自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・「渡良瀬渓谷の足尾線」
283.
“あかがね”の故郷への道
・足尾線
/足尾−間藤−足尾本山
〈0002:第1松木川橋梁・わたらせ渓谷鉄道/足尾-間藤 間●〉
〈写真の典拠〉
宮川康夫さまの「宮様の石橋」の「光市の石橋」より転載:
29.第一松木川橋梁橋脚レンガアーチ、日光市足尾町
http://18.photo-web.cc/~miyasama2748/HOME/P78nikkoshi.html
〈0001:2-7-5-3:第二松木川橋梁?を行く(昭和41年10月)〉
〈0003:bQ30321:日本離れの背景の中を登るC12〉
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〈紀行文〉
このシリーズの最後は足尾から足尾本山に至る貨物支線に集中して述べてみた。そこで、銅の町 足尾を貫いて流下している渡良瀬川の右岸を延々とさかのぼっている国道122号日光東京線に乗った。やがて中間の神戸集落から川沿いを離れて山間に入り、群馬/栃木の県境の尾根を越えた。そして再び渡良瀬川右岸の原向へ出た。やがて、左から庚申側が渡良瀬川に注いでおり、この支流の谷に沿ってさかのぼる県道293号庚申山公園線は約7qで庚申算登山口の銀山平まで通じていた。戻る途中の小滝は足尾銅山の中信と一つであって最盛期の人口が1万2千人を越えたと云う鉱山町であって、この左手は足尾山地で唯一銅鉱を埋蔵していた備前楯山(標高 1,272M)の斜面が迫っていた。再び国道に戻ると、やがて第2渡良瀬川橋梁を渡ってきた足尾線が並走するようになり、渡良瀬川の両岸に開けた足尾市街に入った。先ず通洞(とおりどう)には足尾銅山の主力坑口が営まれており、左手に巨大な選鉱場が見えた。この足尾町の中心街に近かいと云う通洞駅前を過ぎ、狭いカーブした町中を抜けると足尾駅前のゆったりとした広場があった。さすが足尾銅山の玄関口だけあって、威厳を持った木造駅舎が備前楯山を背にして建っていた。そして線路に沿って坂を下ると右手に足尾銅山の迎賓館だった古河掛水倶楽部と云う大正モダンの西洋館が見えた。この付近では渡良瀬川は大きく蛇行しており、対岸へは渡良瀬橋が架かっていて、昔は日光への街道の追分であった所だそうだ。やがて道は線路と離れ大黒橋で渡良瀬川の左岸に渡ると、道路は土手の上となり、のは右手が日光の山から流れ下って来た支流の神子内川(みこうちがわ)、左手が渡良瀬川本流である松木川に挟まれて山間へと入って行く。やがて田元交差で細尾峠から日光へ向かう国道と分かれて、松木街道(県道250号中宮祠足尾線)へと左折した。左手に足尾線の第一松木川橋梁を過ぎると、道は線路の下をくぐって右に急カーブしながら散在する集落を行くと盛り土の線路に沿うようになり高く切り立った崖下にある間藤駅の前に出た。この駅周辺の下間藤集落は狭い谷間に続いていて正の風情を残していた。そして、長い登り坂がずっと続いており、やがて足尾本山へ通じている足尾線の貨物支線の踏切を渡った。その先の線路はゆるやかにカーブを切って、第2松木川橋梁を渡って、川の右岸にそびえる山々の荒涼たる岩山の斜面に取り付いて登って行くのが見えた。さらに登り坂の県道を進んで、松木川支流の深沢を渡ると南橋の鉱山住宅群を通り抜けた。やがて、半月峠(標高 1,562m)を越えて中禅寺湖畔に通じる県道と分かれて、松木川左岸に沿って狭くなった道をゆくと、標高が700mの高所の赤倉集落の広場に出た。ここは人家も多く、横に大きく広がった集落で、精錬所に隣接した足尾で最も賑わった鉱山街であったというが、昔の面影は見当たらなかった。そこの対岸には足尾本山の赤倉精錬所の異様な建物が大煙突を従えて現れた。この精錬所のある本山と社宅などが立ち並んでいた赤倉の間にはU字谷の谷底を流れ下る松木川が流れているため、両区を結ぶために1884年(明治17年)に木造の直利橋(なおりばし)が架設されたが、3年後の村の大火で消失してしまった。その頃から明治25年にかけて足尾鉱山では、軌間610oの足尾銅山馬車鉄道が各鉱山間を連絡するようにと整備が進められていた。そこで、足尾銅山から赤倉製錬所までの鉱石運搬用として、直利橋の跡にドイツ人の設計により日本で最初の鉄道と道路の併用橋である古河橋が架けられた。この橋は長さ 48.5m、幅員 4.8m
のドイツ・ハーコート社のボストリング・ワーレントラス(ピン結合方式)の鉄橋で、橋台は煉瓦積みであって、1891年(明治24年)に開通した。この橋を渡ったのは日本初の電気軌道である足尾鉱山専用電気軌道であって、橋を渡ってから右折して松木街道上を通って赤坂付近で馬車軌道と連絡して、足尾(渡良瀬)方面へ通じていたと云う。私の訪ねた昭和41年の秋には既にそのまま道路橋となって使われていた。
ここでの銅の精練は、銅含有率を10%にまで選鉱で高められた銅鉱石をコークスを燃料とし、融剤として石灰石と珪砂(ケイさ)が加えられて溶錬炉で溶融させており、その際に煙突から多量の亜硫酸ガスが排出されていたのであった。
そのさらに道を進むと、巨大な砂防のための足尾ダムからほとばしり落ちる水流が見えて来た。この先の道は“日本のグランド キャニオン”と呼ばれるほどの地形を見せる松木渓谷となり、さらに源流の皇海山(すかいさん、標高 2,144m)への斜面へと続いている。このけわしい松木渓谷の右岸は県境にある庚申山を西端に沢入山(標高 1,704m)などの連なる中倉尾根であって、その北側は松木渓谷へ崩れ落ちているけわしさであった。
ところで、足尾銅山そのものである備前楯山は西北の県境にある庚申山へは6q、東南の県境にある地蔵岳へも7km、北方の半月山へも7kmほどの位置にあって、正に足尾の中心にあるシンボル的な山であった。この山は昔は「黒岩山」と呼ばれていたが、江戸時代にの銅の発見者の功績を讃えて、彼らの出身地である備前(岡山県)の国名を山の名に冠したと伝えられている。この山の直下の岩盤をなす秩父古生層の中へ足尾流紋岩が噴出通関したことによって、ほの山の古生層の中に塊やポケット状の河鹿(かじか)鉱床群と呼ばれる銅鉱床が形勢されたと云う。この「河鹿(かじか)」とは、“火直(か じか)”の転化で、そのまま前処理をせずに直接火の中に投入して精練できる鉱石を意味しているとされ、足尾の銅鉱石の優秀さを示していた。この巨大な河鹿鉱床群を西から小滝、南から通洞、北から本山の三つの坑道が掘り進められ、その総延長は約1,200q、その高低差は 1000mに達して、その約360年間の歴史を通して約82万トンの銅を生み出して来たと云うのであるから物凄いのひとことに尽きる。
この備前楯山を取り巻く山々では坑道の支保材としての森林伐採が盛大に進められ、
そこに失火による山火事が明治20年に起こって全山が禿げ山(はげやま)のようになってしまった。それに加えて、東洋一を誇った足尾銅山の赤倉精錬所から吐き出される亜硫酸ガスの煙害によって全ての草木が枯れ、表土が流れ去って、地層がむき出しになってしまい、しかも酸性となった荒涼たる山容を見せるようになって久しいのだが、その後亜リュ流産ガスは改修されて硫酸の製造が行われるようになったことから、少しずつ山は緑を取り戻しつつあるようだ。
さて、ここから足尾線の話題に入ろう。足尾線の前身である足尾鉄道は両毛線の桐生から足尾本山を目指し順次延長して、1912年(大正元年)には足尾まで開通した。その2年後の1914年(大正3年)には足尾 -足尾本山間の貨物支線が開通して全通した。
その年内に、
その中間地点の26.7‰の勾配上の位置に設けられた間藤(まとう)駅まで旅客営業が開始されている。
僅か1.2q先の旅客列車の終点である間藤駅に向かって足尾駅を出た。すぐに左カーブしながらスプリング ポイントを低速度で渡り国道に沿った街並みを抜け、再び上り勾配が始まり谷間に入って行った。この先に登録「有形文化財となった第一松木川橋梁を渡ることになる。これは垂直に切れ落ちる岸壁に囲まれた蛇行する松木川に架けられた全長56.45mの小さなトレッスル式鉄橋だが、100年余も経っている古強者(ふるつわもの)なのである。この橋の橋桁は径間22.25m二連+経間9.6m一連の英国式上路プレートガータ形式で汽車会社製であった。この橋桁を支える二本の橋脚は二段構造で、橋脚下部は切石積みの基壇であり、その上にトレッスル(鉄構橋脚)が固定されていたのである。
この鉄橋の最大の特徴は、橋脚下部の切り石積みの橋脚の下部が二股に分かれていて、川底の岩盤に両足を降ろして足を“ふんばっている”ような力強い姿であった。そして、股の間は煉瓦四層巻きの内面を持ったアーチ型の水路が設けられていることである。このアーチの開口方向は線路と同じことから、ぶつかる水流を緩和させるためと云うよりは橋脚の横からの圧力に対する強度確保が目的ではなかったかと推察しているのざが、いかがであろうか。なお、中央部の橋脚の下部は現在ではRC(鉄筋コンクリート)で巻かれているので内部構造は見えないが、北側岸壁手前の橋脚はおそらくオリジナルの状態のままと思われる。
そのアーチの上には切石が積まれており、その上面の一つ一つの切石の配置が見事であった。橋脚を上から見ると、運動場の400mトラックを思わせるような長円形状となっており、その両端に配された半円形の部分に台形状の切石が丁寧に配置されている。写真で見る限り、長さが1m、幅は40cmぐらいのかなり細長いものと思われた。この渡良瀬川沿岸は御影石の石切場が多く営まれており、労連な石工と、優れた石材が自由に利用できたと思われる。
この桁を直接支えている錬鉄製トレッスル(鉄構橋脚)は切石の上に固定されて足を開いて「ふんばっていた。
実は、ここに使われている鉄構橋脚は日本鉄道が東北本線の盛岡〜八戸間の馬淵川橋に多数架設したものの転用と推定されているのである。それは橋脚上部に付けられた銘板があって、下のような文字が解読されたからであると云う。
(PATENT SHAFT AND AXLETREE CO.LD. ENGINEERS 1889 WEDNESBURY)。
橋を渡り過ぎると県道が近づいてきて26.7‰の急勾配上を登って行き止まり構造の間藤駅が現れた。この先の足尾本山へ向かう貨物列車は引き揚げ線にバックした後に、この線の最急勾配の33.3‰を目指して駆け上がって行く。貨物線に取っては間藤駅はスイッチばック駅なのであった。
この先は、少し走って切り通しを抜けると、松木街道の踏切りを横断して、その先のゆるいカーブから第一松木川橋梁を渡った。
この橋は大正3年(1914年)の開通当所は、
橋長 52mの下路ボーストリングプラットトラス 1連が架けられていたが、その後に足尾本山方の下を交差して対岸の高台にある本山小学校へのコンクリート あーちの歩道橋「間藤橋」が架けられている。その後昭和28年になると、橋の損傷であろうか、プレートガーター 二連の新しい橋に架け替えが行われた。この松木川の右岸に渡った線路は長さ211mの間藤トンネルを抜けて、左上方にそびえる備前楯山の北西隣にある石垣山(標高 1,106m)の荒涼とした中腹の斜面をはい登っていた。その先には一つ目の短いトンネル、そして二つ目の長さ 36mの赤倉トンネルを抜けた。やがて場外信号機が現れ、その先にデッキガーター 二連の出川橋梁が出川の深い谷に架かっていた。実は、この出川鉄橋も開通当時の経間 47.3nの下路ボーストリングプラットトラス桁橋が昭和28年に架け替えられたものであった。そして線路は出川と町道を同時に跨いだままで赤倉精錬所構内にある終点の足尾本山駅へ入って行った。ここには数本の側線と倉庫が建ち並び、その奥は精錬所の建物の巨大な壁のように見えた。この終点にはターンテーブルはなかったので、上りの列車はバック運転である。また貨物列車は一日に4〜5本の運行が行われていた。この貨物営業は1987年までに終了した。そして1998年に休止のママ免許が失効し名実ともに廃線となっている。
ここで、写真の撮影メモを紹介したい。
1枚目は第一松木川橋梁の写真である。友人である奈良市に在住の宮川康夫さまの「宮様の石橋」の中の「栃木県・日光の石橋」の中の「29.第一松木川橋梁橋脚レンガアーチ」から転載させて頂いた。橋脚に冠するコメントも宮川さまの観察を紹介した。ここで厚く御礼を申し上げます。
二枚目は上り勾配を登る貨物列車を左側から撮影した作品ですが、撮影場所が思い出せずに困っています。それでも、第1松木川橋梁付近ではろ思っているのですが、いかがであろうか。これは初めて訪れた昭和41年10月30日撮影の写真です。
3枚目に予定している作品は、未だフイルムが見つからないのだが、取りあえず紀行文だけ先行して述べて置きたい。
かっ子『足尾線の無煙化がささやかれ始めた頃に、あわてて撮に出かけた。そして、この日本ばなれした荒涼たる山肌をさらした山々をバックに間藤(まとう)駅から足尾本山駅への最急勾配 33.3パーミルの貨物船を登るC12の引く列車の光景を求めたのであった。』
撮影:昭和41年10月。
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・「渡良瀬渓谷の足尾線」シリーズのリンク
138. C12重連を追って・足尾線/神土−草木
231. 桐生機関区のC12たち・足尾線/両毛線桐生駅
282. 渡良瀬渓谷の里山風景・足尾線/沢入〜足尾