自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役
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にある送付先へドウゾ。)
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・「中央西線の風物詩を訪ねて」(奈良井川に沿って)
178.
冬の木曽平沢にてD51に会う
・中央西線/平沢→奈良井
〈0003:
〈0004:
〈0001:bQ30612.奈良井駅発車の下り貨物列車〉
〈撮影メモ:昭和46年1月6日撮影〉
背後の集落は昔の中山道奈良井宿の家並みです。私は奈良井川の流れを背にして土手に立っています。
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〈紀行文
1970年の正月、信州の松本平(盆地)にはそれほどの積雪はないとのことだったのでクルマで塩尻市郊外にあるワイフの実家へ里帰りした。そして3日には風花がちらつく中を中央西線の日出塩−贄川(にえかわ)の間に架かるアンダートラスの第1奈良井川橋梁でD51の姿を吹雪の中で捕らえた。時間があったので漆器の街である平沢の街中で一休みした後、その町はずれの大きな製材所の裏手の河原に行ってみると、谷が広がった所を流れる奈良井川を斜めに横断している全長 91mの4連のプレートガーダー桁で架けられた第3奈良井川橋梁が眼前に現れた。ここで貨物列車を1本撮ってから、奈良井の宿場の街並みをを一巡することができた。
さてここで木曽谷の地誌について始めよう。広々とした松本平の東端の山すそにある塩尻から、松本平を東西に二分して流れ下る奈良井川を南の上流へとさかのぼるのが木曽の谷である。その谷間に沿って遠く名古屋へ向かうのが中央西線であり、国道19号線(旧中山道、または木曾街道)である。最初に現れるのが洗馬宿、次に本山(もとやま)宿が古い街並みを残している。この先からは両側の山が迫ってくると桜川の集落となる。その路傍で出迎えてくれるのは、『これより南 木曽路』と刻まれた碑であろう。この道は勿論、中山道として続いているのだが、特に次に現れる贄川(にえがわ)宿から馬篭(まごめ)宿までの11宿の間を木曾路とか、木曽街道と呼びならわしていることを教えてくれていた。この先は正に「木曾路(きそじ)はすべて山の中である…」の描写にぴったりの山峡の道が続いている。実は櫻川から東の塩尻峠を越えて下諏訪へ抜ける街道は慶長19年(1614年)になって開かれた中山道であって、それ以前の古い中山道は櫻川から南側の木曽山脈をはい登って牛首峠を超え、隣の谷を下って、東海道筋から信州への塩の道である3州街道の宿場であった小野宿へ出て、さらに小野峠を越えて下諏訪宿へと続いていたのだった。それ故に櫻川が木曽谷と別れとなる木曽路の北端であったのである。そして塩尻からは国道19号線も鉄路も奈良川の右岸を通って上流へと登ってきたが、櫻川を過ぎると谷は深くなり、道は左岸に渡って贄川宿に入った。それは昔のことだが、奈良井川の左岸に温泉が湧き出したことから宿場に発展したのだと史書にあった。ここは木曾街道11宿の最北の宿場であると同時に、松本(深志)領と尾張領(古くは木曽氏領)との境界に近く、尾張藩では関所を置いていた。古来から、この先は、このまま左岸の山肌を縫いながら南へ進み、やがて木曽山脈と北アルプスとを結ぶ尾根の山すそに開けた奈良井宿へと通じており、街道は山を鳥井峠(標高 1,197m)で超えて木曽川の谷へ下って行くことになっていた。
ところが、戦国時代の天正18年(1590年)に起こった秀吉の小田原城攻めに際して、当時の木曽谷の領主であった木曽氏は秀吉の命令にそむいて参陣しなかった。戦後の秀吉の仕分けによって、豊かな森林資源に抱かれた木曽谷領は没収され、木曽氏は下総(しもふさ、千葉県)に移されてしまった。その後に領主となったのは秀吉の武将である福島正則(まさのり)で本拠地は清洲城であったが、東国との境界である木曽谷の防備と、街道の便利性などの確保するために中山道の整備を始めた。慶長3年(1598年)に奈良井川の左岸の山肌の中を通っていた奈良井宿−贄川宿の間の中山道を、二カ所の渡川点を設けて右岸の河岸段丘の上に移したのであった。これを契機に周りの山間で生活を営んでいた人々が、その道沿いに移り住むようになって集落が生まれてきた。そして奈良井宿の枝郷として平沢集落と名付けられるほどに発展した。ここは正式な宿場ではなかったから江戸時代にも正式の宿屋は置かれなかった。この農地に乏しい木曾谷の山村では、豊富な森林の良材に頼って、檜材を加工して「へぎ」と呼ばれる薄板を利用して「メンパ(弁当箱)」などの「曲物(まげもの)」や、箱膳、盆などを作り、漆塗りを施した細工物の生産で成形を立てるようになってきていた。木曽漆器のルーツは約600年前の江戸時代初期に木曾福島町の八沢で生まれたとつたえられており、平沢にも早くから、その技法が伝えられていたと思われる。
ここは標高が915mの高地の谷沿いにあるので、湿度が高く保たれており、空気がきれいで、夏は涼しく冬は厳しく寒いと云う独特な気候が漆を塗る作業に適していたことがあげられ、それに中山道に面していたことから、作られた細工物が大名行列や、伊勢や善光寺への参詣者たちや、その他の多くの旅人たちにおみやげとして買われたことや、商品の流通の弁が良かったことなどの風土的条件がが漆器生産を盛んにしたと云えるだろう。
当初は「木曾物」と総称されていた木曽漆器も、やがて「平沢塗物」の名の評判を取るようになってきた。
その後寛永2年(1749年)の大火後に現在の町並みが作られた。主屋は2階建てや中2階建てで、切妻、板葺石置屋根で間口が3間が多く、ぬりぐら(塗り蔵)は普通の土蔵より開口部が大きく取って漆器の作業ばとして作られていた。それに主屋と街路との間に空地を、隣の主屋同士も近接させずに、敷地の奥に設けられた「ぬりぐら」への通路につかうように防火への工夫がなされており、また道に対して家を斜めに建てる「斜交い屋敷」も見られる独特な街並みとなっており、近年、重要伝統的建造物群保存地区に指定されたと云う。
しかし、明治になっても平沢漆器は木目を美しく見せる春慶塗りや簡単な塗りたての技法が主流であったが、先進地である能登ノ輪島へ職人を派遣してより良い漆塗り技法を勉強させていた。輪島の堅牢な漆塗りを支えているのが地元で産する珪藻土を蒸し焼きにして粉末にした「地の粉」を用いた下地材であることを知った。そこで平沢の人々は下地材になりそうな粘土を村内で探し回ったところ、奈良井地積のまちや沢で鉄分を多く含んだ粘土を発見した。この「錆土(さびつち)」と名付けられた粘土は漆液が良く浸み込み弾力のある充填力に優れた下地材となり、れに含まれている鉄分が漆の硬化反応を促進すると云う特徴があった。この錆土と生漆を練り合わした錆漆で下地をした木曽漆器は堅牢だとの評判が高まってきて、強さと価格で競争力が出てきた。本家の八沢を始め、奈良井や薮原などの木曽漆器は衰退して行ったのに対して、平沢が主産地として生き残こり、輪島、会津と並んで日本三大漆器の町の地位を維持し続けている。
さて撮影を終わって、平沢から奈良井に向かって奈良井川亜素意のそれほど広くない水田を見下ろす河岸段丘の上を通る国道を南に約二kmほど走りながら冬の木曽谷の風物詩を眺めていた。朝からは小雪の舞う 寒々としていた奈良井川沿いも午後の遅くなってから抜けるような冬晴れが現れた。やがて、奈良井宿の手前で水田に氷を張らせた天然田んぼリンクの整備に性を出している人々の姿を認めたので、それを前掲に列車の通過するのを待ち構えた。
奈良井宿の東の街はずれに1909年(明治42年)に開業した奈良井駅から平沢駅へ向かう線路は昔の中山道の通っていた左岸を走って平沢の街並みに近づいた所で第3奈良井川橋梁を渡って右岸に広がっている街中へと消えている。それ故に谷間ではあるが、国道から線路までは水田とに奈良井川の流れと河原が並んでおり、開けた風景が展開していた。ここの地名に“平沢”とつけたのはなかなかうまい命名だと感心したりしていた。思い出すと確かに、北信州はスキーだけれども、松本平らや諏訪、伊那、木曽では、寒さがそこそこ厳しく、雪もそんなに多くないことから、冬には自家製リンクで氷の感触を楽しすのが冬の年中行事なのだったが、昨今の温暖化がダメージを与えてはいないだろうか。
この奈良井宿と漆器の平沢が中心の奈良井村と、櫻川に贄川宿を中心とする贄川村が明治21年の市町村制の施行により合併して「楢側(ならがわ)村)となった。この楢川村は信濃川の最上流の一つである奈良井川の“ドンづまり”の流域が生活圏である。そして奈良井川下流の開口部を除き、村外との交流はすべて峠越えであって、現在は国道19号の鳥居トンネルで薮原へ、国道361号には権兵衛トンネルで伊那へ、姥神トンネルで日義へと通じている。その村の境界が太平洋側と日本海側を分ける大分水嶺で取り囲まれていると云う珍しいむらであって平成の大合併によって下流の塩尻市に編入してしまったので、この名高い“楢川村”の名が消えてしまったのは残念である。しかしひるがえってかんがえたのだが、塩尻市も更に規模の大きな大分水嶺に囲まれていることになったから、この長さは日本一ではなかろうかと。それは西の境峠から始まり、鳥井峠、権兵衛峠、牛首峠、善知撮り(うとう)峠、塩尻峠、扉峠とでもなるのであろうか。
そこで本州の大分水嶺を津軽半島から下関まで約千数百KMも連なっている大分水嶺線を考えると、そのほぼ中央部にあたるのが大分水嶺に取り巻かれている楢川村であったことを教えられて驚いたのだった。その取り巻かれ方と、その迷走振りは正に地質学の驚異ということにでもなろうか。詳しく知りたい方はは地形図でお調べ下さい。
それでも簡単に説明をこころみるとすれば、奈良井川をさか登り、東側の分水嶺を南下して行くと、中央アルプスの主峰である木曽駒ヶ岳(標高 2,956m)に向かうと思ったのだが、ほぼ180度反転した分水嶺は、深い谷の反対側に姿を見せるように北上しているのだった。
一方、北にある茶臼山(標高 1,652.7m)の北斜面に発したが奈良井川は分水嶺が入り乱れて迷走する中を、南下する東の天竜川、西の木曽川に挟まれた中を北上して流れ下って行くことになっている。
一見すると、木曽山脈の北端部に降った雨水は流れ下って、木曽川か天竜川のどちらかに流れ込むように思うのだが、しかし実際は二つの川の間に割り込むような流れを作るのが奈良井川なのであった。そのような芸当が生まれたのは、この辺り野岩盤の隆起運動や断層群によって作られた破砕帯に誘われるように谷が作られたとする説が見られるのだがいかがなものだろうか。この部分は色々の文献を参考に構成したものであり、是非地図で確かめて下さい。
なお、これを執筆するに当たり下のホームページを参考にしました。
〈旧楢川村 :
http://www.geocities.jp/gunmakaze/column/15narakawamura.html 〉
撮影:昭和45年一月3日
アップロード:2010−04.
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・「中央西線の風物詩を訪ねて」シリーズのリンク
330.プロローグ:桔梗が腹から木曽谷へ・塩尻〜日出塩
024. 梨の花咲く本山宿(中山道) (中央西線・洗馬−日出塩)
151. 習作:厳冬の鳥居峠へ向かうSLたち・中央西線/日出塩〜薮原 間
027.冬の贄川(にえがわ)鉄橋(JR東海・中央西線)
405. 塩沢の谷尾鳥居峠へ登る・中央西線/薮原→奈良井
209. 「木曽の桟(かけはし)」を行く (中央本線・上松−木曽福島)
210. 「やまぶき」の花咲く木曽谷 (中央西線・藪原〜上松)
133. 冬の木曽路三題 中央西線・日出塩−薮原)
092. 「ひのき(檜)」の木曽谷を登る・中央西線/上松〜野尻
162. 早春の木曽駒ヶ岳遠望 (中央西線・倉本−上松)
157. 木曽谷の石屋根のある風景 (中央西線・上松〜大桑)
009.
木曽川の春
「
ねこやなぎ
」・
中央西線
/南木曾