岩波少年文庫全作品読破に挑戦! 「ま」行の作品



魔女ジェニファとわたし E.L.カニグズバーグ 作/松永 ふみ子 訳

ジェニファはぼくだ!と思った。それと同時に、エリザベスはぼくだ!とも思った。ぼく自身、魔法使いであったし、魔法使いになるための修行もしていた。本の世界に没頭し夢想的な少年時代を過ごした者としては、子供のころのことがまざまざと思い出されて切ない。アメリカの話なのでハロウィーンの行事があったり日本との違いも多々あるが、不思議に懐かしくて身近に感じられる作品だ。

本書では、自らを魔女と呼ぶ少女ジェニファと、魔女になるためジェニファの弟子となるエリザベスとの秘めやかな交流が描かれている。大人の目から見れば他愛のないごっこ遊びでも、当の本人にとっては極めて大切なことだったりする。そういう子供のころの思い出が鮮やかに蘇る。

訳者の解説に、これはエリザベスがジェニファを救済する(現実の子供の世界に呼び戻す)物語だと書かれており、なるほどと思った。おそらく作者の中には、殻に閉じこもった子供は悪で、殻を破って成長していくことをよしとするという前提があるだろうが、ぼくにとっては殻の中の小さな世界こそが愛おしい。この作品では、殻の中の世界の、美しいところも醜いところも見事に描かれている。

ちなみに原題は"Jennifer, Hecate, Macbeth, William McKinley, and Me, Elizabeth"。カニグズバーグの著書はどれも大好きだけど、本のタイトルをつけるのはあまり上手くないんじゃないかなと思う。凝り過ぎというか。なんでマッキンレーなんだ?と思って調べたら、オズの魔法使いに登場する西の魔女とはウィリアム・マッキンレーのことだそうな。そのことを指しているのかな? あとジェニファによるマクベスの解釈がなかなか凄かった。

(20101128)


魔法のアイロン ジョーン・エイキン 作 / 猪熊 葉子 訳

エイキンの2冊の短編集から、アーミテイジ一家のエピソードばかり集めたのが「とんでもない月曜日」となり、その他の昔話風の物語を集めたのが本書となった。そんなわけで、魔法が身近に存在する世界観や、ユーモラスで軽快なノリなど、両者には共通点が多いのだが、本書の方が、ちょっぴりロマンチックな雰囲気がある。個人的にはこっちの方が好きかな。

収められているのは、「めいわくな贈り物」「オウムになった海賊と王女さま」「魔法のアイロン」「料理番になった王女さま」「腕のいい庭師のお話」「失業した音楽師たち」「一晩じゅう立っていた王さま」「ふしぎなレコード」「三つめの願い」の9編。

これらの短編の主人公たちに共通するのは、多くを望まない姿勢と、人に流されず自分の思うようにする生き方だ。海賊に嫁ぐ王女、魔法で醜くされ料理番となっても幸せな王女、公務員になって働くブレーメンの音楽隊、戴冠式を待つ国民と一緒になって一晩中立ちっぱなしの王、3つまで許される願い事を2つまでしか願わない男。中には、何でも上等なものに変える魔法のアイロンを手に入れて贅沢するおばさんもいるが、彼女も含め、登場人物の多くが奔放でありながらも、どこか慎ましい。作品全体の飄々とした雰囲気も、そういうところから生まれてくるんだろう。

特に印象に残ったのは、「腕のいい庭師のお話」と「ふしぎなレコード」の2編。「腕のいい庭師」では、動物語が分かる少女が、動物達の会話を頼りに、お金持ちの家から盗まれた銀器を取り戻す。そこまでは良くある話だが、泥棒の若者を捕まえたりはせず、あろうことかそのお金持ちの家の庭師になるよう、真相を黙ったまま就職を斡旋してやるのだ。なんとも奇妙な読後感の残るユニークな話だが、あるがままの境遇をポジティブに捉えるという、他の作品とも共通する作者の人生観が、ここでも強く表れているような気がする。「ふしぎなレコード」は、ミステリアスでロマンチックな雰囲気がとても良かった。

(20030810)


まほうのレンズ リチャード・ヒューズ 作/矢野澄子 訳

なんとも不思議な短編集だ。ストーリーは出鱈目で行き当たりばったりで、オチや教訓らしきものが無い話が多く、人の夢日記を見せられたような感覚に近いか。教訓らしきものを残さないままプツッと物語が終わるので、奇妙な読後感が残る。子供はこんなの好きだろうなぁ。

分かり易いオチのついている作品(「ウラマナイデクダサイ」など)は、ありきたりな感じが否めないので、やはり先の予測が出来ない奔放な筋運びがこの作家の持ち味なのだろう。「アリス」もそうだが、元来ファンタジーというのは奔放な想像力の賜物であって、変に意味を求めるのは無粋なのかもしれない。

表題作の「まほうのレンズ」が佳作。覗くと人が人形に見えてしまうというレンズにまつわる話だが、鏡で自分の姿をみたり、そのレンズをネズミが覗いてしまうというアイデアが良い。

あとは人形のガートルードが主人公の2編が印象深いが、…これはホラーではないのか? 雨の日に娘を迎えに海からやってくる人魚達、人間の子供が売られているペットショップ(?)、人間の子供に首輪をつけて連れ歩く小犬、そして主人公である人形のガートルードは髪を抜かれて丸坊主(途中で毛が生える)で服も着ていない。 ひえぇ…(汗)。原作は絵本としてイギリスで広く読まれているらしいが、どんな絵で描かれているか見たいような見たくないような…。

おそらくこれはイギリス人が読むと声を立てて笑っちゃうようなギャグなんだろうな、という表現がいくつかあったけど、正直笑えなかった。まあ笑いのセンスは国によって異なるし、「アリス」だって、相当ギャグ的な要素が強い筈だけど、日本人にとっては笑えるような感じではないからね。イギリス人の子供の感想を聞いてみたい。

(20011008)


まぼろしの白馬 エリザベス・グージ 作/石井 桃子 訳

イギリスの領主館を舞台にした少女の冒険物語。 ロマンチックなストーリーだが、細かいところまで丁寧に伏線が張られており、とても読み応えがある。とりわけ良いなと思ったのは、イギリスの田舎での貴族の暮しぶりが、豊かな情景描写と共に詳細に描かれているところだ。

解説に「…(作者は)学校にいかず、その教育は、いっさい家庭教師に任されていました。」とあるが、かなり大きくなった時点で親が驚くほど教育が進展していなかったということは、作者は、裕福な階級に生まれ育ったものの、あまり親には顧りみられなかったらしい。つまり、主人公の孤児マリアとは、少女時代の作者の分身と見て間違い無い。そういう少女時代の空想をそのまま小説に仕上げてしまったという感じだが、作者が俗世間で汚されないように育てられたせいだろうか、悪役(黒い男達)が精気に乏しいというか、まるで現実感が希薄なのが面白い。

一つ書き加えておきたいのは、大変面白い作品ではあったが、もしぼくがこの作品を手に取ったのが小中学生の頃だったなら、最後まで読み通せなかったに違いない。というのは、全編を通して大昔の少女漫画のような乙女チック(死語?)な雰囲気が濃厚に漂っており、思春期の男の子なら「ウヘェ」とうめいて本を投げ出しそうになるような表現が 1ページに 3ヶ所ほどもあるのだ(物凄い密度だが誇張ではない!)。ということで多感な時期の男の子にはあまりお勧めできないです。いや、面白いのは確かなんだけどね。もしもこの評を読んで腹を立てた女性がおられたら申し訳ないけど、男はそんなもんなので、気にしないように!

これが書かれた1940年代のイギリス、アメリカでは、主人公に共感を覚える少女がたくさんいたのかもしれないが、現代の女の子にとってはどうなんだろう? もちろんイギリスだけじゃなくて日本でも。その辺はちょっと興味深いなぁ。

(20020526)


まぬけなワルシャワ旅行 I.B.シンガー 作/工藤 幸雄 訳

ユダヤの民話や伝承がベースになっている短編集である。文学に登場するユダヤ人といえば、「ヴェニスの商人」のシャイロックや「オリバー・トゥイスト」のフェイギンなど邪悪な人物が多く、錚々たる悪人図鑑が出来上がってしまいそうな勢いだが、この愉快な短編集を読んでいると、そういうステロタイプな見方が緩やかに修正されていくようだ。

ラビが出てきてゴタゴタを即座に解決するところや、ラビの尊敬のされ方など、実際に知識として知っていても、こうやって物語という形で読むとなるほどなぁと思わされる。それにしても金勘定にまつわる話が多いが、やっぱりこれはユダヤ人ならではというところなのだろうか? しかし伝承をベースにしている割には全体に頓知が利いているので、普通の素朴な民話集よりも高級感がある気がする(どこまで著者の創作が入っているのか良く分からないけれど)。

一番の傑作は「シュレミールがワルシャワに行った話」だろう。旅に出たシュレミールは道を間違え自分の町に帰ってしまうが、町並みも住んでいる人々もソックリな別の町に辿り着いたと勘違いする。やがて町の住人達もシュレミールの言葉を信じて、そっくり同じような町が他に存在しているのだと思い込んでしまう。何だか SF じみていて、伝承らしからぬ凝った筋だ。

興味深いのは、原作がイディシ語で書かれているということだ。結局ぼくが外国の物語を読む時は、大抵は翻訳された物を読むわけで、その点を突っ込んで考え始めると薮蛇になりそうなので敢えて深く追求はしないが(苦笑)、その国の言葉で語られなければ意味を成さない物語というものは確かにある。伝承や昔話などはその代表だろう。例として適切か分からないけど、だいぶ前に日本昔話の英訳を読んだとき、「おじいさんとおばあさんがベランダでティーを飲んで…」とあってたまげたことがあった。原文は「縁側でお茶をすすって…」という感じだったんじゃないかな。細かいニュアンスなどは、その国の言葉で語らなければ正確には伝わらないものだ。ユダヤ人の物語だからイディシ語で書くのだ、という著者のスタンスは大切なことだと思う。

(20020506)


真夜中のパーティー フィリパ・ピアス 作/猪熊 葉子 訳

8編の作品が収められている短編集。どの作品も主人公は小学校くらいの子供たちで、身近な題材を扱っている。しかし、この作品群が読者にあたえるのは、ありきたりな教訓話でも懐古趣味でもなく、白黒つけがたいモヤモヤとした感情だ。本書は一応児童文学ということになるのだろうし、子供の読者もここから様々なものを受け取るのだろうが、この複雑な味わいは、大人の読者にも是非お勧めしたい。以下、ストーリーをひとことで要約してみる。

「よごれディック」 近所に住むおじさんが「よごれディック」から盗んだお金を、ぼくはこっそりと返しに行く。

「真夜中のパーティー」 真夜中に目が覚めてしまった4姉弟は、キッチンで不思議なパーティーをして末弟を煙に巻く。

「牧場のニレの木」 古くなった危険なニレの木を、少年たちが勝手に倒してしまう。

「川のおくりもの」 ダン少年は、いとこがロンドンに持ち帰ろうとしている珍しい貝を、だまって川にもどそうとする。

「ふたりのジム」 寡黙なジム少年と、耳の聞こえない祖父ジムは、早朝、家族に見つからぬよう車椅子で隣村へと出かける。

「キイチゴつみ」 家族で自転車に乗りキイチゴつみにいき、悪ふざけして父親に怒られるのを恐れた娘は、ひとり逃げ出し、とある農家に寄る。

「アヒルもぐり」 池に投げ入れたレンガを拾う潜水遊びをやっていた少年は、レンガの代わりにブリキの箱を拾う。

「カッコウ鳥が鳴いた」 パット少年は、隣家の幼いルーシーをつれて川をさかのぼる小冒険にでかける。

どの作品も極めて質が高く、それぞれ印象深いが、個人的な好みでいうと表題作と「キイチゴつみ」が好きだ。全体に子供のころの漠然とした不安みたいなものが見事に描写されていると思う。子供という存在を変に美化していないところも良い。フェイス・ジェイクスによる挿絵も素晴らしい。

(20110327)


ミオよ わたしのミオ アストリッド・リンドグレーン 作/大塚 勇三 訳


水の子 陸の子のためのおとぎばなし キングスレイ 作/阿部 知二 訳

1863年発表のファンタジーの古典で、原題は"The Water Babies"である。ジャズサックス奏者ウェイン・ショーターのオリジナルに同名の曲があるので、もしやと思って検索してみたら、はたしてこの物語にインスパイアされて作曲したとのことだ。独特のミステリアスなムードを持った曲で、マイルス・デイビスの「ウォーター・ベイビーズ」というアルバム等に収録されているので、興味のある人は聴いてみてください。

煙突掃除のトム少年は、仕事中に間違って入ったお嬢様の部屋で泥棒に間違われて逃走し、妖精の導きで川に落ち「水の子」に転生する。トムは「世界のはてのそのかなた」を目指して不思議な国々を巡り、かつて自分をいじめたグライムズ親方を助け、そのことにより自分の魂も救済される。

とても古いタイプの小説で筆致が古めかしく、脱線が異常に多いうえに、ちょっとした説明にもふんだんに比喩を使いながらたっぷり紙面をつかうので、物語がちっとも進まない。たとえば屋敷の外観の描写だけで3ページ、あまつさえ「水の子」は実在するのかどうかという問いかけでは10ページ以上も使っている。作者が読者に向かって語りかける場面が多く、全体的にクドクドとしていて説教臭く、とどめに「教訓」などという章まで設けられている。辻褄の合わぬところや矛盾も大変おおく、終盤トムが色んな国を巡るあたりになると、トムが「水の子」だという設定までどこかへ行ってしまう。訳文も少々古臭いが、仮に改訳しても読みやすくはならないだろう。

しかし、そのような前時代的さこそが本書の一番の魅力である。当時の文化やものの考え方、風俗の違いなど、事細かに描写されているので、なるほどと思ったり、そうだったのかと発見することも多く、これはこれでなかなか楽しい。ぼくが大学でディケンズを研究したり当時の文化習俗にかなり興味があるからだろうが。惜しむらくは、当時の独特の言いまわしや人物名、文化、風俗について、注釈が極めて少ないのが残念でならない。もしもぼくが編集者だったら、注釈だらけにしたところだが。大学の英文学の講義で採り上げて精読すれば面白いだろう。

子供が水の精になって旅をするというファンタジックな物語ではあるが、上記のような読みづらさ、とっつきにくさがあるので、正直なところ、現代の子供が読んでもピンとこないかもしれない。しかし19世紀のイギリス文学が好きな大人の読者ならば興味深く読めるだろう。

ジーン・S・クルックシャンクスの素晴らしい挿絵が、読みづらい本書のオアシスとなっていることは特記しておきたい。ちなみに本文中に出てくる「宇宙の中心(南緯42.21度、東経108.56度)」は、中国とモンゴルの境でした(わざわざ調べた)。

(20111023)


みどりのゆび モーリス・ドリュオン 作/安東 次男 訳

さわる物には何でも花を咲かせてしまう「みどりのゆび」を持ったチト少年の物語。60年代のフラワームーヴメントを想起させられたが、この物語はそれより古い1957年の作だった。解説にもあるが、チトの純真でまっすぐなものの見方、考え方は、同じくフランスの名作「星の王子さま」を彷彿とさせるところがある。ラストシーンなど読むと、実際に多少なりとも影響を受けてるんじゃないかな。

刑務所や病院、動物園などあらゆる所に花を咲かせて平和をもたらすばかりか、大砲や銃などの兵器も花でいっぱいにして使えなくしてしまい、ついには戦争さえも止めさせてしまうという夢のあるストーリーだが、正直に言うと、最初のうちは、いささか理想的過ぎるきらいがあるなと感じていた。個人的な意見だけど、ぼくは日本憲法は早急に改正して自衛隊も国軍化するべきだと考えているし、現実を直視しない上辺だけの空想的平和主義には嫌悪感すら持っている。しかし読み進んでいくうち、本書はそういう思考停止的な理想主義とは一線を画すことが分かってきた。というのは、悪役が一人も登場しないのだ。

敢えて悪役を探せば、チトのおとうさんだろうか。何てったって兵器を売る「死の商人」なんだから。ところがそれと同時に優しくて決断力のある理想的な父親でもあるのだ。「規律」を重んじるかみなりおじさんも、チトのことを愛している。この物語には善人しか出てこない。それでも戦争が起こる。ミルポワルの人々は戦争を嫌っている。しかし兵器工場で兵器を作る。どういうこと?

チトは戦争を止めさせることに成功するが、兵器を使えなくするという物理的な方法によってであり、根本的な解決策とは言えまい。また、花で兵器が使えなくなったと言えば、聞こえは軟らかではあるが、これは手段としては極めて暴力的だと言わざるを得ない。

結果的に戦争を止めさせたというのは素晴らしいことだ。小学生なら「綺麗な話で、チトはえらいと思いました」という受け止め方で良いだろう。しかしぼくら大人としては、チトは、暴力によって暴力を抑え込むという問答無用の方法を用いたのだということを忘れてはならない。前に書いた通り、本書には悪人が登場しない。善人ばかりだ。 それでも戦争が起こる。一体倒すべき悪役はどこにいるんだろう? 戦争をなくすためにはどうしたら良いのだろうか? 本書が示唆するものはとてつもなく深い。

(20030608)


名探偵カッレくん アストリッド・リンドグレーン 作/尾崎 義 訳

妄想癖のある探偵オタクの少年が、本物の宝石強盗事件を解決する! 少年探偵団ゴッコをやったりして似たような少年時代を過ごしたものとしては、何ともたまらないストーリーだ。小学生の頃に出会っておきたかった作品だな。

しかし冷静に考えてみると、気に入らない大人を悪者と決め付けて付け回したり、合鍵を盗んだり、夜中に人の家に侵入して勝手に指紋を取ったりと、カッレという奴は結構ヒドイぞ(笑)。巧みに伏線が張られているのだけど、あまりに無駄がなさ過ぎて、たとえば読者をミスリードするようなオトリ伏線などは見当たらず、探偵小説としてはちょっと物足りない気もしないではない。しかし構成はしっかりしているし、児童文学ならではの面白さがたっぷり詰まった快作だ。

子供たちの遊ぶ様も活き活きと描かれていて楽しい。こういう描写って、自分が実際に子供の頃に読んでいたなら、アホ臭いと感じたに違いないが(ぼくはそういう子供だった)、大人になってから読むと、ちょっぴり切ないというか、味わい深いもんだ。それにしても、カッレ達の遊びは13才にしては少々幼稚な気がするが、当時はこんなもんだったのかな? まあ、ぼくが子どもの頃は、外で遊べるところがない一方で、テレビゲームがあったし、単純に比べるわけにはいかないだろうけど。

(20021208)


カッレくんの冒険 アストリッド・リンドグレーン 作/尾崎 義 訳

前作の所感を書いたのが2002年。この文章を書いているのは2011年である。さすがにこれほど間をあけると登場人物やストーリーなど細かいところを忘れてしまっているので、まずは前作を再読しました。推理小説と思って読むと確かに物足りなさはあるかもしれないけれど、少年のひと夏の冒険物語としては文句なく面白い傑作であった。まあ大傑作と言っていい。前作のぼくの所感はちょっとピントがずれてるような…。今更書き直さないけど。

本書では、宝石泥棒を捕まえてから一年後、退屈な夏休みを過ごしていたカッレたちが再び事件に巻き込まれる。しかも今度は殺人事件である。殺されたのは高利貸しの老人。偶然、犯人を見かけたエーヴァ・ロッタは、命を狙われ、毒入りチョコレートを送られたり災難に見舞われる。最後、犯人は、口封じのため少年たちを追い詰めるが、カッレの機転により逮捕される。

殺人という重い題材を扱っているため、前作と比べてシリアスな作品になっている。事件がのどかな田舎町にもたらす波紋や、少年たちにおよぼしたショックなど、極めて重く取り扱われている。個人的には、児童文学で殺人を軽々に扱うべきではないという考えなので、殺人がこれほど真剣に受け止められているのは、かくあるべしと思う。たとえ悪い奴であっても簡単に殺されたりするのはいけない。

事件が解決に至る顛末も面白いが、本書の魅力は何と言っても少年たちの「バラ戦争」の方だろう。とりわけぼくが気に入ったシーンがあって、夜更けの「おんぼろ丘」というスラム街で、赤バラ軍との追いかけっこの最中に、カッレの身体に力が漲りなんでも出来るような気分になるというあたりの描写が非常に素晴らしい。

前作から一年経っても、カッレたちはあいもかわらずバラ戦争に熱中している。他方、現代の日本において14歳はすでに受験戦争の渦中に放り込まれている年齢だ。カッレたちの冒険と遊びにあふれた思春期は輝かしく、心からうらやましい。

(20110206)


名探偵カッレとスパイ団 アストリッド・リンドグレーン 作/尾崎 義 訳

カッレくんシリーズ最終作である。イラストがエーヴァ・ラウレルからチェスティーン・トゥールヴァール・ファルクに代わったため、絵から受け取る雰囲気がこれまでとかなり違うが、カッレたちの軽口は相変わらずユーモアに満ちて楽しく、少年時代の懐かしい旧友に再会したような気分になる。この巻でシリーズが終わってしまうのがなんとも残念だ。

カッレとアンデス、エーヴァ・ロッタの3人は、深夜のバラ戦争の帰りに、怪しい男たちがラスムスぼうやと科学者の父親を拉致するところを目撃した。エーヴァ・ロッタはとっさに誘拐犯の車に潜り込み、カッレとアンデスはバイクに盗んでその車を追跡、小島にある犯人グループのアジトを突き止める。人質を助けようという奮闘むなしくカッレたちも囚われの身となるが、隙を見て無線で外部に連絡、あわや犯人グループが国外に逃亡する寸前で警察がやってきて、悪者たちは御用となったのであった。

なんといっても本書の魅力は幼いラスムスの存在につきる。この鬱陶しくも可愛らしい小悪魔が、カッレたちや犯人グループを翻弄する様には、ハラハラさせられたりニヤリとさせられたり。犯人グループの一員である心やさしきニッケとのやりとりには、しんみりさせられる場面もある。天使であると同時に悪魔でもある、幼児のありのままの姿がとても愛くるしくて印象的だ。

本作では、カッレたちは町を離れ、小島で犯人グループと息詰まる攻防を繰り広げる。そのため、恒例の「バラ戦争」についての描写は控えめである。そのことに物足りなさを感じる読者はぼくだけではあるまい。正真正銘の悪人との対決より、少年たちのバラ戦争の方にスリルを感じるとは!

(20110213)


名探偵ハリー・ディクソン 怪盗クモ団 ジャン・レイ 作/榊原 晃三 訳

いやあ、この作品のテンションの高さには脱帽。 本書には中編が2編収録されてますが、どちらも飛ばしまくっています。 ケレン味たっぷり…と言うか、ケレン味しかないのとちゃうか(笑)。ちなみに探偵が活躍する話だけど、決して推理モノではありません。「探偵ファンタジー」とでも言うべきかな。 決して貶しているわけでも馬鹿にしているわけでもなく、A級のB級娯楽作(?)として高く評価しているのだ。小学生はもちろん、少年時代に小林少年や御子柴進少年の活躍に胸を躍らせた大人達にもオススメ。

まず最初の「怪盗クモ団」からして凄い。冒頭で、探偵の部屋でクモのオモチャが発見されるという事件が起こるが、一体犯人がどうやったのかは謎のままである。というか、どうやら本シリーズは、いわゆる「謎解き」とは全く無縁なようだ。やがて登場する怪盗団の首領の正体が、寄宿学校に住む女学生で、宿題を出した校長を腹いせに殺害するという理不尽さ。さらに政府や軍の高官が登場したり、美貌の怪盗と探偵のロマンスまで盛り込まれており、サービス過剰ぶりにひたすら圧倒される。結局この女怪盗には逃げられてしまうのだが、どうやって船上から姿を消したのかは、もちろん謎のままである。はたして彼女は、2巻以降で再登場するのだろうか?

続く「謎の緑色光線」も凄い。わざわざ内容を説明せずとも、目次だけで、大まかな流れ、テンションの高さ、見事なまでのB級感覚が分かってもらえるかと思うので、そのまま引用してみる。「ふしぎな光線」「ロンドンの屋根の上で」「科学の家」「鋼鉄の野獣」「ブライテンシュタイン博士」「ハリー・ディクソン対ハリー・ディクソン」「緑色光線の最後」 …どう? 面白そうでしょ。本編では人間ソックリのロボットが登場し、探偵の命を狙ったりもするのだが、これが1923年の作品とは信じられないなあ。

2編ともサービス満点の大娯楽作だが、難が無いわけでもない。一つは、どう好意的に見ても、ハリー・ディクソンが間抜けにしか見えないこと。もう一つは、あまりに簡単にパタパタと人が死に過ぎる。特に後者は、今の感覚からすると、ちょっといかがなものかと感じてしまうが、書かれた時代を鑑みれば仕方の無いことか。

作者はベルギー人で、このシリーズは当時のフランス語圏の少年達を熱狂させたらしい。日本に乱歩がいたように、どこの国にもこういう探偵物が存在するんですね。フランス語圏の作品なのに、探偵がベイカー街に住むイギリス人という設定がまた微笑ましいが、後にイギリスの作家がベルギー人の探偵が活躍する推理小説を書くなんて、思いも寄らなかっただろうなあ。

(20031102)


名探偵ハリー・ディクソン2 地下の怪寺院 ジャン・レイ 作/榊原 晃三 訳

さてさて、ハリー・ディクソンの第2集である。あの驚くべきテンションの高さは健在で、思わず頬が緩んでしまう。「七狂人の謎」と「地下の怪寺院」の2編が収められているが、幻想作家である作者の本領発揮というか、両方ともオカルト仕立てで怪奇ムード満点のミステリアスな作品となっている。ちなみに前作の所感でハリー・ディクソンはイギリス人と書いてしまったが、本書の冒頭でアメリカ人であったことが判明する。確かにあんまりイギリス人っぽくなかったもんね。

「七狂人の謎」は、アメリカ時代の旧友から助けを求める旨の手紙が届くところから始まり、イギリスの地方の小さな町で名士ばかりが次々に発狂していくという謎に挑むが、寂れた町や深い森を抜けて館に迎えられるあたりなど、このシリーズにしては落ち着いた感じのゴシックホラー的な雰囲気がとても良い。やがて助手ウイルズの失踪や、地下洞窟の発見などを経て、麻薬と催眠術を使った恐るべきたくらみへと迫ってゆく。ブラジルの奥地からつれてきた<正気をうばうもの>という生きているミイラの存在が不気味だ。

ものものしいプロローグから始まる「地下の怪寺院」は、これが前口上どおりの恐るべき事件というか、もはや探偵小説の範疇を越えちゃっているのだ。ハリー・ディクソンはドライブの途中、忌まわしい伝説の残る館で、謎の飛行物体と、恐ろしい怪物を目撃する。そこで耳にした<アップルツリー>という言葉から、月へロケットを飛ばそうとした科学者へと繋がってゆき、やがて地下に建設された美しく巨大な寺院へと誘い込まれてゆくのだった。それにしても、ロケットのような飛行物体や、それを操縦する醜い怪獣まで登場して、何でもありの凄まじい展開にひたすら圧倒されてしまう。ぶっちゃけた話、もうヤケクソ!みたいな感じもする(笑)。

両作とも、ブラジルから来た奇怪な怪人が重要な役どころを担うが、これらが書かれた当時(1933年)は、まだまだ南米は神秘的な未知の大陸だったのかな。また最新鋭の自動車が25馬力だったり、科学に関する知識が出鱈目だらけだったりというところは、いかにも時代を感じさせられるが、こういうレトロな感覚は個人的に大好きだ。

超人的な活躍のハリー・ディクソンも、大人の読者の目には馬鹿にしか見えないのは残念なことだ。思えば乱歩や横溝正史のジュヴィナイルものは、基本的に少年探偵が主人公であり、怪人のトリックに簡単に引っ掛かったり騙されたりしたあとで、最後の最後に明智小五郎なり金田一耕助が登場するという構成になっている。だから大人になって読み返しても探偵の威厳は確保されているわけだが、ハリー・ディクソンの場合は、探偵自身が怪人に翻弄されまくるので、どうしても探偵としては軽量級に見えてしまうという宿命を背負っているのだった。助手のウイルズなりをもっと前面に出せば、もうちょっと良くなったような気がするんだけどなあ。

(20041017)


名探偵ハリー・ディクソン3 悪魔のベッド ジャン・レイ 作/榊原 晃三 訳

楽しいハリー・ディクソンのシリーズもこれが最終巻である。探偵の相変わらずの活躍ぶりは嬉しくなってくるが、もうこれ以上岩波少年文庫でハリー・ディクソンの活躍が読めないと思うと結構寂しい。割と硬派な作品の多い文庫にあって、このシリーズの娯楽性は抜きんでていたからね。本書には「悪魔のベッド」「銀仮面」の2編が収められているが、テンションの高さや荒唐無稽さはこれまでの作品に引けを取らない。

「悪魔のベッド」は、スコットランド山奥の湖に浮かぶ島での不思議な事件から始まる。その事件にまつわる記録をオークションで競り落とすしたハリー・ディクソンは助手ウイルズと共に古い館へ向かう。地底に暮らす不老不死の一族や類人猿、さらに謎の生物なども登場し、恐ろしい戦いが繰り広げられるが、体中に爆弾や武器を備えたハリー・ディクソンらのコマンドー(シュワルツェネッガー!)ばりの活躍で地底の王国は滅びる。しかし問答無用の破壊ぶりに、こんなことして良かったのか?という疑問は残るが(苦笑)。スコットランドへの夜汽車の旅の描写がいい。

「銀仮面」では、ロンドンで起こった飛行船事故が、その飛行船に関係する人が次々に殺されるという事件に発展し、やがて銀仮面の恐ろしい怪人(その正体はロボット)の魔手がハリー・ディクソンへと伸びる。正直なところ、この作品は展開が急すぎ脈絡もなく全体に散漫である(まあそれは他の作品にも当てはまるけれど)。SF仕立ての1編であるが、やはりこの作者の本領はホラーやオカルト仕立ての作品でこそ発揮されるように思われる。

訳者によるあとがきに、ハリー・ディクソンシリーズは探偵小説というよりもむしろSFであり、ジャン・レイは、ドイルよりもヴェルヌやウェルズの後継者だとある。まあ気づいてましたけど(笑)。しかし戦前の少年向けのエンターテインメント小説でここまで盛りだくさんで今もって楽しめるような作品は世界を見渡してもそうはないだろう。ひょっとしたらよく知られた冒険小説や映画のなかに、このシリーズから影響を受けている作品もあるかもしれない。

「悪魔のベッド」など、物語の導入部はオカルトチックで重々しい空気が流れているのに、ハリー・ディクソンが登場した途端に妙に場が和むような気がするのはぼくだけではあるまい。大人の読者の目にはどこかちょっと抜けてるようなハリー・ディクソンではあるが、ホラーめいたおどろおどろしい物語で雰囲気を明るくできる存在感は、児童向け小説のキャラクターとしては貴重かもしれない。

(20100211)


ムギと王さま エリナー・ファージョン 作/石井 桃子 訳
※改版後の正しいタイトルは「ムギと王さま 本の小べや1」

11編のファンタジーが収められており、多くは童話風の物語なのだが、全体的にスマートで現代的なセンスがあり、読後感も非常に爽やかだ。表題作の「ムギと王さま」なんか、非常にしゃれているというか、現代アメリカ文学でも読んでいるようだった。

昔話風の「月がほしいと王女さまが泣いた」「レモン色の子犬」「小さな仕立屋さん」なども、物語が面白いのはもちろん、独特の飄々とした雰囲気がある。 ふと渋澤龍彦の「ねむり姫」を思い出した。 あれは日本昔話的な短編集だったが、やはり飄々とした現代的な語り口であったように思う。雰囲気的にはこの短編集とちょっと似ていたかもしれない。「天国を出ていく」も、落語の三題噺みたいで面白い。

この短編集で、ぼくが特に気に入ったのは、「十円ぶん」、「《ねんねこはおどる》」の2編だ。「十円ぶん」の懐かしさはどうだ。 子供の目からみた世界の描き方。自分を取り巻くすぐ側の物しか見えておらず、興味を持ったもの以外の存在が掻き消えてしまう感じ。同じ十円のチョコレートでも、お店で買うのと自動販売機で買うのとは、全く価値がちがうんだよな。とても短いシンプルな話なのに、物凄い密度を感じる。

「《ねんねこはおどる》」がまた素晴らしい。ぼくの祖母も晩年に、カーフューひいおばあちゃんと同じく、赤ちゃんにもどってしまったので、曾孫のグリゼルダとのやり取りなど胸が締め付けられるような思いで読んだ。そして、シンチュウのお城に住んでいる頭の3つある大男の話! なんでこんなの書けるんだ? 恐るべき作家だ。

(20020815)

追記: 1959年発行の旧版「ムギと王さま」には、ファージョンの原書"The Little Bookroom"の27編の内から選られた11編が収められていた。旧版に収められていたのは次の11編。「ムギと王さま」「月が欲しほしいと王女さまが泣いた」「ヤング・ケート」「金魚」「レモン色の子犬」「モモの木をたすけた女の子」「小さな仕立屋さん」「天国を出ていく」「ティム一家」「十円 ぶん」「《ねんねこはおどる》」。上に書いている所感は旧版を読んでのものである。

2001年の改版で、「ムギと王さま 本の小べや1」と「天国を出ていく 本の小べや2 」の2分冊に改められ、原書の27編が全て収められることになったが、旧版に収録されていた11編は2冊に分散されたため、旧版と新版の「ムギと王さま」では収録されている作品が異なる。例えば上の所感でぼくが絶賛した「十円ぶん」「《ねんねこはおどる》」は、「天国を出ていく 本の小べや2 」の方に入った。古い版を持っている読者にとっては不親切な改版だったのではないかと思う。

2001年発行の新版「ムギと王さま 本の小べや1」に収められているのは以下の14編。(新版に加えられた物語を赤字で記す。)

「ムギと王さま」「月が欲しほしいと王女さまが泣いた」「ヤング・ケート」「金魚」「レモン色の子犬」「貧しい島の奇跡」「モモの木をたすけた女の子」「西ノ森」「手回しオルガン」「巨人と小人」「小さな仕立屋さん」「おくさまの部屋」「七ばんめの王女」

今回の機会に既読の作品も改めて読みなおした。前に読んだときから8年経ち、その間に様々な作家の童話やファンタジーに触れてきたが、やはり本書のクオリティーの高さは抜きんでていると感じた。今回初めて読む作品も、ロマンチックで美しいもの、発想のユニークなもの、やや辛辣でブラックなものなど、バラエティーに富んでおり楽しい。しかし、やはり旧版に収められていた作品に、より優れたものが多いと感じるのは致し方ないところか。

(20100314)


ムルガーのはるかな旅 デ・ラ・メア/脇 明子 訳


森は生きている サムイル・マルシャーク 作/湯浅 芳子 訳

美しくダイナミックな物語だ。何よりも森の圧倒的な存在感が強く印象に残る。これは戯曲だけど、情景描写が巧みな上に、登場人物たちの台詞の端々から、ロシアの厳しい冬の森の光景が目に浮かぶようだ。

「森は生きている」というタイトルから、草木が青々と茂っていて、動物が走り回っているような、ディズニーの「バンビ」に出てくるような森を想像していたので、最初はちょっと戸惑ってしまったが、読み進むうちに、雪の降り積もる厳しい冬の森も、非常に豊かな世界なのだということが分かってきた。

12人の月の精(moon じゃなくて month の月)たちが、季節を早送りする描写が非常にスケールがでかいが、最後に元の厳しい冬に戻るところが、当たり前なんだけど素晴らしい。もしもぼくこれを書いていたならば、最後に春が訪れて花が咲き動物達が踊り出して、「森に生命が戻りました!」 みたいな安易なアホ話にしてしまいかねないな…。しかしこの物語の主役はあくまでも冬の森なのだ。そういう点で、とてもロシアらしい物語だと感じた。もしも同じようなモチーフで、タイやブラジルなど他の国でこの物語が書かれていたなら、随分違う展開を迎えていたのかもしれない。

それにしても、やっぱりこの物語は、冬の寒い日に、暖房を消して毛布にくるまって読みたいね。というか、ぼくはそうしました(笑)。

個人的な話だけど、ぼくは大阪生まれの大阪育ちなのに、このような雪の降り積もる地方の物語を読むと、どこか懐かしいような不思議な気分になってしまう。どうしてだろう?

(20020211)


モルグ街の殺人事件 E.A.ポー 作/金原 瑞人 訳

ポーは特別に思い入れのある作家の一人だ。小学校の頃読んだ「黒猫」の恐ろしかったこと! 父親の本棚にあった河出書房のポー作品集は、子供には晦渋で、ハリー・クラークの挿絵も見るのも嫌なくらい不気味だったが、不思議に惹きつけられるものがあって、何度も読み返したものだ。あの時の読書体験がのちにブラッドベリやラヴクラフトにのめり込む下地を作ったのは間違いない。

この岩波少年文庫版には「黒猫」「ウィリアム・ウィルスン」「アッシャー家の崩壊」「赤死病の仮面」「大渦にのまれて」「アモンティリァードの樽」「モルグ街の殺人事件」の7編が収められている。子供にも読めるよう配慮された訳文ではあるが、ポーならではの暗闇がぎゅっと凝縮されたような密度の濃い雰囲気は存分に味わえる。

どれもぼくにとってなじみのある物語ばかりだが、読み始めると夢中になって、あっという間に読み終えてしまった。子供のころ読んだときは、「ウィリアム・ウィルスン」が理解できなかったことを懐かしく思いだした。改めて平易な文章で読み返すと、古い文学ならではのくどい表現もあるものの、全体にスピード感があり明晰で分かりやすい。物語の語り手のたたみかけるような独白に異常な熱気があると同時に冷め切ったような知性も感ぜられ、没頭してしまわざるを得ない魔力がある。プロットの面白さ不気味さに加えて、文章自体に力があるため強い中毒性がある。

今回の再読によって前から心に引っ掛かっていたことが一つ解決したので、ちょっと長くなるが書いておく。ブラッドベリの「火星年代記(小笠原豊樹訳)」に、登場人物がポオの「アモンティリァードの樽」を引用して「神の御名にかけて」と言う場面がある。大変印象的な台詞なのに手元にあるポオの原作(河出書房版、松村達雄訳)にそれが出てこないので不思議に思っていた。そしてその場面、岩波少年文庫版では「神かけて」となっている。気になったので原文を調べたら "For the love of God” とある(古典はネットで読めるから便利だ)。「お願いだから」という感じで使われる一般的な熟語らしい。つまり河出書房版では意訳されていたため、印象的な「神かけて」というフレーズがなくなっていたというわけだ。

大昔に読んだ翻訳物の児童向け冒険漫画(詳細は忘れた)で、たいしたこともないのに登場人物がやたらと「ああ、神さま!」と言うので、子供心に神さまに祈ってばかりで変だなと思っていたが、だいぶ後になってあれは「オーマイゴッド!」をいちいち直訳してたんだなと気付いた。翻訳するうえで熟語などの扱いは難しいのだろうが、「アモンティリァードの樽」のあのおどろおどろしい場面では敢えて「神かけて!」と訳してくれてこそ雰囲気が出るし、きっとポー自身も字義通りの意味も想定していたに違いない。何れにせよ長年の疑問が氷解してスッキリした。

まだまだ食い足りないので本棚の河出書房版を引っぱり出して読み返し、「火星年代記」も読み返し、そうなると本棚のラヴクラフト全集も気になってきて「インスマウス影」などを読み返し、じわじわと底なし沼にはまるように、どっぷりと幻想的な世界に浸っていくのだった…。

(20100220)


モンテ・クリスト伯 〔全3巻〕 デュマ/竹村 猛 編訳



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by ようすけ