自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役
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にある送付先へドウゾ。)
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・「中央西線の風物詩を訪ねて」(奈良井川に沿って)
027.
冬の贄川(にえがわ)鉄橋
・中央西線/贄川前後付近
お断り:冒頭の2枚の写真は画像処理の拙劣さから見苦しい状態のままになっていますが、フイルムが見つかり次第修整致す積りでいますのでお許し下さい。
〈0001:第1奈良井川橋梁(アンダートラス) T 〉
〈0002:第1奈良井川橋梁(アンダートラス) A 〉
〈0003:bQ30623:第2奈良井川橋梁(贄川-中井 間)〉
〈撮影メモ:昭和46年―1月6日撮影〉
鳥居峠へむかって奈良井川をさかのごる名古屋行き旅客列車。冬の季節風が吹きすさんでいる。間もなく木曽漆器の平沢集落に入ります。
〈0004:bQ31042、第1奈良井川鉄橋〉
〈撮影メモ:昭和46年2月下旬撮影〉
弐度目の贄川の鉄橋への出撃である。左側のプレートガーター桁の下を旧道が通っていて、宿場へ通じている。
【〉
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〈
紀行文〉
この写真はSLを撮り初めた頃の習作で、35mm一眼レフよりも速写性が優れたプレスカメラを求めて、国産のコニオメガを手に入れて、初めての試し撮りに中央西線に出かけた際の成果である。
ここは塩尻から信濃川の上流に当たる奈良井川二沿って木曽谷に入って行って、いよいよ両側の山が迫り、川は深い峡谷をなして流れている。ここが木曾街道の入り口に当たる櫻沢であった。ここで小説「夜明け前」の著者 島崎藤村さんに経緯を表して名文を引用してみよう。
『木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾を巡る谷の入口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。東ざかいの桜沢から、西の十曲峠まで、木曽十一宿はこの街道に沿うて、二十二里余に渡る長い渓谷の間に散在していた』
この情景は木曽路の北端に当たる桜沢や次の贄川(にえがわ)の風景にも良く似合っていると思う。
そして、ここを少し過ぎた所にある中央西線の第1奈良井川橋梁は初めて奈良井川をわたる箇所であった。この珍しいアンダートラスの鉄橋は1902年(明治42年)に架けられたもので、スパン長さ 62.4mのアメリカンブリッジ社製の上路ピン結合ボルチモアトラスと云う形式であった。両岸にはそれぞれ1連のプレートガーターが付属していた。右岸では、その下を旧道が川沿いに旧 贄川宿のの街並みへと通じていた。ここは我々は通称 「贄川鉄橋(にえがわてっきょう)」と呼んでいた所だ。
この朝は雪交じりの荒れ模様の天気であったが、午後の名古屋行D51き重連貨物列車の定刻の頃には運良く雪は小振りになったのだった。ここは谷が狭く国道も川に沿うように急カーブを描いてと急勾配を登っているのだが、そのカーブの凸部の道端に赤いよだれ掛けるをしたお地蔵様が祭られていたのだったが、今も交通の難所であることには変わりがないようである。わたしは国道の山側の崖を登って狭い段々畑に登って列車を待ちかまえた。
よくよく見ると国道から細道が別れて鉄橋の下を潜って川に面した断崖二沿って贄川の宿場街へ通じている古い木曾街道であることが判った。その対岸には亜炭の様なものが産出するらしく川をまたいだ人力ロープウエイが設けられていた。
ところで、この贄川宿は奈良井川の両岸に迫る山の間の小さな宿場町で、木曽11宿の最北端の宿である。ここは尾張藩と松本(深志)藩との境に近いことから、福島関の添番所(贄川関所)が設けられ、木曽路の北の防御拠点でもあり、また出女、木材、木曽桧を使った曲物(まげもの)や漆器の蜜移出などの監視に当たっていたと云う。
木曾街道が贄川の少し北の桜川から始まると云うのも、この先が松本藩領になるからでもあり、中山(なかせん)道は東側の山塊に登り、木曽三百を牛首峠で超えて伊那谷の最上流部に出てから、小野峠を越えて三沢(岡谷市)、下諏訪に至っていたからである。この道が塩尻峠を越えるルートになって中仙(なかせん)道となるのは慶長年間(1600年代)であるとされるからである。戦国の武田信玄の時代を考えてみると、塩尻峠は松本(領と甲州領との境が接する所であって常に敵対関係にあったから街道にはふさわしくはなかったのであろう。武田信玄は甲府・下諏訪から牛首宇峠を超えて直接に木曽谷へ出て、木曾街道を下って東美濃方面へ勢力を伸ばしていたからでもあろう。
そんな交通事情から、天文年間(1535年)に温泉が湧出していた贄川に宿場が設けられ、熱川、にえ(煮え)川と呼ばれ、大変に賑わったと云われており、江戸時代の「木曽絵図」にはその繁盛振りが描かれているほどであった。その後、江戸時代に温泉が枯渇してしまってから、贄川と書かれるようになったと云うのが地名のゆらいであるとか。いずれにせよ難読地名の一つである。
この宿場も昭和5年(1930)の大火で町並みの大半を焼失したため古民家などは見当たらない。しかし、関所の復元、国の民族文化財として指定された深沢家、陸軍参謀本部の五万分の一地勢図の三角点となった大栃の木と云う天然記念物などで知る人ぞ知る地である。また国道19号線から分れて贄川宿の風情が残る街並み入ろうとする所に1909年(明治42年)に中央東線が敷設された当時の煉瓦(レンガ)造りのアーチ跨線橋が歩道として残されていた。かっての国道は、この橋を渡って贄川宿の町並みに入っていたのである。
所で、1972年(昭和57年)には複線化のためのルート変更が行われ、上流側によく似た形式の上路平行弦ワーレントラス 62.4m 1連などの複線橋梁が開通し、懐かしい単線の旧線は1976年6月に廃線解体されてしまい、その跡には木々に埋もれて橋台だけが残っているという。
撮影:1967年
発表個展「日本縦断 蒸気機関車」、年賀状
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・「中央西線の風物詩を訪ねて」シリーズのリンク
330.プロローグ:桔梗が腹から木曽谷へ・塩尻〜日出塩
024. 梨の花咲く本山宿(中山道) (中央西線・洗馬−日出塩)
151. 習作:厳冬の鳥居峠へ向かうSLたち・中央西線/日出塩〜薮原 間
178. 冬の木曽平沢にてD51に会う (中央西線・平沢−奈良井)
405. 塩沢の谷尾鳥居峠へ登る・中央西線/薮原→奈良井
209. 「木曽の桟(かけはし)」を行く (中央本線・上松−木曽福島)
210. 「やまぶき」の花咲く木曽谷 (中央西線・藪原〜上松)
092. 「ひのき(檜)」の木曽谷を登る・中央西線/上松〜野尻
162. 早春の木曽駒ヶ岳遠望 (中央西線・倉本−上松)
157. 木曽谷の石屋根のある風景 (中央西線・上松〜大桑)
009.
木曽川の春
「
ねこやなぎ
」・
中央西線
/南木曾