ、奥州街道、東北本線、それに国道4号線の下をくぐった先で北へ向きを変えて尾根を刻んで渓谷となり北流して小繋川を合わせてから小鳥谷の先で馬淵川に合流していたのである。従って十三本木峠の両斜面は共に馬淵川水系の流域なのであったから、一般の分水界とは云えないし、また何らの境界にもなっていなかった。
このような不思議な水系が生まれる以前は、この尾根が馬淵川水系と北上川水系との分水嶺であって、平糠川は北上川に流れ下っていたのであろう。その後のいずれかの時代に、西側にそびえル七時雨(ななしぐれ)山火山横列の東に位置する西岳(ニシダケ、標高 1018m)の盛大な火山活動によって吐き出された膨大な量の噴出物(火砕流、火山灰など)が東から東南方向の地域に堆積したことから、東西に連なる小さな尾根が形成され、平糠川の流れが現在のように変えられてしまったものと推察している。
それに、これを裏付けるような特異な地形的な事象が存在するのに気が付いたので触れておこう。それは奥中山駅の二死方に無名の湧水池が地形図に示されていて、ここから馬淵川(まべちがわ)と北上川の両水系に排水が流れ出しているのであった。その詳細の経路は、南側の北上川へは吉谷地を下っている朽木川へ流れ込んでいた。また北東への馬淵川へは大荒目沢から谷地川、そして平糠川を経て流れでているのが見てとれた。これは明らかに北上川水系と馬淵川水系との谷中(こくちゅう)分水界の様相を呈していた。
 一般に、山に雨が降ると、稜線を境として、雨水は互いに反対方向に流れて行って、それぞれが川の源流となる。稜線を境として、それぞれの源流は別の川の始まりとなるので、ここを分水界と呼んでいる。分水界が山脈である場合には、分水嶺と呼び、分水界が谷の中にできると谷中分水界(こくちゅうぶんすいかい)と呼んでいる。このように谷の中で流域の境界ができるのは、谷の一部に隆起などの地殻変動が起こったり、「河川争奪」と云う川が流域を奪い合う現象が生じた場合に形成されると説明されている。奥中山の場合は七時雨火山列の噴出物が奥中山駅の付近でも厚さ27mほども堆積していることが判っているから、これによる地形の変化が谷中分水界の成因の一つではないかと推察しれいるのだが、いかがであろうか。
ところで、一見した地形からは十三本木峠が分水嶺のようにおもわれるのだが、実際の生活感覚からすれば生活に密着した水の配分が決まる分水嶺は大きな意味を持っていたからこと、多くの境界となり、今も行政の区分として盛岡圏(岩手町)と二戸圏(一戸町)とをわけているのであるのであろう。

撮影:昭和40年9月、41年12月。

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・「東北本線/奥中山 D51三重連」シリーズのリンク
198. 鉄道100年記念・SL三重連 (東北本線・好摩〜奥中山)
293. 沼宮内駅/三重連牽引の下り貨物列車の発車・沼宮内→御堂
410. 西岳バックの奥中山三重連・御堂―奥中山
--北上川の源流を訪ねて:西岳山ろく源流説のあれこれ--
319. 十三本木峠を登る、吉谷地の大カーブ T ・御堂−奥中山
320. 十三本木峠を登る、吉谷地の大カーブ U ・御堂 -奥中山
281. 奥中山駅界隈(かいわい)・御堂−奥中山−西岳(信)
291. 十三本木峠を登る三重連・一戸→小鳥谷
280. 十三本木峠を登る小鳥谷の大築堤・小鳥谷→滝見(信)
305. 十三本木峠を登る下平踏切りあたり・滝見(信)→小繋
321. 十三本木峠を登る、西岳信号場あたり・小繋→西岳(信)
185. 冬の奥中山三重連 (東北本線・御堂→奥中山)
171.さよなら沼宮内駅の三重連発車・東北本線
289. 十三本木峠を登るSLアラカルト・沼宮内〜一戸