自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・常磐線アラカルト
300.  常磐線 四ツ倉駅界隈(かいわい)
-住友セメント専用線・明治の古典SL:600号−
〈0001:2-5-1-1:四ツ倉駅を出て鞍掛山トンネルへ向かう下り客れ〉
迫力あるハドソン型の軸配置がギラリと

〈0002:住友セメント四ツ倉工業 600号ポートレート〉
高いパイプ煙突の美しい英国調の姿がなつ

この写真の出典は:
「地方私鉄 1960年代の回想:四ツ倉の古典SL」
http://umemado.blogspot.jp/2010/09/sl_22.html

〈0003:常磐線四ツ倉駅で入れ替え中の600号〉
昭和38年頃は余裕をもって入れ替え作業に従事し

この写真の出典は:
「地方私鉄 1960年代の回想:四ツ倉の古典SL」
http://umemado.blogspot.jp/2010/09/sl_22.html

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〈紀行文〉
 昭和40年代の初めにはC62牽引の特急寝台「ゆうずる」が常磐線の平駅から仙台駅間を一往復走っていた。その下り列車は真夜中の平駅発車、上り列は夜明け間もない早朝で季節によって夜ノ森駅から平駅との間と云う悪条件での撮影であった。しょしんしゃであったこともあって、狙い道理には容易にはとれなかったから、足繁く常磐線沿線に通い詰めていた。当時の常磐線での鉄道フアうの話題の焦点は、「ゆうずる」牽引のC62、それに四ツ倉駅構内に現れる明治の古典SLであった。しかし当初はもっぱら「ゆうずる」に心を奪われていたが、その内に平駅から二つ目の四ツ倉駅でのイギリス ナスミス・ういるそん製 600号が気になり出した。そして、やっと昭和41年の初春であったろうか、夜明け間もない四ツ倉駅を訪ねた。その駅の北方の視野の奥には低い丘陵が迫り、そのすそを鞍掛山トンネル(全長 545m)の坑門があるはずであった。それに、先輩たちの写真では、トンネル飛び出しは吸気状態のようであったし、撮影気には『普通、このトンネルを抜けて、下り坂に掛かっても、暫くは絶気せずに、給気運転でカーブを曲がって来るのです。』ともしるされていたからであった。私も迷わずに「ゆうずる」のヘッドマークの飛び出しを狙った。本命の「ゆうづる」の四ツ倉通過は、5時50分頃であった。まだ光量が十分とは云えなかった上に、C62は絶気のようであった。それに続いて、四ツ倉駅を発車して来た下り普通列車の機関車の足回りが低い朝の陽光の中へ入った所で負いかけシーンを撮った。この四ツ倉駅からトンネルまでの間は右手の線路脇には草地が広がっていてとりやすいのだが、山に囲まれていて陽光の当たるいちは季節の見極めが難しかった。
 そして、駅へ戻って見ると、明治のSLの出番は既に無くなってしまったようで、いつまで待っても2番線の向こうで忙しく立ち働いているのはDLたちであった。
 ここでは3枚の作品をかかげた。位置枚目は先に述べた下り普通列車の追い掛けシーンである。次ぎに続く二枚はHP  「地方私鉄 1960年代の回想」 を主宰されておられる風間さまから転載のお許しを頂きた作品である。厚く御礼申しあげます。
何れも1963年(昭和39年).9月29にち撮影の四ツ倉駅構内における600号の入れ替え作業中の姿であった。
 私が四ツ倉駅に注目したのは、次ぎに掲げた特急寝台「ゆうずる」の乗車記を読んでからである。『平駅で下り「ユウズル」を牽いて来たELからバトンを受けたSLはC62-23号機であった。見事な“卵連結”(卵が割れないくらい靜かな連結方)で寝台に眠る乗客は機関車の交換すら気付かないだろう。平駅を出発すると、ベッドに伝わる振動と先頭車両から聞こえるドレインを切る圧倒的な排気音の中から、心地よいピッチを刻むドラフトの鼓動で先頭が変わった事にようやく気が付くかもしれない。貨車の扱いの多い四ツ倉駅構内のポイントで揺られつつ、これを穏便にかわすと久ノ浜を通過した。』(HP:廃道日記12/常磐線旧線を走る!)より引用)
調べて見ると、四ツ倉駅の貨物発着量の最盛期には月刊9マントンに迫ろうとする多忙を極めていたようだった。その到着貨物は、燃料の石炭が常磐炭坑から、主原料の石灰石と副原料の粘土が磐越東線沿線からなどがあり、発送貨物には製品のせめんと月産3万とん、それに八茎鉱山からの鉱石などであった。この狭い四ツ倉駅構内で、この発着貨物を処理するには配線に種々の工夫が必要であったであろう。そこで四ツ倉駅の西側に立地した岩城セメント発祥の地である四ツ倉鉱業所の来歴について述べた上で、この専用線が果たした役割の重要性を明らかにしておきたい。
先ず、今はいわき市の一部となってしまった四ツ倉町の所在する地形から始めたい。福島県の太平洋岸の浜通り地域の南部に広がるむかしの「平ら(たいら)」を中心とする海岸平野を北上して、水田の広がった農村地帯も尽きると西側に連なる阿武隈高地の猫泣山(標高 820m)や三森山(標高 656m)が迫って来て、その前衛の高倉山(標高 295m)や、猫泣き山から太平洋に張り出した尾根が低い丘陵と成って海に接する南側山麓に開けた地域が四ツ倉町であった。
この辺り、高倉山から八茎(やぐき)にかけての古い高倉山層群の地層からは古生代デボン紀(4億年前)を代表する三葉虫やアンモナイトなどの化石が大量に採集されていることでしられており、古生代の石灰岩が発達していた。それに、戸田条理遺跡から福島県最古の弥生中期前半の水田跡が発見されていた。そそれに玉山古墳は、五世紀前半の古墳時代中期のもので、全長 108mは東北で3番目の規模で、浜道理では最大、最古の古墳であった。それ故に、これは いわき地域を支配した氏族の墓で、大和朝廷との文化的交流が保たれていたものと推察されている。
その後の奈良時代には陸奥の国へ向かう官道のひとつであった東海道が勿来(なこそ)の関を越えて岩城の平野を北上し、「四ツ倉 太夫坂(たゆうさか)」の難所を越えて宮城の多賀城へ向かってつうじていたことから、重要な宿駅がおかれていたようだ。
それに、先の化石の見つかっている八茎あたりでは、遥か昔の和銅年間08〜714年)に堂が発見されたと伝えられており、室町時代から銅鉱石の採掘が行われていた。江戸初期の寛永二年(1625年)なって、銅山が再発見され、藩の管理の下で採掘が続けられていた。この時代にはいわき相馬街道が通過していて、浜道理では湯本宿に次ぐ四ツ倉宿として栄えていた。明治になって街道は陸前浜街道から国道へ、やがて1897年(明治30年)には日本鉄道の磐城線が開通した。このように昔からいわき地域の先進地点であったことが知られる。
 ここから本題に入ろう。四ツ倉の中心から北西に県道363号八茎四倉線で約 15.9q進むと山間深くの玉山 菖蒲平(あやめだいら)に銅鉱山で知られた「八茎(やぐき)鉱山」があった。ここの鉱床はスカルン鉱床からできているとされている。これは熱水鉱床の一種で、石灰岩などの大規模な炭酸塩岩が発達する地域で、花崗岩(かこうがん)などのマグマが、その中に貫入した際に発生する熱水により、鉄、銅などの金属の酸化物や硫化物が沈殿してできたとされている。そして、それらの鉱物が露頭(地表に現れていること)がおおく、この地でも和銅(708〜714年)年間と云う昔に発見されたと伝えられている。
そして、1906年(明治39年)7月に、ドイツ人の経営する輸入商社オット・ライメールス商会と、鉱山事業者の西村準三郎の共同出資により八茎鉱山合資会社が設立され、近代的な鉱山開発が展開されて、銅鉱石、鉄鉱石などの採掘が行われた。そして、産出した鉱石を精錬所へ出荷する手段として四ツ倉と鉱山との中間地点である玉山鉱泉から四ツ倉の間の全長 6.15qに軌間 2フィート(609o)の馬車軌道を1907年(明治40年)6月に開通させた。当初の馬力は6年後に蒸気機関車へと進歩している。また、鉱山から玉山鉱泉までは村道を通って牛や馬を使って運搬していたが3年後には架空索道が完成している。この八茎鉱山からは、大量の「ズリ(廃石)」としての石灰石が捨てられていた。これを原料としてセメントを製造するため、八茎鉱山の社長であった広瀬金七と実業家岩崎清七は 1907年(明治40年)11月に
磐城セメント(住友大阪セメントの前身)を設立、常磐線四ツ倉駅西側の隣接地にセメント工場(四倉工業所、後の四倉工場)を建設して、1908年(明治41年)9月に操業を始めた。主原料である石灰石の輸送は既に開通していた玉山鉱泉-四ツ倉間の馬車鉄道を工場内に引き入れて、この運営を磐城セメントが行うようになった。一方では、燃料の石炭、副原料の粘土などの資材の搬入、それに製品のセメント、八茎鉱山の鉱石類の出荷のために常磐線四ツ倉駅から工場内までの貨物引き込み線を開通させた。この線路は正式には「磐城セメント四ツ倉工場専用線」と呼ばれていた。当所は国鉄に運行を委託していたのであろう。しかし、1934年(昭和9年)にC型タンクの1号機が鳳来寺鉄道から、1938年(昭和13年)にはD型タンク機の600号が水戸電鉄から、1940年(昭和15年)にもD型タンク機の800号が芸備鉄道が国有化されてから入線して明治の古典SLが揃って入れ替えなどに活躍していた。
やがてセメント製造が軌道に乗ってくると、親会社の八茎鉱山の経営が銅相場によって左右される為、石灰石の供給が不安定である事に悩まされるようになった。そこで、原料の石灰石を別の鉱山より入手する事を検討した磐城セメントは、八茎鉱山と同じ鉱脈に存在し、石灰石の露頭が認められる阿武隈高原の中央にそびえる大滝根山(標高 1,192m)のの西斜面にある仙台平(カルスト台地)に滝根石灰石採石所を大正6年(1917年)に開設した。そして、磐越東線 神俣駅西口までの神俣石材軌道を設けて石灰石の常磐線四ツ倉工場への
輸送を開始している。ここでは後に鍾乳洞が発見され石灰石の採掘は終わってしまった。これにより、
1910年の銅の大暴落、1920年の山火事による製造所の焼失などによる八茎鉱山の休山にも、セメント工場の操業には支障は起こらなかった。そのご、鉱山は再開していたものの、昭和27年頃になると、産出される銅鉱石や石灰石の品質は良好なのだが、鉱山の表土が厚いための採掘コストが掛かり採算性が悪化したことが原因で閉山となってしまい、同時に岩城セメントの専用軌道も廃止となってしまった。
事前に自ら石灰石採掘の開発を進めていた岩城セメントでは、旭滝根鉱山(磐越東線大越駅の東5km)を運営して経済的な石灰石を四ツ倉工業へ供給する体勢が取られた。その二年後には四倉駅〜工場間の専用側線の輸送能力を増強して石灰石の受け入れ体勢を整備している。1952年(昭和27年)10月にはセメントの凄惨能力が月産 3万とんに増強された。
やがて昭和20年代後半に、閉山していた八茎鉱山が近代的新技法によれば銅,鉄鉱石の採掘が可能と判断した日鉄砿業(釜石鉱山を経営していた)によって買収された。
この頃になると、常磐線の四ツ倉駅の発着貨物は月々9万tを越えるに至ると予想されているだんかいとなっていたが、当時の四ツ倉駅構内側線は狭くて精々100輌程度の操車能力に過ぎなかった。そこで岩城セメントでは国鉄当局に草-四ツ倉間に貨物側線の敷設を請願していたようである。
1958年(昭和33年)に至って、八茎鉱山の採掘の再会の準備を進めていた日鉄鉱業と、セメント需要の高まりに対応するために四ツ倉駅の貨物発着能力不足への対策として再び八茎鉱山の石灰石に着目した磐城セメント鰍ヘ、合同で、廃止されていた軌間 609oの軌道を活用して軌間 1067oの専用鉄道 玉山鉄道 全長6.14qの建設を決定した。そして、レールなど資材を日鉄鉱業、工事は磐城セメントが担当することで施行され、岩城セメント四倉工場玉山鉄道部の専用鉄道として開業し、機関車はDL101〜などの国鉄DD11形と同形機が使われた。
最盛期の岩城セメントは月産 3万トンに達しており、四ツ倉−隅田川間にセメント専用貨物列車が運行され 10,000トン/月が出荷されたと云う。一方で、1960年代には八茎鉱山も最盛期を迎え、銅を主体に鉄鉱石も副産し,磐城セメントへ石灰石を月3万t供給した。昭和40年代には灰重石(タングステン鉱石)も産出した。しかし、資源の枯渇が明らかになり事業は縮小に向かった。
玉山鉄道はその後、昭和57(1982)年まで八茎鉱山から石灰石を運び続けた。その石灰石の採掘跡は高倉山の北半分が削り撮られていると云う荒涼とした姿となってしまっている。現在は住友セメント工場も、玉山鉄道も、四ツ倉駅の貨車入れ替えも消えてひさしいが、新八茎鉱山では砕石の採取が行われているに過ぎない。
 さてここで四ツ倉駅構内で姿が観られた明治生まれの古典SLについて触れておこう。
先ず鉄道員が機関車の形式を制定して600型と定めたトップナンバーの600号が岩城セメント四ツ倉工場の専用線に入線したのは1938年(昭和13年)のことであった。この機関車のルーツは古い。汽車が走り始めてから17年経た頃、2−4−0(1B)の軸配置の2型 たんく機関車よりも旅客用にスピードが出て貨物も牽出来る蒸気機関車を求めていた内閣鉄道局では、軸重が軽い 2−4−2(1B1)型のタンク機関車に着目していた。そして、イギリスのナルミス・ウイルソン社が1886年(明治19年)に製造した1D1型タンク機関車4輛(製造番号300−303)を輸入し、形式J(69,71,73,75)とした。その後日本鉄道に譲渡して、W2/4形(18、−21)となり、奥州線の大宮-黒磯間に使用して優れた成績を挙げた。
この機関車の先輪と従輪には、ロンドン北西鉄道の機械主任技師であったウェッブ が考案したラジアル軸箱が採用されていた。この軸箱は、左右の車輪を独立させて両輪の間を復元用のコイルバネでつなぎ、軸箱ガイドの内部を摺動させることによって車輪に横動を許し、曲線通過を容易にさせるもので、ここでは25oの横動が与えられていて、成果を挙げた。
そノ後全国の私鉄にも普及して行って、私鉄の国有化後には400型となっている。
これを受けた鉄道局では1897年から、その機関車の改良型を積極的に増備した。その改良点は、400形の軸重が8.48tと当時の許容軸重11tに対して余裕があったことから、運転整備重量とシリンダ寸法を増大して、牽引力を増加させたのである。これは1887年に7両がナスミス・ウィルソン社に発注された。その後の増備はイギリスの各社でも製造されて、官設、私鉄の鉄道での総数は 270輛余に達し、明治中期を代表するタンク機関車となった。その後の1907年の私鉄の国有化が行われると、旧所属鉄道に関係なく製造メーカー別に形式が定められた。その中心であった1887年〜1904年までになすみす・ういるそん社から輸入された78輛は600型の600〜677号となった。
ここで四ツ倉駅で活躍していた600号の来歴をみることとしよう。
先ず、官設鉄道はナスミス・ウイルソン車から1895年製のが7量を輸入して、その内の4両が房総鉄道へ譲られて、その内の2輛(製造番号 467, 468)は房総鉄道 1、2号となっている。その後、1897年に岩越鉄道へ譲渡されて、そのままの番号で使されたが適合しなかったようで、1899年にC型タンク機関車との交換で日本鉄道へ移った。日本鉄道ではW2/4形18号、19号となったが、その後の国有化によって、18号は600型600号となっている。国有後の600型は主に東日本に集中して配置された。戦後まもなくの1951年(昭和26年)までには、国鉄、私鉄や工場へ払い下げられた600型の大部分は廃車解体されてしまった。僅かに残ったのは、1920年に江若鉄道に売却された6両の中の江若鉄道6号機(元 600号)のみであった。この貴重な600号は1929年に水戸電鉄へ売却され、その電化後の1938年(昭和13年)に磐城セメント四倉工場に転売された。そして1965年(昭和40年)頃まで四ツ倉駅と工場との間の専用線で美しいイギリス調の姿が観られたのであった。二台目のDLが入線して来た昭和40年末頃には予備機であった600号も廃車解体されてしまったと云う。
 次ぎに岩城セメント四ツ倉工場にやって来た蒸気機関車は800号と名付けられた先輩の600号に類似した機関車であった。その来歴は次のようであった。
このルーツは、1903年(明治36年)に参宮鉄道が汽車製造社に発注した二両の車軸配置1B1型、整備重量 : 37.3tのタンク式蒸気機関車である。これは当時イギリスのナスミス・ウィルソン社がら輸入されて活躍していた1D1タンク機関車(後の600型)をスケッチしたとされている。国有化後に800型(800〜1号)となり、1914年に芸備鉄道に譲渡され、C形(4, 5)号)となった。1937年に再び国有化されて素の番号に戻った。その後の1940年に801号は磐城セメント 四ツ倉工場へ譲渡されて800号と改番され、長く使用された。
また、「地方私鉄 1960年代の回想」の風間さまが1963年(昭和38年)9月に四ツ倉を訪れた際の報告には、『800号は四ッ倉の機関庫の中に居たのを見ています。その時にはボイラーが外されていて検査のためにどこかへ搬出されていたのでしょう。800型がいる情報は当時の鉄道友の会など仲間内では知れ渡っていました。』とありました。
 最後に、最初に岩城セメント四ツ倉工場が譲り受けた1号についての情報を付記しておこう。この1号は元 鳳来寺鉄道1号形蒸気機関車である。
開業に当たって、1922年(大正11年)10月にドイツのコッペル社が製造した規格設計の車軸配置0-6-0(C)、飽和式2気筒単式のサイド・ウェルタンク機関車で、運転整備重量 : 25.4tの2両(製造番号 10291, 10292)を輸入して、1、2号とした。

電化後の1925年(大正14年)にも残存していた1号は1937年(昭和12年)に岩城セメント四ツ倉工場に譲渡され、そのままの番号で使用された。
後にC251に改番され、その後七尾工場に移ったと云われている。
 そして、住友セメント四ツ倉工場から明治の古典SLが消えた駅との間の専用線の主役は、DC252号(汽車会社大阪製(1954)、25t、側台枠C型ロッド式)と、
ニチユ15トン機であるDB201号の二台となった。これらが故障などの際には、玉山鉄道からDD102号(日立製1957年)、20t、ロッド式)などがが応援に駆け付けることもあったと云う。

〈関連サイトのリンク〉
・常磐線アラカルト
329. 常磐線へのプロローグ・日暮里〜岩沼
―日本鉄道磐城線のシンボル:金山隧道の社紋レリーフ-
230. 平駅での発着風景・常磐線
295. 波立(はったち)海岸を行く常磐線・四ツ倉-久ノ浜
328. 金山トンネル & 富岡界隈(かいわい)・竜田〜夜ノ森
304. 阿武隈川鉄橋を渡る・常磐線/逢隈〜岩沼
192. 常磐線のどこかで平〜岩沼 間
・最後の蒸気特急、常磐線の「ゆうずる」
322. C62 特急寝台「ゆうずる:プロローグ
323. C62 特急寝台「ゆうずる」:快走 T ・木戸-広野-末続
324. C62 特急寝台「ゆうずる:快走 U ・夜ノ森〜末続間
325. C62 特急寝台「ゆうずる:ブルートレイン快走・夜ノ森〜末続
326. C62 特急寝台「ゆうずる:平駅発着風景
327. C62 特急寝台「ゆうずる:平機関区にて