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・「東北本線/奥中山 D51 三重連」
305.  三本木峠を登る下平踏切あたり ・滝見(信)→小繋

〈0001:041046:下平踏切の上り三重連〉踏切〉
『背後の国道は数年前に開通した小繋バイパス、踏切は明治時代に付けられた陸羽街道の下平踏切である。』


0003:国鉄時代、奥中山、縮小032-01〉
『列車は小繋トンネルを抜け、直線区間を一気に登り、下平踏切を渡る。写真は踏切先の旧国道のやますそを登って撮った圧巻の上り前部三重連、手前の田んぼには東北独特の稲束の乾燥がおこなわれていた。』

このふいるむはbO41051です。

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〈写真キャプション〉
〈0001〉
この場所は、かつて有名な撮影地で、何も邪魔物のない抜群の場所だったから、三重連を思うままに切り取ることの出来たのだと云う。わたしは遠くから標準レンズで撮るよりしかたがなかった。それは次の写真が本命だったからである。
〈0002〉
もと 滝見信号場を通過して下平踏切を過ぎ、急勾配よ小繋に向かって登っているところです。小繋しゅうらくのある谷間は細長い平地が広がっていて中央を小繋川がゆったりと蛇行して流れ下っていて穏やかな稲田風景が広がっていた。丁度、稲刈りと脱穀がおわって、自然乾燥するために稲束を丸く積み上げた小山が水の抜かれた田んぼのあちこちに散在していた。

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〈紀行文〉滝見(見信)〜小繋
 中山峠の小繋方のだい3話は有名撮影地の下平踏切付近での情景である。小鳥谷駅から4.6k、小繋駅へ3.1kmの位置にある滝信号場を通過した上り列車は短い小繋トンネルを抜けると小繋集落の散在する細長く開けた谷間の平地に出たのだが、勾配は18.2→23.8→19.2→22.7‰と休む間もなく続きていた。やがて、小繋集落を通って北上してきた陸羽街道(旧国道4ごうせん)の下平踏切を通って上り続け、左手下にゆったり流れる小繋川と小繋集落を見おろしながらしばし走ると、小繋バイパスの小繋跨線橋の下をくぐって国道の西側に移って滝沢トンネルを抜け0.8qほどで小繋駅へ到着する。駅前には国道4号線が通じていた。ここの標高は約 329mで、北の一戸から180mも登ったことになり、中山峠のサミットまではさらに約130mも登らねばならなかった。そこで東北本線の前身の日本鉄道では開通後13年後の1904年(明治37年)に、ここに小繋給水所を設けた。その2年後には国有化されて官設鉄道の小繋給水給炭所となった。さらに13年後の1909年(明治42年)には地元待望の小繋駅に昇格している。この駅は昔ながらの小繋集落から南に1.4qも離れていたので駅前には小さな集落が生まれていた。この駅が有名になったのは、“過疎”をテーマにした日本映画「待合室」(2005年、監督・脚本:板倉真琴、出演者:富司純子・寺島しのぶなど)の舞台となり、このクラシックな駅舎がろけ地となったことであろう。この映画は板倉真琴監督が「命のノート」と云う新聞記事を目にしたことから生まれたと云う。そのいきさつは次のようである。
『8年前、誰かが駅の待合室に、ノートを置いていった。そのノートに、駅前でお店を営む立花和子さんが、「何もないところだけど、休んでいってください」と書き込んだ。すると、訪れる旅人が、そのノートに悩みや苦しみを書き込むようになった。立花さんは、そのつど励ましの言葉などを書いた。そして、このノートを介してやがて大きな「心の交流」が広がっていった。』というのである。
所で小繋駅が集落からこんなに離れているのは、地形の都合ではないようで、日本鉄道が盛岡から青森へ鉄道を延伸する当時には、盛岡や一戸では駅を設ける場所を決めるのに地元の反対が強くて難渋したというから、この小繋集落でも同様な状態であったのだろう。そのためか、小繋集落の周辺は昔の風情が保たれていると云う。そこで十三本木峠から国道4号線を下って来る形で道筋をたどってみよう。その峠を越えて、やがて両側から山が迫ってくると小繋川は蛇行しつつ谷を刻んで流れ下るようになり、それを縫うように下る東北本線を見下ろしながら国道4号線は西側の高いところを北上し、北田子跨線橋で東北本線の東側に沿って南下し谷が開けると小繋駅前に出た。この先1q足らず先で、西から張り出してきた山の尾根を全長 145mの小繋トンネルで抜けた。このトンネルは昭和38年に開通しており、ここは日本一長い国道4号線にトンネルは僅か4箇所の内の一つで、最も古いトンネルであり、しかも東京から北上して最初のトンネルだと云うのは驚きであった。その右側に集落から通学のために駅へ通う子供たちのための全長200mの歩行者専用トンネルが設けられていたのには、駅が集落からいかに遠くつらいものであるかを痛く感じさせた。この小繋バイパスの小繋トンネルを出た直後に右に(北東方向へ)分岐する道があり、これは小繋集落へ通じている国道4号線旧道(旧陸羽街道)である。
続いて小繋跨線橋で東北本線を渡って、長い下り坂を、右手に小繋集落と小繋川の流れを見下ろしながら延々と下り続ける。やがて先に分かれた国道4号線が東北本線の下平踏切を渡って小繋バイパスへ戻って合流した。この先地名は小鳥谷の笹目子(ささめこ)に入った。この先をしばらく進むと東から山の尾根が張り出してきており、南流する小繋川は谷川となり大きく西へ屈曲して迂回を始めた。ここを渡る国道の橋の手前ねから左へ川に沿って急坂を登る道が分かれていた。これが昔の奥州街道で、川の断崖の続く川沿いを通るのを避けて西側の山の中腹を南へたどっていた。この先は「川底の道」と呼ばれる街道随一の難路を経て小鳥谷集落まで続いていた。一方の国道は張り出した屈曲部の断崖をショートカットした「笹目子の切り通し」を開削して通り抜けていた。その先で再び小繋川を渡った先で右に分かれる小道は東北本線の滝見信号場へ通じていた。国道に戻って約1qほど北上すると今度は眼前に西から張り出した山塊が迫って来た。ここからは昭和60年に開通した笹目子パイパスとなるのだが、すぐに国道4号線で最長の全長611mの笹目子トンネルに突入する。私が訪ねた頃は未だ笹目子トンネルはかいつうしておらず、その手前から南側の山裾を東北本線に挟まれながら北上し、やがてガードをくぐって東側に出て小繋川の峡谷の断崖の上を通過ぎて小鳥谷へと北上していた。
さて、ここからは小繋集落の風物を述べてみたい。この小繋集落のメインストリートを通りぬけている街道は江戸時代には「松前道」と呼ばれた脇街道であって、当時は南部藩が整備に当たっていた。明治6年になって、お江戸日本橋から奥州の玄関口である白河までの奥州道中(幕府直轄の五街道の一つ)+白河から仙台までの脇街道である「仙台道」+「松前堂」がまとめられて陸羽街道と制定された。その後に国道6ごうとなり、現在の国道四号線に引き継がれている。特に陸はね街道となってから馬車道への改良が各地ですすめられ、拡張で済ました箇所から全ルートが変更となってしまった箇所もすくなくないことを前提にして話を進めて行きたい。このD51三重連区間を含んだ沼宮内〜二戸間の奥州街道の概要がプロローグで述べてあるので、ここでは小繋周辺に限らせていただく。
その始まりの宿場のある沼宮内宿から次の一戸宿へのほぼ中間の地に小繋集落は位置していた。この沼宮内から北上する国道4号線から東側へ奥州街道が分岐するのは東北本線の御堂駅ふきんからで、再び国道に合流するのは峠を越えたはるか遠くの小繋集落を通りぬけた先の東北本線の下平踏切を渡った先であった。この街道は北上川の源流に沿って御堂観音道、御堂一里塚を経て、今の十三本木峠よりかなり東によった奥州街道最高地点の標高 460mの山を越えて中山一里塚、その先の火行(ひぎょう)伝馬所跡の先で街道は新旧に分かれる。左手に進むのは尾根伝いの古道で塚平一里塚を経て現在の小繋駅前に出て小繋歩行者専用トンネルをぬけて小繋集落の南口に出る経路である。一方の新道は「世の坂」の急坂を下り、途中の小繋一里塚を経て山の急斜面を下ってやっと小繋川の谷底へと出て来た。この地点は小繋集落の南の入り口に当たる場所であった。ここには江戸期には南部藩の小繋御番所が設けられていた。これは物資の移出入や人々の往来を取り締まることを目的とした役所のことで、藩境でもない小繋に設けられていたのも交通の要であったからに他ならない。それを示す“繋(つなぎ)”が地名になっており、この文字の付けられた地名は北部東北に多く、山の狩猟をなりわいとする「またぎ」の人々のつかう言葉が由来とされていた。
それはここが松前道と巡検堂との分岐点であったからである。この巡検堂とは江戸幕府の将軍の代替わりに際して、諸国を巡回して、民情を視察し、その結果を新将軍に報告することを目的とした巡見使一行の通過する道筋のことであった。その道は小繋御番所からほぼ真北に向かっていて、松前堂の旧道と云われる道で、今は分断されてはいるが、国道から北(左)に曲がる急坂100m程の高低差を登りきると間もなく笹目子集落、そして上女鹿沢一里塚、穴久保下女鹿沢一里塚を経て二戸市浄法寺町にある御山(おやま:天台寺)へと向かっていた。この道は奥州街道の「川底の道」より一段と西側を通過して二戸で松前道てと合流していた。
この天台寺とは東北仏教の中心として神亀5年(728年)に創建された由緒ある寺であったが、明治以後荒れ果ててしまっていたが、昭和62年に小説家の瀬戸内寂聴師が住職に就任して復興したことでご存じの方も多いことであろう。
ここから奥州街道(松前道)、陸羽街道、国道4号旧道が重なった街道は小繋集落の中を抜けると、集落の北の入り口で右折して、水田の広がる平地を小繋川を2回渡って下平踏切りで東北本線を渡って国道4号線バイパスに合流するようになっていた。ここが、このサイトに掲げた写真の撮影ポイントです。
ここで最初の小繋川を渡る橋まで戻ってみるとこんもりとした森があるのに気がついた。この奥は、かつて天台宗 小繋山長楽寺があった所である。桓武天皇の御代、坂上田丸麻呂が征夷大将軍として、大同2年(807年)に東夷鎮撫祈願のため、当地に地蔵堂を建立したのが始まりとされている。嘉祥年間(850年頃)、慈覚大師が諸国巡錫の途次、当地で6尺5寸の延命地蔵尊を彫刻したと云う。その後、南部藩による庇護もあり、隆盛を極めたが、明治初頭と大正4年の小繋の大火で全焼した。しかし、再三の大火に遭遇するも地蔵尊だけは不思議にもその都度難を免れきたことから延命地蔵尊として広くあがめられ、盛岡〜鹿角から北の地域からの参詣人が絶えないとのことである。
それに何と云っても“小繋”を有名にしたのは小繋事件と云う裁判である。これは、地元の小繋山は地域の人々が自由に入り、肥料、飼料、建築用材、燃料、食料なども調達する入り会いの山であった。ところが、明治になって地租改正にともなう官民所有区別処分の際にこの小繋山が共有林や村有林ではなく、民有地とされたことから、その地主と村民との間で入会権に対する明治・大正・昭和の三代にわたる訴訟が続けられた事件である。今でも司法試験のテーマに登場するそうだ。

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・「東北本線/奥中山 D51三重連」シリーズのリンク
198. 鉄道100年記念・SL三重連 (東北本線・好摩〜奥中山)
293. 沼宮内駅/三重連牽引の下り貨物列車の発車・沼宮内→御堂
410. 西岳バックの奥中山三重連・御堂―奥中山
--北上川の源流を訪ねて:西岳山ろく源流説のあれこれ-- 319. 十三本木峠を登る、吉谷地の大カーブ T ・御堂−奥中山
320. 十三本木峠を登る、吉谷地の大カーブ U ・御堂 -奥中山
281. 奥中山駅界隈(かいわい)・御堂−奥中山−西岳(信)
299. 十三本木峠を登る、中山トンネル前後・奥中山−西岳(信)
291. 十三本木峠を登る三重連・一戸→小鳥谷
280. 十三本木峠を登る小鳥谷の大築堤・小鳥谷→滝見(信)
321. 十三本木峠を登る、西岳信号場あたり・小繋→西岳(信)
185. 冬の奥中山三重連 (東北本線・御堂→奥中山)
171.さよなら沼宮内駅の三重連発車・東北本線
289. 十三本木峠を登るSLアラカルト・沼宮内〜一戸