岩波少年文庫全作品読破に挑戦! 「や」行の作品



やかまし村の子どもたち アストリッド・リンドグレーン 作/大塚 勇三 訳

やかまし村は、3軒の家、3人の男の子、3人の女の子の小さな村。そのなかの8歳の少女の一人称で、スウェーデンの田舎の暮らしが描かれる。「ピッピ」のようなハチャメチャな登場人物はいないし、「カッレ」のような大きな事件も起こらないが、ゾクゾクするような楽しさがある。一見地味ではあるが素晴らしい魅力の詰まった本だ。

時代も、地理的にも遠く離れた国のお話ではあるが、子供達の遊びの懐かしいことといったら! 石の上を歩いて、地面に足をつけたら「死ぬ」なんて遊びは確かにぼくもやった。語り手が少女で、また作者も女性であることから、全体に女の子寄りではあるけれど、男のぼくにとっても子供時代のことがまざまざと思い出される。とても温かな気持ちで満たされるが、おじさんとなってしまった身にはちょっぴり切なくもある。

他の作家の作品で「小さい牛追い」を読んだときにも強く感じたことだが、現代のぼくたちとはライフスタイルがまったく違う遠い異国の昔の話であるにもかかわらず、このような素朴な田舎暮らしの描写は、それを体験したことが無いぼくにとっても強い郷愁の念が引き起こされる。自然の中で人が「生きる」ということの普遍的な形がここにあるからだと思う。都会暮らしの現代の子供たちにも是非読んでほしい本だ。

イロン・ヴィークランドによる挿絵も素晴らしい。6人の子供がちゃんと描き分けてあり、どれが誰だなんて探すのも楽しい。

(20111203)


やかまし村の春・夏・秋・冬 アストリッド・リンドグレーン 作/大塚 勇三 訳

前作はクリスマスの準備をしているところで終わってしまったが、本作ではクリスマスの描写から始まり、季節の移り変わりとともに様々な行事の様子が描かれてゆく。大晦日には夜更かしし、エイプリルフールにはウソをつき、復活祭にはお菓子の入った卵をもらい、隣家のオッレに妹ができ、夏休みには宝探しをし、秋には学校を休んでジャガイモ収穫の手伝いをする。

冒頭のクリスマスの描写がとても楽しいが、最近よく思うのは、自分も親となり、子供に対してこのような喜びを与える側に立ってしまったということだ。そういうことと併せて年中行事や伝統の継承についても良く考える。主人公の少女が飾り付けるクリスマスツリーには、彼女の母親が子供の頃から使っている天使の人形がある。親から子へ、季節ごとのイベントやしきたりを引き継いでいくことは、人が生きていくうえの営みとしてとても大切なことなんじゃないかとしみじみと感じるようになった。昔はこんなことを考えたりはしなかったが…。

登場する大人たちの寛容さも気持ちが良い。適度に子供達を放任しながらも締めるところは締める。本シリーズは、子供にとっても楽しい物語だろうが、大人にとっても様々な視座を与えてくれる。

本書の末尾に高楼方子という作家が寄せていたエッセイが、本シリーズを読んで感じていたことをズバリ言い表してくれて見事な解説になっている。映画化された時の映像を引き合いに、本シリーズがいかに子供独特の濃密な世界を表現しているかということと、本を読むということの意義を述べている部分はなるほどうまいこと言うなあと思った。

(20111211)


山をこえて昔の国へ ウィリアム・メイン 作/神宮 輝夫 訳

赤い魔石の力で時を手繰ることが出来るようなった少女マグラは、生け贄になるため王の元へ向かうが、その道中で追手から逃れるために時を現代まで手繰り寄せ、同じ赤い髪を持つ少女セーラと入れ替わる。突然過去の世界に放り出され、追われる身となったセーラと姉弟は、言葉も習慣も全く異なる過去の世界で、目的も行く先も分からないままに、協力者ベイウッドに導かれ困難な旅をはじめる。

2部構成になっており、1部ではマグラが赤石を手に入れるところからセーラと入れ替わるところまで。2部は、セーラ姉弟が過去へとタイムスリップし、幾多の冒険を経て、現代に帰ってくるところまで。古代の少女マグラが現代を旅した内容に付いてはほとんど触れられていないのは、この章の主眼が、あくまで現代の子供たちの目から見た、過去の人々との差違だからだろう。

本書を読んで思ったのは、空間だけでなく時間的な意味でも世界は広いんだなと。異国へ行けば、言葉や文化習慣などあらゆることが異なるのは当然だ。しかし生まれ育った自分の国であっても、時間を溯れば言葉や習慣はもちろん価値観までが変わってしまうということは、ついつい見落としがちだ。当たり前だとか常識だとか思っていることが、実際には決して普遍的では無いということが、セーラ達の冒険を通して暴かれていく。逆に言えば、自分達が住んでいる世界が如何に狭いかということだ。

面白いと思ったのは、塔で老人が十字架に向かって祈祷するとき、祈りの言葉の意味は分からないながら、同じクリスチャンだと考えた姉のドリーが「アーメン」と言う場面だ。解説によると、この時代の設定は紀元前5世紀前半だそうで、これはドルイド教か何かなのかな。このシーンでは、キリスト教ですら、人類の歴史という大きな視点から俯瞰すれば、刹那的なものでしかないことを裸にしてしまっている。作者の冷静で客観的な視線には全く恐れ入る。

情景描写が素晴らしく、あたかも自分も鬱葱とした山々のなかを歩いているような気分にさせられる。小難しいことを考えずに普通の冒険小説としてもとても面白いと思う。

(20040418)


ゆかいなホーマーくん ロバート・マックロスキー 作/石井 桃子 訳

良い意味でのアメリカっぽさが溢れている楽しい作品だ。ホーマーくんがスカンクと協力して強盗を捕まえたり、ドーナツを作る機械が暴走したり、収められている6編のエピソードはどれもユーモラスで楽しいが、とにかく本書の最大のポイントは、これでもか!というくらいに古き良き時代のアメリカっぽさが凝縮して詰め込まれているところだろう。1940年代初頭の田舎町が舞台となっているが、この頃のアメリカの田舎は、のどかで感じが良いものだなあ。初版が1943年とのことだが、半世紀以上も前の作品にもかかわらず、古びていないどころかとても楽しく、なかなか示唆に富むところもある。

ぼくはアメリカの食べ物は大変おそまつなものだと思っているのだけど、本書に出てくるドーナツ、ハンバーガー、ベーコン、フライドチキンなど、チープなのにとても魅力的に見えるんだよな。スーパーマンが出てくる話があるので調べてみたら、スーパーマンが誕生したのは1938年らしい。そんなに古くから読まれていたんだ。アメリカは食べ物もヒーローも、半世紀以上にわたってたいして変わってないんだなあ。

あと糸屑ボールの長さを競う話で、最初にさらっと読んだときに、老婦人の使ったトリックが分からなかった。この町の男達がトリックに気付かなかったように、ぼくも服装に関する文章は頭に入っていなかったということだ。まあ大多数の男はそんなもんだろうと思うけど、どうなんでしょうね。

最終章の、新しい住宅街を作る話が非常に興味深い。住宅街の落成式で、町の歴史を寸劇を交えて発表するセレモニーが行われるのだが、その中で町の住人達が、水力電気や咳止め薬の精霊やインディアンなどに扮して、黒人教会のコーラスをバックに演技をする。このセレモニーには、アメリカ開拓の歴史の背後にある、経済や宗教、人種など、様々な要素が凝縮されており、そういうものを平凡な市民が尊重する姿が描かれている。ぼくはここに現代にまで通じるアメリカ人の精神の根っ子に有るものを垣間見たような気がした。

訳者の石井桃子は、本書を機械文明や大量生産など物質主義に対する批判と受け止めたようだが、ぼくは寧ろ、それらのもたらす恩恵をポジティブに捉えた、来るべき「輝けるアメリカの世紀」に向けた賛歌であるように感じた。作者の意図や主義主張は置いといて、その後のアメリカの発展も勘案しつつ、ストレートに読んだら、どうしてもそのように思える。まあ何はともあれアメリカのライフスタイルやアメリカ人魂みたいなものを、楽しく気楽な形で見せてくれ面白かった。

(20040411)


夜明けの人びと ヘンリー・トリース 作/猪熊 葉子 訳

今までに随分と異郷や異星を舞台にした SF やファンタジーを読んできたが、これほど異世界をリアルに感じさせてくれる物語はそうそう無い。しかもここで描かれる異世界とは、人類の黎明期の地球なのだ。

特にぼくが驚愕させられたのは、物語冒頭に出てくる「灰」「骨」という名の呪術師達の不気味さと、圧倒的な存在感の大きさだ。もちろん彼らも普通の人間であり、実際に雨を降らせたり人を呪ったり出来るわけではない。しかし呪術が信じられている世界では、彼らの呪術は巨大な力を伴うのだ。そのような世界での呪術師に対する畏怖や恐怖感などが、途轍も無い迫力を持って迫ってくる。この描写は見事というほかない。

また人々が絵や彫像に特別な力を感じるところや、同じ種族であっても男女が異なる言葉をしゃべるところなどは、もちろん作者の想像もかなり入っているのだろうが、実際にこうだったのではないかと思わされてしまうような妙な説得力があった。

作品が進行するにつれて寓話的な色彩が濃厚になっていくが、結局作者の言いたいことは、人間にとって夢(想像力)こそが自らを進歩させ社会をも変革させる大切な物だ、ということだろう。しかし実現した時点で夢は夢で無くなる。 作者はあくまで夢に向かう姿勢を大事にしているようだ。 というのは、この作品では、(夢を具現化したものである)絵や彫刻は、結局は紛争の種となっているし、また物語の最後でいかにも平和そうな村が忽然と表れるが、その実体は良く分からないまま終わってしまう。「夢の村」が具体的にどんな物であるかということは示さない。

ぼくの勝手な憶測ではあるが、おそらく作者は、未来や進歩というものに対して悲観的な見方をしているんじゃないだろうか。その一方で、たとえ結果がどうあろうとも夢に向かって努力する姿勢こそが人間にとって最も尊いものだと考えている。そうだとすれば、いかにも歴史家らしい考え方だという気がする。

ちなみに原題は "THE DREAM-TIME" 。「夜明けのひとびと」という邦題は良く出来ているが、当然ながら原題の持つ意味合いまでは表現できていない。 タイトルの訳って難しいな。

(20020407)


四人の姉妹 上下 オールコット 作/遠藤 寿子 訳

一般的には「若草物語」として知られる名作。ちなみに原題は "Little women"である。これを「若草物語」とした人はエライと思ったら、どうやら1933年版の映画を日本で公開する際に吉屋信子が命名したらしい。なるほどなあ。

父を南北戦争に送り、母と4姉妹が貧しいながらも支えあって暮らすさまを描いている。貧しいとはいっても本物の貧乏とは違うけど。キリスト教を軸に良妻賢母への道を説く、19世紀末のアメリカ女性の生き方のひとつの教科書のような内容でありながらも、今もって面白く読めるのは、表情豊かな4姉妹や母親、隣人たち登場人物達の魅力や、作者の卓越した描写力(ベスが重体になるところなどは迫真であった)に加え、家庭に収まることを良しとせずに小説家を志すジョーのような当時としては型破りな女の子が主人公であるからだろう。ジョーの持つ奔放さや自由の精神と、家に帰ってきた父親が彼女に対して慎み深い淑女らしくあれという台詞に、新時代の女性像と旧来の価値観とがせめぎあっている様子が現れているが、これは今もって身近にある問題であり、そういうことも時代を超えて読み継がれている理由かもしれない。

かつての裕福だった時代に郷愁を抱きつつも家庭教師をして生計を助ける長女メッグ。明るくおてんばな文学少女の次女ジョー(作者の分身)。引っ込み思案で優しい心を持つ音楽好きの三女ベス、おしゃまで絵の得意な四女エィミ。愛情豊かな母親も含め、ぼくのような汚れてしまったおっさんには眩しすぎるのだった。それにしてもキリスト教が倫理や道徳の面で人々に与えた影響の大きさをひしひしと感じさせられる。

自由の気風を誇りに持ちつつも、仏語や独語を嗜み、欧州や貴族的なものへ強い憧れを抱いているという、超大国になる前のアメリカ人の姿も良く描けている。あとベスが病気のときにエィミが預けられた先の女中が敬虔なカトリックだったのだが、カトリックとプロテスタントの微妙な距離感がなんとも興味深かった。

(20041003)


よりぬきマザーグース 鷲津 名都江 編/谷川 俊太郎 訳

マザーグースの中でも特に有名な50編が紹介されているが、訳文が載せられているだけでなく、もれなく英語の原文が付いている上に、ひとつひとつのうたにキチンとした解説まである。欧米文学の愛好者にとって役立つ情報も多く、本棚の手の届きやすい所に常備しておきたい良書だ。

大きな活字で余白も多いのですぐ読み通せるかと思っていたが、まず訳文を読んで、つぎに英文を読んで、解説を読んでからもう一度訳文と英文を読み直して、ということを繰り返していたら、結果的に読み通すのにとても時間がかかってしまった。訳文がひらがなのため、原文を読んで初めて意味が分かる語があるのはご愛敬。挿絵に使われている18〜19世紀のイギリスの木版画も深い味わいがあるし、英文をどのように日本語に置き換えるかという谷川俊太郎の妙技も楽しめる。 50編だけではあるが、存外ボリューム感があり、手軽にマザーグースの世界を堪能できるので、入門としては最適の一冊といえる。

元ミステリーファンとしては、マザーグースは、クリスティーの多くの作品や、ヴァン・ダインの「僧正殺人事件」、クイーンの「生者と死者と」等々で馴染みがあったので、何となくそれなりに知識を持っているつもりでいたが、正直なところ本場イギリスではナーサリーライム(nursery rhyme)と呼ばれているという基本的なことすら知らなかった。

解説がトリビアの宝庫で、「トゥリードルダムとトゥイードルディー」はヘンデルをからかうために作られた詞がもとだとか、殴るパンチは「パンチとジュディー」からだとか、あとは欧米の子供がマザーグースを歌いながらどのように遊ぶかということまで説明してあり非常に楽しい。"Fee-fi-fo-fum"、"Georgie Porgie" など、ジャズやポップスの曲名の背景にある意味が分かったことも収穫だった。

(20100307)


夜が明けるまで マヤ・ヴォイチェホフスカ 作/清水 真砂子 訳

ポーランド人の作者の少女時代を描く自伝的作品。ドイツのポーランド侵攻を逃れて、母と弟と共に、パリ、スペイン、ポルトガル、イギリスを転々するが、戦時下の体験でありながら戦争がほとんど描かれておらず、自分の内面の葛藤や成長に焦点があてられている。

本書を読んでしみじみ感じるのは、ああ女性の作品だなあと。理解することは出来ても、残念ながら心のそこから共感するようなことは出来ない。もちろん、だからといって男にとってつまらないわけではなく、むしろ、女心の得体の知れなさがじわじわと感じられるところが良い。思春期前の微妙な時期だけあって、感覚の鋭さ、繊細さは、鋭利なガラスの刃物のようだ。男の子が、ズガーン!と戦車のおもちゃで遊ぶようなのとはやっぱりちょっと違う。

前々から常々思っていることだけど、どうあっても男と女ではものの考え方も感じ方も違うのだから、無理に分からなくても良いし、その多様性こそが人間の面白いところだと思う。ホントのところ女性の読者が、本書を読んでどう感じるのかよく分からないが、ぼくにとっては興味深く面白い作品でした。

(20070513)


よろこびの日 ワルシャワの少年時代 I.B.シンガー 作/工藤 幸雄 訳

ユダヤ人ノーベル賞作家の少年時代を描いた自伝的作品だ。この作品の舞台であるワルシャワは、後の戦争で破壊し尽くされるにもかかわらず、本書では、その悲劇については言及されておらず、あくまで戦前のユダヤ人の生活ぶりを克明に記録することに徹底している。貧しくはあるが家族や暖かい隣人に囲まれた豊かで実りのある生活がある一方、泥棒や詐欺師など悪い奴もたくさん登場し、ユダヤ社会の負の面もが率直に描かれている。

本書は、この著者の他の作品と同じくイディシ語で書かれているわけだが、暴力によって奪われたユダヤ人の生活や歴史、言葉などを、文学として後世に伝えるという、著者の決意の重さを感じた。当時のワルシャワで生活する人々の写真も多数載せられており、失われたものの大きさがひしひしと伝わってくる。まぬけなワルシャワ旅行の所感を読み返すと、ぼくは、この時まだイディシ語で作品を著すということについて、表面的にしか捉えられていなかったようだ。お恥ずかしい。

ふとしたことで手に入ったお金を一人で使ったり、友達と野生の牛を探しに行ったり、引越しの際のちょっとした幸せなど、少年時代のノスタルジー溢れるエピソードはどれも切なくも美しいし、宗教行事の描写や家族の議論の内容などは非常に興味深い。ハシド・ユダヤ教のラビである敬虔な父親と、現実的な考え方する母親、もはやユダヤの伝統には捉えられていない兄など、たとえラビの家庭であろうと、宗教に懐疑的なスタンスをとっていたり、貧しい境遇から社会主義を夢見る者もいる。近現代の社会の中で、信仰に生きていくことの困難さが強く印象に残る。

最終話の「ショーシャ」で、 大人になったシンガーが、少年時代を過ごした通りにある、幼馴染ショーシャの家を尋ね、彼女そっくりの少女に迎えられる。少女はショーシャの娘であった。シンガーは、かつてショーシャにしてやったように、少女に物語を話す。 暖炉の裏では、昔のままにコオロギが鳴いている。時が移り変わっても、そこで暮らす人々のつつましい生活は連綿と続いてきたのだ。その後のワルシャワの運命を思うとつらい。

(20030721)



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by ようすけ