自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・「中央西線の風物詩を訪ねて」
351.  木曽谷に木曽福島機関区を訪ねて ・中央西線

〈0001:bP60454:扇形庫のレンガ壁のある風景〉


〈0002:bP60456:機関区からみた木曽福島駅のきととき〉

〈撮影メモ
奥のホームにはDL牽引の優等列車が到着しようとしている。コームには夏の行楽を楽しん田人々があふれていた。背後に見える遠い山々は飛騨山脈であろうか。
〈以下は工事中です。〉
〈000x:縦おq〉




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〈紀行文〉
 この中央本線は東京駅から塩尻を経由して名古屋駅までの424.6kmの路線であった。ここでは中央本線最後の蒸気機関車の運行区間である中津川〜塩尻間の中間地点に位置するD51の牙城である木曽福島機関区を訪ねた記録です。この機関区のある木曽福島駅の設けられている木曽町(合併以前の木曽福島町)は地理的に大変に興味のある地点であることが判った。
その第1は、木曽町日吉の野駅−宮ノ越駅間には「中央東西線鉄路接続地点記念碑」が建っていることを挙げよう。この中央東線は新宿から宮ノ越までを甲武鉄道と官営鉄道により、中央央西線は官営鉄道により名古屋から宮ノ越間を目指して、1896年(明治29年)に建設工事に着手し、1911年(明治44年)5月1日に旧 日吉村の中ほどの地点で東西両線が接続して中央線は全通したからである。また、全通後には「新宿〜塩尻間」が「中央東線と通称で呼ばれるようになっている。
 その第2は、先の碑から僅か南に行った木曽町原野の旧街道脇に「中山道中間地点の碑」がひっそりと建っている。ここは「京の三条大橋」と「江戸の日本橋」との中間地点で、双方へ69里28丁(約266q)であることを示していた。この中間地点を挟んで中央本線の塩尻駅から恵那駅までの約107qが中山道の街道筋と南北にほぼ並行しているのであった。
この中山道の中で、木曽谷と呼ばれた地域を通る街道は「木曽路」とも称されていて、江戸時代の中山道の『贄川宿(にえかわじゅく)・奈良井宿(ならいじゅく)・藪原宿(やぶはらじゅく)・宮ノ越宿(みやのこしじゅく)・福島宿(ふくしまじゅく)・上松宿(あげまつじゅく)・須原宿(すはらじゅく)・野尻宿(のじりじゅく)・三留野宿(みどのじゅく)・妻籠宿(つまごじゅく)・馬籠宿(まごめじゅく)』が“木曽11宿”に相当します。この細長い地域のホボ中央に位置しているのが福島宿であって、政治経済の中心地としての位置を保って来ています。
そこで、木曽宿発展の経緯を戦国時代から鉄道の開通する明治末までをたどって見ましたので、お読み頂けレば幸いです。
 先ず、戦国時代に木曽谷の国人領主であった木曾氏は義在から義康の時代にかけて木曽谷を統一しつつあった。その義在は今の上松町の南にある須原(すはら)に本拠を構えて、近隣と友好関係を保ちつつ内政を重視した活動を行っていた。この城下には中山道の前身である東山道(ひさしやまみち)の須原宿が置かれていた。
その後の永正6年(1509年)に今の福島に上之段城を築城し、須原と福島を交互に本拠としていたらしい。その位置は木曽川と南アルプスの赤林山(標高 
2,177m)を源とする支流の八沢川(やざわがわ)に挟まれた細長い河岸段丘にある上の段・山平(やまひら)の高台であった。ここは街道が木曽川と塁壁に挟まれて狭くなっている部分があり、街道と水運の両方を押さえることが出来る位置にあった。
それに、福島の地は狭く、平地面積は同じ木曽谷の宮ノ越や須原などの方が広いにもかかわらず、ここを本拠としたかったのは、王滝川や黒川沿いに飛騨との交通の便が良かった上に、木曽氏の収入を支える森林資源の維持に適していたからであろう。天文二年(1533年)頃になると木曽谷の街道の改修にも乗り出し、南端の
妻籠(つまご)から新洗馬までの宿駅を定めたり、馬籠宿と中津川宿の間にある落合から塩尻に抜ける木曽の本道を開いて木曽を通過する旅人の増加に努めた。一方では、材木の商品化による経済力を高めるなどして、内政の充実と安定した政治状況を木曽谷全域に築いた。
しかし、天文年間(1532〜55年)になると、甲斐の武田信玄は、たびたび信濃に侵攻して来るようになる。義康は北方からの侵入に備えて、木曽川の対岸(右岸)の黒川との合流する位置に福島城を築き、福島を本拠と定めた。ここは飛騨の高山へ通じる街道と木曽街道が判れる要衝のちであった。そして平時は上之段城を館とし、山城の福島条を詰の城とした。
その後、信濃の伊那、諏訪、筑摩を攻略した武田信玄は天文二十四年(1555)至って木曽攻略を本格化すると、ついに義康は武田信玄に臣従した。そして信玄の三女の真理姫を息男 由昌の妻女とする縁組を得て、木曽氏は武田氏の親族衆として、木曽谷の領知権は従前通り義康に安堵された。義康の跡を継いだ義昌の時代の木曽谷はしばらくの間小康状態を迎えた。そして、家臣への領地の堵による主従制を確立し、領主としての戦国大名の形を整えた。
 元亀四年(1573)に信玄が病没して、後を継いだ勝頼が武田氏を衰えさせると、
義昌は天正八年(1580)夏頃、織田信長の誘いに応じて武田氏に離叛した。この功により、義昌は信長から木曽谷の当知行安堵のほかに安曇・筑摩両郡の一色宛行を受け、深志(松本)城主の地位を得た。
しかし、その3か月後に起こった本能寺の変が勃発すると、信濃国内も新たな支配権を巡って混乱し、越後の上杉に助けられた勢力に終われて義昌は北信濃の所領を放棄して木曽谷へ戻った。この乱に際して昌は、徳川家康に音信を通じて盟約を結び、
信長の代に得た安曇・筑摩両郡および木曽谷の本領を家康からそのまま安堵され、それらの地の領国化に専心した。しかし、天正十二年(1584)春、家康と豊臣秀吉との反目がこうじて「小牧・長久手の役」が生じた。この段階で、義昌は家康との盟約を反故にして、次子義春を秀吉の人質に入れ秀吉と提携した。
天正12年(1584年)年8月、徳川方の深志城主小笠原貞慶が秀吉方の木曽谷へ攻め込み、上之段城が焼き払われた。このとき、義昌は福島城に籠城していたが、妻籠城の善戦もあり、木曽福島そのものの陥落は免れたようである。続く9月にも家康が差し向けた徳川軍を妻籠城で撃退した。
その後、家康と秀吉の間に和議が成立し、秀吉は家康に対して関東、信濃国諸将の管轄を一任した。
これによって、義昌は再び家康の麾下に繰り入れられてしまった。
 天正十八年(1590)の小田原の陣後、家康は関八州に所替えとなったが、この折、家康傘下の義昌は家康の命のもとに、豊かな山林資源を抱える父祖以来の木曽谷から下総(千葉県)阿知戸の一万石に移封された。この時の経済的縮小から多くの家臣を失ってしまった。
その後の木曽は徳川の直轄地となり、福島条が慶長3年(1598年)に廃城となり、福島には代官制が敷かれた。その代官には山村良候が任じられた。彼は木曽谷の元領主であった由昌の重臣であったが、木曽氏の下総移封後も木曽で徳川氏に従っており、関ヶ原合戦には徳川秀忠の先陣を勤めた功によって代官を命じられたのであった。元和元年(1615年)には木曽谷は尾張藩となり良候の子孫が代官を引き続いて務めた。代官の本拠は福島城下の木曽氏の居館を山村代官屋敷とした。幕府の命により上之段城は廃城となり、上之段地区は、防塞の施設として整備されて街道の南の出入り口の役割を担っている。
一方木曽街道は5街道としての中山道が整備され、福島宿の北端の関山山麓の木曽谷が狭まる木曽川の崖上には福島関所が設けられて、代官が関守も兼ねていた。
また、関東の下総に移封された木曽由昌はその5年後に病没した。跡を継いだ義利の乱行によって木曽家は幕府により取りつぶされてしまったのだった。
 さて、この木曽谷の最も狭い場所に位置する木曽福島の町を北の空から俯瞰(ふかん)すれば、木曽川の左岸は木曽山脈(南アルプス)の標高 2000mクラスの山がつらなり、その山麓は木曽駒高原となって次第に高度をさげて木曽川に達している。そこには木曽山脈の山を源とする急流が谷を作りながら流れ下って木曽川に注いでいる。その川の両岸には河岸段丘が沿っていることがおおい。福島宿の南には八沢川があって、その右岸には河岸段丘の高台が細長く続いていた。一方、福島宿の北側には木曽駒高原からの尾根続きの先の関山の山麓が木曽川に落ち込んでいた。
木曽谷の中央を木曽川が流れており、その左岸に近い所を国道19号線が通じており、その山側を旧中山道(一部は旧国道)が走っており、その一段高い所を中央本線の線路が通っている。その山側には戦国時代の山城である「上之段城跡」が位置していた。そして、中山道の福島宿の北の入り口の高台には福島関所が設けられており、南の入り口は「上之段城」の麓下の高台から八沢川岸へ下る急坂と云う地形に守られている。
その宿場町は北の宮ノ越方から上松方へ向かって幅の狭い街並みさ次の順番で続いていた。
(宮の越方)→関所→関町→上町→本町→上の段→中八沢橋→(上松方)
従って明治になって開通した中央本線は「上之段城」と中山道の上の段の街並みとの間を抜けて八沢川の左岸の高台に木曽福島駅を設けている。そして明治以後の町の発展は八沢川左岸を中心となった。
このような背景から木曽宿は関所があるのにもかかわらず、その規模は小さく、天保14年:1843年の記録では、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠14軒で宿内人口は972人であった。
昭和初期の大火で宿場の殆どが失われてしまい、中山道の風情を残すのは高台に位置する「上の段地区」だけである。その一角の街並みより一段高い所が「上の段城」の直下に築かれていた木曽氏居館跡であり、大通寺が建っている。この寺は後に代官となった山村良勝とその父が木曽義昌の重臣であったことから建立したと言われ、ここの安永7年(1778年)に建てられた鐘楼門は福島宿で最古の木造建築物である。また境内には、木曽義昌に嫁いできた武田信玄の3女 真理姫のための供養塔も現存している。この寺の背後には中央本線の線路が通過していた。
 一方の木曽川右岸には今は城山と呼ばれている丘陵の上に木曽氏の本状である福島条が築かれており、その麓の高台には木曽氏居館(後に代官屋敷となった)や興禅寺(ここの庭園は仏教の宇宙観を表わした枯山水様式で、広さは東洋一と言われる。)などが配置されていた。
 ここから鉄道の話題となります。ここの中山道の通じていた木曽谷ニに鉄道がくるようになった経緯は、コノシリーズのプロローグに記載しましたのでご覧頂ければさいわいです。
先ず、標高 293mの中津川から53q登って標高 775mの木曽福島に中央西線が到達したのは着工後14年後の 1910年(明治43年)11月25日であった。この地点はサミットである標高 970mの鳥居峠のトンネルへ向かう途中に位置していた。そして最後まで残った蒸気機関車の運用区間である塩尻〜中津川間の木曽路の山間を行く中間地点にあって、木曽福島機関区が設けられた。国鉄蒸気機関車・機関区別配置表によると昭和39年には ゼブラ模様を付けたC12型2両、山岳重装備のD51型11両が配置されていて、タンク機のC12は上松駅構内の木材集約ヤードの貨車入れ替えに活躍しており、D51は直通貨物や臨急客などでは重連で運用されていた。
この機関区は駅のホームからも、裏側の小丸山に登っても良く見渡せるとの話であったが、私は駅の改札を出て線路の下を抜ける地下道をを通って機関区の事務所へ向かった。ここには昔からあった
扇形庫の真ん中の部分は火災により消失してしまい、そこは青空車庫3線(8〜10番)を中に置いた両端に車庫建家があると云う異様な姿となってはいたが、昔ながらの煉瓦造りの壁は風格を感じさせるには充分であった。
それに給炭槽が新しく建てられ石炭の積み込みはクローラークレーン(可搬式クレーン車)が使われていた。
この中央西線の蒸気機関車は中津川機関区と、ここ木曽福島機関区が役割を分担っていた。あの中津川を出庫時には満載だったテンダーの石炭も、連続勾配の続く木曽谷の往復行路でガラガラとなってしまっているD51には青地のナンバープレートが何故か強く印象に残っている。
さて、木曽福島駅を出た塩尻へ向かう列車は直ぐに木曽福島の町を新旧に二分仕手いる八沢川の深い谷を長さ61mのフレートガーター3連の八沢川鉄橋を渡って、旧街道の面影をのこす「上の段」の街並みの裏手を抜けて原野駅への勾配を力行して行った。
撮影:1968年(昭和43年8月6日。

〈参考web〉
木曽路十五宿街道めぐり (其の九) 宮ノ越〜木曽福島 - 大江戸散策徒然噺 
http://blog.goo.ne.jp/hmazda_1950/e/2f8a407b87ce2e1c2f82eafd8d8a1087

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《・「中央西線の風物詩を訪ねて」ミリーズのリンク》
330.プロローグ:桔梗が腹から木曽谷へ・塩尻〜日出塩
024. 梨の花咲く本山宿(中山道) (中央西線・洗馬−日出塩)
151. 習作:厳冬の鳥居峠へ向かうSLたち・中央西線/日出塩〜薮原 間
027.冬の贄川(にえがわ)鉄橋(JR東海・中央西線)
178. 冬の木曽平沢にてD51に会う (中央西線・平沢−奈良井)
133. 冬の木曽路三題・日出塩−薮原) −休止中です。
405. 塩沢の谷を鳥居峠へ登る・中央西線/薮原→奈良井
210. 「やまぶき」の花咲く木曽谷 (中央西線・藪原〜上松)
209. 「木曽の桟(かけはし)」を行く (中央本線・上松−木曽福島)
092. 「ひのき(檜)」の木曽谷を登る・中央西線/上松〜野尻
162. 早春の木曽駒ヶ岳遠望 (中央西線・倉本−上松)
157. 木曽谷の石屋根のある風景 (中央西線・上松〜大桑)
009. 木曽川の春  「 ねこやなぎ 」・ 中央西線 /南木曾