自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役

|  HOME  | SL写真展 ( INJEX )  | 田辺のリンク集 |
(メールは上の  SL写真展 ( INJEX )  にある送付先へドウゾ。)

…………………………………………………………………………………………………

・「中央西線の風物詩を訪ねて」(奈良井川に沿って)

024.  梨の花咲く本山宿(中山道) ・洗馬−日出塩


〈0002:朝の本山宿〉
本

〈0001:洋梨の花咲く信州路〉
梨の花咲く本山宿付近 下り重連貨物 中央西線・日出塩

…………………………………………………………………………………………………
〈紀行文〉
 本州の山間を貫いて江戸から京都に通じていた中仙道、その69次の中で、SLが活躍していて、しかも昔の街道の雰囲気と隣り合わせとなっている所は中央西線沿いが最も好ましいと云えるだろう。街道好きの人にとっても、また鉄道好きの人にとっても好ましいのは、中仙道、その中でも洗馬宿から、木曽街道と呼ばれる桜沢から三留野(みどの)までである。
塩尻駅を出て洗馬、日出塩、贄川(にえがわ)、平沢、奈良井と各駅を信濃川の最上流である奈良井川に沿って木曽谷に分け入って西進むのであるのだが、一方の街道の方は、どうしたわけか、桜沢と云う間の宿から木曽街道は始まることになっており、その道ばたには「之より南 木曽路」の石碑が建っていることからもわかるのであった。
そこで塩尻市のホームページのなかに、塩尻の峠と云うテーマがあって、そこには古い中山道の話題が分かりやすく載っていた。
 元々、その昔に都の京都から北へ向かう東山道が信州を横断する木曽から碓氷(うすい)峠に至る経路は、その時代の政治情勢によって通る経路が変わっていたようである。例えば木曽街道の櫻沢から洗馬、そして松本へ、保福寺峠を超えて上田、碓氷峠へでる経路、または木曽街道の桜沢から牛首峠で木曽山脈を越えて小野宿から伊那街道を経て高遠へ、そして杖突峠を超えて茅野(ちの)へ、さらに大門峠を経て、碓氷峠へでると云う甲州武田軍が好んだルートが知られている。その後に、関ヶ原の役が終わって徳川家康が信濃を支配するようになると、慶長6年(1602)年に講習金山奉行の大久保長安が初期中山道として下諏訪宿、岡谷、三沢から小野峠を超えて小野宿、谷をさかのぼって牛首峠で木曽山脈をこえて木曽街道の櫻沢に抜ける最短ルートを整備した。しかし可なりの難路であったことからか僅か13年足後の元和元年(1615)に迂回ルートとして新下諏訪宿から塩尻峠を超えて塩尻宿、洗馬宿、本山(もとやま)宿、そして櫻沢で木曽街道に合する街道に整備されたのであった。
そんな訳で、この時に新設された塩尻・洗馬・本山の三宿は木曾街道に含まれていないのであった。この新しく出来た洗馬宿からは善光寺街道が別れており、塩尻からは伊那街道が分かれることになったから、この本山宿も大変な賑わいを続けたようである。しかし従来の小野宿を通る道筋は西国から諏訪地方への近道としてその後も利用され、高遠藩領内の年貢米の輸送路ともなっていたため、落ちぶれたとはいえ重要な役割を担い続けていたようで、今も牛首峠には松並木が残っており、何とかクルマが通れる県道254号楢川岡谷線として生き残っていた。この牛首峠は小野川の支流飯沼川と奈良井川の支流との間にできた谷中分水界で、霧訪山断層が作ったの断層鞍部であって峠道は断層谷に特徴的な直線状の谷を抜ける険しさで、峠から桜沢まで2.1Kmであった。
 ここの本山宿をを有名にしたのは1700年代の芭蕉の門下であった彦根罪の森川許六と云う俳人が著した「本朝文選」と云う本の中で、現在、我々がお目に掛かる「ざるそば」のような「そば切り」は、この本山宿から諸国に広がって行ったのだと紹介したことであった。それ以前は団子にして食べていた蕎麦(そば)を切って食べるようになったので「蕎麦切り」という言葉が生まれたとのことだ。この本が典拠となって、信州そばのみならず、そば切りの元祖として「本山宿」の名は名高いのである。いずれにせよ、僧侶が朝鮮や中国から日本に伝え、それを近江商人などが街道筋へ伝えたものであろうが、生活史であるがために、そのほかの文献が見つからないと云うところであろうか。
 この本山宿までは谷は未だ広く開けた感じの河岸段丘をなしていて、「りんご」や「なし」などの果樹畑などが続いている。その中を西へ向かう線路は宿場と奈良井川との間を通過している。やがて集落が見え始める頃、道の右手に沢山の石碑があるのが判る。宿の入口は少し先のようだった。宿内は右側へ少し湾曲しており、道は比較的広い。この32次 本山宿には 本陣1軒 脇本陣1軒 はたご屋34軒、蕎麦屋37軒など117軒の家屋が並んでおり、その家並みの特徴は“斜交(はすかい)屋敷”と云われる形式で、他では「鋸状家並み」とも呼ばれていた。普通家を建てる時には、道に面がそろうように建てるものだが、この本山宿ではそれぞれの家がはすかいに建てられていて、家の向きが両隣と一直線ではなく、斜めにぎざぎざの「のこぎり歯状」に並んでいる。ここでは、一軒づつばかりではなくて、大きな長屋のように連なっている建物まで斜めに建っている徹底ぶりである。その理由には、防衛上、兵士が身を隠すための工夫だとするのが定説だが、「大名行列が通る時に陰に隠れられるので、長く座っていなくてよいから」という面白い説もある。現代では誠に都合の良い駐車場になっている。また、それぞれのお宅に、米屋、俵屋、川口屋、清水屋などの屋号看板が掛けられ、昔の風情が見られる。
そこで、 宿場とSLの組み合わせをいろいろと試みて見たのだが、中々良いアングルを見つけられなかった。そこで、意表を突いて、このシーンを撮って見たのである。
谷間に朝日が入り込むのは遅いし、D51重連の下り貨物列車は中々微妙なタイムでここを通過するのである。
その昔、山容新幹線開通記念SL写真展が博多で催された際に、この近辺で夜明けの雪原の中を力行するD51重連の長い貨物列車をを北アルプスの山々の山頂が朝焼けに染まったのを背景に俯瞰撮影した入線作品のシーンがいつも思い出されるのである。
ここは本山宿の洗馬方面への出口にあたる路地のいっかくであるが、散在していた道祖神や石仏や碑が集められて祭られている。やっと遅い陽が射してきたのであったが、右端の巨大な石碑には題目が刻まれているのだが、まだ朝日は届かなかったためか、文字が読みにくいのは残念であった。実は、カメラは買ったばかりのズーム望遠レンズを付けた35ミリ一丸レフであったが、ピントの深度が浅くなってしまったようだった。

撮影:碑/1965年&洋梨の花/1973年
ロードアップ:2010−08.

…………………………………………………………………………………………………
・「中央西線の風物詩を訪ねて」シリーズのリンク
330.プロローグ:桔梗が腹から木曽谷へ・塩尻〜日出塩
151. 習作:厳冬の鳥居峠へ向かうSLたち・中央西線/日出塩〜薮原 間
027.冬の贄川(にえがわ)鉄橋(JR東海・中央西線)
178. 冬の木曽平沢にてD51に会う (中央西線・平沢−奈良井)
405. 塩沢の谷尾鳥居峠へ登る・中央西線/薮原→奈良井
209. 「木曽の桟(かけはし)」を行く (中央本線・上松−木曽福島)
210. 「やまぶき」の花咲く木曽谷 (中央西線・藪原〜上松)
092. 「ひのき(檜)」の木曽谷を登る・中央西線/上松〜野尻
162. 早春の木曽駒ヶ岳遠望 (中央西線・倉本−上松)
157. 木曽谷の石屋根のある風景 (中央西線・上松〜大桑)
009. 木曽川の春  「 ねこやなぎ 」・ 中央西線 /南木曾