自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・常磐線アラカルト  
304.  阿武隈川鉄橋を渡る ・常磐線/逢隈〜岩沼

〈0001:bO2050122:浜通りを行くC62牽引の旅客レ〉

撮影場所は原町から亘理 間のどこかであろ

阿武隈川鉄橋を目指して浜道理をひたすら北上する途中で、
どこかの駅の近くでスナップしたらしい。

〈0002:bO50123:阿武隈川鉄橋を渡る 1〉
トラスの上には冠雪を残した蔵王連峰が姿を見せて

〈0003:bO50113:阿武隈川鉄橋を渡る 2〉

トラスの下には遠くかすかに蔵王連山が連なって


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〈紀行文〉
 昭和42年(1967年)5月下旬になると、心はすでに東北本線・奥中山のD51三重連に移っていたが、電化が目前に迫った常磐線の「ゆうずる」のヘッドマークを装着したC62のフロントビューを再度撮らねばと思い直した。そして「さくらカラー 100」の10枚撮りのフイルムを装填したアサペンを携えてクルまで出掛けた。幸2にも平機関区で「銀河鉄道 999」のモデルとなったC6248号機を撮れたので、フイルムの残りを初めての阿武隈川鉄橋で撮ってしまおうと決めた。そして、平から国道6号線に乗って延々と北上し約100qも走ると福島県の浜通りから脱して、宮城県に入って仙台平野の南端に当たる亘理海岸平野となった。今まで国道の西側に離れずに沿っていた大滝根山(標高 1193m)を主峰とする
阿武隈高地も北方に来るに従い幅が狭まり標高も低くなってきて、宮城県に入ると二つの山地に分かれた。その東側の海岸線に面した支脈は阿武隈川まで一直線に続く亘理地塁山地であった。この聞きなれない“地類”とは、断層で限られた、幅に比べて延長が長い地塊で、周辺に対し相対的に隆起している凸状の地形の山地のことだと判った。この山並みは北から四方山(274m)黒森山(255m)→愛宕山(185m)→三門山(みつもんやま、205m)→七峰山(ななうねさん、124m)と続いて阿武隈川に至っていた。
 福島県から宮城県へと入る辺りの常磐線は、明治30年(1897年)11月に日本鉄道の岩城線の中村(現在の相馬)〜岩沼 間として開通した区間であって、当初の阿武隈川鉄橋を渡る区間は亘理−岩沼間であった。その後、戦後の昭和35年(1960年)10月になると、この間のトンネル手前に逢隈(おおくま)信号場が設けられた。この場所は阿武隈山脈の北端に当たる三門山の東麓にあって、このすぐ北側に小高い丘を貫通する下郡隧道があり、その先の築堤には水路橋、県道52号亘理田村線の架道橋、それに阿武隈川の氾濫原である低地帯を跨ぐ避溢橋(大雨の時に築堤が水をせき止めて上流側を水没させないように水抜きのために設けた鉄橋)などの
橋が連続してから、阿武隈川の大河を長いトラス鉄橋で渡った。この築堤を下ってイル辺りからは、遠望を邪魔していた前山の阿武隈山地は尽きてしまい、遠くかすかに見える山が冠雪の残る蔵王連峰であった。そして国道四号線の跨線橋の下を過ぎて、複線の東北本線に合流すると岩沼駅は近い。
 この時に架かっていた阿武隈川橋梁は昭和13年(1938年)11月に架け替えられた二台目の鉄橋であった。その全長は691mもあって、上野方に7連、仙台型に2連プレートガーダー橋を従えた経間 62.4mの8連の下路単純トラス橋であった。私は阿武隈川右岸から一つ目のトラスを狙って2時間ばかり粘って撮った中から二枚ほど掲げた。
 ここで今の阿武隈鉄橋が架け替えられる前の初代のイギリス製 並行弦ぷらっとトラス橋を語る前に常磐線の建設の小史をのべておこう。
その最初は茨城県北部から福島県南部にかけて産出する常磐炭を水戸鉄道(水戸〜小山)を経由して京浜地方の需要地に運搬する計画が地元の白井遠平さんらにより立案され、明治26年(1893年)に水戸〜平 間を第1期線、平〜岩沼間を第2期線として出願した。当時の鉄道曲の井上勝長官から「明治22年(1889年)に日本鉄道の支援を受けて開業していた水戸鉄道を既に買収して水戸線としていた日本鉄道に水戸〜い岩沼 間を建設、運営させたらどうか」と勧められた。
一方、出願のあった水戸〜岩沼 間の路線は、明治25年に公布された鉄道敷設法(国が建設すべき鉄道線を規定した法律)に「茨城縣下水戸ヨリ福島縣下平ヲ經テ宮城縣下岩沼ニ至ル鐵道」とする予定線として規定されていた。そこで、法律改正の上、明治27年(1894年)に日本鉄道へ免許が下付された。
その間に、小山を経由せずに、水戸から土浦を経て東京方面へ直通するルートの優位性が高まったことから、計画を変更し、水戸線に友部駅を新雪して、ここから土浦を経て東北線の田端へ連絡する土浦線るーとに落着した。そして、工事は田端−岩沼間として明治28年(1895年)に着工した。そして、明治29年末には田端〜水戸 間が全通した。
一方の水戸〜岩沼間の岩城線では、水戸−平間は明治30年(1897年)に開業し、その後、部分開業を行なって、明治31年(1898)に田端−岩沼間が全通したのであった。
明治34年(1901年)には土浦線・水戸線(友部−水戸間)・那珂湊貨物支線・磐城線・隅田川線を統合し海岸線と改称した。やがて明治39年(1906年)の国有化による線路名称制定により「常磐線(日暮里〜岩沼 間)となった。
 ここで話を岩城線(水戸〜岩沼 あいだ)の建設時代にもどそう。この区間の建設を担当したのは水戸建築課長を命ぜられた社内で“豪傑技師”で知られた長谷川謹介さんであった。この技師の前歴は、山口県出身で、大阪英語学校に学び、明治7年鉄道寮の通訳、測量手伝いから3年後に技手となった。そして、鉄道寮鉄道頭の井上勝が、将来は日本人の手で鉄道建設を行うために大阪駅構内に創設した工技生養成所へに入学、優等生で卒業した。そして京都−大津間の大津線建設に従事、明治13年長浜〜敦賀間の敦賀線の柳ケ瀬−麻生口間の工事を担任し、長さ1,273mの柳ケ瀬トンネルなどを約4年間で完成させて、その実力を示した。明治17年に欧米視察に派遣された。帰国後、東海道線の揖斐川(いびがわ)、長良川、そして天竜川(全長1,210m)などの架橋を成功させた。その後に、官設鉄道、鉄道曲盛岡出張所長として、日本鉄道から建設を委託されていた奥州線(東北線)の
盛岡から小繋間の建設を担当した。彼の鉄道建設に当たっての信条は「質素堅牢を旨として、装飾をきらう」であった。明治25年4月鉄道局を辞して日本鉄道会社へ入った所で、翌年水戸建築課長となって常磐線の建設に当たることになった。
長谷川技師は自ら路線の測量を指揮して今のルートを決めた。この過程で、日本鉄道が建設中の土浦線や岩城線のルートには長大な架橋が多かったことから、『広く外国の会社に競争設計をさせて…』の発意をして実行したと云う。
その結果、明治期に架設された多くの“トラス鉄桁”の中に、イギリスのHandy−side社製の200ftのチベット鋲結合のトラスが施工されて異彩を放つことになった。
それは、日本鉄道では岩城線に阿武隈川鉄橋の200ft単線用8連が、そして土浦線では隅田川に200ft複線用2連が架橋された。
 明治30年(1897年)に架けられた阿武隈川鉄橋は全長 652mの単線で、プレートガーダー、経間 18.1m、7連(上の型)、2連(岩沼方)を従えた下路平行弦プラットトラス橋、経間 60.9m(200ft)、8連の構成であった。そのトラスはイギリスのhandy−Side社による 1896年(明治29年)製であった。
この時期は、これまで国内で標準的に使われてきた「ポーナル形」がやや古いものになりつつあったころで、後に輸入されてくるアメリカ設計のトラスも本格的に入ってきていない、いわば端境期にあたっている。
発注者である日本鉄道が各社設計競合を行ったけっかなのか、或いは、handy−Side社側が売込みを図ったのかのどちらかだろうが、これまでにない独特の設計のものが入って来たのであった。
この美しい姿のトラスが現役で現存しているのは嬉しい。それは昭和13年(1938年)に常磐線の阿武隈川鉄橋から撤去されたトラスの1連がJR東日本の大糸線穂高川鉄橋(穂高〜有明 間)に移設されているからである。
この美しい姿の写真は次のサイトからご覧下さい。
「橋の散歩径 穂高川橋梁」  
http://www.pintruss.com/bridge/shinano/hodaka.htm
 さて常磐線を明治30年に開通させた長谷川技師は日本鉄道が建設を委託されていた岩越鉄道(の技師長に転身して郡山〜会津若松 間を完成させた。その後の明治32年4月に台湾総督府鉄道部技師長に任ぜられ、台湾縦貫鉄道の建設工事を成功させた。明治41年12月鉄道院創設の際招かれて、技監となり、難工事の丹那トンネル工事を担当した。そして副総裁も務めている。その間に、東亜鉄道研究会、土木学会、工業倶楽部等の役職員となるなど、交通界・土木界などの発展に尽くした明治の鉄道陣の一人であった。
 蛇足らが、handy−Side社製のトラスは北越鉄道(直江津-新潟 間)の信濃川鉄橋に6連が明治29年(1896年)に架橋されている。そして昭和27年(1952年)に架け替えのため撤去されたトラスの内、4連は新潟県道23号柏崎高浜堀之内線の越路橋に拡幅改造されて再利用されたが、近年役目を終えたので、一連の半分が、長岡市越路河川公園内に移設保存されている。その他の2連は長岡市越路町内の県道の岩田橋、不動沢橋として現役中の模様である。詳細は下記サイトを参照して下さい。
「CE/建設業界:社団法人 日本土木工業協会【土工協】」
http://www.nikkenren.com/archives/doboku/ce/ce0903/100nen_project.html

撮影:昭和42年5月。

〈関連サイトのリンク〉
・常磐線アラカルト
329. 常磐線へのプロローグ・日暮里〜岩沼
―日本鉄道磐城線のシンボル:金山隧道の社紋レリーフ-
230. 平駅での発着風景・常磐線
300. 常磐線 四ツ倉駅界隈(かいわい)
-住友セメント専用線・明治の古典SL:600号−
295. 波立(はったち)海岸を行く常磐線・四ツ倉-久ノ浜
328. 金山トンネル & 富岡界隈(かいわい)・竜田〜夜ノ森
192. 常磐線のどこかで平〜岩沼 間
・最後の蒸気特急、常磐線の「ゆうずる」
322. C62 特急寝台「ゆうずる:プロローグ
323. C62 特急寝台「ゆうずる」:快走 T ・木戸-広野-末続
324. C62 特急寝台「ゆうずる:快走 U ・夜ノ森〜末続間
325. C62 特急寝台「ゆうずる:ブルートレイン快走・夜ノ森〜末続
326. C62 特急寝台「ゆうずる:平駅発着風景
327. C62 特急寝台「ゆうずる:平機関区にて