自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・常磐線アラカルト
295.  波立(はったち)海岸を行く常磐線 ・四ツ倉-久ノ浜

〈0002:021154:日の出前の久ノ浜海岸〉
海面のギラギラを入れたかったが場所が探せなかった。また違った季節に来ること


〈0001:040555:弓なりの久ノ浜の海辺を一望、1965年8月13日撮影〉

俯瞰(ふかん)ポイント探しに難渋した思い出が残


〈0003:04551:鞍掛山トンネル飛び出し、C6211号〉

トンネルの上の山は波立山(はったちやま)と呼ばれていて標高は 70mには届かない


〈0004:bO80222:久ノ浜をバックに〉


〈撮影メモ:昭和43年9月24日撮影〉
常磐線電化直前の雨の強い日に最後の常磐線に出かけて久ノ浜に半日粘った。
雨に煙る波立海岸(はったちかいがん)をバックい“最後の常磐のSL”が撮れた。

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〈紀行文〉
 今回も夜明け 間もない時間帯に常磐線の広野駅付近での寝台特急上り「ゆうずる」を撮ってから、四ツ倉駅から久ノ浜駅に掛けての波立(はったち)海岸に沿った高台を走る列車を狙って終日過ごした。この場所は常磐線が茨城との県境の勿来(なこそ)の関の辺りで海を見てから内陸を北上してに再び海に面する所なのであった。そして、その夜は四ツ倉駅から西の山麓に入った玉山鉱泉に宿を取ると云う優雅な撮影行であった。ここは、阿武隈山地から太平洋に張り出して来た南北二つのソレホド高くない尾根である鞍崖山と波立山を二つのトンネルで抜け、美しい弓なりに約3qも続く久ノ浜の海辺を見下ろしながら走り、再び西からの丘陵が太平洋に向かって突き出している殿上崎の岬に続く尾根の下をトンネルデ抜けて北上して行くと云う素晴らしい海辺の風景であった。この開けた風景を背景に列車を捕えた作品をご覧に掛けたい。
ここでは、太平洋に面した浜通りの南端に広がる細長い平野の中心である平(現在の“いわき”)の市街を抜けた常磐線は豊かな水田地帯を北進して西側から阿武隈山地の猫鳴山(標高 820m)や三森山(標高 656m)が近づいてきて平野が尽きようとしてきた。その猫泣山を源に太平洋に注ぐ仁井田川を渡ると目指す四ツ倉駅が近づいた。ここまでの平野の中の道筋は、最も内陸に常磐線が北上しており、それに絡まるように旧岩城相馬街道(明治に入って陸前浜街道と命名された)が通じており、最も海岸寄りに国道6号線が走っていて、四ツ倉町に入ると太平洋の波が見えるほど近づいていた。この辺りでは山が海まで張出していて、狭い平地に人家が密集しているのが四ツ倉宿の辺りのちけいであろう。

四ツ倉駅に付いてみると行く手約 600mほど先に阿武隈山地から張り出してきた丘陵が迫っていた。この駅の西隣には住友セメント四ツ倉工場が操業していて、そこからの専用線が駅の側線へつうじていて、明治の古典SLであるイギリス生まれのD型タンク機が入れ替えに励んでいた。
この駅は明治30年(1897年)に元 日本鉄道の海岸線の四ツ倉停車場として開業した。早くも、その翌年には西隣に岩城セメントが創設されて、そこからの専用線も開通すると云う歴史を持っていた。この開業した停車場は海に面した四ツ倉漁港や、県道となった陸前浜街道に沿った四ツ倉宿の街並みや国道6号線からはいささか離れていた。私の訪ねた昭和40年代には駅前から旧街道につながる駅前通りには賑やかな商店街が栄えていたし、その東の港のある海岸地域は工業地帯に発展していて、海側に国道6号線が昔の宿の街並みを避けて通じていた。
 さて、四ツ倉駅に戻って列車で出発すると、ここから先は未だ単線のままとなっていた。間もなく右手は崖となり、左手の10mもある築堤の下には住宅地が広がっていた。やがて 220.4キロポストを過ぎると、この先の丘陵の崖下を線路は全長 545mの鞍掛山トンネルへ突入する。何故か、このトンネルの手前の線路脇は意外と幅な広い草地が広がっていたが、朝の日当たりが思わしくなく撮影に苦労した思い出が残っている。このトンネルを抜けると谷間を渡る築堤となり、谷川の暗渠、小さな踏切を越えると、直ぐに再び向山トンネル(全長 91m)を抜けて右手下に広がる太平洋を見下ろす開けた高台を快走する。近づいてきた久ノ浜駅の前後は弓なりに広がる波立海岸・久ノ浜の海岸線と、松林が一望できる絶景の車窓が現れた。到着した久ノ浜駅は相対式コームで、上りホームは改札口へ直結していて、駅前は旧街道の久ノ浜の宿場の街並みであった。この駅を出ると直ぐに原見坂トンネルに入っている間に、国道はトンネルの上を越えて北上する。線路は再び海に近くなる。次の末続駅との3,6qの間には5つのトンネルガ続いていて、常磐線、国道六号線、それに旧 岩城相馬街道が三つどもえになって、くぐったり跨いだり、あるいはトンネルで近道をして峠を抜けたりと、複雑な関係を続けて北へ向かっていた。
 さて、 ここで、掲げた作品の撮影メモをご披露しておこう。
最初の〈0002〉の写真は日の出前の久ノ浜での逆光の景色です。もっと季節を考えて再挑戦をしなければとおもいつつ過ごしてしまいました。ここの松林は300年前に苗を植えてから間引きをしないまま育ったので密生した防風林となっています。
 次の〈0001〉は常磐線久ノ浜の海辺のSLです。向山トンネルが貫いている波立山に続く尾根へのちゅうふくで俯瞰(ふかん)した写真です。海に浮かぶ小島は弁天島のある波の荒い波立海岸のあたりです。撮ったのは子供たちの夏休みの一日で、遠浅の砂浜で水遊びをしていました。
 次の「0003」は波立つトンネルから飛びだしてきた客レです。牽引機はC6211号でした。このトンネルから左側の海辺は波立ち海岸で玉舎利で埋め尽くされた浜が約180mも続いていた。冬の強風の季節には玉ぎゃりは海にさらわれてしまいますが、春になると再び海の底から波打ち際に戻って来ると云う不思議な自然が営まれていた。
 ここからは旧街道筋を辿って沿線の地形や風物詩について触れて見たい。先ず、現在の(昭和40ねんだい)の国道6号線はすでに旧街道からバイパスが海側に開通していた。国道が北上して四ツ倉町に入ると、右手には、打ち寄せる太平洋の白い波が見えて来て、四ツ倉漁港の近くをすり抜けて山を少し登ってから江之網トンネル(全長 108m)を抜け、それに続いて波立トンネル(長さ 126m)を抜け急カーブを下って行くと海辺に沿った久ノ浜街並みは近い。
ここで、素に戻って四ツ倉駅前通りと旧街道が接する辺りに立って見ると、その海に沿った国道と山に挟まれた細長い旧街道筋に四ツ倉宿の古い街並みがあった。それは街道を挟んで東西1丁目から4丁目まで続いていた。その中心の西三丁目左手に郵便局があり、木造の古い家にまじって大正時代風のハイカラな石造りの店も見かけられた。その先の北の端で、国道六郷を起点にした県道41号小野四ツ倉線の大通りに出て直ぐ「かぎ形」に北に折れて5丁目に入り、左手に東北一の大師堂を誇る如来寺があった。この先を行き過ぎると大通りと海が見えて来てしまった。旧街道は少し引き返して左へ折れて山へ向かう道筋であった。確かに、浜沿いを走る国道6号線に対し、旧道は山中の道を北進しているようだ。
この四ツ倉から久ノ浜へ通じる道には新旧二つが存在していた。その一つは「古道 四ツ倉太夫坂(たゆうさか)」である。このルートは危険を伴う海岸沿いを避けて、一番山側を通る経路であったのだが、
奈良時代の都から東北地方の陸奥(むつ)の国へ向かう官道の一つに東海道があって、その最大の難所の勿来(なこそ)の関に次ぐ難所とされていて、この古道の山越えは“雲に橋を架け渡って行くが如し”と伝えられていた。先の如来寺の左手の路地を入って行くと、太夫坂に通じるとの案内があった。四ツ倉宿を抜けてやや急な坂道へ入り、振り返れば四倉漁港あたりの海が見下ろせた。そして、志津集落を経てもう一つの峠を越えれば波立(はったち)海岸が見えて来ると山の麓に祭られた波立寺(はりゅうじ)の裏に出たのだった。
もう一方の道は「四倉の切通し」と呼ばれた難所であった。方向としては四ツ倉から海岸を北へ向かい、残された細長い平地に抜け出る感じであって、ここには江之網の浦があって、四倉の浜から潮の干満を見計らい往来していたと云う。この山に囲まれた江之網の地の小さな浦(うら)は、海運が発達した江戸時代には、風待ちにも使える天然の良港であって、幕領の年貢米搬出港として賑わうようになった。18世紀後半には海に面した断崖をなす小さな岩山を切り通しで開き、海沿いに石垣などを作って波打ち際に街道が移されたのであった。その先の街道は江之網集落を見下ろしながら坂を登り国道六号線の波立トンネルの山上を越えて標高差30mほどを下って横内集落に出る。ここを北へ直進、して山すそを下れば久ノ浜の弓なりの海辺に沿って北上するひ国道6号線に合流する。一方で、ここを右折して急坂を下ると波立山の山すそに波立寺(はりゅうじ)の山門の前を通る。
この寺は「いわき三薬師」の一つとして知られていた。本道の赤い柱に「浜街道十二薬師霊場第7番」の札が掛けられていて、ここの本尊は木造薬師如来懸仏である。この寺は、大同元年(806年)に徳一大師によって開基されたと云うから平安初期の古てらである。この徳一大師は法相宗(大本山は奈良の興福寺、薬師寺)の学僧出身で、民衆への布教を志して陸奥の国の会津へ下り、江戸時代の中通りと会津を結んでいた二本松街道の大寺宿(今の磐越西線、磐梯町駅)の地に慧日寺(えにちじ)を開基さてる一方、会津の地から当時の新興仏教勢力であった天台宗比叡山の伝教大師最澄との放論の大論争を繰り広げたり、真言宗高野山の弘法大師空海へ法論文を送るなどの活動で知られる唯識(ゆいしき)学の高僧であった。この寺の規模は寺僧300人、僧兵3,000人、寺領18万石という大きさで、当時の東北奥地への仏教
布教の拠点であったと云う。
 ところで、この寺の広大な境内と、その裏山から国道6号の波立トンネルを越えた岬一帯は、波立海岸の樹叢として天然記念物となっていて、ヤブツバキやトベラ・スダジイ・ツワブキなど多くの海岸性の暖地性植物の自然林であることでしられていた。
それに、この岬の波立山の尾根は、いわき市が成立する以前は石城郡四倉町と楢葉郡久之浜町との郡境でもあったようだ。それに、戦後の国道六郷線の改良によって、この寺の正面が国道に直接面することになってしまった。寺をでて、国道を横断(後に歩道橋が設けられた)すると正面には
会場に衝きだしたようにそびえる岩礁、それに弁天島と云う小島を前景にした長さ約180mの玉砂利を敷き詰めた波立海岸の絶景が眺められ、そこへ近づく道が続いていた。残念ながら、東日本大震災により荒れ果ててしまい、テトラポットに守られた姿となっている。ここは「初日の出」の名所であって洋上の奇岩のシルエットが絵になるのは健在であった。
 さて峠から再び街道をたどることにしよう。峠を下った横内集落を北へ直進、しばらくすると国道に合流する。
この一帯が「古奴美(こぬみ)の浜」と云われていた平安時代末期に、歌人の西行法師が陸奥を旅して、この地に立ち寄って、
『陸奥(みちのく)の古奴美(こぬみ)の浜に一夜(いちや)寝(ね)て、明日や拝まむ波立の寺』
と詠まれたことから、歌碑が建てられている。
この右手は約3qも続く弓なりの美しい砂浜に沿うようになる。この浜辺は「古好美こぬみ)が浜」と呼ばれるようになり、街道が海辺に接近し、防潮林の松が連なっている開けた美しい海浜である。
やがて、線路と6号線が寄添うようになり、山が迫ってきて中浜付近で国道から線路近くへそれた街道は久之浜宿へと向かう。久之浜は古くから漁業の町として栄えており、潮の香りと魚の臭いが漂う宿場町であった。街道は久之浜の町を南北に貫いて、国道を横切るて町場外れで西にそびえる三森山を源に流れ下って来た大久川が海へ注ぐ所へ出た。この北側は殿上崎の岬へ続く丘であって、その上にも集落が密集していた。その右手方向は、けわしいほぼ垂直に切り立つような白い崖の上に木々の緑を載せた岬が海に突き出している。この岬の北側の根本には比較的大きい久之浜の港があって、古くから漁業が栄え、藩や幕領からの廻米の江戸への搬出港として使われてきていたが、近年は波の荒い外航の避難港となっている。

撮影:昭和40−8−13。

〈関連サイトのリンク〉
・常磐線アラカルト
329. 常磐線へのプロローグ・日暮里〜岩沼
―日本鉄道磐城線のシンボル:金山隧道の社紋レリーフ-
230. 平駅での発着風景・常磐線
300. 常磐線 四ツ倉駅界隈(かいわい)
-住友セメント専用線・明治の古典SL:600号−
328. 金山トンネル & 富岡界隈(かいわい)・竜田〜夜ノ森
304. 阿武隈川鉄橋を渡る・常磐線/逢隈〜岩沼
192. 常磐線のどこかで平〜岩沼 間
・最後の蒸気特急、常磐線の「ゆうずる」
322. C62 特急寝台「ゆうずる:プロローグ
323. C62 特急寝台「ゆうずる」:快走 T ・木戸-広野-末続
324. C62 特急寝台「ゆうずる:快走 U ・夜ノ森〜末続間
325. C62 特急寝台「ゆうずる:ブルートレイン快走・夜ノ森〜末続
326. C62 特急寝台「ゆうずる:平駅発着風景
327. C62 特急寝台「ゆうずる:平機関区にて