自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・常磐線アラカルト
329.  常磐線へのプロローグ ・日暮里〜岩沼
―日本鉄道磐城線のシンボル:金山隧道の社紋レリーフ-

〈0001:日本鉄道会社の社紋レリーフ:金山トンネル竜田型坑門〉


〈0002:社紋レリーフのクローズドアップ〉


〈上の二点の写真の転載の典拠〉:
「廃線レポート 常磐線 旧隧道群11連発 その8」  
http://yamaiga.com/rail/jouban_1/main8.html
jouban_1_152
・転載を快く許可して下さった管理人のyokkirenさまに厚く感謝申し上げます。このサイトには金山トンネル内部を通り抜けした苦難の探索気がきさいされています。

〈写真のキャプション〉
 この常磐線の北半分の前身は日本鉄道の磐城線(水戸〜岩沼間)である。この区間でのシンボル的な存在は明治31年(1898年)8月23日開通の『金山隧道(かなやまずいどう)』ではなかろうか。その証拠には竜田方の入り口(坑紋:トータル)の上に日本鉄道株式会社の社紋である動輪を象ったレリーフが標示されているからである。この金山トンネルは平駅(今のいわき駅)から北へ約33qほどの地点の竜田-富岡間に存在する全長1656mの日本最長のトンネルでもあった。昭和38年に老朽化により配線となり、複線化に際して解像のよていであったが、複線化が中止となり現存しており、土木学会選定の土木遺産Aランクの指定を受けている。
ここでは明治時代のトンネル技術が原形に近い形で保存されている。

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〈紀行文〉
先に『最後の蒸気特急「ゆうずる」シリーズ』をおめにかけましたが、ここに改めて常磐線のシリーズをまとめました。
この沿線は東日本大震災の甚大なる被害を受けられた地域を多く含んでおります。遅ればせながら心よりお見舞いを申しあげます。何卒、一刻も早い再建がまっとうされますことを祈念致しております。
 さて、この“常磐(じょうばん)”と云う言葉は関東の人々にはなじみが深いのですが、ここで改めてその由来を調べてみました。それは明治初期に定められた国名である常陸国(ひたちこく:茨城県の大部分)と磐城国(いわきこく:福島県の東部、浜通り)とお合わせた地域の総称として用いられている地域名であったのでした。
そして、東京の下町である日暮里を起点とし、延長343qの常磐線は正に、この地域を南北に縦貫しています。その南半分の日立付近までの147qはひたすら関東平野を北東へと北上し水戸を経て太平洋岸に達します。それに対して、その北半分の約200qの日立付近から平を経て終点の岩沼までは西に連なる阿武隈高地と太平洋に挟まれた細長く帯状の低平地と山麓丘陵や台地が続いている地域を縦貫しています。その南部は常磐丘陵とも呼ばれていて、幅15〜20qと広く内陸域へと拡がっている夏井川の下流域であって、かっては常磐炭田が栄えていた地域だったのです。
 そこで、常磐線の前身である日本鉄道の海岸線の来歴を述べる前に、この常磐線の通じている北半分の地域の地形や風物について略記することとしたい。先ず、この沿線の西側に連なっている阿武隈高地の地形から始めよう。ここは、阿武隈川の流下る流域を中心とする福島県中通り地域と、太平洋沿岸の福島県浜通り地域との間に位置する山地を指しており、北の宮城県南部の阿武隈川右岸山地(亘理地塁山地から茨城県北部の久慈川左岸の多賀山地に至る、阿武隈川・久慈川・太平洋に囲まれた南北約170q、東西約40qの紡錘形をしているなだらかな隆起準平原であって、平均標高は約500m、最高峰は大滝根(おおたきね)山(標高1192m)の非火山性の大山塊である。この阿武隈高地は海底で堆積した大変古い地層が隆起して陸地となり、はじめはアルプスのような大山脈だったと考えられるが、その後の長年の浸食作用で老年期のなだらかな地形となり、さらに隆起が進み隆起準平原となったと考えられている。この阿武隈高地には侵食による残丘である硬い地質の独立峰が各所に残っていた。この山地中央部から西部のなだらかな山容とは対照的に阿武隈高地東部は、更なる隆起と再侵食により深い渓谷を刻む川、夏井川のような河川が多い。この山地が海底にあったことを物語るものに、田村市滝根の鍾乳洞などの石灰岩地形、いわき市四倉のアンモナイトなどの化石産出地などがある。この阿武隈高地は、全体的に牧畜が盛んであり、1980年ごろまでは、稲作の他に養蚕、葉たばこやコンニャクなどの作物栽培が盛んであったが、近年は野菜、花卉、果樹の栽培へと移りつつある。林業では久慈川流域や阿武隈山地の中部部で行なわれており、20世紀前半には木、原ノ町、浪江の各駅を起点とする長大な森林鉄道が活躍していた。最後に、助川(今の日立)から夜ノ森に掛けての沿岸部は日本有数の鉱業地帯であって、常磐炭田を中心に、銅鉱山や石灰石・耐火粘土などの採掘場などが散在し、20世紀前まで隆盛を誇っていた。
ここで常磐炭田の栄枯衰勢を見ておこう。明治時代の初めに(明治3年ころからか)福島県の浜通り南部にかけての海岸線に面する丘陵地帯で石炭が発見され 常磐炭田の発展の始まりとなった。そして、阿武隈山地の東縁で、北は福島県の富岡町からいわき市を経て茨城県境辺りまでの長さ90q、幅25qにわたって石炭を埋蔵した常磐炭田が分布していることが明らかになり、これは北九州の筑豊炭田、北海道の石狩炭田に次ぐ日本の三大炭田の一角となり、平(現在の「いわき市」)が中心地として栄えた。そして生まれたばかりの炭坑から採掘された石炭は馬車に積まれて小名浜港に集められ、汽船で東京湾へ向かって積み出されていた。
その炭田の地層は、数十mの厚さの更新世末から完新世にかけての海成の砂・泥層が発達しており、段丘は砂礫・泥などの堆積物から構成されている。丘陵地は,礫岩・砂岩・泥岩などからなる白亜紀層,古第三紀層および新第三紀層などからなっている。古第三紀層や新第三紀層の下部には石炭層を挟んでいた。その成員は、今から約3500万年前の海岸地域が沈降した入江状の地形であって、その周囲に繁茂していためたせこいあ・ポプラ・タブの木などが海面の上昇により折り重なって倒れ込み、それらがその後に堆積した土砂に埋まり、地下深く埋没したことにより熱と圧力で炭化し石炭層となる過程を何度も繰り返して、推定埋蔵量百億dともいわれる常磐炭田をつくりあげたとされている。この石炭層は全体として東に傾き、古第三紀白水層群の基底部に2〜4炭層があり、炭層厚さは1〜3mで存在している。この炭質は北海道や九州の石炭と比べると純度が低く、非粘結性の亜歴青炭を主とし褐炭も含まれているようで、硫黄分が多く低カロリーであった。しかし、首都圏に近いという利点を活かして、暖房用、セメントの原料、火力発電やボイラーの燃料などで広く使われた。明治10年に西南戦争が始まったため、北九州からの石炭が京浜地区に入らず不足をきたし、常磐炭の価値が見直されて活況を呈するようになった。それには大資本家が常磐炭鉱の開発に続々と乗り出してきたからである。なかでも小野田で常磐最大の炭鉱を手掛け始めた浅野総一郎さん(後に京浜工業地帯を造成し浅野セメントを創立する実業家)は、磐城炭田の経営をやる決心をした時から鉄道は自分の手でやる考えであったと云う。今使われている小名浜からの船便は戦争があると使えなくなると云う弱点があり、現実に小名浜港から京浜地区への海路では海難事故が多発する問題も生じていたからでもある。
 このような背景から常磐地方での鉄道建設の話題が急速に盛り上がって来た。
 ここで常磐の南の一角である水戸へ鉄道がやって来るまでの明治し初期の鉄道事情に触れておこう。
日本の鉄道の始まりは、明治政府の『鉄道は国が敷設して保有すべきである』とする方針の下で、東京−神戸間の幹線鉄道の建設を決定し、その手初めに人の流動の多い地域の鉄道を支線として明治5年(1872年)に新橋-横浜間を開業させ、関西では明治7年(1874年)に幹線の一部である大阪-神戸間の仮開業を経て、3年後には京都-神戸間の営業を開始している。続いて、東京-高崎間(現在の高崎線)の建設をきめていた。しかし、明治10年(1877年)に西南戦争などの内乱が起こり、政府の財政が窮乏してしまい、建設が決まっていた東京−高崎間の着工を見送っていた状況にあった。それに幹線鉄道の建設も急がれていたのだった。この頃になると鉄道を建設したいと望む地方では、その建設を民間の資金を集めて実施たいとの請願が政府に強く寄せられるようになった。そこで政府は民間資本を取り入れて、会社利益保証などを行う方式で鉄道の敷設を促進させると云う方針転換を決めた。これに最初に具体化したのは、明治14年(1881年)2月に岩倉具視(ともみ)さんが華族などが参加して創立した私立鉄道会社「日本鉄道」であった。その最優先で建設すべき路線は、すでに測量が完了していたが建設に未着工であった東京から高崎に至る区間と、その途中から分かれて宇都宮、福島、仙台、盛岡を経て青森に至る区間となった。そして定められた建設ルート選定の要件は次の3項目であった。
1)東京と野蒜(のびる、後に塩釜に変更)、八戸の各港を結び更に青森港に連絡する。
2)街道沿いの人口の多い都市(東北地方の内陸部)を結ぶ。
3)急勾配はやむを得ないが、トンネルはなるべく避ける。
そして、その建設工費を1,900万円と見積った上で、建設免許の出願を行なった。
この日本鉄道は形式的には私鉄であったが、資金は集めたものの、技術者はゼロであったから、その鉄道建設から運営まで鉄道局の官設鉄道に委託せざるを得なかった。その当時の鉄道技術者はあまり多くなく、イギリス人の指導の下で鉄道建設技術を身に付けた技術者のほとんどが鉄道局で東海道線の建設に従事していたのであった。そこで、官設鉄道のトップであった井上勝さんは日本鉄道の建設を引き受けることとなり、多くの人材を派遣して着工することになった。そして、明治16年(1883年)に第一区線の上野 - 熊谷間を開業し、明治17年(1884年)2月には第二区線(大宮-白河間)の測量・建設が開始された。そして、明治19年(1886年)6月17日に利根川鉄橋が開通して上野-宇都宮間が開業した。しかし、大宮と宇都宮の中間に位置する小山駅は、それより1年ほど早く開業していたのである。
そして、この小山から水戸に至る水戸鉄道が開業したのは明示22年(1889年)であった。
その頃に、平の地元政治家(福島県石城郡上小川村(現福島県いわき市小川町)出身で、当時の磐城郡長、後に衆議院議員) 白井遠平さんが中心となって常磐炭を鉄道によって京浜地方の需要地に運搬するための水戸〜平 間の鉄道の敷設を目ざした『磐城炭鉱鉄道期成同盟』が成立した。それには水戸鉄道・川崎銀行の川崎八右衛門さん、明示の大資本家の渋沢栄一さん、それに前述の浅野総一郎さん、日本鉄道の小野義真社長などの有力者の賛同を得ていた。やがて明示23年(1890年)に資本金250万円の常磐炭鉱鉄道を計画し、水戸−平間の鉄道敷設をを出願した。しかし、当局のトップであった井上勝長官は「金融難の時でもあり、免許しても着工できないであろう」として認可を与えなかった。間もない明治25年(1892年)に公布された「鉄道敷設法」には、国が建設すべき鉄道予定線が規定されており、その中に『一 茨城縣下水戸ヨリ福島縣下平ヲ經テ宮城縣下岩沼ニ至ル鐵道』が制定されたのであった。これに直面した常磐炭鉱鉄道では、明示26年(1893年)に水戸−平間を第1期線、平−岩沼間を第2期線とする建設計画の免許出願を再び起こした。これに対する井上勝長官からの示唆は「この路線は日本鉄道で建設してもらってはどうか。このルートは石炭と云う定まった貨物需要がある上、全線が勾配10‰以下の平坦な有望路線であるからである。」であった。実は、常磐炭鉱鉄道への有力な出資者である浅野総一郎さんと井上勝鉄道局長との会談では、「この海岸線を常磐炭鉱鉄道にやられてしまっては、日本鉄道会社が困るから、必ず同社に建設させ、石炭一トン一哩一銭ぐらいで輸送させるから私設鉄道の建設はやめて欲しい。」との当局の申し入れに対して、浅野さんは「そんなに安く輸送してくれるなら、自分の計画を引込めよう。」と応えた。こんな裏話が伝えられている。このことからも判るように、日本鉄道では既に開通した東北線の宇都宮から仙台の間に25‰の急こう配の峠肥が2か所もあって補機を連結しなければならず、列車運行のネッとして表面化しつつあったからで、勾配の少ない海岸沿いのバイパスルートの開発に意欲を持っていたものと推察される。
そのような当局の意向を受けた日本鉄道では、東北線のお山〜水戸間を開業していた水戸鉄道を明治25年(1892年)に買収し、その延長上に磐城線の建設計画に取り掛かった。そして、先年に日本鉄路の東北線の盛岡〜小繋間を成功裏に完成させた官設鉄道の長谷川謹介技師を明治30年に水戸建設課長として常磐線の建設を任命
した。
★この日本鉄道磐城線の建設を担当したのは当時の水戸建設課長をしていた社内で“豪傑技師”で知られた長谷川謹介さんであった。この型の前歴は、山口県出身で、大阪英語学校に学び、明治7年鉄道寮の通訳、測量手伝いから3年後に技手となった。そして、鉄道寮鉄道頭の井上勝が、将来は日本人の手で鉄道建設を行うために大阪駅構内に創設した工技生養成所へに入学、優等生で卒業した。そして京都−大津間の大津線の逢坂山隧道の建設工事に従事し、明治13年長浜〜敦賀間の敦賀線の柳ケ瀬−麻生口間の工事を担任し、長さ1,273mの柳ケ瀬トンネルなどを約4年間で完成させて、その実力を示した。明治17年に欧米視察に派遣された。帰国後、東海道線の揖斐川(いびがわ)、長良川、そして天竜川(全長1,210m)などの架橋を成功させた。その後に、官設鉄道、鉄道曲盛岡出張所長として、日本鉄道から建設を委託されていた東北線の盛岡-小繋間の建設を担当した。彼の鉄道建設に当たっての信条は「質素堅牢を旨として、装飾をきらう」であったと云う。明治25年4月鉄道局を辞して日本鉄道会社へ入った所で、翌年水戸建築課長となって土浦線+磐城線の建設に当っていたのである。このように隧道建設の経験を駆使して難なく金山隧道を完成させたのである。後に、磐越西線もてがけ、その後後藤新平さんに招かれて台湾の縦貫鉄道も成功裏に開通させている。
そして、水戸以北の水戸〜岩沼間は鉄道敷設法予定線であったので、法律改正の上、明示27年(1894年)11月に免許となった。
それに相まって水戸以西の上野に至るルートについては、水戸線経由+東北線小山直結よりも効率的な石炭輸送を目指して土浦線の見当が進められた。
そして、荒川橋梁を節約するため、東北線川口を起点とする計画がすすめられ、明示27年(1894年)2月に仮免許を得た。そして常磐炭などの取扱駅として、隅田川畔の南千住に貨物駅を設け、田端−隅田川間の支線の仮免許も同(1894年)7月に取得している。
これに対して、鉄道局は南千住を起点にするよう指示した。
そして、常磐線は田端−水戸−岩沼間として建設することになった。そこには田端-隅田川-南千住の貨物支線も含まれていた。そして、田端・土浦・小名浜・平のそれぞれから一斉に着工した。
明治28年(1895)には友部−土浦間が、明治29年には田端−土浦間が開通し、田端−水戸間が全通した。
磐城線の水戸−平間は明治30年(1897年)に開業し、その後は部分開業を繰り返して、久ノ浜〜小高間が開通して、明治31年(1898年)8月23日に田端〜岩沼間が全通した。
その後の明治34年(1901年)には土浦線・水戸線(友部−水戸間)・磐城線・隅田川貨物線を統合し海岸線と改称した。やがて明治39年(1906年)の国有化による線路名称制定により「常磐線(日暮里〜岩沼 間)となった。
それに合わせて、主要な炭鉱からは近くの駅との間に炭坑専用鉄道が敷設されるようになった。たとえば小野田では明示29年の末、小野田・湯本間の専用鉄道を建設して、日本鉄道海岸線の開通に間に合わせている。
 水戸から先の海岸線の建設の模様について述べておこう。水戸を出て最初に太平洋岸に近ずくのは、かっては助川と呼ばれていた日立駅をすぎて、次の常陸多賀辺りからであった。この線は海岸線とはいうものの海の街がを走る所は意外にすくないのである。やがて阿武隈高地の南端に位置する多賀山地が海に迫っている所を越えて福島県にはいると、平(今のいわき)を中心とする夏井川下流の平野が続く。その先は阿武隈高地から櫛のはのように海へ突き出すように尾根が迫っている地形が続く。この尾根の間には海に注ぐ河川が流れ下っていて狭い谷底平野と丘陵とが繰り返して続いていた。竜田と富岡の間は台地が海に張り出していて、そこには福島第二原子力発電所の脇を金山トンネルで通り抜けている。この先で海寄りに大回りをしながらトミオカをぬけて、サクラ並木や駅ホームのツツジが鮮やかなことで知られる夜ノ森は平藩と中村藩との境である。しばらく三冠をすぎて、その先には原町から相馬に続く平野があって宇多川が注ぐ潟湖である松川浦がそんざいしている。この先は福島/宮城県境に当たる山地が海にせりだしていて、ここを超えると仙台平野の南端に当たる亘理海岸平野となっている。このような丘陵と谷が繰り返される地形を横断しながら勾配を10‰以下に抑えるレためには、数多くのトンネル、谷を埋める大築堤、川を渡る鉄橋がめまぐるしく数多く設けなければならなかった。この 岩城線の平駅以北では22箇所のトンネルが掘削され、四倉〜久ノ浜間には鞍掛山トンネル(全長 545m)、竜田〜富岡間には金山トンネル(全長 1,654m)の長大トンネルもあり、後者は開通当時日本最長の隧道であった。これらのトンネルの坑門にはそれぞれ個性のあるデザインが施されていたり、内部は煉瓦巻き構造が用いられているのが特徴であった。この地方では、煉瓦製造の原料となる粘土や燃料の石炭の入手が容易であったことからか、沿線で煉瓦製造工場が設けられ多量の赤煉瓦がトンネルや橋脚などの築造に供給されたとされている。幸運にも電荷、一部の複線化に際して新トンネルが設けられたことから廃船となった隧道部分は明治の面影を残して現存しており、近代化産業遺産として保存されつつある。
それに最北部では、川幅の広くなった阿武隈川には橋長 652mを下路プラットトラス橋(径間 60.9n、handy−Side社製)8連、+プレートガーダー (径間 18.1n)9連を鉄橋を掛けている。
このように平坦線であるとは云え、トンネルが多く、アップダンンの繰り返しの多いことは青森直通の急行旅客列車や1000噸牽引の貨物列車などの運行には一層の苦労が強いられたのであったことは見逃せない。
この線の開業に備えて、日本鉄道では低カロリーの常磐炭を確実に燃やすことのできる広火室を備えた蒸気機関車をアメリカのボールドウイン社に設計依頼して輸入したのだった。この中の貨物用機関車には世界初の車軸配置である2−8−2(1D1)型が含まれており、これは日本に経緯を表してアメリリカでは「ミカド タイプ」の車軸配置の呼び名を与えたことで知られていのであった。これが、後の国鉄9700形蒸気機関車である。蒸気機関車の最後の時期には「メカニカル・ストーカー(自動給炭機)を装備したC62、D51が平、原ノ町区に配備されていた。
 やがて明治39年(1906年)に鉄道国有法により私鉄の日本鉄道は国有化されてしまい、そして明治42年(1909年)には日暮里〜岩沼間が常磐線のメインルートとなった。そして速くも大正13年(1924年)には平駅までの複線化が完成して輸送力の増量が図られ、昭和に入るとさらに電化や複線かも進められ、1965年(昭和40年)までには上野〜平間の電化が完成し、平らから先の複線化も四ツ倉までとと富岡ー夜の森間に進められていた。一方、東北本線では上の〜盛岡間の電化も同時に開業した。


〈関連サイトのリンク〉
・常磐線アラカルト
230. 平駅での発着風景・常磐線
300. 常磐線 四ツ倉駅界隈(かいわい)
-住友セメント専用線・明治の古典SL:600号−
295. 波立(はったち)海岸を行く常磐線・四ツ倉-久ノ浜
328. 金山トンネル & 富岡界隈(かいわい)・竜田〜夜ノ森
304. 阿武隈川鉄橋を渡る・常磐線/逢隈〜岩沼
192. 常磐線のどこかで平〜岩沼 間
・最後の蒸気特急、常磐線の「ゆうずる」
322. C62 特急寝台「ゆうずる:プロローグ
323. C62 特急寝台「ゆうずる」:快走 T ・木戸-広野-末続
324. C62 特急寝台「ゆうずる:快走 U ・夜ノ森〜末続間
325. C62 特急寝台「ゆうずる:ブルートレイン快走・夜ノ森〜末続
326. C62 特急寝台「ゆうずる:平駅発着風景
327. C62 特急寝台「ゆうずる:平機関区にて