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・「中央西線の風物詩を訪ねて」(奈良井川にそって)
330.  プロローグ:桔梗が腹から木曽谷へ ・塩尻〜日出塩

〈0001:bO30216:上り臨急行“彩雲”〉


<撮影メモ>
 篠ノ井線では後補機付であった臨“彩雲”は、塩尻からは重連に代わっていた。ここでは木曽山脈の山すそに登って撮ったのだが、この高さでは北アルプスの峰々の姿を見ることは出来なかった。線ろの先には奈良井川が深い谷を作って流れ下っていた。場所は塩尻-洗馬 間である。

〈0002:bO30223:柿の残る山里、での北アルプス遠望〉


〈撮影メモ〉
随分の柿の赤井実が残っていた。この辺りは奈良井川が木曽の谷から松本盆地へ出て来た所で、開けた扇状地の上に乗鞍岳のは惨敗が積もった河岸段丘となっていた。遠くに少しだけ見える白人の峰々は北アルプスノ前穂高岳辺りであろうか。

〈003:bO30215、桔梗が原のぶどう畑の中を行く〉



〈撮影メモ〉
塩尻を駅を発車すると間もなくぶどう畑の中を西へ向かう。
この辺りは秘境が腹の台地の最南端に位置していて、直ぐに左は木曽山脈の東端の山すそとなっている。ここは全国屈指のぶどうの山地でワインの醸造が盛んである。場所は床尾と云う集落のあたりである。背後に見える白人の山は高ボッチやまである。この右手に塩尻峠があるのだが。

〈0004:bO30214:木曽山脈を望む〉


〈撮影メモ〉
遠くに見えるのは木曽さんみゃくであろうか。塩尻のある桔梗が腹を抜けて奈良井川野河岸段丘をさかのぼっている。間もなく両側の山が迫って来ると“木曽谷”の南の入り口である。


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〈紀行文〉
 この「中央西線の風物詩を訪ねて」のシリーズは、かって1964年(昭和39年)に東海道新幹線が開通するまでは東海道本線のバイパス的役割を担って建設された中央本線の西半分に当たる中央西線を舞台にしれおり、それを沿線の川筋で分けて、分水嶺の鳥居峠の東の奈良井川と西の木曽川とにして掲展示しました。
この中央本線を東西に二分するのが長野県の塩尻町にある塩尻駅であった。私事ですが、大学を卒業の昭和31年に入社した
カメラ撮影時に使用する露出計の専門メーカーである成光電機工業(今のセコニック)の子会社の塩尻町にある八陽工学に5年間出向して8ミリ映写機/撮影機や露出計の生産技術に従事していました。昭和31年秋に塩尻に赴任する時には、新宿発松本行きの夜間急行“アルプス”であった。確か、甲府からはDF50重連に牽引されてしていたが、その他の列車はD51蒸気機関車が活躍していた。その後上京して、ホンダに転職し、昭和40年頃らはSL撮影を始めた。この塩尻近辺はワイフの郷里でもあり、地の利を生かしたSL撮影が出来たので、に足しげく通っていたから、おそらく線区別での撮影数では“ダントツ”の位置を占めているものと思われる。
ここではプロローグとして中央本線の建設の経緯を述べたのち、中央西線の起点である塩尻のある桔梗が原から奈良井川をさかのぼる木曽谷への地形について触れてから、その辺りの情景をおめに掛けた。
 この木曽路に鉄道が敷かれる機運が訪れたのはすこぶる早かった。それは明治新政府は明治2年(1869)11月10日,東京−神戸間を結ぶ幹線鉄道を建設することを正式に決定した。 ルートとして本州の中央を通る中山道案,海側を通る東海道案があったがこの時点ではどちらを採択するか未定だった。
東海道案は箱根峠そして多くの大河川を跨ぐため難工事が予想され,軍部からは軍艦からの砲撃を受けやすい海岸沿いは国防上問題があると強く懸念されていた。
一方、明治3年、お雇いイギリス人技師 |R・ボイルが実地調査の上明治3年に、まだ開発の進んでいない中山道に沿って鉄道を敷設して地域開発をする方がゆうりであると力説していた。明治政府はこの案を採用し、明治16年に工事の開始を決めた。
中山道幹線鉄道の長野県内ルートは、軽井沢−小諸−上田−松本−木曽−中津川であった。そして公債が募集され、高崎から工事がスタートした。
●その後、実際に工事が開始されて3年目に、「碓氷峠を初めとし、信州を横断する峠や木曽谷を通過するための難工事の存在が明らかになり、開通後の列車の運行上所要時間、所要経費などにも問題が多いことが予想され、工期、工費も、また完成後の運転経費なども東海道ルート案の比ではいないとの報告が上がって来た。それに加えて、ルートから外れた名古屋地域の人々による巻き返しも次第に強まって来ていた。そこで、当時の井上勝鉄道局長官は密かに東海道線を調査させ、営業上においても東海道線がはるかに有利なことを明確にした。そして明治19年(1886年)幹線鉄道の経由を中山道から東海道に変更する通達が出された。そして急ピッチな工事によって、明治22年に全通を果たしている。
このような背景の中で、甲府や松本の地元資本家によって、甲信地域から生糸の輸出港である横浜に通じるための甲信鉄道(松本−諏訪-甲府−東海道線の御殿場)が計画され仮免許を得た。しかし、御殿場−甲府間の経路は地形的に鉄道の敷設が実現不可能と判定されたことから、明治22年に松本−甲府間だけが本面所を下付された。
そして甲信鉄道が実現化しないうちに、国が建設すべき鉄道予定線を規定する「鉄道敷設法」が明治25年に公布さてた。こでは、既に中止された中山道幹線ルートが別の形で再登場していたし、先の甲信鉄道も予定線に規定垂れていた。
それには、元 中山道幹線計画の内の高崎〜長野〜直江津間は信越線として先に開通していたことを前提にして、鉄道付設法別表には次のようになった。
その冒頭に、中央線:「神奈川県下八王子、もしくは静岡県下御殿場ヨリ山梨県下甲府、および長野県下諏訪ヲ經テ伊那郡、もしくは西筑摩郡ヨリ愛知県下名古屋ニ至ル鐡道」が規定された。
それと同時に、「中央線:長野県下長野、もしくは篠ノ井ヨリ松本ヲ經テ前項ノ線路ニ接続スル鉄道。(今の篠ノ井線)」が規定された。
続いて、第1期建設線として中央線など9線が決定された。
 先ず、既に開通していた信越線と建設が予定される東京-名古屋の中央線とを連絡する中央連絡線の建設が始められた。それは信越線の篠ノ井を起点に松本を経て1902年(明治35年)に終着駅として塩尻駅が開業している。
一方では、建設ルートの経済面からは、在地の蚕糸業者の強い要求があって、彼らは輸出港の横浜への輸送費を軽減し、輸送時間を短縮する立場から、神奈川・山梨・長野・三河より名古屋への鉄道を強く要望した。やがて1894年(明治27年)になると、天竜川に沿った飯田を経由しそこから恵那山をトンネルで抜け中津川に出る伊那谷ルートと、奈良井川・木曽川に沿った木曽谷ルートが競合した。沿線の人口や経済面を考えれば「すべてが山の中」の木曽谷よりも伊那谷のほうがはるかに勝っていたのだったが伊那谷から木曽山脈の恵那山(えなさん)を抜ける困難さがネックとなって、木曽谷ルートに決まったのであった。これにより岡谷から松本盆地の南端の塩尻を経由することに決まった。
そして、1893年(明治26年)2月6日 鉄道会議において、
中央線、八王子・諏訪・西筑波郡経由の名古屋間の線路が答申されている。
明治29年3月、八王子・名古屋間の官線鉄道建設予算が第九帝国議会を通過した。工事は八王子と名古屋の間を二分して東西から進められた。
明治36年6月、八王子・甲府間が開通している。当初は甲府から塩尻を経て宮ノ越までが中央東線として建設が始められていた。明治39年には甲府から諏訪・岡谷を経て塩尻に達した。そして、1909年(明治42年)12月には塩尻駅〜奈良井間が開通している。
一方の名古屋からの中央西線は、1900年(明治33年)に名古屋〜多治見間が開通し、続いて1911年(明治44年)に木曽福島〜宮ノ越間が延伸開通して中央線が全通した。
 私たちが撮影に通った昭和40年代には東京〜名古屋を直通する旅客列車は設定されておらず、新宿発も、名古屋発の列車も塩尻駅を経て、松本方面へと運行されていた。新宿〜塩尻は中央東線、名古屋〜塩尻間は中央西線と呼ばれるようになった。中央西線では、車番号を中央本線の路線本来の方向とは逆に、名古屋から塩尻へ至る方向を「下り」(奇数)としているのが特徴であった。特に1982年(昭和57年)に塩尻駅が中央本線上から篠ノ井線上に移設されて、名古屋から松本へ行く列車の塩尻駅でのスイッチバックが解消された。
ただし、貨物列車や団体臨時列車などの一部の列車は旧塩尻駅構内(いわゆる塩尻大門)の両線直通用の単線線路を通り、塩尻駅のホームを経由せず塩尻駅自体を通過する形で両線を直通している。

さて、この中央西線と並行する現在の道路は国道19号線である。この経路は奈良時代の律令制で定められた都東山道の各国国府へ通じていた官道である東山道(ひがしやまみち)の通る道筋でもあった。ある時点からは都の奈良から近江の国(滋賀県)・美濃の国(岐阜県)を経て信濃の国(長野県)の伊那谷を北上して善知鳥峠(うとうとうげ)を越えて塩尻・松本・上田を経て碓氷峠を下って関東から東北へ通じていた。しかし木曽山脈南端にある恵那山付近を越える御坂峠の困難さ故に、その手前の木曽川の流れ下る木曽谷を北上する“吉蘇路(木曽路)”が和銅6年(713年)に開削されてパイパスとして使われるようになった。やがて、戦国時代には甲府から諏訪盆地を経て小野峠、次いで牛首峠を越えて木曽路へ抜ける竹田信玄の開いたみちが、後に初期の中山道となっており、その後江戸時代に入ると塩尻峠を直通する中山道(木曽街道)として定着したのである。
従って、この沿線には指揮を通じて独特な風物詩がSLを背景に見ることが出来たのであった。
このプロローブでは塩尻のある桔梗が原の台地から奈良井川の谷へ向かう上りの蒸気列車の情景をおめに掛けた。

さて、中央西線の終点である塩尻駅前(標高:716m)に立って周囲を眺めてみよう。
南サイドは木曽山脈(中央アルプス)の最も北東端が衝立の様に連なっており、その東端は筑北山地からの尾根と接しており、そこには塩尻峠(標高:1,012m)があって、松本盆地と諏訪湖盆地を隔てている。北方を向けば松本平(盆地)へと続く桔梗が腹台地(標高: 690〜730m)が目前にあり、その東側(右手)にそびえるのは筑北山地の一角であるなだらかな山容の高ボッチ山(標高:1665m)であり、西側(左手)は北アルプス(飛騨山脈)の前山に相当する低い山山が連なっていた。ただ、その南の端は木曽山脈と向かい合って、西へ向かう奈良井川の谷が開けていた。
塩尻市街は桔梗が腹台地の南縁にあって、木曽山脈の山麓に接していることになる。この台地は奈良井川野扇状地の上に乗鞍岳の火山灰が降り積もって出来たちそうで、水利が悪く草刈地であったが、明治以後の開拓によりぶどうの名産地として繁栄していた。
塩尻を出た列車は4.2qレ先の標高:762mの洗馬駅を目指して等高線に沿うようにして奈良井川の河岸段丘の上を登って行く。昔の川沿いの低い所の北国西街道からは山村風景を前景に上り名古屋雪の列車を捉えた。
また南側のヒ素山脈の山麓を登るとバックに前山の上に北アルプスの連邦を入れてれ重連貨物列車を撮ることが出来た。

撮影:昭和41年(1966年)1月2日。