自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・「中央西線の風物詩を訪ねて」(木曽川に沿って)

157.  木曽谷の石屋根のある風景  ・中央西線/上松〜大桑


〈0001:石置き屋根の土蔵のある風景〉
石置き屋根の土蔵 中央西線・宮ノ越〜南木曽間か

〈0002:石置き板葺き屋根のある風景〉
石置き板葺き屋根のある風景 中

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〈紀行文〉 木曽川の流れが巨大ダムの完成によって穏やかになったからであろう、国道19号線はもっぱら木曽川に沿って南北に通じているが、中央西線もおおむね国道に沿っているものの、一段と高い位置を走っていることが多く、場所によっては少し山すそへ入り込んで旧中山道(木曽街道)とからむようなルートを取っていることも少なくない。この木曽谷の中心のひとつとして繁栄している上松の街並みは木曽川の河岸段丘が造り上げた、まさに谷間の集落から始まった。そこは幾段かの河岸段丘の中ほどに発達していたから、その上の河岸段丘を通っていた古道や山道からは今も、中山道の面影を残した石置き屋根の家や土蔵が残っている街並みや中央西線の列車が見下ろせる所も多くあるようだ。何度も中央西線の線路を追って走り回っていると、石屋根の民家の先を蒸気機関車が登ってくる風景に出会った。屋根に置かれた、石の多さ、板が飛ばないように、あれだけの数の石が整然と並び置かれているのにも強く印象を受けた。そんなことから、いつの間にか積極的に石置き屋根を前景にSLを撮ることに傾注した時期があったようだった。そこでアルバムの中から二点の作品を選んで、お目に掛けるのだが、毎度ながら、撮影した場所を明らかにできずに戸惑っている。仮にに、撮影地点は上松から大桑の間とでもさせてもらいたい。
 わが本州の中央部を南北に連なる木曽山脈(中央アルプス)は3,000mを超える山々はないものの険しい山並みが続いている。最高峰は、2,956mの木曾駒ケ岳であり、この山脈の幅は約15kmと狭いが、西側の木曽川の流れ下る木曽谷側には前山がそぎえており、狭いながらも高原があり、そして河岸段丘が谷に迫っていると云う地形となっている。その河岸段丘の上にある上松町の麓(ふもと)からは前山の風超山(標高 1,700m)が木曽駒ケ岳と同じ大きさに見えている。この風越山は木曽駒ヶ岳の麓にあり、木曽八景のひとつである「風越山の青嵐」として数えられている。かつては、「カヤト」と呼ばれた木曽地方の馬「木曽駒」の放牧地として、ふもとから頂上まで青々とした草に覆われた牧草地で、風が波のように駆け上って行く風景が見られたと云うのである。今は既に放牧が無くなって久しく、森林に覆われつつある。この山の麓には風超山断層が北南に通っており、かつて大震災などの影響で、この断層から山頂にかけての斜面が滑り落ちて、この土砂が、山麓(さんろく)に沿って小さな山々を形成している。この小山を断層丘陵と呼び、風越山付近から南、上松町滑川付近から吉野、荻原、立町、大桑村糸瀬山付近までの木曽川東岸に確認されており、国内でも有数の断層丘陵地形として知られている。そして親である風超山と小山の間にある谷を断層鞍部(fault suddle)と呼び、昔の街道である木曽古道はここを利用して開かれたと推定されている。それで須原駅から倉本駅の辺りは断層丘陵の小さな山々の続く山間を走っており、前に稲田、背景に緑の茂る山、そして青い空、白い雲、それに石を置いた屋根の家々と云った里山風景が楽しめるはずである。
また大桑から須原の間は国道19号と中央西線が木曽川に沿って直進しているのに対して旧中山道(木曽街道、県道265号須原大桑停車場線)は江戸時代の災害のために、山裾に迂回しており、右側は民家、左側には湧き水があり、水の音を聞きながらの街道歩きとなる。この坂の上からの木曽川・国道・中央西線線の眺めは素晴らしい。その間に散在する石置き屋根の民家は何軒か見つからないであろうか。
 一方、倉本から上松までは列車に乗った車窓風景を述べてみるとしたい。倉本駅を出ると、左にカーブシテ北へ進む。さらにS字カーブから真っ直ぐ走って木曽川の渓谷を徐々に登って行く。やがて国道19号より一段高い所を並走しながら、左カーブして北へ進む。やがて小野の滝を間近に眺めて、北西へ進み、国道と並んで滑川橋梁を渡る。この河は、木曽駒ヶ岳の南に位置して、鋭い岩峰がそそり立っている宝剣岳(標高 2,931m)を源として直下しており、雨が降ると激流になる暴れ川だが、この高台の農地を潤している大切な川筋でもある。この荒れた川に架かる滑川鉄橋から上流部を眺めると、山と山の間に雪をかぶった木曽駒の峰が見えるという素敵な風景が現れるのだ。そして、左に曲がってから、トンネルをくぐると国道19号線をアンダークロスして、木曽路美術館を見ると
左カーブしつつ臨河寺を見ながら、続いて車窓からは寝覚めの床の巨岩と青く澄んだ淵がが眼下に見下ろせるはずである。寝覚めの床を過ぎると北西にかーぶして
河岸段丘を横切りるように登りつめて行く。大きく右に曲がって上松小学校を見ながら市街に入って行き、やがて上松駅に到着、裏手は製材工場が活発に操業していたのだった。
この須原から上松の間は、木曽街道で云えば「須原宿」から「上松宿」に至る3里9丁の最も宿場間が離れた所であって、多くの見るべき者が散在しており、一方の鉄道線路での11.4 kmの間の車窓からも多彩な風景が楽しめるのであった。
 さて、ここからは石置き屋根の民家についての話題に入ろう。信州の山間集落、木曽谷のように木材が豊富な所は、板屋根上に石をのせる石置き屋根がみられた。この屋根は豊富な木材を板状にして並べ、横木を渡して石を乗せ風害を防ぐ。その板は栗・楢(なら)、高級なところでは「さわら」などであった。この辺り一帯では板の屋根に石を載せらものを「石置き木羽葺き(いしおきこばぶき」と呼んでいた。
しかし、多くの宿場に鉄道の駅が設けられたり、国道19号線が近くを通ったりして民家の屋根が鮮やかな色のトタン葺きに換えられて行ったのに対して、それらから外れて取り残された旧街道や町並みには石置き屋根の家々が今でもごく一部に残っているほどがある。私が訪ね歩いていた昭和48年頃には未だ木曽谷には石置き板葺き屋根の家屋が数多く残っていたようだった。
ここに撮った石置き屋根の土蔵は、漆喰の白壁に描かれた屋号が鮮やかである。木曽には珍しい白壁であった。その手前のトタン屋根が住居のようで、私が撮っている東向きの道路側に玄関があったから、土蔵の周りは庭のたたずまいであった。先のほうに集落があるからそちらに街道が通っているのであろうと想われた。
このような石置き屋根は全国的にも、随分古くから使われていた様式であるのだが、とりわけ木曽谷に数多く現存しているのには、それなりの理由があることと想われた。それには、なんと行っても、板葺きは土地柄、得られ易い材料であり、素人(しろうと)でも修理ができると云う利点があり、この緩い勾配の板付記の屋根に石を乗せたのは、狭い谷間を吹き抜ける強風への対応策として優れていたことが挙げられると云うのであった。
所で、SLの無くなった現在、石置き板葺き屋根を見るならば次の場所がお勧めだ。
あの木曽山脈の東側には天龍川の流れる伊那谷に沿って三州街道が、西側には木曽川沿に中山道の通る木曽谷がある。この二つの街道を結ぶみちは北の権兵衛街道と南の大平街道の二つである。この後者は江戸時代中期の宝暦年間(1751〜64年)に、伊那谷南部の飯田と中山道の南木曽妻籠(なぎそつまご)を結ぶ街道の開削を飯田藩と地元の商人山田屋新七が行った。その表向きは山林開発のためといわれていたが、実は中山道を通る参勤交代の荷物運搬の人夫に伊那の農民を動員するための最短ルートを開くために完成させたと云う。この時に、ほぼ中間地点の人里離れた標高1100mの高原の山中のわずかな平地に峠の大平宿(おおだいらやど)が設けられた。現存するおよそ22戸の民家は、養蚕、林業、炭焼きで活気のあった江戸末期から明治期に建てられたと思われるものも多く、高原のひなびた宿場にしては大型で立派な構えの家屋が多い。大平宿の建物は、木材資源に恵まれた山村野多い信州に古くからあるもので、全戸が緩やかな勾配の柾目板(まさめいた)葺きの石置き屋根が特徴であった。外観は背の低い2階建てに見えるが、内に入ると吹き抜けになった平屋建てであり、建て方は切妻づくりで平入、妻入が半々で、入り口には全戸が茶屋宿の特徴である広い前土間と山中ゆえの寒冷地としての「いろり」が切ってある板の間がある。また、「せがい造り」と云う、軒を深くせり出して、軒下を広く取って、宿場として必要な旅人が休息や雨宿りに用いたり、雨風を避けて屋外作業をするために用いたりする工夫がされている。そして、
集落の中をゆるい坂道の旧道が水路と共に通り、四季折々の情景を見せる。 
その後の新道の開通や林業衰退による1970年の全民離村で定住者はいない。現在は、大平宿をのこす会の保護活動により維持されているから、石置き屋根のみんかを間違いなく観察できることうけあいである。道路は飯田の三州街道から長野県道8号飯田南木曽線、飯田峠と大平峠を経て、木曽郡南木曽町南部の吾妻保神地区で国道256号線へでることになる。

撮影:昭和43〜48年
ロードアップ:2010−08.

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・「中央西線の風物詩を訪ねて」シリーズのリンク
330.プロローグ:桔梗が腹から木曽谷へ・塩尻〜日出塩
024. 梨の花咲く本山宿(中山道) (中央西線・洗馬−日出塩)
151. 習作:厳冬の鳥居峠へ向かうSLたち・中央西線/日出塩〜薮原 間
027.冬の贄川(にえがわ)鉄橋(JR東海・中央西線)
178. 冬の木曽平沢にてD51に会う (中央西線・平沢−奈良井)
405. 塩沢の谷尾鳥居峠へ登る・中央西線/薮原→奈良井
210. 「やまぶき」の花咲く木曽谷 (中央西線・藪原〜上松)
209. 「木曽の桟(かけはし)」を行く (中央本線・上松−木曽福島)
162. 早春の木曽駒ヶ岳遠望 (中央西線・倉本−上松)
092. 「ひのき(檜)」の木曽谷を登る・中央西線/上松〜野尻
009. 木曽川の春  「 ねこやなぎ 」・ 中央西線 /南木曾