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・「中央西線の風物詩を訪ねて」(木曽川に沿って)

009. 木曽川の春 「ねこやなぎ」 中央西線 /南木曾

〈0001:山陽新幹線博多開通記念 SL写真展 入賞作品〉
木曽川


〈習作 1〉
第5木曽川橋梁とネコヤ



〈習作2〉
ねこやなぎ 

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〈紀行文〉
 中央本線は起点が東京で終点が名古屋である幹線の筈なのだが、直通の列車は走っていない不思議な路線である。元来、国防上の観点から、太平洋海岸沿いを走る東海道本線の代替えルートとして山中を経由する中央本線の建設が進められたと云う。全通すると、塩尻から東を中央東線、西を中央西線として運用し、塩尻から長野までの篠ノ井線に乗り入れて、新軸〜松本、名古屋〜松本が伝統的に運用されるようになっている。
私は昭和31年頃から五年ほど塩尻にある八陽光学に出向したことがあり、又ワイフの実家もこの近郊にあったことから、中央本線とは縁が深かった。赴任する時に乗った夜行の急行は甲府以遠はDF50のディーゼル機関車の重連によって牽引されていたのだったが、中央西線の方は全くのSL天国が電化まで長い間続いていたのだった。その後、上京してホンダに勤めるヨウニなり、やがてSL写真に傾倒するようになり、このSL全盛期の中央再選が鉄道写真の道場となったのであった。その縁がもたらしてくれたのが、ここに掲げた「木曽川の春 ねこやなぎ」と題する一枚の作品であると云えよう。
 この中央西線は中仙道、特に木曾街道に寄り沿うように併走しており、桜沢集落から三留野(みどの)宿に至る木曽谷を通過している。
最初の頃は、訪れたことのない南木曽の方から撮り始めることにした。SL運行の南端である岐阜県の中津川から長野県の塩尻に向かう中央西線は、坂下を過ぎて美濃の国から信濃の国に入るのだが、相変わらず木曽川西岸を進む。この辺りの木曽川は山口ダムが満々と水をたたえた広い水面が広がって続いており、ここでは木曽谷の風情は未だ感じられたい。やガて田立駅を出ると地蔵山トンネルという短いトンネルを抜け、ダム湖に沿って北上する。直ぐに山腹に敷設された全長290mの水圧鉄管3条の上をプレートトガーター鉄橋で通り過すぎる。この鉄管は上流の元・読書(よみかき)村に設けられた読み書ダムで取水された木曽川の発電用水を真下にある関西電力の読書発電所へ送り込むためのものであった。やがてダム湖の水面も無くなり谷が迫ってくると、木曽川はカーブシテ西へ向きを変えた。そこからは、いよいよ山が迫り木曽谷に入ったとの気配が濃厚になって来るのであった。その先を古典的な美しいホルムをみせている「かまぼこ型とらす」の第5木曽川橋梁を高い一手渡ると間もなく南木曽駅に到着する。ここは昔三留野と云われた所で、近くにある妻籠宿は中山道六十九次の42番目宿場。早くから町並み保存が行われ、江戸時代の面影をよく残しており、
この先の 43番目の馬籠宿(岐阜県中津川市)へは木曽川の東側の険しい山の中を超えて旧会堂が続いており、ここは信州と美濃の国境で、石畳の坂道の両側に家々が並んでおり、『夜明け前』の舞台で、宿場町の中ほどに島崎藤村の生家を保存した「藤村記念館」がある。妻籠から旧街道で峠を越えてたどりついた馬籠宿の入り口にある高台からは恵那山や美濃の平野が一望され、明らかに木曽谷は通り抜けたことになる。
 最初に中津川に遠征した時の前夜は宮ノ越駅近くの宿行商人宿に泊めてもらい、早暁のドライブで木曽谷を一気に南下して、南木曽にやって来て、この美しいオーバートラス鉄橋の辺りを撮影アングルを探し回った。最初は国道側から先ほど見て来た豪快な三条の水圧鉄管を従えた読み書発電所が格好の点景になることを発見したが、反対側に回って見ると、ここには今が盛かりと芽吹いた素晴らしい「ねこやなぎ」の大群落を水辺に発見して、先ず、これを全景に撮影しようと、胸を躍らせて撮ったのが この最初に掲げたショットである。しかし、この時のカラースライドは逆光のゴーストで全滅であった。
その後、坂下〜南木曽間、このトラス鉄橋を含んだ旧線が運用廃師となるまで何度も冬の気配の木曽谷を通り抜けて通い続けたのだったが、再び幸運の女神はほほえまなかった。
 それでも、無理をして二枚目にお目に掛けたのは、最初から2年位経った頃の作品で、午後の順光で撮ったものだが、どうしても「ねこやなぎ」の花穂の表情を捕らえるには逆光にはかなわないように思われた。
毎度のこと、東京から遠路撮影行に出かけると、塩尻から木曽福島辺りまでは未だ冬景色であり、寝覚めの床を過ぎてからやっと春の気配を感じるようになるのである。4月の木曽路は本当に花の無い時期であり、わずかに「ねこやなぎ」が芽吹いているのが救いであった。早春の深い山峡の川面に陽射しがさすのは遅い。この野生の ねこやなぎの群落を逆光の中で捕らえるのに苦しんだのも楽しい思い出となってしまった。
実は、この「ねこやなぎ」の群落から数百メートル上流に、1973年7月の複線電化を目指した田立駅-南木曾間の新ルートがトンネルと新第5木曽川橋梁の完成により、古いトラス橋梁は撤去されてしまい、川に面した橋台がさびしく残るだけとなってしまった。それ故に逆光に輝く「ネコヤナギ」を入れて撮ることはもうかなわなくなってしまった。
 さて、ここで第一代の第五木曽川橋梁についての知見を述べておこう。
この橋梁は中央本線が名古屋から延伸されて来て、1909年(明治42年)7月15日に坂下−三留野間(現在の南木曽)の9.17kmが延伸開業した時に完成したのである。この第5木曽川橋梁は1909年に建設されたアメリカ製の下路トラス式の雄大な鉄橋である。この橋梁の中央部の長い支間(スパン)のトラス部分はアメリカン ブリッジ社が1907年に製造したぴん結合の300フィート型下路ペンシルバニア トラスで、当時としては破格の大型橋梁であったのだといわれている。このようなアメリカ製のトラス橋が採用されたのには次のような背景があるようだ。それは、国内の の主要幹線が国有化された明治の後半の日本では、鉄道創業時から技術面を担当してきたイギリス人のお雇い外国人、チャールズ・ポーナルが帰国した翌年の明治29年(1897)に、鉄道院は鉄道橋梁の設計をアメリカ人で1894年に鉄道橋梁の荷重計算を軸重の解析を進める手法を確立した第一留の橋梁技術者であったセオドア・クーパーと、米国土木学会代表を務めることになる鉄道橋梁設計者であるチャールズ・シュナイダーに委託する営団を下した。彼らは新たに日本の鉄道のために各種のトラス橋の標準設計を行った。それには支間 100、150、200、300(フィート)の形式があったようで、合計約250連のトラス橋がアメリカのアメリカン・ブリッジ社などで製造されて全国の鉄道の延伸に使われたのであった。それはトラスの設計は荷重の計算などに大変な工数がかかるため、長らく「標準設計」と称した形式を現地に適用する方式が採られた。これらの指導により、理論に基づいた設計で外見は華やかさな部分がありながら構造力学的には勝れたアメリカ式が日本の鉄道橋梁の発展の基礎を築いたと云えるのである。
 トラス橋とは複雑に鉄骨で橋げたが組まれている橋梁であり、トラスの高さの分だけ橋脚の高さを抑えることができるため、経済的であるので、桁下に十分な空間がある場合などに採用される方式だそうだ。トラス橋には数々の形式があるが、プラットトラスは上下弦材に挟まれた鉛直材、そのはすに入れられた斜材から構成されている。これを改良したのが、ここに使われている「ペンシルベニヤ とらす」であって、曲弦の分格トラスである。圧縮力の加わる斜材が歪(ひず)むのを防ぐために、載荷弦側に副材を配置する。ここでは下路橋のため、副材は下弦側にある。これはアメリカ最強の鉄道会社で知られるペンシルベニア鉄道(PRR)に基づいて名づけられた形式である。さらに部材の接合点(格点)がピンで止められている「ピントラス」と云う方式が採用されている。これは先に述べたクーパーが1903年10月に設計した「300フィート標準設計」であり、1907年に製造されて、この第5木曽川橋梁と、同じ中央西線の落合川駅に近い第1木曽川橋梁に架けられたのである。その後の支間 300フイートのトラス橋梁の実施例は数える程しかないようだ。
 終わりに、このように幹線としての努力を傾注して建設された中央本線のたどった生い立ちの奇数な運命について述べておきたい。先ず、明治新政府は明治2年(1869)11月10日,東京−神戸間を結ぶ幹線鉄道を建設することを正式に決定した。 ルートとして本州の中央を通る中山道案,海側を通る東海道案があったがこの時点ではどちらを採択するか未定だった。
東海道案は箱根峠そして多くの大河川を跨ぐため難工事が予想され,軍部からは戦艦の砲撃を受けやすい海岸沿いは国防上問題があると強く懸念されていた。
一方、明治3年、お雇いイギリス人技師 |R・ボイルが実地調査の上明治3年に、まだ開発の進んでいない中山道に沿って鉄道を敷設して地域開発をする方がゆうりであると力説していた。明治政府はこの案を採用し、明治16年に工事の開始を決めた。中山道幹線鉄道の長野県内ルートは、軽井沢−小諸−上田−松本−木曽−中津川であった。そして公債が募集され、高崎から碓氷峠超えの建設が進められた。しかし、碓氷峠や木曽谷の難工事が判り、工事費も膨大なことが課題となり、またルートから外れた名古屋地域の巻き返しもあって、東海道線案に変更され、これは明治22年に全通してしまった。しかし、中山道鉄道の前半は信越線として工事が続けられ長野へいち早く開通した。残った中山道鉄道の一部はその後に、明治25年公布の「鉄道敷設法別表」に記載された建設予定線の第1号に、中央線:「神奈川県下八王子若ハ靜(静)岡県下御殿場ヨリ山梨県下甲府及長野県下諏訪ヲ經テ伊那郡若ハ西筑摩郡ヨリ愛知県下名古屋ニ至ル鐡道」として具体化されることになった。そして、明治33年(1900)に名古屋-多治見間が開通し、続いて明治44年(1911)には宮ノ越-木曽福島間が延伸開通して中央本線が全通したのであったと云うのである。

撮影:1968年
発表:山容新幹線開通祈念SL写真展(朝日新聞社主催、博多)入選
ロードアップ:2008−11.

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・「中央西線の風物詩を訪ねて」
151. 習作:厳冬の鳥居峠へ向かうSLたち・中央西線/日出塩〜薮原 間
209. 「木曽の桟(かけはし)」を行く (中央本線・上松−木曽福島)
210. 「やまぶき」の花咲く木曽谷 (中央西線・藪原〜上松)
024. 梨の花咲く本山宿(中山道) (中央西線・洗馬−日出塩)
133. 冬の木曽路4三題・中央西線/日出塩−薮原)
027.冬の贄川(にえがわ)鉄橋(JR東海・中央西線)
178. 冬の木曽平沢にてD51に会う (中央西線・平沢−奈良井)
405. 塩沢の谷尾鳥居峠へ登る・中央西線/薮原→奈良井
092. 「ひのき(檜)」の木曽谷を登る・中央西線/上松〜野尻
162. 早春の木曽駒ヶ岳遠望 (中央西線・倉本−上松)
157. 木曽谷の石屋根のある風景 (中央西線・上松〜大桑)