自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・「中央西線の風物詩を訪ねて」(木曽川に沿って)
209.
「木曽の桟(かけはし)」を行く
・中央本線/上松−木曽福島
〈0001:春の新茶屋川橋梁〉
〈0004:木曽川右岸からの遠望:木曽の桟を登る下り貨物列車〉
〈0003:貯木場遠望〉
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〈紀行文〉
中津川からひたすら木曽川沿いを登って来た中央西線は、南木曽の第5木曽川橋梁のトラス橋を渡って木曽谷へ入ってからはもっぱら木曽川左岸の断崖や河岸段丘の上を選んではいのぼってきて、いよいよ最難関の上松から木曽福島間の「木曽の桟(かけはし)に差し掛かって来ていた。明治44年(1911)に宮ノ越-木曽福島間が延伸開通して全通した中央本線のルートは大筋で昔ながらの中山道(木曽街道)や、それに倣った国道19号線にからむように走っており、これに主人公である木曽川を加えた4本の流れが狭い谷間を並行して上下しているのであった。
ここで手はじめに、この辺りの木曽谷の地形の素描から始めよう。この木曽谷は西側を北アルプス(飛騨山脈)の南端の外れに位置する御嶽山:おんたけさん(3067m)と、その南に連なる阿寺山地と、東側を木曽駒ヶ岳(2,956m)を盟主とする木曽山脈(中央アルプス)に挟まれた木曽川がV字型の谷間を刻んで流れ下っている。その東側の木曽山の稜線である主峰 木曽駒ヶ岳から北上して奈良井川の水源で知られる茶臼山(2658m)へ連なる尾根の前衛には赤林山(2177m)や麦草岳(2,733m)などの山々がそびえている。これらの山々が氷河によって削られた屑岩が運ばれて堆積したと想われる標高1200mほどの緩やかな斜面を示す狭い幅の木曽駒高原が木曽川の左岸へ迫っているのであった。それ故に木曽の谷から一気に高度を上げる東西幅の狭い山脈であるため、すぐ高原の麓まで集落が分布したり、街道が通っていたりして、人間の生活臭の感じられるのも納得できた。それに対照的なのは木曽川の左岸ではなだらかで山が非常に奥深い阿寺山地であって、木曽特有の「ひノキ・アスナロ・コウヤマキ・ネズコ・サワラ」の木曽五木と呼ばれる常緑針葉樹林帯が広がっており、昔から施されて来た厳格な保護制作のお陰で大自然が保たれており、しかも山岳信仰のご神体でもある独立峰の御嶽山の広大な山麓にも当たっているのだった。
私が足しげく通っていた昭和40年代の中央西線の上松−木曽福島間の7.4kmは明治43年(1910)に開通した当時とほぼ同じルートである、標高約750mほとの河岸段丘を程ほどの勾配で走り抜けていたが、差し迫った昭和48年(1973)の電化開業や、それに続く複線化や高速化をめざした改良工事が進められており、この両駅間には中平(なかだいら)信号場が設けられていた時代であった。
この河岸段丘の上に発展した上松の街中の標高 708.6mにある上松駅を出た列車は山側に入り木曽街道の沓掛の一里塚(江戸より71里、京へ66里)の片方のを塚を取り崩して建設した線路を北へ進んで行く。この辺りは木曽福島町と上松町との町境で標高 740mであった。そして中山道(木曽街道)は国道19号線から左に入り、小さな丘を越えて進むと中央西線の線路に行き当たる。この手前の丘の上が残った沓掛一里塚であり、その上には、これも鉄道建設で観音坂から移された木曽義仲の愛馬伝説にかかわる馬頭観音堂が祭られていたのだった。
やがて、その先の深い新茶屋川を高いプレートガーターの橋で渡ってから、木曽川右岸の断崖の上に出ることになる。ここからが「木曽の桟(かけはし)」のなんしょで、短い鉄橋を越えて、「桟トンネル(長さ 83.5m)」を、それに付け加えられた断崖側に四つのアーチ型の窓を備えた落石よけのシェッドを通り抜ける。ここは断崖上のスリリングな車窓で、景勝地であった。ここは地形が深い上狭く、江戸時代からの交通の難所で中央本線も難工事の末に開通した所である。再び少し山側に入って中平信号場、そして中平トンネル(長さ 167m)を抜けて左手に御岳山麓から流下してきた王滝川が合流する谷を俯(ふかん)しながら越畑沢橋梁を渡って木曽福島駅(標高 775.3m)へ近づいた。
こで最初にお目に掛けた作品は、上松から旧街道に沿って田舎道を走っていた時に偶然に白い花の満開の樹木を見つけ、これを前景に新茶屋川橋梁を渡る上り重連を撮ることができた。しかし、余りにも白い花(何の花香は今もって不明)に気を撮られ過ぎて、シャッターチャンスを取り逃がしてしまったのは、御愛敬とお許し願いたい。そして、たまには淡い煙と、
軽快な足取りの穏やかなD51の走りも、このローカルな風景に似つかしいと想ったりしている。このロケーションは、確か「木曽の桟」に面した断崖の上に出る手前の上松寄りにあるのではなかろうか。
或者の本によると、木曽の桟を通り抜けた旅人は下り坂をしばらく南下すると深い新茶屋川が木曽川に合流している地点に突き当たる。(今も国道19号線沿いに新茶屋川橋と、バス停がある)。そこで街道は川の上流側へ迂回する高巻きの道で川を渡ってから再び断崖に面した道へ戻って再び上松宿を目指していたと云う、この高巻きの途中に名物わらび餅を売る弥生茶屋があったと伝えられ、川の名も萩原沢から新茶屋川に変わったと伝えていた。
次の作品は木曽川右岸(西岸)にわたって、ちかくにある工場の貯木場を前景に、木曽川の深い谷と、その崖上をコンクリートの桟橋で通過する国道19号線を超えて高いコンクリート擁壁(ようへき)の上を走る中央西線の下り列車を遠望した者である。雨上がりで、山はけむっていたが、白煙をなびかせて貨物列車は、少し先にある「桟トンネル」へ向かって登って行く。
第3の作品は、ちょうど「木曽の桟」の真上に当たる断崖の上の線路脇に植えられた桃林の満開の風景である。苦労の末に狙った構図は、線路の先の崖下の木曽川を超えた対岸に遠望できたのはあの木曽の、「ひのき」の丸太を山に積んだ広大な貯木場であった。果たして断崖と深い木曽川の淵がが感じられると有り難いのだが。
さて、その後に中津川−塩尻間の電化が完成して運転が始まったのは電化開業を目指した長野善光寺ご開帳に併せた昭和48年7月10日より一ヶ月早いな5月27日からであった。この上松−木曽福島間では路線変更なしで電化が行われたと云うが、明治時代に開通した当時のトンネル断面で電化が出来たと云うことは、いかに中央本線の建設が東海道本線に代わり得る内陸の幹線として建設されたかが判るような気がしたのだった。その後に複線化とスピードアップのための線形改良、災害対策のためなどの理由から三箇所で路線の付け替えが順次行われているようだ。
先ず上松方からは、新茶屋川橋梁の部分の桟トンネル部分の新線切り替えである。
あの名勝「木曽の桟」を眼下に眺めるこの区間は、ほぼ木曽川左岸の崖縁をはう形をとっている。そして、棧(かけはし)付近は断崖部分となっており,常に落石などの危険性をはらんでいたし、上松方では土砂崩れの災害の常襲地点でもあったし、また旧カーブの多さからもスピードアップの障害となっており、複線化によって別ルートへ変更されることとなり、1979年10月15日に桟トンネル、新茶屋川橋梁の新線への付け替えが行われ、新複線は延長およそ800mのトンネルを貫いて山側を通ることになったので、かっての木曽の桟の絶景はもう車窓からは見ることはできなくなってしまった。廃線となった「桟トンネル」は接近は困難のようであり、木曽福島側の落石除けの部分は資材倉庫に転用されているようだ。この付近は災害対策の工事が進められ風景が変わってしまっていると云う。また新茶屋橋梁は橋台を残すのみとなってしまった。
その次は中平信号場の先にある中平トンネル前後のルート変更である。それは急かーブと、老朽化した中平トンネルの解消、旧線への腹付け複線化用地の確保の難しさ、地もとからの要望である廃中平トンネルの道路への転用、付近の県道の整備のための用地などへの対応策として新ルートへの付け替えとなった。そして、木曽福島駅の上松方、750m地点から中平信号場までの複線化は複雑な手順を経て昭和57年(1982)に山側に複線トンネルを設けて区間距離を0.2km短縮し、中平信号場の廃止をともなって完成した。この廃止された中平トンネルを含む前後は、このトンネルの山の上を通っていた荒れた旧中山道の代替え道路として転用されており、旧中山道歩きの人々に利用されている。特に、元中央本線の中平トンネルは中央西線の中津川−塩尻間で唯一の自由に通ることの出来る鉄道廃トンネルとして貴重である。この長さは 166.97mとそれほど長くはないがカーブしており出口は見えない。また、明治43年の建設当時の姿が残っており、レンガ積みのアーチ部には煤煙(すす)が残っており蒸気時代を思い起こさせるし、また両側のトータル(坑紋)は堅牢な石積みが出迎えてくれていると云うのだ。
この廃トンネルの上松方の入り口から約200mほどで現行線との合流点があり、この辺りが中平信号所が1982年まで存在していたところで、ここから廃線となった「木曽の桟」までは現在線への腹付けで複線化が行われている。
最後に、車窓からは眺めることのできなかった「木曽の桟」の部分を埋めている国道19号線の斜面にある明治43年の中央本線のトンネル工法やその後に施されたアンカー工法やコンクリート擁壁など数種の斜面安定工法を観察して置きたいと想っているのだが、その前に聞いた話を披露しておきたい。『「木曽の桟」のある辺りは木曽川の色の変わる地点でもある』と云うのである。この上流は黒い粘板岩などであり、下流は白い花崗岩(かこうがん)なのである。それは木曽駒ヶ岳より北では中古生層である砂岩・頁岩・石灰岩といった変成岩で構成されているが、それより南は花崗岩となっているから、木曽山脈は花崗岩の山脈だとも云うことがあるほどでてあった。その証拠には木曽駒高原の足下に転がる岩には、はときどき白っぽい花崗岩が見られるが、ほとんどは黒っぽい変成岩で占められており、これは前山の赤林山を構成している岩石だと云うのである。これらが、この辺りが岩崩落や土砂崩れの多発地帯である原因なのかも知れないとおもった。
さて、深山幽谷の木曽の谷間、木曽川に沿って続く断崖絶壁の岩肌は旅人の往来を長らくはばんでいたのだったが、応永7年(1400)から3年も掛けて木曽川沿いに新道を開いた際に、その険しい断崖に板の桟道を架したのが「木曽の桟」の始まりである。この「かけはし」と云うのは断崖に杭を掛け、昔は岩の間に丸太と板を組み、藤づるなどで結わえた桟橋であった。
戦国乱世の頃ならば焼いてしまえば敵の侵入を防ぐには格好の桟だったのだろうが、時代が下がって太平の世になると、燃えやすい桟は逆に不利益なものとなっていたのだった。このような折り、正保4年(1647年)に通行人のもかざしていた松明(たいまつ)がもとで桟が焼失してしまった。そこで尾張藩は、そのの翌年慶安元年(1648年)に中央部を木橋(8間、14.5m)とした長さ56間(102m)にも及ぶ石垣の桟を完成させた。その後に、明治13年(1880)の改修で木橋下の空間がすべて石積みとなり,残されていた木橋も明治44年(1911)には中央線工事のために除かれて、全てが石積みとなっている。その後に石、積みの部分は国道19号線の下になってしまったから、先人の苦労の跡である桟は容易には見ることができなくなってしまった。ここを通行しているだけでは、木曽路の難所であったことに気付くことは無いのであった
所が、昭和40年になって、桟の石積みを原型に残すために、二基の橋台と二基の橋脚を建て、片桟道を施工すると云う難工事を行って、国道下に残されている石垣の一部を見ることができるようになり、往時の姿を偲ばせてくれるようになった。
その全貌を観察しるには木曽川右岸に渡るのが好ましく、ここからは国道19号線の上部の斜面を支える鉄道構築物や、桟トンネル出口の先に設けられた落石防止覆い部分のコンクリート製のアーチ型をした四つの窓が鮮やかに見て取れた。また、ここの木曽川左岸には多くの文学碑が集められているのも嬉しい限りである。
撮影:昭和44年
ロードアップ:2010−07.
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・「中央西線の風物詩を訪ねて」シリーズのリンク
330.プロローグ:桔梗が腹から木曽谷へ・塩尻〜日出塩
024. 梨の花咲く本山宿(中山道) (中央西線・洗馬−日出塩)
151. 習作:厳冬の鳥居峠へ向かうSLたち・中央西線/日出塩〜薮原 間
027.冬の贄川(にえがわ)鉄橋(JR東海・中央西線)
178. 冬の木曽平沢にてD51に会う (中央西線・平沢−奈良井)
405. 塩沢の谷尾鳥居峠へ登る・中央西線/薮原→奈良井
210. 「やまぶき」の花咲く木曽谷 (中央西線・藪原〜上松)
162. 早春の木曽駒ヶ岳遠望 (中央西線・倉本−上松)
157. 木曽谷の石屋根のある風景 (中央西線・上松〜大桑)
092. 「ひのき(檜)」の木曽谷を登る・中央西線/上松〜野尻
009.
木曽川の春
「
ねこやなぎ
」・
中央西線
/南木曾