自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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にある送付先へドウゾ。)
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・「中央西線の風物詩を訪ねて」(奈良井川に沿って)か
151.
厳冬の鳥居峠へ向かうSLたち
・洗馬〜薮原
〈0001:bO50425:冬の奈良井川をさかのぼる 〉
〈撮影メモ〉
ここは日出塩の少しさきであろうか。左手には木曽山脈(中央アルプス)の北端へと連なる白銀の山々が遠望された。この辺りは松本平らの領域で平地が広がっていた。
〈0002:5-4-5-4:竜が踊るような白煙を従えた貨物列車がやってきた〉
〈撮影メモ〉
林道を少し入り込んだ山すそに運材ケーブルの終点をみつけたので、これを前景に登ってくる列車が眺められた。近づいた時には強風が吹き荒れて、白煙の姿を乱してしまった。
ここでは少し遠いが白煙の演じた竜の踊りのような姿をご覧ください。
北の日本海からの冬の季節風は北アルプスにガイドされるように松本平を吹き抜けて南下し、時には西に向かって奈良井川の流れ下る木曽谷へ吹き込んで来ることがあるのだった。
〈0003:5-4-6-1:岩がゴロゴロした上流の奈良井川〉
〈撮影メモ〉
奈良井駅を過ぎて鳥居峠へアプローチする区間で撮った物である。当時は上流のダムは完成していなかったから奈良井川は荒れる川として知られており、災害の多発地帯であった。この狭い谷間に、中央西線、国道19号、それに先年まで活動きていた黒川森林鉄道、それに沿うように伊那に通じていた昔ながらの権兵衛(ごんべい)街道などがひしめいていたのであった。
この辺りの中央西線は複線化と新鳥居トンネルへの新線への切り替えで廃線となった区間で20‰の急勾配と、R300の急曲線の続く厳しい線形であったことがしのばれる。
〈0004:5-464:谷間に見える白銀の尾根は権兵衛峠へ続く〉
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〈紀行文〉
ここではSLを撮り始めてから35oフイルムの44本目に記録された昭和41年1月2日の塩尻から鳥井峠へむかうSLの姿の一端を習作としてご覧に入れたい。
この年の年末年始はワイフの実家のある松本平の西南端の山すそにある朝木村を訪ねていた。元旦の行事も済んで、天候もやや回復してきたので勇んでsl撮影に出かけた。
余り先入観の無いまま、日出塩駅辺りから積雪のほとんど見られない国道19号を南下しながら、見付けた撮影ホイントで鳥居峠へ向かうSLを撮り続けた。年末年始のためであろうか、D51重連牽引の貨物列車を見かけることはできなかった。この日は、鳥居峠の近くまで迫ったところで日没となってしまった。
木曽谷と云えば、ほんらいなら鳥井峠よりみなみに流下する木曽川の流域を指すはずなのだが、戦国末期から江戸時代に入ると、この流域は木材生産地として開発が進められた。そして、鳥井峠を越えた北側の奈良井川の谷にあった奈良井、平沢、贄川(にけがわ)の3ヶ村は共に尾張藩の治める木曽の領域に組み入れられて、木曽として統治された。同時にこの谷筋を貫いていた道筋を木曽街道(木曽路)と呼んで整備に努めていたから、木曽谷と云えばこの街道沿イを指すようになった。その北端の入り口は、中央西線の駅で云えば日出塩駅と贄川駅(にえがわえき)のの中間の辺りの桜川に架かる境橋を境界に、南は尾張藩領、北は松本(深志)藩領である地点であった。そこには『是より南 木曽路』と刻まれた石碑が国道19号線沿いに建てられている。
その昔、徳川家康は関ケ原の役の翌年の慶長6年(1601年)から街道の整備を始めた。この時に江戸から都に通じる中山道の整備を命じられた奉行は大久保長安で、下諏訪から三沢(岡谷市)、三州街道の小野宿(辰野町)を経て、牛首峠(標高 1,040m、県道254号)で木曽山脈を越えて奈良井川の谷へ下って木曽街道と善光寺街道との接続点である桜沢に出て、木曽街道を経て京都へ向かうルートで中山道を定めたのであった。この牛首峠越えの初期中山道は13年間使われた後、新たに開かれた塩尻峠越えのルートが中山道となったことから、小野街道としてローカルな役割を果たしていたようだ。この元和2年(1616年)に完成した新しい中山道では、下諏訪から塩尻峠を越えて塩尻宿を設け、善光寺街道の洗馬宿とを結んだことにより、中山道は洗馬から桜沢までの善光寺街道と木曽街道を経て京都へ向かうことになった。一方の善光寺街道は洗馬宿で中山道から分岐して北国街道(直江津から信濃追分)とを連絡する脇往還の定められ、北国西街道と呼ばれた。
松本平の南部は塩尻のある東西3km,南北5kmほどの標高約700mの桔梗ヶ原(ききょうがはら)と呼ばれる台地であって、その南には中央アルプス(木曽さんみゃく)の最北東端とされる善知る鳥峠(うとうとうげ、標高 885m)にへと連なる山並みに接していた。この松本平の西側は北アルプスの前衛の山々が中南にある中央アルプスと接する尾根が鳥居峠であって、この付近を源に東に谷を刻んで流れ下り、塩尻の桔梗ヶ原に当たって流れを北に変えて松本平の中央部を流れ下っているのが奈良井川であった。この桔梗ヶ原から奈良井川の上流の奥深い谷間を眺めると、その左手の山々は善知鳥峠(うとうとうげ、標高 885m)から西へ、石灰岩で成っている大芝山(標高 1,210m)、そして360°の展望が広がる霧訪山(きりとうさん、標高 1,305m)を経て、旧中山道の牛首峠、そして坊主岳(標高 1,960m)、経ヶ岳(標高 2,296m)から権兵衛峠(標高 1,523m)を経て、南北に走る主稜線にある
木曽駒ヶ岳へと続いている。逆に善知鳥峠のひがしは、松本平の東側成す筑北山地から南アルプスに連なる尾根には松本平戸諏訪盆地を分ける塩尻峠(標高 1,020m)に繋がる尾根が続いていた。この尾根は八ヶ岳を横断して塩尻峠を経て、善知鳥峠、牛首峠、権兵衛とうげ、鳥居峠から北アルプスへと続く日本海の太平洋の流域を分ける大分水界となっているのであった。
一方の右手は松本平の西南端から起こった北アルプス前衛の山なみが標高を次第に上げてゆき、最上流で鉢盛山(標高 2,446m)に達して、南は鳥居峠を経て中央あるぷすへ、北は境峠を経て北アルプスの主稜線へとつながっていた。
この山々に挟まれた奈良井川の谷は水墨画のような景色を見せながら峡谷を抜けると、急に谷が広くひらけて、北へ向きを変えて松本平へ流れ出てゆく。この谷の出口に洗馬宿や日出塩の集落が営まれている。
何と云っても、谷の入り口にある間の宿であった桜沢となれば、最初に浮かぶのが、島崎藤村・”夜明け前”の序章にある『木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道はこの深い森林を貫いていた。……』であろう。
この奈良井川は日本最長の信濃川の最上流の一つであり、中央アルプスの主峰木曽駒ヶ岳の北にある茶臼山北壁に源を発し、分水嶺が入り乱れる中、南下する東の天竜川、西の木曽川に挟まれた中を北上、木曾街道に沿ってりゅうかし、塩尻市・松本市を貫き、上高地から流れて来た梓川(あずさがわ)に合流して犀川(さいがわ)、千曲川、信濃川と名を変えて日本海へ注いでいる。
中央本線は日出塩をでて、贄川、平沢、奈良井を経て鳥居トンネルに入るまで、奈良井川を5回渡ることになるが、最初の贄川駅の少し手前の第1奈良井川橋梁はアンダートラスの橋梁であり、そして、第2奈良井川橋梁は贄川−平沢あいだに、第3奈良井川橋梁は平沢−奈良井あいだに、だい4,だい5奈良井川橋梁は奈良井−鳥居トンネル間に架かっていた。
ここでは木曽路の冬を走る蒸気機関車の牽く列車を木曽谷の風情の中で捕らえたものである。今となっては撮影地点を明確にご案内する術がうしなわれてしまっていますのを、お許し下さい。いずれの写真もも、「木曽呂はいずこも山の中」を彷彿(ほうふつ)とさせる風情を感じられると思います。
撮影:昭和41年1月2日。
参考文献:
三浦様の「中央本線&64写真館」の中の「中央本線の廃線跡を歩く」に
奈良井駅から鳥居トンネルまでの廃線痕の探訪記事が見られます。
「薮原ー奈良井 」:
http://homepage3.nifty.com/6480/page162.html
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・「中央西線の風物詩を訪ねて」
330.プロローグ:桔梗が腹から木曽谷へ・塩尻〜日出塩
024. 梨の花咲く本山宿(中山道) (中央西線・洗馬−日出塩)
027.冬の贄川(にえがわ)鉄橋(JR東海・中央西線)
178. 冬の木曽平沢にてD51に会う (中央西線・平沢−奈良井)
405. 塩沢の谷尾鳥居峠へ登る・中央西線/薮原→奈良井
209. 「木曽の桟(かけはし)」を行く (中央本線・上松−木曽福島)
210. 「やまぶき」の花咲く木曽谷 (中央西線・藪原〜上松)
092. 「ひのき(檜)」の木曽谷を登る・中央西線/上松〜野尻
162. 早春の木曽駒ヶ岳遠望 (中央西線・倉本−上松)
157. 木曽谷の石屋根のある風景 (中央西線・上松〜大桑)
009.
木曽川の春
「
ねこやなぎ
」・
中央西線
/南木曾