自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・東北本線奥中山D51三重連
293.  沼宮内駅/り三重連発車風景 ・沼宮内駅構内

〈0001:bO30733:下り貨物列車に前々補機の連結中〉


〈0002:bO30736、沼宮内発車〉



〈上の2枚の撮影メモ〉
撮影は昭和41年7月3〜6日の北海道、根室本線の狩勝峠撮影行くの途中に立ち寄った時のものです。初めてのカラーフイルムの調子は今ひとつで、長年の経年変化が起こっていましたが、北海道の狩勝高原エコトロッコ鉄道の増田様の援助で画像の修整を行って頂きました。
有難うございます。

〈0003:晩秋の奥州路〉


〈0003:晩秋の奥州路を行く三重連〉


〈撮影メモ〉
これは昭和41年10月に初めて奥中山を家族と共に訪ねた時に撮れた「三重連」の一枚である。東京への帰り際に御堂駅の近くで撮ったとおもわれる。もう刈り取った稲束は脱穀が終わって、残された稲藁(いなわら)が山のように乾いた水田の植えに無造作に積まれていた。正に晩秋の風物詩と云えるだろうか。

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〈紀行文〉
  私がSLを撮り始めたのは1960年(昭和40ねん)に入ってからであった。その最初の1年は関東地方の周辺か、実家のある新潟、長野の辺りを撮って過ごしていた。しかし迫りくるSL運行区間の縮小は足早に近ずいて来つつあった。そして待ちに待った昭和41年5月の連休には東北本線奥中山を初めて訪問した。最初だったから沿線の様子を覚えるのに手間が架かった。その後間もなく、北海道の根室本線の狩勝峠の「日本三大車窓」の風景が見られなくなると云う情報が伝わって来た。それは大変と、ビギナーにもかかわらず、急いで梅雨のない北海道へ7月に出かけたのだった。この時も夜行列車で北へ向かったが、盛岡を過ぎると急に、この五月に撮り逃がしてしまっていた“沼宮内駅での三重連発車”を撮りたくなって沼宮内駅で
途中下車してしまった。そして、ここでショットした10枚ほどのフイルムが、この度狩勝峠行のフイルムと一緒に入ったアルバムが発見されたの手あった。
何故か、当時発売まもない「さくらカラー(ネガカラー)」で撮っていたのであった。フイルムの劣化が進んでいて、見苦しいのを承知のうえで、このサイトを急きょ追加した次第です。
その中から二枚を厳選?してお目に掛けました。何せビギナーが撮った稚拙な作品ですが、記念ムベキ記録なのです。
ここでは前々補機が連接して発車準備完了と云うひととき、一三本木峠への登り勾配に備えてのためであろうか、火室への投済みのすごさ、それに通風のためのエジェクターからの蒸気の放出のために真っ直ぐに上昇する三本の黒煙のものすごさには圧倒されたのだった。運よく縦位置のフレームの中に立ち上る黒煙が何とか納まったのは幸いであった。このあたりがビギナーであったことが幸いしたのであろうか。
  ここからは沼宮内の地誌について紹介しておこう。いつものことながら、遠く関東の埼玉県下から東北本線/奥中山三重連のメッカである十三本木峠(中山峠)を目指して幾度も
クルマで遠征して来た。それには、ひたすら国道四号線(明治以後は陸羽街道)を北上するのだが、盛岡市街を過ぎると沿線の雰囲気はガラリと変って來るように感じられた。まず、宮城の北部から岩手の中央部を南北にさかのぼってきた大河の北上河も次第に狭く細い小さな川となってしまい、その源流が近づいていることを思わせた。道路沿いも一変して、町々の間隔も広くなり、ドライブインなどは殆ど見なくなると云う淋しさであった。昔の奥州街道の宿場も盛岡城下を出ると渋民宿(しぶたみやど)→沼宮内宿(ぬまくないやど)→一戸宿(いちのえやど)となっており、その間の距離の長さにも驚かされた。この北上山地と奥羽山脈とに挟まれた比較的開けた谷間をさか登って行くのだが、やがてアイヌ語の「クルミのある沢、または「川のほとり」を意味すると云う「ぬまくない(沼宮内)」とよばれる細長い街道の宿場のおもかげを残した街並みが現れる。晴れた天候なら南には意外と大きく見える岩手山が遠望できるだろう。この町には城山公園と云う城跡があり、ここは中世の文治5年(1189)、源頼朝が奥州平泉の藤原氏征討の際、戦功のあった相模国河村氏の一族である沼宮内氏に与えられた土地で、鎌倉時代からその居城であったものと思われている。ここは西を北上川、南は大坊川に面した東西180m、南北300m、三つの郭と多重の空堀に守られた山城であった。この城は、天正19年(1591)、九戸の乱の際、豊臣秀吉の命令で九戸城攻撃に向かう5万3千余の大軍が駐屯し、浅野長政、蒲生氏郷などの諸将が南部信直と軍議を開いた場所として歴史に名を残している。この話は“九重の乱”として歴史小説の舞台となっており、「天を衝く 秀吉に喧嘩を売った男九戸政実」(高橋克彦著)や、「冬を待つ城」(安部 龍太郎著)などには、特に三重連の行路である沼宮内〜一戸間の谷間における戦いの場面では、この地の地形や風物が良く描写されていた。
その後、沼宮内宿は 南部藩の本城が福岡(今の二戸市)から盛岡に移転したことにより、福岡城と盛岡城を結ぶ間の宿駅として早くから整備され、代官所や御蔵が置かれた岩手郡北部の中心地となった。ここから東の三陸海岸の久慈へ、西へ花輪線沿線へと通じる街道が奥州街道との十字路となっており、三陸からの塩の路、北上山地からの鉄の道、それに鹿角からの銅の道でもあった。そして毎月10日に市が立ち在郷町として栄えていた。
明治24年になって、日本鉄道の開通により宿駅の役割は終ったが、一方では十三本木峠を目前にした鉄道の基地として再び重要な役目を負うことになった。例えば、山越えのためのじゅんびとしての蒸気機関車への給水、それに増結や解放される補機常規機関車の連結さぎょうのための列車の停車時間が長かった沼宮内駅は昭和の中頃まで時刻表上の駅弁販売駅であって、駅弁が大変売れたというのもその証であろうか。
『SLが沼宮内駅に停って、弁当売りがお客に弁当を売りに来た。「弁当 べんとう べんとう。」 ちょうど駅の名前のアナウンスがあって、「ぬまくない ぬまくない。 べんとう ぬまくない →  べんとう うまくない」と聞こえたと云う。』
と云うオチが良く知られている。

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・「東北本線/奥中山 D51三重連」シリーズのリンク
198. 鉄道100年記念・SL三重連 (東北本線・好摩〜奥中山)
410. 西岳バックの奥中山三重連・御堂―奥中山
--北上川の源流を訪ねて:西岳山ろく源流説のあれこれ--
319. 十三本木峠を登る、吉谷地の大カーブ T ・御堂−奥中山
320. 十三本木峠を登る、吉谷地の大カーブ U ・御堂 -奥中山
281. 奥中山駅界隈(かいわい)・御堂−奥中山−西岳(信)
299. 十三本木峠を登る、中山トンネル前後・奥中山−西岳(信)
291. 十三本木峠を登る三重連・一戸→小鳥谷
280. 十三本木峠を登る小鳥谷の大築堤・小鳥谷→滝見(信)
305. 十三本木峠を登る下平踏切りあたり・滝見(信)→小繋
321. 十三本木峠を登る、西岳信号場あたり・小繋→西岳(信)
185. 冬の奥中山三重連 (東北本線・御堂→奥中山)
171.さよなら沼宮内駅の三重連発車・東北本線
289. 十三本木峠を登るSLアラカルト・沼宮内〜一戸