自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・「中央西線の風物詩を訪ねて」(木曽川に沿って)

092.  「ひのき(檜)」の木曽谷を登る  ・中央西線/上松〜野尻


〈0001:木曽ひのきの天日乾燥〉
D51・中央西、

〈0002:貯木場の木曽桧木の丸太〉
年輪の見える木曽ひのき 中央西線・野

〈0003:歌人 島木赤彦も訪れた阿寺渓谷の清冽な景観〉
阿寺渓谷を訪れる、2010年8月 若杉貞夫さん撮影、野尻

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〈紀行文〉
 私が初めて木曽谷を訪れたのは大学三年の昭和30年の初夏の頃で、木曽川の支流の王滝川の上流に三浦湖と云うとてつもない大きな人造湖らしいものが五万分の一の地図の上にあることを見つけて、王滝川に沿っている木曽森林鉄道に乗せてもらえば湖畔まで行くことができることが判ったからであった。長岡から長駆、普通列車を乗り継いで上松駅で下車、広大な貯木場の一角にある営林署を訪れて、運良く乗車券をもらうことが出来た。その頃はDL牽引の客車列車が一往復設定されており、ダムノ上へ登って湖面を一望して、コンクリートだむの内部の見学をさせてもらい、コンクリートの凝固熱を発散させるための冷却水の通路を見学して、新しい知見を得たのだった。帰えりの行程では、ダイアモンド スタック(煙突)を付けた蒸気機関車の牽く運材列車と一回だけ交換する風景を眺めることが出来た。その旅では、「せみれおたっくす」と云う蛇腹カメラで撮ったはずなのだが、そのフイルムは行方不明となってしまっていた。
その後昭和43年頃に再び訪れた時には、あの懐かしいボールドウインのSLは既に引退して、営林署の庭先に記念物となってしまっていたのだった。それは私がSL写真のビギナーであった頃のことだったが、或晩春に木曽谷にふさわしい前景を求めて、上松から南木曾辺りを行ったり来たりしていたことがあった。
この辺りでは、木曽川の右岸(東側)では切り立った木曽山脈の盟主である木曽駒ヶ岳(標高 2,956m)の前山に当たる風超山(かざこしやま、1,699m)がそびえており、その先に木曽川の河岸段丘が発達しており、複数の段丘面上に集落が形成されていて、上松の市街や広大な貯木場などが営まれていた。そこには中央西線も旧木曽街道(中山道)も国道19号線も、この河岸段丘の上を通じていたのだった。それに対して、木曽川を挟んだ左岸(西側)は定高性のあるなだらかな阿寺山地が広がり、「ひのき」を初めとする「木曽五木」などのの常緑針葉樹林帯が続いており、木曽川に注ぐ主な支流の谷間には森林鉄道が奥深くまで入り込んでいたのだった。
或都市に桃の花の咲いている小さな谷が上松に向かう線路に直角に開いていて、小さな谷川が木曽川に落ち込んでいた。この谷に入り込める細い車道があったので、すかさず登ってみた。道はやがて谷を渡って東の山に取り付いて、どこかに通じているようであった。そこで数本の桃の咲いている姿を前景に撮って引き上げたのだった。その後初夏の強い陽射し(ひざし)の日に時間を見つけて、この谷を少し登って探検しておこうかと線路の下を潜って谷に入った。所が、なんと谷一杯に木曽ひのき(檜)の板が天日乾燥のために所狭しと店を広げていたのに遭遇した。干し始めてから日が浅いのであろうか谷一杯に「ひのき」の芳香が立ちこめていたのにはいささか驚いた。何と云っても木曽谷の産業は木材であるから、これこそ願ってもない前景だと喜んで、使い始めたばかりのズームレンズを取り付けてたカメラにエクタクロームにフイルムを詰め替えて三脚を構えた。通過して行く貨車をみながら、ふと感じたのは こんなに「ひのき」の板はピンクがかっていたのかと驚いた。本を見ると芳香を出すピンク色を帯びた「ひのき板」を玄関に張ると云う贅沢(ぜいたく)な日本建築があるとのことだったので、これでよいのかと一応は納得した。
所が、上松の観光案内所でもらった「ひのき」製材所のパンフレットの片隅にこんな文章を見つけた。
『植物である木材を乾燥させ、製材し、一枚の建築用材にする、柾目無節の「ひのき板」は育った場所、木自身の具象性を希薄にされて新しい神社に生まれ変わる。精緻に切削されたものには、そのような具象性の希薄化、抽象性の獲得がある。直線的で白木のままであると云う…』。ピンクを帯びた板との白木の板との対比には同じ「ひのき」なのに、随分と違った趣があるのには眼を醒まされた気がした。しかし、その後に、この材質の違いは「ひのき」の生育する土地の気温の歓談の差とか、湿度、土壌の体質などの影響がもたらしたものだというのだった。
「この手間の掛かる天日乾燥は熱による強制乾燥に比べて、材料の特質を損なうことが無く最も好ましい仕上げなのだと云うから、随ずん珍しい光景に出遭ったモノだ」とこのスライドを見た人から云われた事があった。
 そのご、時々貯木場に積み上げられた「ひのき」の丸太を前景に撮ってみたいと思いついて、あちこちを探したのは電化直前の昭和48年の春先のことであった。たまたま南木曾の第5木曽川橋梁を撮りに遠征した帰りに、野尻辺りで木曽川に架けられた森林鉄道の廃線となった曲弦トラス橋梁を発見したことから、野尻駅の近くに営まれた貯木場付近はどうなっているのであろうかと立ち寄ってみたのだった。巨木とは云い難いが、
運良く積んであった「ひのき」の丸太を前景に上松を目指して登って行くD51を撮ることができたのだった。
さて、この木曽谷の森林からは、昔から多くの建築用材が世間に供給されていたが、関ヶ原の戦い以後の1600年頃になると、築城や、城下町、武家屋敷、それに造船などの建築が盛んになったため、膨大な木材が木曽谷から伐採されてしまったので、山が荒廃してしまい災害が起こるようになって来てしまった。幕府から管理を任されていた尾張藩は森林の保護政策に転じて、1665年に留山(とめやま)として今の赤沢休養林一帯を指定したり、「巣山(すやま)」と云う立入禁止林や伐採禁止林を設け、藩以外の伐採を厳しく制限した。さらに1708年(宝永6年)には木曽谷全域にわたり貴重な「ヒノキ」の伐採を禁止した。そして後に、誤伐採を防ぐために、似た「アスナロ、サワラ、コウヤマキ、ねずこ」などを停止木(ちょうじぼく)として伐採を禁止した。そして「ひのき」一本 首ひとつ」と云う、この上もない厳しい罰則を設けた。しかし、厳しい保護政策にもかかわらず山の荒廃は止まらなかった。そこでさらに、伐採禁止の樹種や地域を拡大して保護制作の強化に努めた。これにより江戸時代末期には見事な天然木曽ヒノキ林が復活し、明治時代にも緻密な森林経営が行われるなど、豊かな森林を維持してきているのである。
木曾山林は明治22年に御料林となったが、その後に国有林となって、各地に営林署が設けられて森林経営に当たった。明治44年に中央線が開通して、これと同時期に木曽川の水利を発電に活用する事業が始まり、支流や本流に大規模なダムの建設計画が始まった。これにより、今までの木曽川の流れを利用して運材していた「木曽のナー〜中乗りさん」の唄で知られた「木曽式伐木運材法」ができなくなり、木曽谷全域に森林鉄道が運材のために整備されて行った。一方、山での集材には大、正時代に入ると集材機が出現し、ワイヤーロープを使って架空線を張り、谷でも川でも材を吊り上げて運んようになった。この木曾森林鉄道の主な本線を南から列記すると次のようになる。
三留野駅(南木曾駅)起点の与川線
野尻駅起点の阿寺線
須原駅起点の稲川線
上松駅起点の小川線・王滝線
薮原駅起点の小木曽線
奈良井駅起点の黒川線
 しかし、林道などの道路が整備されてトラックが木材の輸送を担うようになってくると、1960年代から次第に姿を消してしまった。
 ここで、野尻駅を起点に木曽川を横断して阿寺山地の奥深く阿寺川に沿ってけんせつされたのが野尻森林鉄道線であった。この野尻線(阿寺線)は木曽森林鉄道の中でも最も歴史が古く、その前身は皇室所有の阿寺御料林に明治34年(1901)に敷かれた阿寺軽便軌道の4.5kmであった。当時はブレーキの着いた運材車に材木を載せて、山から重力で下ろしており、台車の引き上げは馬などを使って行ったようだ。その後、営林署の経営する木曽森林鉄道 野尻線が大正7年に着工され、大正13年(1924)に完成している。そして、大正9年(1920)には早くも森林鉄道としては初のアメリカ製の3t型ガソリン内燃機関車を導入したり、翌大正10年(1921に)には木曽川に橋梁を架けて、国鉄中央西線野尻駅に直接乗り入れた。この木曽川橋梁は全長134.6mで、5径間曲弦ワーレントラス橋で日本橋梁製であった。その桁の構成は、中央部は下路曲弦プラットトラス 61.0m 1連、それに上路平行弦ワーレントラス 24.4m 1連、プレートガータ3連であり、橋脚は石積みであった。
 そのルートは、野尻貯木場を出て木曽川河岸を下り、木曽川を渡って対岸の野尻向から川上方向に殿線、川下方向に柿其(カキゾレ)線の支線をを分岐する。そして阿寺川を渡ったところで阿寺線はスイッチバックで阿寺渓谷へと入って行く。一方の柿其線は中央西線1駅間ほど木曽川を挟んで並走して柿其渓谷へ入っていた。これらの延長距離は約 11.3kmであったが、昭和40年(1965)年には林道とトラックに役目を譲って消えて行ってしまった。
この野尻森林鉄道の本線である阿寺線が延びていた木曽川支流である阿寺川が阿寺山地を刻んで作って来たV字型の谷が阿寺渓谷である。この花崗岩(かこうがん)でできた白い川床に映えるエメラルド グリーンの水の色がかがやいており、木曽谷で最も美しい渓谷美を誇っている。これは周りの美しい緑濃い木曽の「ひのき」などの針葉樹林の陰を映して流れる清流が作り出した者であろう。この阿寺川は砂小屋山(すなごややま、1471mや阿寺山(1558m)に源を発して、約15kmの谷を下って木曽川に注いでいる。
この阿寺山地は北アルプスの南端の乗鞍岳の南に位置する独立法の御嶽山(標高 最高峰 剣ヶ峰 3,067m)
の南に位置し、岐阜・長野の両県にまたがって、北西-南東方向にほぼ一直線に連なっている標高 1500m前後の山々、小秀山(こひでやま 1982m、阿寺山地の最高峰で、王滝川を挟みで御嶽山と向かい合っている)や、奥三界岳 (1,811m)ガ有り、その東は定高性のなだらかな山地が木曽川右岸まで広がっていて、あの美しい木曽の森林地帯を育(はぐく)んでいるのである。
 最後に、この谷の奥深くには阿寺鉱泉があり、そこには信州ゆかりの明治・大正時代のアララギ派の歌人 島木赤彦(しまき あかひこ(の歌碑が建っている。あの中央線が開通前の明治40年(1907)6月、北から来た島木赤彦と南から来た伊藤左千夫が木曽路を訪れ、一夜を阿寺温泉で過ごして歌を詠んだからであった。そこで、私の大学の同級生 若杉貞夫さん(諏訪デジカメネットの会代表)が島木赤彦の短歌
  『山深くわけ入るままに谷川の水きはまりて家一ツあり』
に合わせて現地で撮った景観をここにご披露した。彼の「赤彦クラブ」では島木赤彦の短歌と、それに合わせて撮影した写真を組み合わせた「赤彦の歌写真展」を例年催しているとのことだった。

撮影:1969念(昭和44年)&昭和48年
ロードアップ:2010−08追加。

・「中央西線の風物詩を訪ねて」シリーズのリンク
330.プロローグ:桔梗が腹から木曽谷へ・塩尻〜日出塩
024. 梨の花咲く本山宿(中山道) (中央西線・洗馬−日出塩)
151. 習作:厳冬の鳥居峠へ向かうSLたち・中央西線/日出塩〜薮原 間
027.冬の贄川(にえがわ)鉄橋(JR東海・中央西線)
178. 冬の木曽平沢にてD51に会う (中央西線・平沢−奈良井)
405. 塩沢の谷尾鳥居峠へ登る・中央西線/薮原→奈良井
210. 「やまぶき」の花咲く木曽谷 (中央西線・藪原〜上松)
209. 「木曽の桟(かけはし)」を行く (中央本線・上松−木曽福島)
162. 早春の木曽駒ヶ岳遠望 (中央西線・倉本−上松)
157. 木曽谷の石屋根のある風景 (中央西線・上松〜大桑)
009. 木曽川の春  「 ねこやなぎ 」・ 中央西線 /南木曾