自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・常磐線アラカルト
328.  金山トンネル & 富岡界隈(かいわい) ・竜田〜夜ノ森

〈0001:bO71032:富岡大カーブを登る377貨レ〉
『手前の上り線の築堤から撮っている。電化のポールが建植された背後に見える家並みは富岡町の中心街である。』


〈0002:bO7096-4:急行「第4 十和田」 昭和42-9-9-10撮影〉
『富岡駅を通過して、左に大きくカーブを切った急行「第4 十和田」がC62に牽かれて10‰の登り勾配の長い築堤を疾走してきた。太平洋上に昇った朝
日は未だそれほど高くなかったから、低い斜光線が列車の右サイドを明るくしてくれていた。』


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〈紀行文〉
ここでは、平駅(今の いわき駅)から北へ6つ目の木戸駅から北へ竜田駅、そして常磐線最長の金山トンネルを抜けて、太平洋岸に近かずくように大回りして富岡駅を経て、大きなカーブを描いた築堤を登って再び内陸の夜ノ森駅に向かう沿線を訪ねた。この辺りは、特急寝台「ゆうずる」の上り 6レを撮影することの出来る北限であって、その季節も9月までが限界であった。
写真は富岡駅界隈(かいわい)て撮った作品を中心に掲げ、紀行文には金山トンネルと、富岡付近の「大迂回ルート」についての話題を中心にまとめた。
なお、金山トンネルのシンボルである竜田側のトンネル入り口上武に掲げられた元 日本鉄道の社紋レリーフの写真は、このシリーズのプロローグである
〈329. 常磐線へのプロローグ・日暮里〜岩沼間〉
―日本鉄道磐城線のシンボル:金山隧道の社紋レリーフ-
に譲って、そちらに掲示してあります。
 さて、 ここで、下り列車に乗ってみよう。この木戸駅を出て左手の宿場の北のはずれを過ぎると再びのんびりとした水田地帯を狭い築堤で走って行くことになる。左手の内陸側を走る国道6号が近づいて、また遠ざかって行った。やがて全長約120mの木戸川橋梁を渡ってすぐに、
阿武隈高地から天神岬へと太平洋に迫る低台地を切り通しで登って行く。そして次の谷では、楢葉(ならは)町の中心である竜田駅を通過し、短い井出川橋梁を越えて常磐線最長の1654.76mを誇る金山トンネルを目指して築堤を登って行く。
この竜田駅と富岡駅との間には阿武隈高地から太平洋に向かって標高は高くはないが幅の広い台地が張り出して来ていて、この台地の海沿いには福島第二原子力発電所が立地している。この海へ向かって張り出して来た山地には名前がありそうなものだが見つからなかった。
この常磐線は峠の多い東北本線のバイパス的な平坦セントして期待されて建設されていたから、その線路の勾配は10‰以下に抑えなければならなかった。そこで、この丘陵全体を当時の国内最長となる延長 1646mの金山隧道を掘削しなければならなかったのであった。
 この岩城線の建設の総指揮を取っていたのは官設鉄道から日本鉄道に乞われて転籍したばかりで、水戸建設課長に就任していた長谷川謹介さんであった。氏の前歴は、山口県出身、大阪英語学校に学び、明治7年鉄道寮の通訳、測量手伝いから3年後に技手となった。そして、鉄道寮鉄道頭の井上勝が、将来は日本人の手で鉄道建設を行うために大阪駅構内に創設した工技生養成所へに入学、優等生で卒業した。そして京都−大津間の大津線の逢坂山隧道の建設工事に従事し、続いて明治13年には長浜〜敦賀間の敦賀線の柳ケ瀬−麻生口間の工事を担任し、長さ1,273mの柳ケ瀬トンネルなどを約4年間で完成させた実績の持ち主であった。その後、官設鉄道(鉄道曲)の盛岡出張所長として、日本鉄道から建設を委託されていた東北線の盛岡-小繋間の建設を担当した。彼の鉄道建設に当たっての信条は「質素堅牢を旨として、装飾をきらう」であったと云う。
このように隧道建設の経験豊富な長谷川技師の監督の下で建設が進められた。
この長大な隧道の掘削工事の工期短縮のために、山の上から縦坑を二箇所掘って、合計六方向から掘削すると云う難工事で取り掛かった。このトンネル工事を始めると、以外にも大量の湧き水に遭遇した。そこで排水ろとしての側溝がトンネル内に設けられることとなり、トンネルの中ほどをサミットとして竜田方へは2.5‰、富岡方へは7.1〜10‰の下り勾配が付けられて廃水の便を図ったようだ。この勾配はSLの運転に苦労を強いたようであった。
この難工事の完成に際して、竜田方の坑門には独特の歯状門の意匠が施され、歴史的価値の高い日本鉄道会社の動輪をデザインした紋章のレリーフが輝いていた。一方の富岡方の坑門には、迫石に煉瓦ではなく五角形の盾状迫石を用いらて、また「金山隧道」(かなやまずいどう)の文字が刻まれた石製の扁額(へんがく)が掲げられると云う技巧を凝らした作りとなっている。
この当時としては画期的な長大トンネルの完成であり、当時の日本最長、日本鉄道で最長のトンネルであったから、その完成を慶賀しての記念であったのであろう。
 この明治生まれのトンネルは昭和38年には老朽化を理由にひと足早く新トンネルに切り替えられている。この沿線の開業以来のトンネルでは電化の際に架線を張るための断面が確保出来なかったことから、できるだけ近くの場所に新トンネルを掘り、これにあわせて線路も新線に切り替えられた。そして、複線化の際には旧トンネルを改修する予定であったのだが、それが見送られたことから数多くの旧トンネルがそのまま残され、今も明治時代の種々のトンネル技術やデザインを原型に近い形で観察することが出来るのである。ちなみに金山トンネルは土木学会が選定する土木遺産“A ランク”に指定されている。私は現役当時は金山トンネル付近へは近づいたことはなかったが、後年になって「日本鉄道の社紋」の話題を聞いたことから、それを撮影するために、石巻線の万石浦への撮影の往路に立ち寄って撮影を試みたことがあった。
 下り列車が金山トンネルを抜けて右カーブの途中から西に分岐するのが金山信号場の待避のための複線であった。この金山信号場から金山トンネルのサミットまでは、10‰の上り勾配が続くので、上り列車の待避のための加速線が海側に築堤で設けられていた。この信号場は常磐線の最盛期であった1960年(昭和35年)に新設され、北海道連絡の直通列車の通過のために待避した数多くの列車がそれを見送ったのだろうか。
ここで参考に、金山トンネルと金山信号場を通過する 201レ 「第2 みちのく」号 青森行急行(現車13両、換算48.5両)を牽引するC6222号への添乗時の描写を紹介しよう。これは 「SL Photo Library」 を主宰されておられる古矢 眞義さまの
〈C62に添乗して http://www.frg.co.jp/~furuya/johban07/tenjyoki.html〉
から引用させて頂いたことをしるし、感謝申し上げます。
『ドラフトの音とともに、「第1閉塞進行!」機関士。 「第1閉塞進行!」と助士。 「第1閉塞進行.......」私(極めて低い声) 「次、金山! 通過」、「次は金山! 通過!」
 常磐線で最長の金山トンネルにリバース25、レギュレター100%、速度75kmで突入。するとと、シンダが、バシバシとキャブ内にまい込んでくる。あわててタオルで口をおさえ、目をつむる。しかしこのくらいの速度になるとかなり楽になる。うっすらと目もあけられる。1/3もすぎたろうかと思われるところで絶気だ。
 機関士「閉める!」と加減弁ハンドルを軽くたたく。助士「オーケー!」給水ポンプを止めインジェクターのコックにかかる。
キャブの下から、ヒューンという音が一瞬聞こえ、インジェクターがかかる。機関士はゆっくりと、加減弁ハンドルを閉めていく。バイパスを開ける。トンネルの出口が見えた。
「金山場内進行!」 「金山場内進行!」
パッと明るい夏の日差しをうけてトンネルを出ると、すぐに金山信号場。交換列車もなく、70km/hでポイントをわたり、出発信号の中継信号を喚呼、続いてすぐ青い出発信号を喚呼する。「開ける!」再び機関士の声が耳に入り給気運転に移る。』
 さて、 この先の線路は次第に海側に近づいて行き、紅葉川を渡り低い切り通しを抜けて最も海に近い仏浜を走って富岡駅に着いた。この富岡駅は富岡町の中心市街地から南東へ約1km弱ほど離れた海側に位置しており、明治31年8月23日に、磐城線が全通した時に開業している。富岡を発車して富岡川を渡り、直ぐに大きく左カーブを描きながら長い直線の勾配 10.3‰の築堤を上り始めた。この区間は複線となっていたから撮影には便利であった。この辺りは田園が広がっており、後方に太平洋が望まれるし、左手には富岡の街並みも展望できた。やがて左手に近づいて来た国道六号線を架道橋で跨ぐと北へ向きを変えて切り通しを夜の森へと上り坂は続いていた。
一般に常磐線は海沿いを走るイメージが強いが、実際に車窓から海を望める場所はそれほど多くはない。その中で、富岡付近は、海をバックに列車を撮影できる貴重なロケーションを恵んでくれていた。
 ところで、下り列車に乗って、で山側の車窓に座っていても富岡を過ぎると海が見えるというくらい回り込んだ線形となっているのには驚かされた。要するに富岡川の作る谷をを横断するのに直線的なルートを採らずに海側へ大きく迂回しているのである。四ツ倉から北上してくる間に越えてきた多くの山や谷はトンネルや切り通し、そして橋梁を架けて一直線に横断してきていたのだったのに、金山トンネルを抜けてからは大きく迂回ルートを選んでいるのである。その理由には諸説があるようだ。
 富岡町で伝えられている話には、本当は金山トンネルを抜けてから富岡町手前の大膳町付近の丘陵をトンネルで抜けて富岡の集落に出て、駅を設置する予定だったのだけれど、当時の住民たちは汽車の知識が無かったからこそ、鶏が玉子を生まなくなるとか、米が実らなくなるとかの迷信が蔓延して、有力な地主が買収を拒否したとかで、地域をあげての忌避に結びついたというのである。
一方では、金山トンネルに続いて長いトンネルの必要性と、勾配の緩和には長大な築堤と、それに続く橋梁が必要であると云う技術的理由から、容易にルートが設定できた迂回ルートを選定したと云うのである。
いずれにせよ当時の日本鉄道では、東北本線における急勾配の存在が列車のスムースな運行を妨げていたことを反省して、そのバイパス路線としての常磐線を平坦線として建設することが求められていたから、何を置いても勾配は10‰を越えない方針であったようである。それ故に富岡町から離れた場所に富岡駅を設けることも許容したものと推察しているのだがいかがであろうか。現在のように鉄道高架橋を多用することが出来たならば、あのような大規模な迂回ルートとはならなかったであろうが。現実には、C62が北海道連絡の直通列車を牽引して、その威力を余すところなく発揮して高速で長い築堤を疾走するシーンに出会うことが出来たのであった。

撮影:1967年(昭和42年)

〈関連サイトのリンク〉
・常磐線アラカルト
329. 常磐線へのプロローグ・日暮里〜岩沼
―日本鉄道磐城線のシンボル:金山隧道の社紋レリーフ-
230. 平駅での発着風景・常磐線
300. 常磐線 四ツ倉駅界隈(かいわい)
-住友セメント専用線・明治の古典SL:600号−
295. 波立(はったち)海岸を行く常磐線・四ツ倉-久ノ浜
304. 阿武隈川鉄橋を渡る・常磐線/逢隈〜岩沼
192. 常磐線のどこかで平〜岩沼 間
・最後の蒸気特急、常磐線の「ゆうずる」
322. C62 特急寝台「ゆうずる:プロローグ
323. C62 特急寝台「ゆうずる」:快走 T ・木戸-広野-末続
324. C62 特急寝台「ゆうずる:快走 U ・夜ノ森〜末続間
325. C62 特急寝台「ゆうずる:ブルートレイン快走・夜ノ森〜末続
326. C62 特急寝台「ゆうずる:平駅発着風景
327. C62 特急寝台「ゆうずる:平機関区にて