自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・「東北本線/奥中山D51三重連」:プロローグ

198.  鉄道100年記念・SL三重連  ・好摩〜奥中山


〈はじめに〉
私が鉄道写真へ踏み出す契機を作ったのが東北本線の奥中山駅で待避していたD51三重連貨物列車の勇ましい姿であった。それは昭和40年の初夏にクルマの苦情調査のために北海道内を巡回してから帰京する際に乗車した東北本線の昼間の急行列車の車窓風景であった。それが続いて見られたのは、“よんさんとう”(昭和43年10月利国大改正)の際に、盛岡以北が複線電化が完成してSLの煙が消えてしまうまでの僅か3年の間でアった。そこで撮った写真を整理して、「東北本線/奥中山 D51 三重連」シリーズをアップロードすることになりました。
そこで、東北本線のプロローブとして、まず「鉄道開業100年記念:東北本線D51三重連牽引貨物列車運転行事〉の写真をお目に掛けた。次に東北本線の前身である日本鉄道の奥州線の建設の歴史を懐古しました。最後に、この「D51三重連」が運転された沼宮内〜一戸間の地形や風物について、また交通路として先輩格の奥州街道、明治後の陸羽街道(国道)などとのかかわりにも触れながら紀行文をまとめました。いささか、長文ではありますがご覧頂ければ幸いです。

〈0001:好摩−岩手川口〉


〈0002:御堂―奥中山〉


〈写真の撮影メモ〉
東北本線の前身である日本鉄道の奥州線の盛岡〜青森間が完成して上の-青森間が全通したのが明治24年(1891年)であり、その約80年後の昭和47年(1972年)は日本の鉄道開業100周年に当たっていて、盛岡鉄道管理局では10月29日に東北本線の1863レ貨物列車を盛岡〜八戸間をD51型蒸気機関車三重連で牽引して運行する記念行事が行われたのであった。このような行事は無煙化されてからは、この前年の「D51トップナンバー機」を先頭にした3重連がTV撮影のイベントで走ったのに続く快挙であった。先回は見逃してしまっていたので、こんどこそはと、勤務先のホンダ狭山写真クラブのNさんをナビゲーターになってもらって、クルマ(スバル1200スポーツ)で出掛けた。初日は紅葉真っ盛りのの陸羽東線を撮ってから、盛岡の先の好摩駅の近くの定宿に泊まった。私たちは、沼宮内での小休止を見越して好摩から沼宮内の間でサイドから狙ってから、すぐに奥中山手前の線路が俯瞰(ふかん)できそうな撮影ボイントに向かう算段であった。当日、全国から盛岡以北の東北本線沿線に集まった鉄道フアンの数は約千人を越えると地元のラジオが伝えていたが、御堂駅の先の国道4号線を跨ぐ架道橋の右手の山腹は立錐の隙間のないほどの人気振りに恐れをなして、もっと先の地点へと向かった。そして吉谷地カーブの先の開けた場所を見付けたものの、既に三脚を立てる余地は全くないほどの混雑振りだった。そこでかろうじて、コニカプレスを手持ちで撮ったのだった。やって来たカマは、51105 + D51457 + D51829 であった。この時の三重連の雰囲気は、現役の貨物列車を牽引しているかからであろうか、往年の姿を思い起こさせるに充分の満足感を与えてくれた。ここにお目に掛けた2枚の作品が唯二の成果であった。

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〈紀行文〉
さて、ここから上の-青森間の鉄道が開通するまでの日本の鉄道事情を踏まえて、その歴史を懐古してみた。
 日本の鉄道は、明治2年(1869年)に明治政府が東京〜神戸間を結ぶ幹線鉄道の建設を宣言したことに始まる。当初は東海道と中山道の二つの経由ルート案があり未決定であったから、先ず人の流動の多い東京-横浜間を支線として先行開業させることにした。そして明治5年(1872年)に新橋-横浜間が開業した。また関西では、明治7年(1874年)の大阪-神戸間の仮開業を経て、3年後には京都-神戸間の営業を開始している。続いて、東京-高崎間の鉄路建設が決まった。当時、招かれて鉄道建築の技師長となっていた エドモンド・モレルさんは、直ちに工部省出仕の佐藤政養技師を伴って幹線ルート案である東海・中山の両道の比較調査を行って、建設ルート中山道を推奨する報告書を提出きている。
 この幹線鉄道の建設表明があってから間もない明治4年(1872年)には早くも、横浜開発に尽くした実業家で、盛岡の南部藩領内で鉱山開発に携わった経歴を持った高島嘉右衛門さんが東京から盛岡を経て青森に至る鉄道建設の建議論書を明治政府工部省に提出したが、却下されてしまっている。実は、政府では明治6年8月を目標に東京-青森間の鉄道建設のための下調べを実施していた最中であった。そして明治5年には工部省7等出仕の小野友五郎さんが東京−青森間を踏査測量して、立派な図面を制作して提出していたからである。この人こそは、幕末に日米修好条約締結の使節一行を載せて太平洋を横断した咸臨丸(かんりんまる)の航海長を務めた人であり、後に小笠原諸島の測量図を完成させて、同島の領有権を我が国にもたらしている。明治初年にわが国最初の鉄道測量を行った事で知られる測量の天才その人であった。続いて明治6年(1873年)には、北海道開拓使に招聘されて官設幌内鉄道の建設を指導したアメリカ人技術者 クロフォードさんが北海道から東京への連絡を目指した鉄道建設ルートの調査を行って報告書を提出していた。さらに下って、明治9年9月、は建築技師長であった ボイルさんは東京-青森間の鉄道建設についての上告書を提出している。それは大宮を分岐点とし岩槻・栗橋を経て
利根川を渡って宇都宮方面に走るのを最良の路線として報告している。そこで、政府は明治13年(1880年)に改めて北海道開拓使で鉄道建設を指導していたアメリカ人技術者のクロフォードさんに命じて、御用掛松本荘一郎さんと共に青森より逆に東京へ向けての路線ルートの調査を行わせている。それは翌年の1月に線路の北端を野辺地(青森県)におき、他日建議案が実現するにしたがってこれを青森から津軽に延長することにし、野辺地を起点に南下し八戸に出て馬淵川をさかのぼって、福岡(今の二戸)・小繋を経由して盛岡に至り、仙台、福島を過ぎて白河に出て宇都宮から栗橋、岩槻を経て高崎線に連絡する策定案となった。この松本さんは、明治3年(1870年)米国に留学し土木工学を学び、帰国後は東京府御用掛を振り出しに工部権大技長、鉄道庁長官などを歴任した人物である。
やがて、先の高島さんは、明治政府の要人である岩倉具視(ともみ)さんらを説得して、政府に『華族や士族などから資金を持ち寄って会社を創立して、東京から青森へ鉄路を敷設して運営すること』を建言してもらうことに成功している。その頃、明治政府は、『鉄道は国が敷設して保有すべきである』とする方針を堅持していたものの、実情は明治10年(1877年)に起こった西南戦争などの内乱により財政難がら、既に建設が決まっていた東京−高崎間の鉄道建設の着工を見送らざるを得ないのであった。それでも、明治16年(1883年)になると、軍部から出されていた「海岸沿いの路線は防衛上の弱点が多い」と云う幹線ルート選定の主張に押されるかたちで、未決定であった幹線ルートを『中山道案』と決定した。そして、既に建設の決まっていた高崎から着工した。やがて工事が上州から信州へと中部山岳地帯へと進むに従って、この山越えの建設工事の困難さが明らかになった。そこで、政府は再び東海道案を調査し直した結果、明治19年(1886年)に幹線鉄道の経由を中山道から東海道に変更することを決定した。そして明治23年の全通を目指して建設工事が進められることになった。
この頃になると、中止された幹線鉄道の中山道ルートの地域では鉄道建設を民間資金で実施たいとの請願が政府に強く寄せられるようになった。そこで政府は民間資本を取り入れて、会社利益保証などを行う方式で鉄道の敷設を促進させると云う方針転換を決めたのであった。
それを受けて、明治14年(1881年)2月に岩倉具視さんを初めとする華族などが参加して私立鉄道会社「日本鉄道」が発足した。先ず建設すべき路線は、すでに測量が完了していたが建設に未着工であった東京から高崎に至る区間と、その途中から分かれ福島、仙台、盛岡を経て青森に至る区間となった。そして定められた建設ルート選定の要件は次の3項目であった。
1)東京と野蒜(のびる、後に塩釜に変更)、八戸の各港を結び更に青森港に連絡する。
2)街道沿いの人口の多い都市(東北地方の内陸部)を結ぶ。
3)急勾配はやむを得ないが、トンネルはなるべく避ける。
そして、その建設工費を1,900万円と見積った上で、建設免許の出願を行なった。
この日本鉄道は形式的には私鉄であったが、資金は集めたものの、技術者はゼロであったから、その鉄道建設から運営まで官設鉄道の鉄道局に委託せざるを得なかった。その当時の鉄道技術者はあまり多くなく、イギリス人の指導の下で鉄道建設技術を身に付けた技術者のほとんどが鉄道局で東海道線の建設に従事していたのであった。そこで、官設鉄道のトップであった井上勝さんは日本鉄道の建設を引き受けることとなり、多くの人材を派遣して着工することになった。そして、明治16年(1883年)に第一区線の上野 - 熊谷間を開業し、明治17年(1884年)2月には第二区線(大宮-白河間)の測量・建設が開始された。そして、第三区線(白河-仙台間)と順次工事が進められて行った。
このような多大な政府の援助のもそれ、路線の建設や運営には政府及び官設鉄道が関わっており、建設路線の決定も国策的要素が優先されたり、国有地の無償貸与など実質上は「半官半民」の会社と云った状況であった。
 やがて、明治18年に奥州線が宇都宮まで開通した頃に、山形県から「日本鉄道の奥州線を福島地方で分岐して山形県米沢を経て酒田に至る約148qの鉄道の建設を資本金380万円を募集して実現したい」との熱心な運動が起こった。この支線的な話が突如として、奥州線そのものを福島から山形、秋田を経て青森に至ると云う“ルート変更”を強く主張する方向に変った。これは取りも直さず「奥州線の争奪戦」が山形県側から起こされたものであった。これに対する政府の回答は「日本鉄道奥州線が福島、仙台に達した時でなければ何分の指令は致し兼ねる。」とするものでて、明治19年初に却下している。やがて明治20年に郡山まで開通し、工事は福島に達し仙台に向けて起工の運びになった。そこで、山形県では、今度は仙台から奥羽山脈を関山峠(標高 712m)で越えて山形に達する路線計画を免許出願したが、これを受けた井上鉄道局長は実地検分をした結果、到底関山峠に鉄道を通すのは不可能だとして却下してしまった。それにもまけずに、翌明治20年になると作戦を替えた山形県は資本金200万円の山形鉄道を創立し、奥州線の白石から分岐して山形県下高畑、赤湯、山形を経て大石田に達する約124qの鉄道路線の建設を強力な支持者を伴って出願した。これに対して政府では、『@:資本金二百万円では不足だから増額すること、A:政府または日本鉄道が大石田以北、秋田、青森まで鉄道を建設する時は、この白石・大石田線を買上げ、または合併すること。』の二条件を提示した。これを聞き及んだ岩手県方面からの猛烈な反対運動が起こって、奥州線の建設延伸に暗雲が立ち込めた。
この難局を元に戻すべく、岩手県では猛烈な政治運動を展開した。それが功お奏したのであろうか、当時の伊藤首相が山形・秋田・福島の三県令を呼び、「すでに奥州線の敷地は決定している。今さら変更はできない。」との決断を云い渡したと伝えられている。これは奥州線が北海道連絡を主眼にしていたことを物語るものと云えるだろうか。
そして、その第四区線(仙台 - 盛岡間)が一関まで工事が進んだ所で大問題が起こった。それは、第五区線(盛岡 - 青森間)の測量を前にして、明治20年(1887年)に陸軍から
「海岸線は戦時敵軍により破壊され、利用される恐れがある。それ故に、「盛岡から大館・弘前経由で青森に至らしめるようにしてほしい。」という申入れがあった。この経路の延長はほとんど同じであり、その沿線の人口や産業などが多い羽後・津軽を経由するので、経済的には原案よりも優れていたのであった。その建設現場には鉄道局で“豪傑技師”で知られる長谷川謹介技師がたずさわっていて、『技術上から、奥羽山脈の峠や、秋田/青森県境の矢立峠(標高 266m)のようなけわしい山越は絶対に不可能である。』との一点張りで拒否し、朝野の世論を動かしたのであった。それを受けた鉄道のトップであった井上勝さんは軍部の提案を採らずに、「なるべく海岸に接近させない。」と云う条件で原案のままに建設すると云う大営団を下した。
そして、日本鉄道から建設を委託されていた鉄道局では明治21年(1888年)に盛岡−青森間の建設に着手した。この第5工区の南半分は盛岡の南方約18q地点の日詰(ひづめ)から盛岡を経て奥州線最高地点の十三本木峠を越えた北方にあるにある小繋(こつなぎ)に至る約70qの山越えの区間であった。この聞きなれない“日詰”と地は古くから開けた紫波(しわ)と呼ばれていたところである。戦国期からは南部氏が郡山城を築いて支配していたが、盛岡城が完成すると廃城となり、その後は南部藩の代官所や御蔵が置かれ、奥州街道の宿場や北上川の舟運の河岸として商業中心の町として発展してきた。ここは花巻宿と盛岡宿との中間当たる日詰郡山宿と呼ばれていて、福島県の郡山宿と区別するためにつけられていた。明治入り日本鉄道の北上にさいして、宿場では鉄道の通過を忌避したからであろうか、近くの駅は宿場町の中心から2qも離れた旧赤石村北日詰にもうけられることになり、“日詰駅”となった。近年になって改めて紫波町の中心に紫波中央駅が設けられて、かつては『もりおか』・『陸中』などの急行も停車していた日詰駅の方は忘れられてしまった。
さて、岩手県庁所在地の盛岡停車場の設置や山越えの工事を抱えた大5区南半分の建設の葬式には盛岡出張所長に任命された長谷川謹介技師が担当した。その北方は先に宇都宮〜白河間を完成させた先輩格の小川資源技師が担当することになった。
この長谷川謹介さん(1855-1921年)と云う人物の輝かしい来歴に触れておこう。この人は山口県(長州藩)出身で、若くして大阪英語学校に学び、明治7年鉄道寮の通訳、測量手伝いとなり、その3年後に技手となった。そして当時、鉄道頭であった井上勝さんが「将来は日本人の手で鉄道建設をおこないたい。」を目標に大阪駅構内に創設した工技生養成所を優等生で卒業して、直ちに京都−大津間にある逢坂山隧道の建設に従事して日本人だけで完成させた。続いて明治13年には長浜〜敦賀間の敦賀線の長さ1,273mの柳ケ瀬隧道(当時日本最長)などを約4年間で完成させた。そして明治17年には欧米視察に派遣された。帰国後に東海道線の揖斐川(いびがわ)・長良川・全長1,210mの天竜川などの架橋を成功させるなどの業績を挙げた。その後、日本鉄道の建設に参画していたのであった。
 さてここからは、この区間の建設工事で起こった主なトピックスに触れておこう。
先ず実地調査を起点の日詰から開始した長谷川謹介技師が盛岡の南方を流下っている雫石(しずくいし)河畔にやって来た。この川は東北地方の背骨である奥羽山脈の岩手県と秋田県の境に位置する秋田駒ヶ岳(標高1,637m)に源を発し東へ流れ、南川、矢櫃川など多くの支流を合わせ
盛岡市中心部で本流の北上川に合流する延長 33qの大支流で合って合流点での川幅は以外に広かった。ここを調査した上で、雫石川の鉄橋の架設はは工事が困難だから、雫石川の手前の仙北町の先から右折して、北上川を東岸に渡り、盛岡の城下町を避けて山裾を迂回する設計案を立てたのであった。
実は昔からの奥州街道は同様の経路を採っており、盛岡城は雫石川の合流する対岸で中津川と北上川に挟まれた丘陵に築かれており、中津川北方の湿地を埋め立てて城下町が造成されて来ていたから、鉄道はさらに東側の北上山地の山裾を迂回することになったものと思われる。
これを聞いた岩手県の石井県令はさすが前身が土木局長だっただけに、直ちに県の技師に命じて雫石川の川底を調べさせた上、鉄橋工事は可能であるし、県庁所在地を除くことの不可なる理由をも添えて、調査書とともに建言書を鉄道局に提出した。しかし、長谷川謹介さんは有名なガンバリ屋であったので、なかなか自説を譲らず、石井県令と激烈な論争をしたが鉄道局も弱ってしまい「仮橋架設」と云う仲裁案を出してやっと鉄橋が完成したと伝えられている。この時に架けられた鉄橋の詳細は不明であるが、土木学会の橋梁史年表によると、明治23年(1890年)11月1日に開通した雫石川橋梁の下部工は“箱枠工法”で施工されたことが特記されているから、相当に気を使っていた様子がうかがえる。ちなみに、1952年架け替えの現在の下り線の鉄橋は、橋長が250mで13連のプレートガーター桁形式である。そして、その北方に盛岡停車場か設けられることになったことから、石井県令は停車場の東約0.5qの所を並行して流れ下る北上川に私費を投じて開運橋を掛けて城下町とを直結する道路を停車場の開業に間に合わせたと云う。
さて、盛岡を出ると岩手山の東山麓の滝沢峠を越え、その先で西にそびえる八幡平の大深岳(標高 1541m)を源に、支流の赤川を合わせて約40qを流れ下って北上川に合流している大支流の松川を渡って、台地へと登ると好摩となる。ここからは北上川の上流部をさかのぼるようにして十三本木峠(標高 453m)お目指した登りが続すことになる。この峠を挟んで、盛岡側に最急23.9‰の勾配が4.6q、青森側は18.2〜23.9‰の勾配が13.8qも連続して小鳥谷に至った。
奥州線では隧道をさけて、できるだけ勾配を緩和するため長大な築堤が設けられているのが特徴であろう。南から、滝沢の大築堤。御堂―オクナカヤマの吉谷地カーブ、小鳥谷駅の南方の大築堤などが挙げられる。このような大土木工事には、フランスの ポール・アルマン・ ドコービル (Paul Decauville:1846−1922年)が発明した「鉄板製の枕木にナローゲージの線路を締結した軽量で、容易に運搬、敷設、分解ができる可搬式軽便軌道を利用した軌間600mm、0.3立方m積の1人押のトロッコが導入されて大活躍した。
この方式は1881年(明治14年)に日本への売り込みが行われた時に、当時石川島造船所を経営していた平野富二さんは、ドコービル軽便軌道が将来多くの用途で役立つ」と察知して、その二年後に日本においての独占販売権を獲得した。そして明治17年に着工した日本鉄道山手線の新宿-品川間の建設工事を平野富二さんは大倉組と協に請け負った。そして、この工事にドコービル社製の簡易軌条とトロッコを使用した。当時の土木作業の道具はモッコやバイスケ(土砂を運ぶ竹で編んだ浅い籠)が普通であり、最新鋭の機材投入は作業成績を飛躍的に向上させていたからであると云う。

蛇足だが、好摩の南方に架かる松川鉄橋の架橋工事が行なわれていた明治23年(1891年)7月に痛恨の殉職事故が起こった。それは大雨による洪水の急な濁流の中を建設中の橋脚を小舟に乗って検分中の大久保 業(なり)技師の舟が転覆して濁流にのまれてしまった。この時の架橋の詳細は知る由もないが、1950年に架け替えられた松川橋梁は日立造船製のプレートガーダー桁 19連で構成されていたことが、土木学会、橋梁史年表から読み取れた。この合流点当たりの川幅は可なり広かったことがうかがえる。この大久保技師は明治10年(1878年)からイギリス留学で鋳冶金学・測量鉄道学を修め、帰国の明治19年(1887年)からは鉄道局五等技手として活躍し始めたばかりの新進技術家であって、享年29歳であった。
 ここからは小川技師の担当区間となる。この小鳥谷-福岡(現在の二戸)間には奥州線最長の鳥越トンネル(延長 1,056mがあり、10‰の片勾配で換気が悪く、20ヶ月を費やすと云う難工事を強いられた。また鉄橋は蛇行する小繋川、馬淵川に数多く掛けられた。中には高さ15mの、鉄製トレッスル橋脚が採用され、鋼材がイギリスから輸入されて用いられた。
そして、1891年(明治24年)に現在の東北本線全線(上野 - 青森間)が開通した。その時に開業した駅は盛岡から福岡までには好摩、沼宮内、中山、小鳥谷であった。そして、一の戸駅が2年後、小繋給水所が13年後、さらに27年後の大正7年(1918年)には御堂信号場などが設けられている。
最後に、この区間の建設を指揮した長谷川技師は「鉄道建設に当たっては質素堅牢を旨とし、極端に装飾を避ける。」が信条であったことが知られている。この明治25年に完成した盛岡、好摩、沼宮内、奥山中の沿線には今でもその面影(おもかげ)を確かめることが出来ると云う。この工事の最中には常に馬に乗って工事監督をし、荒くれ工事請負業者を指揮していたと伝えられている。そして、明治25年4月鉄道局を辞して日本鉄道に入社しするや、すぐに水戸建設課長となって岩城線+土浦線(後の海岸線、そして常磐線となる)の建設を推進した。続いて岩越鉄道の嘱託として、その建設を指揮している。その後明治32年には台湾総督府の後藤新平さんに招かれて鉄道部技師長として縦貫鉄道の完成に尽くた。明治41年の欧米の鉄道視察を行い、明治41年鉄道院創設に招かれた。そして技監として丹菜トンネルを担当し、副総裁も務めた。同時に土木学会の発展にも尽くている明治の鉄道人の一人であったことは知っておきたいものだ。
 次に時代が下って、北海道連絡の貨物輸送力増強が求められる時代となった。列車本数の増加のための信号じぇの新設、一部の複線化、それにつづいてD51三重連牽引による1000トンの急行貨物列車が峠を挟んだ沼宮内〜一戸間に運転される時代が10年間続いた。そして、「よんさんとう(昭和43年10月時刻大改正)」を期に複線電化に移行したのであった。この経緯について簡単に述べておこう。
 時は太平洋戦争中のこと、北海道からの石炭輸送の増強のために、この区間に南から吉谷地・西岳・滝見の3ヶ所に上下に引き上げ線を設けた通可能なスイッチバック式信号場が増設された。それで、この区間は、
〈沼宮内−御堂−吉谷地(信)−奥中山−西岳(信)−小繋−滝見(信)−小鳥谷−一戸〉となっていた。
やがて、戦後の昭和24年には吉谷地信号場がレールなどの資材の八戸米軍基地への引き込み線用に流用するため撤去されてしまった。しかし、昭和30年代(1956年〜)になると東北本線の輸送力が逼迫してきた。それに対して占領下のGHQ(駐留軍司令部)の民間鉄道司令部から『好摩−一戸間については路線を変更して勾配を緩和するように』と示唆されたが実現には至らなかった。線路容量を確保するために先ず撤去された吉谷地信号場のあった御堂-奥中山間の7.1qの複線化が行われた。この区間は谷が広く工事がしやすかったこともあるのだろうか、伸びやかな景観が見られる。それに反して、峠の反対側の奥中山〜小繋間、7.8kmが長い間単線で途中に信号場を設けて対処していたのとは対照的であった。
その本格的対応には、中山峠越えの前後での長大貨物列車のスピードが極端に落ちてしまうネックの改称が求められた。そこで、1000トンにも及ぶ貨物列車の速度を維持するために一輛の補機の増結が必要となった。そこで峠を挟み、北側の一戸(一戸には小さいながらもD51数両が在籍した機関区が、南側の沼宮内にも機関区支区が置かれ、後ろ向き補機では速度的について行けないのでいずれでも転車台で向きを揃えることになった。この一戸の補機には重油併燃装置を備えた協力なD51が配置された。通常は後部補機として連結されていた。しかし昭和33年からは、盛岡や尻内から重連でやって来た貨物列車の前部に一戸や宮区内で増結する補機が前々補機として連結する三重連となる法式が運用されるようになった。(このサンジュウレンの運転に関する一戸機関士の回顧談が末尾の参考文献にありますのでご覧ください。)
 さて次は、この東北本線の最大の難所と云われた最高地点 標高 453mの十三本木峠を越える一帯の地形について述べてみたい。
あの三重連の始まる沼宮内駅のある岩手町は北緯40度線上にあって、「人間が健康で文化的な生活を営む上で最も適していると云われるこの緯度線上には、北京、アンカラ、リスボン、マドリード、フィラデルフィア、デンバーなど、世界の大都市が位置し、それぞれ豊かな文化の花を咲かせてる」とHPで誇っていた。そこでこの緯度線に沿って東の太平洋側から地形を説明してみよう。本州の太平洋岸に沿って南北に連なる北上山地の姫神山(北緯39度50分、標高 1,123.8m)があり、その西側には北上川の最も上流部が南流しており、その先には東北地方を南北に貫く脊梁である奥羽山脈の秋田焼山(北緯 39度57分、標高 1,366m)がそびえている筈である。所が、その奥羽山脈の東側に並行して前衛のように横に並んで居るのが七時雨山(ななしぐれやま、北緯40度04分、標高 1,060m)につずくやまやまであった。この山々は奥羽山脈から分岐して、南の八幡平へとつながっている七時雨火山横列であった。これは七時雨山を最高峰とする複式火山であって、西岳(標高 1,018m)、田代山(標高 945m)、毛無森(標高 903m)などの外輪山を形成する火山と、それに囲まれた田代平高原のカルデラ内に中央火口丘として七時雨山が存在していた。それらの山々の火山活動による噴出物(溶岩・火山礫・火山灰・火砕流など)は周囲東西20km、南北30kmに堆積した。特に、流下した火砕流により南側と北東側に高原状の裾野(すその)が北上山地の麓まで広く迫っていた。
そして、七時雨山横列と奥羽山脈の間の谷間には八幡平を水源とする安比川が北流していて、二戸市で北上山地を源にして北流してきた馬淵川と合流して八戸市で太平洋に注いでいた。
 また、この北緯40度線から北方へ約30qほどの位置で、東側にある北上山地から西へ、西の奥羽山脈から西岳を経て東へと、それぞれ分岐した尾根が張り出して結ばれており、その中央部の鞍部は標高が約 500m足らずと低くなっていた。この尾根の北側では西岳の北北斜面を源流とする馬淵川の支流の小繋川が西から北へ流れ下っていた。一方の南側でも、馬淵川の支流である平糠川と、その支流の谷地川が西岳東山麓を源にしてこの尾根に並行に東へ流れた後に、向きを北に変え東西に連なる尾根を狭い渓谷を刻んで貫いてから小繋川を左から合流させて、その後に小鳥谷(こずや)集落の先で馬淵川に流入している。この尾根の両側は共に馬淵川水系の領域であるから、この尾根は一般的な分水嶺ではない。南へ流下る北上川と北上する馬淵川との分水嶺は十三本木峠より2qほど南に平行に走る低い尾根があるのがそれである。このような特異な水系の状態が出現したのは、この尾根の南側に七如くレ火山列からの膨大な噴出物が厚く堆積したことによる地形の変化がもたらしたものと推察される。
この二つのおねの北方では、けわしい急勾配の谷が続いているのだが、これに対して南側は七時雨火山列の作った緩やかな勾配のすその(裾野)が広がる高原状の景観であった。
 この尾根より更に約20qほど北上して一戸町と二戸市との境界線上にも同様な東西に延びる尾根が横たわっており、馬淵川、それに奥州街道や東北本線の通過をはばむような地形となっている。それは東の北上山地にある折爪岳(標高 852m)から張り出した尾根が西へ延びて鳥越え山(標高375m)を経て奥羽山脈の主稜線上にある船稲庭岳(標高 1,078m)まで連なっていた。その鳥越山の東には奥州街道の浪打峠(なみうちとうげ、標高 302m)があり、鳥越山の下を東北本線最長の鳥越トンネル(全長 1,056m)が通過し、鳥越山の西直下には馬淵川が馬仙峡と呼ばれる高い断崖を刻んで北流しており、その直ぐ上流で八幡平から流れ下って来た安比川が馬淵川に合流していると云う地形が控えていた。
 そこで、このような地形の中を南北に北上川から馬淵川に沿って貫通してきた交通路の歴史を見直してみた。先ず、古代に近畿地方にあった都から中部、北関東の山間を経て東北の陸奥国(むつのくに)に向かっていた官道であった「東山道(ひがしやまみち)」の後を受けて、中世には「奥大道(おくおおみち)」が更に本州の北端まで延びて来ていた。その道筋は北上川水系をさかのぼって北上し、奥羽山脈から北上山地に東西につながる尾根の鞍部を越えて馬淵側水系を下っている厳しい山道であった。その後、江戸時代になると、江戸から白河までは幕府直轄の「奥州道中」としてせいびされ、それに続く白河から仙台までは「仙台道」、仙台から盛岡を経て津軽半島の北端の三厩(みんまや)までは「松前道」と云う脇か移動として、それぞれ地元の藩が整備を行っていた。その後の明治6年には、奥州街道+仙台道+松前道が陸羽街道と改められた。しかし、今ではこの名称よりも「奥州街道」との呼び名がつかわれているが、これは公式の名称ではなく便宜的に付けられた呼び名と云うものであろう。このシリーズでもこの“奥州街道を明治以前の道として呼ンでいる。
その後明治12年には道路種別が国道、県道、里道と制定され、一等国道は東京から主要開港場に至る道と指定さて、道幅は12mと定められた。この陸羽街道も、この候補となり整備が行われたと思われる。続いて明治18年には国道6号線(東京-青森-函館港)となっている。こては今の国道4号線の前身である。
この三重連の区間に当たる奥州街道の沼宮内宿-一戸宿の間は山越えが続いていて厳しく、道の拡幅や勾配の緩和が困難な箇所がおおかったから、山越えの区間には別ルートの勾配を緩和した新道が開かれている。その直後に建設が始まった日本鉄道の奥州線は、この新道に沿ってほぼ建設されていた。この中で最も距離が長いのが奥州街道最高地点(標高 458m)を越える御堂一里塚-中山一里塚-小繋一里塚を無直ぐ山越えで、新道はより西側に中山峠(十三本木峠)を吉良いて通過させているルートが現在の国道4号線にも踏襲されている。
そのお陰で、御堂から小繋に二至る間は昔ながらの奥州街道は旧道としてそのまま使われており、そこに散在して残る一里塚などの街道遺跡の主なる物は国の史跡「奥州街道」に指定され、保存されている。しかし、それから百年後に開通した東北新幹線は奥州街道に沿ったルートを世界最長だった全長約22q余りの岩手一戸トンネルで通過している。
 ここからは奥州街道、国道4号線、東北本線の沿線風景を並行的にがっと眺めてみよう。
沼宮内の市街を出て国道4号に沿って北上しつつ次第に高度を上げて行く。北緯40度線を示す標識とモニュメントを見送った。左手にあった太く水の豊かな北上川の流れも、ここまで来るとこんなにも細く弱々しい流れになってしまい、国道から離れて北東へと水源を目指してさかのぼって行ってしまった。しばらく進むと尾呂部(おろべ、現在の御堂駅付近)で奥州街道は斜め右に国道から別れて高原の斜面を東北方向に登っていた。再び国道に合流するのは三ヶ所の一里塚を通り過ぎた小繋集落の南方であった。
 一方、東北本線は御堂駅を過ぎると民家もまばらとなり、線路の勾配は9パーミルからいきなり23パーミルに急となり、左(西側)の辺りはゆるやかに起伏するような高原の風景となる。東側から迫る山裾の等高線に沿って蛇行する国道4号を複線化サレタ東北本線は築堤に挟まれた二つの架道橋で跨いで、三重連撮影聖地で知られる「吉谷地大カーブ」へと差し掛かる。この先で切り通しに続いて短い大塚谷トンネルを抜けると、やがて勾配が緩くなると緑濃い防雪林に守られた中山駅(今の奥中山高原駅)を経てサミットの中山トンネルを目指して登って行く。この吉谷地の地内は岩手町(沼宮内)の最北部に位置しており、北上川の最奥支流である朽木川の流域であるのだが、その谷の北部は東西に横たわる低い尾根を境として一戸町奥中山の地内になっていた。この十三本木峠を越えても、しばらくは高原風の地形だったが、西岳信号場を過ぎると小繋川の谷が狭くなり一転してけわしい地形となる。蛇行する小繋川を何度か渡って下ってゆくと、やがて谷が少開けて勾配が緩くなると小繋駅となる。この先の小繋トンネルの先の急勾配の途中に滝見信号場が設けられている。この辺りは再び小繋川の谷間を下って行くが、やがて右から流下してきた平糠川に注いでいる。再び谷が開けて小鳥谷駅となる。峠から小鳥谷までが延々と続く急勾配区間であって、北側の撮影名所でもある「小鳥谷の大カーブ」は小鳥谷駅を出た南から始まっている。この谷間は南からの平糠川が北上山地から北西に下ってきた馬淵川に注いでいる合流点であった。この先は馬淵川の流れを変えさせた尾根が東西に連なっており、そこを蛇行する馬淵川を抜けるようにトンネルと二つの鉄橋を設けて通過すれば一茅野へ町の広がる開けた盆地となり、標高も約150mまで下って来たことになる。幅の大きくなった馬淵川の左岸を国道四号線と併走して一戸駅へ到着する。ここで三重連の区間が終わった。その先の東北本線は、一戸駅を出てから第10馬淵川橋梁(長さ 46m)で馬淵川を渡り、左手に安比川の馬淵川への合流点を見ながら、その右岸に迫っている鳥越山(標高375m)の下を鳥越トンネルで抜けると、対岸の馬仙峡の断崖を見ながら再びトレッスル式橋脚に架けられたプレートガーターけたの第9馬淵川橋梁(長さ 70mで馬淵川を渡って福岡駅(後に北福岡駅→二戸駅)へ到着する。
 さて、昔の奥州街道は集落の開けた所はべつとして、その間は出来るだけ川筋を避けて山の中腹を急坂を越えて通り抜けるのが常であった。東北本線の御堂駅の付近で国道四号線から別れて東側の北上山地の山麓へ入った奥州街道は高原風の畑に囲まれた坂道を3kmほ登ると左手に御堂観音(みどうかんのん)の森が近づいてきた。ここには千手観音(せんじゅか
んのん)を本尊とする新通法寺があった。この寺は大同3年(807)に、蝦夷(えぞ)討伐に北上して来た制夷大将軍 坂上田村麻呂が必勝祈願のために寺を開いたとの歴史があった。それに有名なのは、東北の大河である北上川の源である「弓弭(ゆはず)の泉」と名付けられた泉が湧いていることである。これは国土河川局が一級河川 北上川本流の水源と認定していて、地形図にも記されているからであった。しかし、北上川には、この“本流の水源”よりも遠く北方の山々を水源とする“支流”が存在していて、その一つが三重連撮影名所の「吉谷地大カーブ」の上流を源とする朽木川であった。
さて、ここから坂を登り切ると、街道の正面に七時雨山と西岳の姿が見えて来た。ここには盛岡から10番目の一里塚があって、西が御堂一里塚(岩手郡岩手町)、東が馬羽松(まはまつ)一里塚(二戸郡一戸町)があった。ここが南側の岩手郡と北側の二戸郡との郡境であって、同時に明治元年(1869年)に定められた陸奥(むつ)陸国と陸中国との国境でもあり、明治9年(1876年)までは青森県と岩手県の県境出もあった。それは、この坂の頂上を通る低い尾根筋が南流する北上川水系と北流する馬淵川水系との分水嶺であったからであろう。この分水嶺は西へ行くと奥中山駅のすぐ南側で国道4号線・東北本線を横断して奥中山高原へと続いていた。この牧場や畑の広がる高原の中の坂を下って行くと東へ流れる平糠川の上流部の開けた谷間に出た。ここには摺糠(すりぬか)集落には県道30号葛巻日影との十字路となっており、左へ2.2qで奥中山駅にいたっており、その先は奥中山高原を越えて安比側の谷へ通じていた。奥州街道は直進して急坂を登って行く。逆に東へは黒森峠(標高 877m)を越えて葛巻町に至っていた。また、この峠は沼宮内から葛巻を経て三陸海岸の野田へ抜ける「塩の路」として栄えた野田街道でもあった。
 さて奥州街道へ戻って視界の広がった坂道を進み、やがて峠らしき場所となり、奥州街道最高地点の標高484mを示した標識に出迎えられた。峠の名は知られてはいないが、さしずめ、「旧 中山峠」とでも云っておこうか。ここからの西岳(にしだけ)の眺めは素晴らしい。しばらく高原野菜畑の中の道を行くと盛岡から11番目の中山一里塚)があり、その先の中山集落は沼宮内宿から一戸宿までの9里(約36km)の中程にあり、馬につけた荷物の中継所を兼ねた集落で、農家十九軒があったと云う。ここから18丁は道の両側に赤松林が続いている中を北上すると火行(ひぎょう)集落を抜けて、やがて山道に入った所で広域農道との十字路となった。左折すれば奥州街道の古道で、尾根伝い進と塚平一里塚を経て坂を下って国道4号線の小繋駅前に出て小繋集落の北の入り口へ向かっていた。一方、直進すると沢伝いの道となり「よの坂」戸呼ばれる急坂を下って小繋一里塚を通り過ぎた。この辺の下に東北新幹線の岩手一戸トンネルが通過しているはずであるのだが。やがて山の急斜面を下って谷底に出るとそこには南部藩の五番書跡があり、ここが小繋集落の南入口であった。この集落の家並みを通りぬけると北の出口の丁字路に出る。右手には小繋川が流れていた。やがて小繋集落のある平地が尽きて、街道は東北本線の下平踏切を渡って小繋バイパスへと合流する。この先で谷間の地形はけわしくなり、国道四号線と東北本線は谷間を鉄橋で渡りながら下って行くが、昔の奥州街道は川岸の断崖を避けて左手(西側)の山中へ回り込んだ「川底道」を通って川底一里塚を通り過ぎてから急坂を南に下って開けた谷間に出来た小鳥谷集落へくだって、集落を通り抜けてにる国道4号線へ合流した。この道筋は奥州街道随一の難所とも云われ、現在の国道は笹目子トンネルと云う最長のトンネルのバイバスで抜けるようになっている。
この小繋川は小鳥谷集落の手前で左から流れて来た平糠川に注いでおり、また集落の北側では北上山地の葛巻町地内の袖山高原を源に北西に流れ下って来た馬淵側に平糠川が合流するちてんがあった。この北側は馬淵川の流れを西に変えさせた東西に張り出した尾根があって、ここを馬淵川は峡谷を作って流れ下り一戸の盆地へと北上していた。
奥州街道は、すかさず西側の山の中に入り込み「荷坂、白小坂」で山越えしていた。一方の国道4号線と東北本線は近代土木技術をを駆使した橋梁を架けて蛇行する馬淵川の峡谷に沿って通り抜けていた。そして再び奥州街道は国道4号線に合流し、東北本線と併走しながら馬淵側左岸を北上し一戸駅のある、宿婆地であった一戸町へ到着した。
最後に、2014年3月発刊の季刊誌「国鉄時代(:VOL.37」の特集:貨物列車の中に『三重連の峠  奥中山の記憶 寫眞:田辺幸男・樋口慶一・中島正樹、構成:寺井洋一』が掲載されました。
ここには、コノシリーズに掲示されている写真の中から、9枚の写真が掲載されています。
この「国鉄時代」誌に掲載される契機を作って下さったのは、常図ね私のHP制作にご支援を頂いていた「ナメクジ会の鉄道写真館」の管理人をされている寺井洋一さまが、『今までに余り見たことのない視点で撮った三重連だ』と云うことで、国鉄時代の山下編集長に推薦して頂いたことに始まります。そして、私のフイルムアルバムの中から山下編集長が選び出した作品です。
このシリーズでは出版社から提供された印刷用画像データをHP用に縮小して改めて掲示いしました。ここで関係者に厚く御礼を申し上げます。

撮影:昭和47年10月29日

〈参考文献〉
『十三本木峠越えの秘話』「ナメクジ会のHP管理人さまの提供 ) 
http://home.a00.itscom.net/yosan/hiwa/hiwa.html
ここには、元一戸機関区のベテラン機関士の方々が語る多くの運転に関わる経験談が記されている貴重な資料です。

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・「東北本線/奥中山 D51三重連」シリーズのリンク
293. 沼宮内駅/三重連牽引の下り貨物列車の発車・沼宮内→御堂
410. 西岳バックの奥中山三重連・御堂―奥中山
--北上川の源流を訪ねて:西岳山ろく源流説のあれこれ--
319. 十三本木峠を登る、吉谷地の大カーブ T ・御堂−奥中山
320. 十三本木峠を登る、吉谷地の大カーブ U ・御堂 -奥中山
281. 奥中山駅界隈(かいわい)・御堂−奥中山−西岳(信)
299. 十三本木峠を登る、中山トンネル前後・奥中山−西岳(信)
291. 十三本木峠を登る三重連・一戸→小鳥谷
280. 十三本木峠を登る小鳥谷の大築堤・小鳥谷→滝見(信)
305. 十三本木峠を登る下平踏切りあたり・滝見(信)→小繋
321. 十三本木峠を登る、西岳信号場あたり・小繋→西岳(信)
185. 冬の奥中山三重連 (東北本線・御堂→奥中山)
171.さよなら沼宮内駅の三重連発車・東北本線
289. 十三本木峠を登るSLアラカルト・沼宮内〜一戸