自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・最後の蒸気特急、常磐線の[ゆうづる]
325.  C62 特急寝台[ゆうづる]:ブルートレイン快走

〈0001:bO7084?:鮮やかなヘッドマークを付けたC62・s42.8.12.〉
『昔の年賀状に使われた作品、夜ノ森→富岡間であろう。』


〈0002:bO7073:夜ノ森付近、S42.8.12.〉


「0003:7-5-8:カーブの築堤を快走する[ゆうづる]・s42.7.30.〉
『背景は阿武隈高地の低い山々、反対側には太平洋が見える。海岸線沿いに走っている常磐線のだが海を見るところは少ない。』


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〈紀行文〉
 寝台特急[ゆうづる]を追い掛けて常磐路に通い詰めて、あの“ヘッドマーク”の魔力に惑わされるようなことがなくなったのは夏の盛りを過ぎた頃からであった。何とか限界目一杯のC62と20系の寝台客車13輛のブルートレインの全編成の“絵になる勇姿”を撮ろうとポイント探しを始めた。
この寝台列車[ゆうづる]の13輛編成の内訳は:
← 上野 電源車 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 青森 →
電源車:カニ20またはカニ21(これは他の車両に比べて重い。)
1号車:ナロネ21
2号車:ナロネ21
3号車:ナハネ20
4号車:ナハネ20
5号車:ナシ20
6号車:なはね20
7号車:ナハネ20
8号車:ナハネ20
9号車:ナハネ20
10号車:ナハネ20
11号車:ナハネ20
12号車:ナハフ20(座席者)
であった。
 この頃、すでに電化訓練も始まっており、架線柱を避けるように撮ったのだが、レンズは標準一本だけの初心者で思うに任せず5枚の中から選んでお目に掛けた。
この[ゆうづる]の撮影は早朝でしかも高速でやってくるので苦労もそれだけ多かっただけでなく、機関車の正面に日光が当たることはまず難しく、快晴よりは薄曇りの方が雲に反射する光が回るようで、ヘッドマークをスッキリ撮ることが出来たのだった。当時の私には高速で走る[ゆうづる]を低い感度のカラーフイルムで撮るだけの技量が無く、せいぜい機関区の静止画像だけであったのは残念至極であった。何しろ駅間での最高速度は90km/hにも達すると云う疾走振りであったから、総重量410トンの13輛編成を牽引するC62を運転する甲組仕業の乗務員の苦労もさることながら、撮る方もヘッドマークを止めて撮りたいし、これもまた苦難の技であったといえるだろうか。
 ここでなめるようにして5万分の一地形図を片手に沿線を歩き回ってきたので、主に上り[ゆうづる]を狙った四ツ倉駅から木戸駅の先までの沿線風景の昭和42年代の風景を眺めて見たい。
この太平洋の浜沿いを南北に貫いているのは江戸時代の岩沼街道や明治以後の陸前浜街道の名の付いた旧国道、それに今の国道6号線、そして常磐線が三つ巴(みつどもえ)となって、くぐったり跨いだり、あるいはトンネルで近道したり峠を越したりしてからみ合いながら通り抜けているのであった。その旧街道の宿場で云えば平宿から四ツ倉宿→久ノ浜宿→広野宿→木戸宿→そして富岡宿となっていて、常磐線で云えば平駅から草野駅→四ツ倉駅→久ノ浜駅→末継(すえつぎ)駅→広野駅→木戸駅→竜田駅、そして富岡駅と云うことになる。この間で渡る谷間は阿武隈高地の山々から東へ太平洋に流れ下る河川が作ったもので、その河川は南から小久川、大久川、末続川、折木川、浅見川、北迫(きたば)川、木戸川、井出川、紅葉川、そして富岡川などがある。しかし谷と谷との間の丘陵(尾根)には特に名前がないのは不思議だった。
さて、この浜通りの中核である平(今の「いわき」)を過ぎると常磐線の沿線の風景は東北のローカル色を濃くしてくるのは今も変わらない。平駅から二つ目の四ツ倉駅の西隣には住友セメント工場があって、その専用線の玉山鉄道が接続していて、北西の山奥にある八茎(やくき)鉱山との間の約6kmを石灰石を積んだ鉱石列車が往来していた。一方四倉駅と工場の間の専用線では明治生まれのイギリス、ナスミスウィルソン社製の600型のDタンク機であって、当時の四ツ倉駅は明治の古典SLのメッカであった。この先は単線となるのだが、何故か線路沿いは原っぱが広がり、その視野の奥には丘陵が迫り、そのすそを鞍掛山トンネル(545m)と向山トンネル(91m)が貫通していた。一方の国道6号は山をはい登ってから江之網トンネル(108m)と波立トンネル(126m)で、旧街道は「四ツ倉切り通し」の峠を越えて海が見えてくると、初日の出で知られる波立寺(はりゅうじ)の裏に出て、久ノ浜に向かって下っていた。
この樹木の緑の濃い丘陵が海に突き出て荒涼とした岩肌を見せ、海中にそそり立す「鰐ガ淵(わにがふち)」と呼ばれる岩礁(がんしょう)と、それに海辺を小粒の玉砂利がぎっしりと埋めているのが波立(はったち)海岸の絶景であった。
一方の常磐線は峠の下を抜けると谷間に広がる久ノ浜に面した高台を北上するから久ノ浜駅の前後は広く開けた海が一望できるのだが、それもつかの間、やがて山が迫ってきて次の末続駅との3,6kmの間に5つのトンネルガ続いていた。この辺では日の出と一緒に[ゆうづる]を撮れるのは3月の下旬頃であった。
そして原見坂トンネル(273mを抜けて1kmほどで大沢トンネル(226m)、間髪を入れずに天神沢トンネル(85m)に入る。この辺りはすぐ横まで海が迫っている。直ぐに次の深谷沢トンネル(172m)が見えてくる。続いて館ノ山トンネル(109m)をくぐれば直ぐ末続(すえつぎ)駅構内となった。ここは末続川の小さな谷間にある
信号場であったのだが、戦後に小さいながら駅に格上げされたのは近くの浜辺の集落の人々の願いだったからだと云う。次の広野駅との4.8kmの間には4つのトンネルが連続している。この末継駅を出て約1Kmほど行くと末続トンネル(360m)が現れ、それを抜けて約500mほど走ると夕筋トンネル(206m)がある。この先には台ノ山トンネル(156m)があり、この前後は築堤が続きていて、潮騒(しおさい)が聞こえてくるほど海が近い所だ。その先で短い折木川橋梁を渡り築堤を登って東善寺トンネル(136mを抜けると長い築堤を下って浅見川橋梁を渡って田んぼの広がる谷底平野の中心である広野駅に着いた。
この沿線は
♪今は山中、今は浜、今は鐵橋渡るぞと、思ふも無く、トンネルの闇を通つて廣野原♪
と明治以来 愛唱されてきた小学校唱歌「汽車」の舞台なのである。この“浜”とは久ノ浜を刺していて、この“トンネル”とは東善寺トンネルのことで、これから向かう先は大きく広がる広野の原であるのだった。それは明治31年(1898年)8月の常磐線の全通の際に、久ノ浜から広野の間の景観を「鉄道唱歌」の作詩作曲者である大和田 建樹さんが作られたのだと言われていて、広野駅に歌碑が建っている。(これには異説もあるのだが、この地には山あり浜あり、トンネルあり鉄橋あり、野原や田畑ありと云う日本の原風景が車窓から楽しめる「童謡の里 広野」なのである。)
さて、広野駅を出て今度は約20mのプレートガーターの北迫(きたば)川橋梁を越えると左手に昔の広野宿の街並みが連なって見えた。
 ここで久ノ浜宿から広野宿へ至る陸前浜街道と常磐線との関わりを見ながらクルマを走らせた。浜辺に沿って走ってきた国道は久ノ浜集落を過ぎると常磐線のを原見坂トンネルノ直上で越えると、手始めに同名のトンネル(136m)を抜けて、山の中や谷間をアップダウンヲしながら一度も
海際に出ることなく富岡まで北上し続けていた。この国道で谷間を通る時の右手には遠くに常磐線の線路の先に太平洋の明るい海が望まれた。この国道とは対照的に、旧街道は必ず浜辺に沿っている集落や宿場を経由するが、けわしい海岸に出会うと道は直ぐに山側を迂回するようにして、常磐線とは幾つかの踏切やガードで交差しながら北上していたのだった。
やがて旧国道で今は県道となっている旧街道が国道6号の金ケ沢第一トンネルの手前で国道を横断して海側の山間の道となって行く。やがて右に曲がって常磐線のガードをくぐって左折すると末続駅のある集落に入った。その右手に海が見えていた。その先で末続川を渡ってから坂を登り常磐線の末続陸前浜街道踏切を越えて山側を登って行き、やがて国道の末續トンネルの上を越えて下ると右手にそば屋「鈴芳」があった。その東側を接近してきた国道6号はその先で長さ100mほどの夕筋トンネルをくぐっていた。旧道は山道となり峠を越えて下ってから、国道6号のガードをくぐって再び海側へ分かれ出て、道なりに左に曲がりながらしばらく行くと常磐線の折木浜架道橋をくぐッタ。ここを左折すると緑の田んぼに囲まれながら歩き、小さな折木川を渡ると、右手の田んぼの先に青い海がかいま見えた。そして高萩集落の手前のT字路を左折してみると、常磐線の東禅寺踏切があって、右手の先に東善寺トンネルが見えた。そこで近寄ると馬蹄形アーチのイギリス積みの赤煉瓦作りの明治生まれのトンネルが健在であった。道を戻って高萩集落を通り過ぎた先は、かなりの急勾配のある林間の上り坂に差し掛かった。南側には東禅寺が常磐線の東善寺トンネル上にあり、そこを越えると視界が急に広がった。そこには田畑の広がる谷底平野の中を、常磐線の西側を通っている国道6号を挟んだ広野町の中心部が一望できた。山を下った街道は浅見川を渡って広野町の本町(もとまち)の集落に入るが、広野の宿場はずっと北の線路の西側にあるとのことだ。この常磐線の東側の取り残されたかのような水田地帯を北へ、その先で北迫(きたば)川を渡って、すぐ左手の常磐線のガードをくぐって右に曲がると昔の風情を残す広野宿となった。この道の右側が東町、左側が西町となっていて、「大和屋」をはじめ大屋根の切妻、入母屋造りの立派な家並みが連なっている。この宿場の北のはずれの二股に大きな石の北迫(きたば)地蔵尊が立っていて、その台座には大飢饉のあった「天明」の年号が刻まれていた。その先で街道は国道6号に合流してしまう。
 再び列車に戻って、広野駅を出て間もなく北迫(きたば)川橋梁を渡って左手に広野宿の家並みを見送ると、またもや迫ってきた低い丘陵を切り通しで抜けると、その先には、浜通り屈指の大河である木戸川が作る豊かな水田の広がる谷底平野の風景が展開していた。今、通り抜けようとしている丘陵が海に没する前原海岸は自然があふれていたのだったが、その10年後には南側にに巨大な広野火力発電所が、北側には工業団地が生まれていると云う変わりようであった。
ところで、この木戸川は阿武隈高原の大滝根山(標高 1,192 m)の東麓と桧山(標高 509m)の南麓を源に南東に流下しながら多くの支流を集めてV字谷を通り抜けると小さいながら沖積平野を作りながら延長 48kmもの旅を天神岬近くの太平洋で終わっている。この谷の上流へは全長20数kmもの木戸川森林鉄道が栄えていた時代もあったし、この木戸浜と川筋で秋に行われる梁(やな)を使った鮭漁はこの地方の季節の風物詩であると云う。
木戸駅は木戸川の右岸にあって、昔の宿場である木戸宿の街並みよりかなり南に寄っていた。この駅前には昭和30年代の中頃まで石炭輸送用の架空索道が通じていたし、富岡営林署が運営する木戸川森林鉄道が操業し地域の経済の一翼を担っていた。木戸駅を出て左手の宿場の北のはずれを過ぎると再びのんびりとした水田地帯を狭い築堤で走り抜けて行くと、国道6号が近づいて、また遠ざかって行った。やがて全長約120mの木戸川橋梁を渡って天神岬へとつながる低い丘陵を切り通しで登って行く。やがて次の谷には楢葉町の中心である竜田駅を通過し、短い井出川橋梁を越えて常磐線最長の1654mを誇る金山トンネルを目指して築堤を登って行く。ここの辺りから先は富岡町となっている。
この木戸付近から広野を経て末続に至る区間はC62の牽く上り特急[ゆうづる]の勇姿を撮影できた“感激の所在地”」が連続していたのだった。

撮影:1967年(昭和42年)

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〈関連サイトのリンク〉
・最後の蒸気特急、常磐線の[ゆうづる]
322. C62 特急寝台[ゆうづる]:プロローグ
323. C62 特急寝台[ゆうづる]:快走 T ・木戸-広野-末続
324. C62 特急寝台[ゆうづる]快走 U ・夜ノ森〜末続間
326. C62 特急寝台[ゆうづる]:平駅発着風景
327. C62 特急寝台[ゆうづる]:平機関区にて
・常磐線アラカルト
329. 常磐線へのプロローグ・日暮里〜岩沼
―日本鉄道磐城線のシンボル:金山隧道の社紋レリーフ-
300. 常磐線 四ツ倉駅界隈(かいわい)
-住友セメント専用線・明治の古典SL:600号−
295. 波立(はったち)海岸を行く常磐線・四ツ倉-久ノ浜
328. 金山トンネル & 富岡界隈(かいわい)・竜田〜夜ノ森
304. 阿武隈川鉄橋を渡る・常磐線/逢隈〜岩沼
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