自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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にある送付先へドウゾ。)
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・最後の蒸気特急、常磐線の[ゆうづる]
324.
C62 特急寝台[ゆうづる]:快走 U
・夜ノ森〜末続
〈0001:縮小国鉄時代032ブルトレ[ゆうづる]、圧巻の流し撮り〉
『季刊誌「国鉄時代」(2014年8月号 VOL 38) ブルートレイン特集の巻頭見開きページを飾った作品です。編集長の山下さんがアルバムから発掘されたがぞうです。'67.8.12 常磐線夜ノ森付近。』
〈0002:bO70929:日の出の[ゆうづる]・S24、9.9.〉
『富岡−夜の森間の大築堤を日の出の陽光を浴びて駆け下って来るC6223号を狙ったのだが、日の出の方向が合致しなかった。』
〈写真の撮影メモ〉
常磐線のC62牽引の寝台特急[ゆうづる]の運転が終了する一週間前の昭和42年9月下旬に富岡−夜ノ森間の大築堤での撮影行を敢行した。この頃の季節が日の出と[ゆうづる]の時刻が一致するのであろうと考えての“賭(かけ)”であった。なにしろ、南北を縦貫している常磐線のなかで、東西を向いて走っている唯一の区間が夜ノ森ー富岡の間であったからである。日の出に向かっての[ゆうづる]の快走は、日の出の陽光がC62のフロントヲ輝かすに違いないからであった。この写真は太平洋に向かって(富岡駅に向かって)築堤を駆け下ってくるC62のフロントを狙って撮ったものである。海も入れたいし、ヘッドマークも撮りたいしで迷ったが、あえて初志を貫いて挑戦してみたのであった。かろうじて、C62のフロントの 2/3 が日の出の鈍い光が当たると云う“きわどい”タイミングであった。この異様なイメージの写真が私の最後の[ゆうづる]へのショットとなった。
〈0003:bO60453:S42.5.〉
『私には珍しい大動輪を狙った接近撮影です。富岡駅に向かって駆け下ってくる[ゆうづる]です。』
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〈紀行文〉
ここでは、平機関区に所属した主役の軽軸重型 C62蒸気機関車たちの来歴をのべてから、[ゆうづる]牽引の仕業の伝説を受け売りしておこう。
先ず、太平洋戦争の終戦当時、戦時物資輸送用の貨物用機関車が大量に在籍していて余剰となっていたが、一方で、旅客用機関車はかなり不足していた。しかし占領軍の方針や資材の不足もあり機関車の新製は困難だったことから、占領軍司令部の担当将校であったグロートさんの助言に従い、一部の余剰の貨物用機関車のボイラーを旅客用機関車に転用することとし、ボイラー以外の部分は既存の旅客用蒸気機関車の設計を流用して組み合わせた機関車を『改造』で製造することになった。それには、財政難で発注がキャンセルされたC59形(のメーカー仕掛部材の救済が目的の一つでもあったようだ。これにより、1948〜1949年(昭和23〜24年)にC62 49輛がD52形から改造新政され、C59形に代わる特別甲線での特急列車・急行列車の牽引を果たすことになる。
その構造は機関車全長は、炭水車を含めて21.48m。重量は145.2t。走り装置はC59形を基本とし、動輪直径もC59形と同じで国内最大となる1,750mmであった。軸配置を「2-C-2」(先輪2軸+動輪3軸+従輪2軸の意味)のハドソン形として動軸の軸重を許容上限である16.08t以下に収めていた。
一方で、この従台車の支点の位置を変え、先台車の板バネ枚数を16枚から17枚に増やしバネ定数を変更することで動軸の軸重を甲線対応の14.9tへ引き下げることに成功した。この軽軸重化は新製時から軽軸重形として製造されたもの8輛と、完成後の配置機関区の変更の際に軽軸重化された11輛+7輛とを合わせて26輛に達した。(最も遅く軽量化された7輛は函館本線へ転属するためであった。)
1948〜1949年(昭和23〜24年)に新製されたC62は,さっそく,重幹線の東海道・山陽本線に41輛と幹線の東北本線の仙台以南に軽量型が宇都宮3輛、尾久5輛のが8輛が投入された。続いて1949年(昭和24年に東海道・山陽本線に配置された重量型が軽量型に改造した11輛が東北本線の仙台以南に転属した。それによって宇都宮3輛、白河8輛、尾久6輛、平2輛となった。その後電化の北上に従って最終的に仙台と平に集まることになり、仙台へ向かった7輛はDD51の進出によって間もなく余剰となり廃車となってしまった。一方、平機関区へは昭和38年の高萩〜平間交流電化に際してC62の12輛(10,2
2,23,24,37,38,39,45,46,47,48,49号)が2年間の最後の活躍を見せることになる。
さて誕生したC62の構造の特徴について列記しておこう。まず、弁装置は国鉄制式機の通例どおりワルシャート式であるが、動力逆転機が標準装備されていた。また、軽軸重形には空転防止のための出力抑制をする目的で、シリンダの直径ダウンが行われていたとする説もあるが、そのようなボアダウンが行われた記録はどこにも見られないと云う説も見受けられる。炭水車は動力部を機関車に取付けた自動給炭機(メカニカルストーカー)を装備した全溶接構造の船底形車体に石炭10tおよび水22tを搭載できる10-22S形となっている。
この形式は大直径動輪の上、破格の大型ボイラーを搭載したため、車両限界への抵触が心配された。そこで、煙突は太く短めのものとし、蒸気溜りと砂箱を覆うキセも幅広で扁平なものとなった。このため加減弁の開閉装置は通常のリンク式が使用出来ず歯車式を経て改良型のリンク式となった。汽笛も限界内に収まるよう、後方に傾斜して取り付けられている。
ストーカー使用前提で定められた燃焼率600kg/m2時の最大出力は1,620PSで、これは日本国内では歴代第2位である。また、動輪周馬力で比較すると、本形式はC59形に比して1.2倍以上という圧倒的な高出力を実現していて、C59の後継車としての役割を果たした。
乙線に入線可能な軸重15.0 tの軽量型のC62の最大粘着牽引力は11.2tで,軸重の大きい重量型の12.1tに比べて,約10%低い.それに対して最大シリンダ牽引力は何れも12.8tであるから空転し易い傾向にあると云われ、この傾向はC59と比べると更に強くなると云うのだった。
そして1965年(昭和40年)に新設された常磐線経由、上野〜青森(北海道連絡)の特急寝台[ゆうづる]では、20系客車を13両、換算41両、つまり総重量410トンの編成であり、C62が牽引して平から仙台までの151.3qを無停車のまま2時間15分(上り:表定速度約67.2q/h)であって、これは今までの最速急行列車の2時間25分から10分短縮、原ノ町駅も通過してのノンストップ運転と云う厳しいダイヤであって、牽引定数は急行の48から41へ減らされてはいたがこの10分を稼ぐための努力は大変であったようだ。その表定速度も平坦線と云われる常磐線でも10‰勾配と曲線も点在し、単線で駅構内進入速度が制限される条件下のことだから立派な数字であった。それは通常の石炭を使った時は石炭も水も使い果たす寸前と云う限界の状況になることから、これを防ぐため、北海道夕張産の高カロリーで排煙の少ない良質の粉炭とピッチを混練成形した豆炭を採用することにより車齢が17年を越えようとするC62の性能を最大限に引き出して解決を図ったと伝えられており、この時の駅間最高速度は90Km/Hにも達していたとのことのようだ。それに、「20系は車軸がコロ軸受けなので牽き出しの時の加速が良く運転が楽だ」との運転士の話が伝わっている。
ここで[ゆうづる]の牽引に使われた機関車について述べておこう。先ず、[ゆうづる]運転の要件の3拍子としては、(調子の良い機関車」、「優れた燃料の使用」、「熟練した乗務員チーム」が揃えられていた。
特に、調子の良いカマ(ボイラー)としては、[ゆうづる]の運転開始から1年は22,37,47号機が多く使用され、2年目は23,48号機が多く使用された。中でも23号機は[ゆうづる]牽引の機会が最も多く,平機関区のエースとして,「ゆうづる」と言えば23号機という印象が強い.1967年(昭和42年)9月30日,[ゆうづる]最後の牽引機となったのも23号機であったようだ。また、C6248は「銀河鉄道 スリーナイン」のモテルとなった機関車として名を残している。
そして、優秀な[SL甲組」の機関士ら(原ノ町機関区担当)の手際よい火床作りと投炭によって、蒸気機関車とは思えない程の加速を発揮して行ったと云う。
最後に、大型動輪の上に最大のボイラーを搭載したC62んと云う車両限界一杯の機関車にとって最大の難関は数多い明治生まれのトンネルを踏破するための闘いであったろう。
四ツ倉駅を過ぎると、ここから先は小さな隧道を幾つか越えて行かねばならない。
この区間は蒸気機関車にとってはなかなかの苦行で、力行と惰行を繰り返して通過する。無論トンネル内が楕行となるが、この原ノ町までの区間の隧道は、その殆どが明治30年前後に竣工した断面の小さな煉瓦または石造の隧道ばかりである。車体全高が3.98mに達するハドソン型としては最大クラスのC62では、煙突と隧道の天井が近すぎて、排気不十分のまま炎が焚口から逆流する程だったという。ただ、何故か川崎重工製C62-23号機の煙突だけは他機と比べて低く、その逆流は少なかったとされる。
なお、常磐線最長の金山トンネルでの列車運転の話題は、下記のリンクの「・常磐線アラカルト」シリーズの「金山隧道と富岡界隈」に詳しく記してありますのでご覧下さい。
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〈関連サイトのリンク〉
・最後の蒸気特急、常磐線の[ゆうづる]
322. C62 特急寝台[ゆうづる]:プロローグ
323. C62 特急寝台[ゆうづる]:快走 T ・木戸-広野-末続
325. C62 特急寝台[ゆうづる]:ブルートレイン快走・夜ノ森〜末続
326. C62 特急寝台[ゆうづる]:平駅発着風景
327. C62 特急寝台[ゆうづる]:平機関区にて
・常磐線アラカルト
329. 常磐線へのプロローグ・日暮里〜岩沼
―日本鉄道磐城線のシンボル:金山隧道の社紋レリーフ-
300. 常磐線 四ツ倉駅界隈(かいわい)
-住友セメント専用線・明治の古典SL:600号−
295. 波立(はったち)海岸を行く常磐線・四ツ倉-久ノ浜
328. 金山トンネル & 富岡界隈(かいわい)・竜田〜夜ノ森
304. 阿武隈川鉄橋を渡る・常磐線/逢隈〜岩沼
★管理人のメモです。★
「ゆうずる」は→[ゆうづる]