自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・「中央西線の風物詩を訪ねて」(木曽川に沿って)
405. 塩沢の谷 鳥居峠へ登る ・中央西線/薮原→奈良井

〈0001:31-7−6:大分水嶺の鳥居峠の冬を重連であえぎながら登る臨急客レ〉

〈撮影メモ〉
木曽川の支流である塩沢の谷をさかのぼるりんどうがある。この中腹から谷の対岸の山肌を削って敷かれた線路を鳥居トンネルに向かってひたすら登る下り列車のけな姿が見られた。
(この画像はカラースライドをモノクロで撮影しました。カラーは探索中です。)

〈0002:31-19-2:鳥居トンネル入り口直前〉
鳥井峠を登る、中央西線/

〈0003:240133:長さ 123.6mの音無沢高架橋を鳥居峠へ登る〉


〈0004:bQ30631:鳥居トンネルはもうすぐだ。〉

〈撮影メモ:昭和46年1月6日撮影〉
塩沢の谷に沿った林道から谷の対岸を撮影。新しい複線の
鳥居トンネルへの新線区間を遠望している。灰色の煙りを吹き上げてって来た石油専用列車がトンネル入り口に近ずいている。四日市コンビナートの塩浜駅発南松本駅行きの下り貨物列車。

〈0005:bQ30611:〉



〈撮影メモ:昭和46年1月3日撮影〉
積雪の中を白煙の吹き上げて下り貨物列車が登って来た。ここは複線化に際して、旧線に腹付けして勾配を緩和しながら建設された下り線で、高架橋となってしまっている。
この撮影ポイントにも数多く通った覚えがあるのだが、ここで仲間と出会ったことは一向に思いだすことがないのは何故だろうか。

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〈紀行文〉
 SL撮影を始めて1年くらい過ぎた頃から録音にも手を染め始めた。そして中央西線の鳥井峠越えに眼をつけて、その沿線を列車に乗って地図と地形を見比べながら観察したものだった。そして見付けたのが、奈良井方から鳥居トンネルを抜けると、開けた薮原高原の風景が一望できる下り勾配線となって薮原に下って行く格好な場所が見つかった。ここは、トンネルを出て切り通しを抜けると、両側を山に挟まれた塩沢の谷に面する山すそを一直線に下っている複線の新線であって、長さ123.6mもあるRCラーメン形式の音無沢高架橋が架かっている所であった。このRCは鉄筋コンクリート、ラーメンとはドイツ語ので「枠」の意味であって、この高架橋の構造では橋梁の上部構造(桁など)において、ピン支点である支承を設けずに、下部構造(橋脚など)とは剛結構造りの一帯構造の形式であると説明されていた。
このあたりは中央西線随一の高原風景の広がるポイントではなかろうか。それは、塩尻行きの下り列車が薮原駅を出て1kmほど登った地点から、新鳥居トンネルに突入までの1.3kmほどの区間が広く開けた塩沢の谷間に沿って山腹をはい登る急勾配が続いており、右手には木曽川の流れを挟んで飛騨(ひだ)の山並みが遠望できたからである。
この新線の敷かれている山肌の面している塩沢の谷の対岸の山腹には林道が山の尾根へと通じており、しかも斜面の樹林はすっかりと伐採されて一面の牧草地となっていたから、やや俯瞰(ふかん)気味の撮影もできたし、何よりも国道から隔てられていたから雑音の入ることがないのが録音には嬉しかった。そして架線柱が立ち始めるまで難解も飽きずに通ったのだったが、録音は素晴らしかったのに反して、写真の方は典型的なサイドビューの一転ばりとなってしまった。そこで3枚を選んでお目に掛けた。
 さて、ここで鳥居峠付近の地形について触れながら、薮原から鳥居トンネルに向かうルートの位置を確かめておこう。先ず鳥井峠に続く山並みから始めると、南から天竜川の西側に連なる木曽山脈(中央アルプス)は盟主の木曽駒ヶ岳(標高 2,956m)から北へ将棋頭山へ、さらに北西約1kmの胸突きの頭、そして権兵衛峠(1,517m)の鞍部に続いて経ヶ岳(経ヶ岳2(2,296m)と北上していた。この胸突きの頭から分岐した尾根が中山道(なかせんどう)の通じている標高 1,197mの鳥居峠の鞍部を経て、乗鞍岳(標高 3,025m)から穂高岳(標高 3,190m)と続く北アルブス連山へとつながっている。これを詳しく云えば、木曽山脈の主稜からの分岐点である胸突きの頭付近は天竜川、奈良井川と木曽川との分水界をなしている地点であって、そこで分岐した尾根は茶臼山(標高 2,652.7m)、大棚入山(おおだないりやま、標高 2,375m)から、姥神峠(標高 1,279m)を経て峠山(標高 1415.7m)、そして鞍部の鳥居峠へ、そして奈良井宿の西の背後にそびえて見える高遠山(標高 1463.2m)から木曽川の源流の一つである鉢盛山(標高 2,446m)から境峠(標高 1480m)の鞍部を過ぎると十石山(標高 2525m)に至って飛騨山脈(北アルプス)につながっていた。
 ところで、「木曾谷の果てる所、立ちはだかる分水嶺が鳥居峠である」との云い回しを聞くことがあるのだが、私の印象は少し違うように思えた。それは、「鳥居峠が日本海へと流れ下る奈良井川と、太平洋へ注ぐ木曽川との大分水界であって、尾根の西側の薮原宿方へは塩沢が6kmほど流れ下って木曽川へ合流しており、一方の東側の奈良井宿方へは橋戸沢が奈良井川へ流れ下っていることが判った。しかし、地形図を見ると明瞭に判るのだが、標高 1197mの鳥居峠を間に挟むようにして、東側を中央アルプスの盟主である木曽駒ケ岳の北にある茶臼山を源とする奈良井川が開けた広い谷底の平地を南から北に流れており、一方の西側を境峠を源とする笹川と鉢盛山を源とした味噌川が合流した木曽川は広々と明るい薮原高原を北から南に流れていて、あたかも二本の大河の風格を備えた川がすれ違うかのように南北へ流れ下っているのであった。そして、鳥居峠を挟んだ東西の山麓に位置するのが奈良井宿と薮原宿であって、それぞれの大河の恵みを集める集落でもあったのである。ちなみに奈良井宿と薮原宿の標高はそれぞれ 926m、 960mの光源にあるから、鳥井峠との高低差はどちらからも約260mの峠道となっているのである。
これに対して昭和44年9月に開通した中央西線の延長2157mの複線化された新鳥居トンネルでのサミットの標高は970mに抑えられており、標高 924.2mの薮原駅からは木曽川の支流である塩沢に沿って急峻な東側の山腹に桟橋風の鉄筋コンクリート高架橋を旧線に腹付付けするようにして急カーブを改良し勾配も僅かながら緩和した複線化した新線を完成させていたのであった。
  東京から遠路遠征する私の鳥居峠へのアプローチは、塩尻からひたすら国道19号線を南下して、第2世代の鳥居トンネルを抜けると道は、急な下り坂に差し掛かって、下りきったところで、薮原信号を右折して線路と国道に挟まれた坂を下って、そのまま直進すると薮原駅前に出るのだが、その途中で線路を架道橋をくぐって左折すると旧飛騨街道である県道26号へ入る。やがて薮原宿の町並みを抜けて1kmほど進むと、左手を流れる木曽川本流に右から塩沢が合流してきた。その県道26号は木曽川を渡ってさらに北上して境峠へと向かっている。さて、県道26号に戻って塩沢の合流地点である下河原の集落で分岐して塩沢の西側の山腹を通って味噌川上流に至っている林道塩沢薮原線に入り込んで砂利道を上る。この塩沢の流れは鳥居峠の分水嶺の西側の水源なのであるのだが、谷は平坦で広く開けていて、川幅は狭く落差も少ない里川の風情がある。水量も少なく、上流に行くに従いブッシュが多くなってくる。谷への緩やかな斜面は広々とした牧草地が営まれていて対岸の線路を見渡すには都合が良かった。
 ところで、現在の鳥居峠には使命を果たし終えた遺構を含めると新旧3本の道と鉄道が通じていて、そこには新旧日本ずつの鉄道と道路の長大なトンネルが貫かれてきたのであった。薮原宿を起点で考えると、木曽川の東の河岸段丘の上に宿場の街並みがあって中山道東側に迫ってきている山の斜面を北東に向かって登っている。
 明治43年(1910年)に開通した鉄道は街並みの山側の南に薮原駅を設けて、宿場の街並みの切れた所で街道を横切手塩沢の谷の東山すその稜線を忠実にトレースして20‰の急勾配とR300mの急カーブをはい登って、峠山の下を長い切り通しで緩かに右カーブを経て四層煉瓦造りの全長 1655mの鳥居トンネルに吸い込まれて行っていた。従って薮原駅の付近では中山道の街道筋が最も低い位置にあるものの、峠の直下では鉄道のトンネルが最も低いタカサヲ通関していることになる。
 次に、旧中山道は線路に妨げられてしまっているが、その先で右に飛騨街道を分岐する追分から急な山道に入り、石畳などを残した旧道が信濃路自然歩道中山道ルートとして残っていて、古道の峠は標高 1,219mと云う資料もあった。特に峠の近くに眼下に薮原宿一帯を見渡せる断崖の上に戦国時代の武田信玄軍が築いた薮原砦(とりで)があり、鳥居峠古戦場碑(明治32年建立)なども眼に入った。
この中山道を沿うようにして峠の南にある峠山の下を巻くようにつづら折りで勾配を緩和しながらの馬車道が明治23年(1890年)に長野県の「七道開削事業」の第六路線として開かれた。その後、馬車道を自動車が通れるように改良したものの、ほぼ同じルートの砂利道であったが、国道19号となって貨物を満載した4トントラックがうなりを上げて往来していたようであった。私が昭和32年に自転車で訪ねた時には既に旧道となってしまっていて、尾根の鞍部を貫いていたのは殺風景な切り通しで、小さな木の村界標識(楢川(ならがわ)村/木祖村)だけの標高1997mのひっそりとした鳥居峠であったが、それでも薮原側が近づくと1kmほどが戦前のコンクリート舗装であったのには驚いた物だった。しかしこの国道は厳しい積雪期はしばしば交通が断絶したのだった。そして、昭和30年(1955年)になってやっと国道の改良工事が始まった。それは鉄道トンネルよりやや高い位置に、狭いながらも全長1,111mのトンネルが開通して冬の交通が維持できるようになった。薮原側は薮原駅より一段高い山側を通ることにより宿場の街並みを避けて、勾配を緩和しながら大きなカーブを切って、更にトンネル手前では深い石垣で守られた切通しのカーブを経てトンネルに突入していたのである。しかし、この幅員の狭さや高さ制限と云う低い規格に加えて、漏水の問題を解消する目的で、より標高の低い位置に全長 1,738mの新鳥居トンネルが昭和53年に開通して近代化が行われている。
 最後は、昭和44年に開通した複線化に際しては、災害多発区域の回避、曲線改良を目的に老朽化した鳥居トンネルの取り替えや、特に薮原方では山の稜線を忠実にトレースしていた旧線を直線的にショートカットさせて急カーブを解消するための長いRCラーメン形式の音無川高架橋が架けられている。
  蛇足ながら、古いたたずまいとの木造駅舎と静態保存されたD51蒸気機関車の話題をつけ加えたい。先ず薮原駅には明治時代に竣工した木造駅舎が今なお健在であり、ハーフティンバー風の木組みが漆喰(しっくい)塗りの壁から露出している優美なスタイルが鑑賞できる。そして近くには鳥居峠越えに日夜活躍したD51蒸気機関車が静態保存してあるのが長野県木祖郡 木祖村民センター(郷土館)である。薮原駅の北のカルバートをくぐって、線路の左側の道をほくじょうして突き当たった左側に蒸気機関車D51238号機の姿が現れる。この機関車は
昭和14年(1939)に鉄道省苗穂工場で新製され、北海道を手始めに次第に南下し最後に中津川区に配属され最後の活躍の後に昭和48年2廃車となり、直ぐに木祖村へ到着したものであった。

参考サイトのリンク
中央本線&64写真館  
http://homepage3.nifty.com/6480/
中央本線の廃線跡を歩く、薮原ー奈良井 (2003、1/12作成)

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・「中央西線の風物詩を訪ねて」シリーズのリンク
330.プロローグ:桔梗が腹から木曽谷へ・塩尻〜日出塩
024. 梨の花咲く本山宿(中山道) (中央西線・洗馬−日出塩)
151. 習作:厳冬の鳥居峠へ向かうSLたち・中央西線/日出塩〜薮原 間
027.冬の贄川(にえがわ)鉄橋(JR東海・中央西線)
178. 冬の木曽平沢にてD51に会う (中央西線・平沢−奈良井)
210. 「やまぶき」の花咲く木曽谷 (中央西線・藪原〜上松)
209. 「木曽の桟(かけはし)」を行く (中央本線・上松−木曽福島)
162. 早春の木曽駒ヶ岳遠望 (中央西線・倉本−上松)
157. 木曽谷の石屋根のある風景 (中央西線・上松〜大桑)
092. 「ひのき(檜)」の木曽谷を登る・中央西線/上松〜野尻
009. 木曽川の春  「 ねこやなぎ 」・ 中央西線 /南木曾