岩波少年文庫全作品読破に挑戦! 「あ」行の作品



アーサー王物語 R.L.グリーン編 / 厨川 文夫・厨川 圭子 訳

中世のイギリス周辺を舞台とした騎士達の物語だ。 原著は23のエピソードがあるが、本書では16編に絞り込まれている。 アーサー王が岩に刺さった剣を抜く華々しいシーンから始まり、剣と魔法の世界にどっぷりと浸れる。 ついついテレビゲームや漫画などのファンタジー物を思い出すが、流石は本家本元だけあって重量感は段違いだし、これを読むと近年作られたファンタジーに新しい要素がほとんど無いことが分かってしまう。 近年のファンタジーとの大きな違いは、キリスト教の影響の大きさ。 意外なくらい宗教色が強い。 あと騎士達について、強さはもちろん、人格の高潔さ、王に対する忠誠心、敬虔さなど、精神的な面も重視されており、日本の侍などと共通するところもあるかな。

湖で伝説の剣エクスカリバーを手にするアーサー王、王妃グウィネヴィアに恋してしまう最強の騎士ラーンスロット卿、誠実なガウェイン卿、聖杯の探求に成功したガラハッド(ラーンスロットの息子)、トリスタンとイズーの悲恋、魔法使いマーリンに隠者ナーシアンスなどなど、主要な人物やエピソードを憶えておくと、この先ファンタジーを読む際に役立ちそうだ。 もちろんワグナーをはじめとするオペラなどを理解するのにも良いよね。

個人的には、ラーンスロット卿とグゥイネヴィア王妃の不倫疑惑を発端に、騎士達がバラバラになり、ついにはログレスが崩壊するまでの展開がドラマチックで面白かった。 しかしこの物語全体に言えることなのだが、ストーリーは起伏があっておもしろいのに、細かな心理描写や人物の描写が物足りない感じがする。 数百年前から伝えられてきた叙事詩などが元なので、その辺は仕方ないのだろうが、吉川英治みたいな人が書き直したら、更なる傑作に生まれ変わるように思う(欧米では既にそういう本もあるかもしれない)。

円卓制度というのはユニークだが、てっきり序列を作らないための円卓かと想像していたら、席順など厳格な序列があるようだ。 本書ではタイトルから「円卓の騎士」という言葉が落ちてしまったが、アーサー王よりも、彼を取り巻く騎士達の活躍の方が主に描かれているので、原題通りに「アーサー王と円卓の騎士たち」とした方が良いと思う。

いつも書いているが、地図があったほうが嬉しい。 ことにこの作品では「ログレス」「カメロット」など現在では廃れた古い地名が頻出している。 手書きのアバウトなもので良いから地図をつけておいてくれたら、より物語の世界に没頭できるものを。

(20030427)


青い鳥 メーテルリンク 作 / 若月 紫蘭 訳

言わずと知れた児童文学の大名作。 でも、戯曲だったことは読んでみるまで知りませんでした。戯曲であるからには、やっぱり舞台を一度見てみたいな。

とくにユニークというか、今もって斬新だと思うのは、動物や炎、光、夜などの精はもちろん、「思いやりの心」など、人の精神状態にまで人格が与えられているところ。木や石などの物質にも精神が宿る、といったアニミズム的な考えは、西洋圏でも決して珍しくはないのだけれど、人の心の在り方まで擬人化してしまっているというのは、他に思い当たらない。たぶん戯曲だからこそ、この様な表現になってしまったのだろうけど、やっぱり面白い。

個人的に好きなのは「思い出の国」の章。子供に「死」を理解させる為の物語や絵本は数多いが、ここでの表現が、一番分かり易くて優しいやり方だと思う。

ひとこと文句を言わせてもらうと、残念なことに訳が古い。単語や表現が今の時代にそぐわなくなってしまっている。岩波少年文庫では、訳の古くなった作品はちゃんと改訳されていっているが、この作品は1961年に改訳されて以来、ずっとそのままのようだ。子供を対象に編まれた文庫であることを考えると、もういい加減に改訳しなければならない時期だと思うのだが…。

(20020120)


あしながおじさん ジーン・ウェブスター 作/谷口 由美子 訳

「あしながおじさん」は、小学校低学年のころに親に買い与えられた。岩波少年文庫ではなかったと思う。与えられた本はなんでも素直に読んだぼくだったが、何故か「あしながおじさん」だけは気分が乗らず、序盤で投げ出した。月日が経っても、手に取る気にさえならなかった。しかもあろうことか、そのもらった本をいつの間にか無くしてしまった。この作品のことは、ずっと心の片隅に引っかかっていたが、これまで何となく敬遠してきて、このたびようやく三十年越しの完読となった。積年の宿題をやっとやり終えたような気分。

初めて完読して思ったのは、これはとにかく素晴らしい作品だと。文学史に燦然と輝く名作なのは間違いない。そしてもうひとつ思ったのは、小学校低学年の男の子には難しいだろうなと。ある程度大人にならねば、この面白さは理解できまい。

フレッド・アステアの映画は観ていたし、そうでなくとも有名な作品ゆえ、あしながおじさんの正体や、大まかなストーリーは最初から分かっていた。それでもハラハラしながら一気に読まされてしまった。この作品の面白さは、活字で読まれてこそ最大に発揮されると言っていいだろう。

学生としての日々の暮らしの描写や、心のうつろいなど、エピソードの一つ一つが面白いが、それが一方通行の手紙という特異なスタイルで描かれることによって、独特のリアリティーと親密さを持って迫ってくる。さらに凄いことに、30代の男性読者としては、まるで自分が女学生から手紙を受け取っているような気分になり、あしながおじさんの側の思惑や焦りなどが手に取るように分かる部分があって、変に切ないのである。

時代背景も勘案しなければならないだろうが、孤児院で育つということがどういうことなのか、改めて思い知らされたことも多い。孤児院育ちのため常識が無くシャーロック・ホームズすら知らなかったり、家庭というものに根本的な知識がなかったり。あしながおじさんが社会主義者という設定や、ニューヨークの華やかさと田舎の対比など、時代の空気が感じられるところも魅力だ。

途中、「アメリカと日本が戦争をする」という表現がでてきて、びっくりしてあらためたら1912年の作品だった。あり得ないことの例えとはいえ、ちょっとドキッとしますわな。

(20101113)


あそびあいてはおばあさん 木島 始 作/梶山 俊夫 画

幼いカオルと、おばあさんとのほのぼのとした交流を描く。カオルは母が入院したため親戚の家に預けられるが、そこで遊び相手になってくれたのは年老いたおばあさんだった。おばあさんは、花札を教えたりお菓子を焼いたり昔話をしたり、一生懸命にカオルをあやす。やがて母親が退院したのでカオルは家族のもとに帰り、年月が経ちおばあさんは亡くなり、しかしおばあさんがしてくれたお話や遊びは鮮烈な記憶となっていつまでも残るのだった。

30代のぼくにとって一世代前の古めかしいおばあさん像が描かれているが、なんだか本当のおばあさんのような懐かしい気持にさせられるのが不思議である。子供にとっての「おばあさん」という存在はいつの時代も変わらないものなのだと思う。現代なら、おばあさんがカオルの気を惹こうと花札を教えようとするくだりは、テレビゲームにでも置き換えられてしまうのかな?

梶山俊夫による挿絵が大変存在感があり本文と一体をなして独特の世界観を醸し出している。不器用に曲がったような線が、おばあさんのあやふやになった古い記憶とどこか重なり合うようで、ノスタルジックな気分を誘われる。

ところで木島始という名前に心当たりがあったので調べてみたら、はたして三善晃の合唱曲の作詞者であった。調べついでに娘がカニグズバーグの翻訳者の小島希里であることも分かった。小島希里といえば誤訳問題で有名だが、どうして児童文学界で最重要作家の一人であるカニグズバーグの翻訳という大役を任され続けていたのか謎であった。父親の縁故で岩波書店に紹介されので外しづらかったということだったのだろうか。こういうのを下衆の勘繰りということは自分でも重々承知しているものの、気になることではある。

(20110115)


あのころはフリードリヒがいた ハンス・ペーター・リヒター 作/上田 真而子 訳

1930年代から40年代にかけて、ドイツに暮らすユダヤ人家族の運命を描いた作品。重いテーマで、読む進めるほどにページを繰るのが辛くなるが、やはり大人になってから読むと色々と発見も多い。注釈が丁寧で、ユダヤ人の風習や歴史について分かり易く説明されている他、巻末には年号も附記されており、非常に勉強になる。

主人公の貧しい暮し振りや、彼の父親が突然仕事を解雇されるといった社会状況、一方主人公の友人のユダヤ人家族は比較的裕福であったり(その後の凋落振りは痛々しいが)、ヒトラーによるユダヤ人排斥が推し進められる以前から、彼らが差別の対象になっていたなど、あの時代の背景が良く分かる。

やはり歴史というものは、年号や事件の羅列ではなく、出来る限りこういう物語の形で読まれるべきものなんだろうと思う。

筆者の物の見方や文章がクールで、自分の意見を押し付けるようなところや説教臭さが全くないところが良い。事実を述べた後で、「それがどういう意味なのかは君たちで考えてごらん」というスタンスだ。その淡々とした筆致が、ユダヤ人家族を襲った悲劇の凄まじさや、人間の精神の脆さを、却って鮮やかに浮かび上がらせている。

(20010815)


あらしの前 ドラ・ド・ヨング 作/吉野 源三郎 訳/ヤン・ホーウィ 絵

ナチスドイツが進行してくる直前のオランダの家族の生活を描いた作品。 当然のことながら戦争の暗い翳が作品全体を覆っているが、オランダの平凡な家族(医者だから平凡でもないか)の暮し振りが活き活きと描写されており、戦争にまつわる話というよりも、心温まるホームドラマと言いたい。

冬の夜中に車で急患の家に診察に行くエピソードを始め、落第しそうな兄の為に校長先生に会いに行く幼い妹、楽しいクリスマス、アムステルダム訪問、ルトの病気など、ひとつひとつが印象深い。幼いピーター・ピムの描写が素晴らしくて、サンタを待つ時の期待と不安が入り交じった感じや、窓の外にいる人に向かって舌を出してしまうところなど、とても良い。それだけに戦争が始まってしまってからの悲惨さが一層胸を打つわけだが…。

オランダの歴史や地理に関する情報がふんだんに盛り込まれているが、こういうのは大歓迎。しかしこれを読むと、オランダは過去の国というか、ヨーロッパの田舎なんだな。 作品全体に大国に翻弄されるオランダの無力感が滲み出ているように感じる。強く印象に残ったのは、「アムステルダムの地下には杭の森がある」という表現。 地下に巨大な杭を何千本も打ち込み、町の水没を防いでいるらしい。壮絶な国だな。あと、どうやらオルト一家はカトリックらしいので、おや?と思って調べてみたら、実はオランダではプロテスタントよりカトリックの人口の方が多いことが分かった。意外だ。

当時のヨーロッパの情勢に関する記述も興味深い。オルト家ではユダヤ人の少年ヴェルネルを預かるわけだが、こういうことは良くあったのかな。最後までドイツの侵攻を信じようとしなかった父親の態度が、現在の日本の姿に重なって見える。

ひとつ残念に思うのは「あらしの前」という邦題だ。キナ臭すぎる。今回読むまでずっと戦争の話だと思い込んでいた(それもあながち間違いではないが)。原題は、オルト家が暮らす家の名前をとって "The level land" というのだが、このオランダを舞台としたホームドラマには原題の方が相応しい。ちなみに訳者の吉野源三郎は「岩波少年文庫発刊に際して」という檄文(文庫の最後のページにある「一物も残さず焼きはらわれた街に、草が萌え出し〜」というアレ)を書いた人でもある。典型的な左派知識人という雰囲気がするが、こういう人がことさら戦争を強調するのは良くあることだ。岩波的というか。でもやっぱりこのタイトルは不吉で感じが悪い。

(20030119)


あらしのあと ドラ・ド・ヨング 作/吉野 源三郎 訳/ヤン・ホーウィ 絵

前作から6年経ち、戦争を乗り越えたオルト家を描いている。長女のミープは子どもを生み、他の兄弟もそれぞれに成長したが、悲しいことにヤンがいなくなってしまった。戦争中、ヤップとヤン、更にはあの幼かったピムまでもが、ナチスに対するレジスタンス運動をし、その中でヤンは不幸にも命を落としてしまったのだ。ヤンが命を落とすに到った顛末に全く触れられていないことが、却って残された家族の喪失感を強く感じさせる。

戦争は、町や人命だけでなく、生き残った人々の心までを破壊してしまった。ヤンを失ったオルト一家には、何ともやりきれない空気が漂っている。更にこの作品は、ようやく訪れた平穏な生活が、戦時の熱狂の後では、どこか物足りなく、味気なく感じてしまうような気分までをも克明に描写している。それがもっとも良く表れているのがピムだ。本物の戦争をくぐり抜けてきたピムは、子どもの遊戯など馬鹿らしくなり、ウサギの密猟に精を出すようになる。戦争が終わったからといって、すぐに元どおりの平穏な生活に戻るわけではないのだ。

アメリカに亡命していたヴェルネルが、再びオルト家を訪れるのをきっかけに、どこか閉塞感が漂っていた家族に、ゆっくりではあるが、元の明るい雰囲気が戻り始める。このヴェルネルとオルト家の家族が再会する場面の描写は感動的だ。やがて、はにかみ屋だったルトは、画家クラウスとの出会いで、絵の才能を目覚めさせ、ピムも徐々にではあるが子どもらしい溌剌さを取り戻し始める。平和とは平凡な日常であるわけだが、それを手に入れるにはそれ相応の苦労や時間が必要なのだ。

文学や映画など、続編が一作目を越えるものは滅多に無いが、本作はその希有な例の一つだと思う。本作は読者からの続編を望む声が大きかったために書かれたということだが、それが信じられないくらい2作品が調和してバランスが取れている。悲惨な戦争中の描写はせず、戦前戦後の家族を描写することだけで、却って戦争の惨たらしさを見事に浮き彫りにしているところも凄い。 前作の所感で、邦題がキナ臭すぎると書いたが、本書を読むと、何故このようにしたのかが良く理解できる。なかなか見事な邦題ではないかと思う(なんと現金な 笑)。

正直、難がないわけでもない。最終章で、ヤップの演奏会の大成功、画家クラウスの妹の発見、ルトとヴェルネルの恋の予感、ピムの音楽に対する興味などなど、よろこびを詰め込み過ぎて、なにかそらぞらしいような、不自然な読後感が残ってしまったことは否めない。しかし、個人的にはハッピーエンドが好きだし、不安を残したまま終わった前作のラストよりも、この方がずっと良い。

(20030815)


アラビアン・ナイト上下 ディクソン編 中野好夫訳

幼い頃、寝るときに母親が色々な童話やお伽噺を読んでくれた。ぼくが特に好きなものの一つがシンドバッドの冒険だった。大人になった今、あらためて読んでも、やっぱり面白かった。本書にはシンドバッド以外の物語も多数収められており、初めて読んだものもあるが、どれもが非常に面白い。

上巻は、「船乗りシンドバットの1回目の航海」から「7回目の航海」までと、「アラディン 魔法のランプ」、「ペルシア王と海の王女」、「ベーデル王とジャウワーラ姫」が収められている。

「シンドバッド」に登場する老人のおんぶオバケが子供心に強烈に焼き付けられていたのだが、本書を読むかぎりでは、彼はお化けではなく、ただの迷惑な老人のようである。あと些末なことかも知れないが、岩波少年文庫の古い版では「シンバット」と表記されているが、2001年の改版で「シンドバット」に改められている。

「ペルシア王と海の王女」は、陸の王と海の王女の恋物語。そして彼らの息子であるベーデル王が活躍する「ベーデル王とジャウワーラ姫」へと続くが、どちらもスケールがでかく魔法が入り乱れる冒険談。

下巻は、「ヘビの妖精と二ひきの黒犬」「シナの王女」「魔法の馬」「ものいう鳥」「アリ・ババと四十人の盗賊」「漁師と魔物」の六編が収められている。改めて読むと「アリ・ババ」の物語としての完成度の高さに驚かされるが、その他も傑作揃いで、全体としては上巻よりも面白いかも知れない。

「シナの王女」は、妖精のいたずらによって引き合わされたペルシアの王子とシナの王女がお互いを求めて冒険し最後に結ばれる。「魔法の馬」は、空を飛ぶつくりものの馬をめぐる王女奪還劇。「ものいう鳥」は、皇帝の血をひく兄妹たちが、喋る鳥など三つの不思議なものを探す旅に出て、その鳥の助言により再び王家へ帰る。「漁師と魔物」は、漁師が封印された魔物の壺をあげたことを発端に、女魔法使いによって湖に変えられた町や、身体の半分を石に変えられた王が出てくる魔法の物語。

ジョン・キデルモンローの挿絵がどことなく中華風なことも相まって、全体的に、アラビア風というよりも、どこの国ともつかない摩訶不思議のムードがある。多くの作品で舞台としてシナがでてくるが、実際の中国とは明らかに違う感じであることも面白い。母親以外のヴェールを取った女性を見たことがないというイスラムならではの描写なども興味深く、いろいろ意外な発見があり楽しい。

あとアラビアやイスラム圏は極端な男尊女卑と思いがちだが、存外女性たちが強く賢く、確かな発言権も持っている。 まあ現実の社会とは多少違うのかも知れないけど、女性が商人となって船旅をする(「ヘビの妖精と二ひきの黒犬」)なんて話は、西洋の昔話でもちょっと見ないぞ。

(20090815)


アンデルセン童話集 〔全3巻〕大畑 末吉 訳


イソップのお話 河野 与一 編訳

有名な「イソップ寓話集」から、300編もの寓話が「人間」「キツネ」「ライオン」などのテーマごとにまとめて収録されている。シンプルな話ばかりなのですぐに読み通せるかと思っていたが、流石に300編も収録されていると、ちょっと疲れた(笑)。「北風と太陽」「ウサギとカメ」「肉をくわえたイヌ」などの有名な話が収録されているのはもちろんだが、当然ながら初めて読む話が圧倒的に多い。

作者のイソップは、紀元前6世紀頃の奴隷だったそうだが、それゆえか「強いものに刃向かってはいけない」「芸があれば死なずにすむ」「高望みせずに質素に生きる方が賢明だ」など、当時の奴隷の厳しい境遇を思わせるような、シニカルで冷ややかな見方の作品が多いのには驚かされた。現代人にはそのまま当てはまらないような教訓が多い。

本書は小学校低学年向けということになっているが、イソップの奴隷としての立場を踏まえたうえで、書かれていることの是非を自分で判断できるような子どもでないと、万が一この教訓をそのまま真に受けてしまうと危険だ。ここまで多数の寓話を網羅するのなら、いっそ高学年か中学生向けと改めた方が良いんじゃないかな。

登場する動物達が、アポロン、ヘルメスなどに祈る場面がしばしば出てくるが、ギリシャ神話の神々が信仰の対象だったという認識が薄かったので、少々意外だった。

あと「若者たちと肉屋」を読んで、「ドン・キホーテ」でサンチョ・パンサが領主になったときのエピソードを思い出したのだが、ひょっとしたらこれが元ネタなんじゃないかな?

(20030803)


一握の砂 悲しき玩具 石川 啄木 作


いないいないばあや 神沢 利子 作/平山 英三 画

6人兄妹の5番目で幼稚園に通う橙子の幼い目に映る世界を鋭く描写した傑作。作者の自伝的作品でもあり、戦後間も無い頃の北海道での生活振りも克明に描かれている。

抽象的な言葉で夢のような子供特有の世界観や恐れなどを描いた文学は数多くあるが、この作品がひときわ優れているのはその描写のひとつひとつが容赦無いまでに具体的なところだ。具体的な言葉の中から、幼児期の胎衣に包まれたような自分と外の世界のまだハッキリと区別が付いていなかった頃の感覚が甦ってくる。

兄妹喧嘩して泣かされるシーン、添い寝しているばあやの寝顔に恐れおののくシーン、祭りで着ぐるみの熊が本物か贋物か分からなくなってしまうシーンなど、あらゆる場面が鮮烈で、懐かしさと切なさが同時に込み上げてくる。また男のぼくには、橙子がおなかの中にたまごを意識するという感覚が意外であり興味深かった。

学生時代に同じ作者の「銀のほのおの国」という小説も読んだことがあるのだが、そちらはファンタジックな冒険物。ファンタジー作家とばかり思っていたので(それも間違いではないだろうが)、本書を読んだときは作風の違いに驚いた。一作読んだだけでその作家のことを知った積もりになるのはイカンぞと自戒。

こういう優れた作品はどんどん海外に出すべきだと思う。曖昧な表現も無いので、翻訳もそう困難ではないんじゃないだろうか。きっと海外でも受け容れられるんじゃないかな。本作で描かれているような子供の持つ不安感みたいなものは、世界共通に違いないと信じている。

(20040321)


イワンのばか レフ・トルストイ 作/金子 幸彦 訳


ヴィーチャと学校友だち ノーソフ 作/福井 研介 訳

1954年のソ連の作品で、小学生ヴィーチャの学校生活が生き生きと描かれている。ちなみに岩波少年文庫での初版は1957年。岩波少年文庫には、評価の定まった名作が多いが、特に刊行が始まった初期には、ソ連の作品が積極的に紹介されており、本書もそんな中の一冊である。作中にさりげなく共産主義やレーニン、スターリンを称揚する文章が挿入されていたりする。岩波書店は共産主義へのシンパシーがあったということだろうが、まあそういうことは別にして、本書は児童を描いた作品として普遍的な面白さがある。

共産圏の小学生の日常が描かれており、しかもかなり昔の作品なので、現代との差異を期待しつつ読み始めたが、むしろ主人公に共感することが多かった。主人公が勉強嫌いのダメ少年だからかな(笑)。全体にユーモラスで、特にヴィーチャが算数の低い点数をごまかそうとする場面では思わず声をあげて笑ってしまった。ロシアの作品にしては開放的なユーモアで、この可笑しさはなかなかのもんだと思う。

前半はヴィーチャのトホホなエピソードが続くが、物語中盤で、ヴィーチャは奮起して苦手の算数を克服する。後半は、入れ替わるように級友のシーシキンというだらしない少年にスポットが当てられるが、こちらは勉強についていけず不登校になってしまい、痛々しくてだんだん笑えなくなってくる。しかし最終的にはヴィーチャや級友、先生などの助力で更生してめでたしめでたしとなる。

ありきたりな物語展開ではあるが、少年たちのダメさ加減は今に通じるものがあり、親しみが感じられる(もちろん彼らは良い面も多分にもっている)。ぼく自身、宿題をやらなかったり、学校をズル休みして家でファミコンをしてたり、学校行くと嘘をついて町を徘徊したりという経験のある、かなり駄目な子供だったので、読みながら懐かしいような切ないような感情が色々と湧いてきた。

ところで物語中にでてくる算数の応用問題、正直、解けませんでした…。小さな子を持つ親として、本気で危機感を感じた。将来、学校の宿題を訊かれたりしたらヤバイな。

(20110718)


ウサギどん キツネどん J.C.ハリス作/八波 直則 訳

アメリカの農場で働くリーマスじいやが、遊びに来た少年に、黒人に伝わる民話を物語る。大まかにはウサギやキツネが騙しあいをするという話が多いのだが、アフリカ起源であろうアメリカの黒人たちに語り継がれている民話も、ヨーロッパ、アジア、日本などの民話も、非常に似通ったところがあるのが興味深い。そういえば大学で、世界中の伝説の共通点を探るというような講義を受けてたがあれはとても面白かった。

本書で興味を引かれたのは、ウサギとカメが競争する話で、足がのろいカメが勝つのはお馴染みのイソップ通りなのだけど、勝ち方が違うところ。カメは自分ソックリの家族をあらかじめ要所要所に配置して、ウサギに勝ったようにみせかけるのだ。どういう経緯でイソップの話がこの様にアレンジされて行ったんだろうね。あと「大洪水」の話は世界中にあるが、ザリガニが原因だった!っていうのは他にはないだろう(笑)。

知恵を振り絞ってキツネから逃れようとするウサギやカメ達の活躍など、とても愉快なエピソードが満載だが、本書で特に素晴らしいのは、リーマスじいやと少年とのやり取りだ。話の矛盾点を少年が指摘したりすると、リーマスじいやはつむじを曲げて話を止めてしまったり、少年がしまったと思ってガッカリしているのを見ると、気を取り直して再び話を始めたり、そういった二人のやり取りが絶妙なのだ。

終わりの方では、魔物や悪魔が出てくるエピソードもあり、前半とは雰囲気ががらりと変わってくる。そして最後にキツネが死ぬという話で物語の幕が閉じるのだが、ちょっとこの終わり方は後味が悪いというか、かなり重たいな。折角の愉快な民話集も、少々後味が悪くなってしまったのは残念だが、伝承に忠実であろうとすれば、このようにせざるを得なかったのだろう。

(20020407)


宇治拾遺ものがたり 川端 善明

鎌倉時代の物語47編が収められている。有名なところでは「こぶとり」など、鬼や妖怪が登場する不思議で楽しい物語が多く、中には他愛の無い笑い話のようなものもある。洗練された「御伽草子」と比べると、全体的に素朴でシンプルである。

稀に唐の話なども混ざるが、ほとんどが京都を中心に関西が舞台となっており、関西人のぼくにとっては実際に行った事がある場所ばかりで、ああ、あそこにはこういう伝説があったのか!という発見がたくさんあってとても楽しかった。とりわけ素晴らしいのが、本書の冒頭に載っている、びっちりと解説が書き込まれた京都の地図! 物語に登場する人物達が、どのように移動したのかなどしっかり追えるのだ。やっぱり京都は歴史のある町なんだなと実感する。しかしこうやって古典を読みながら地図を眺めたりしていると、何とも旅情を誘われますな。

実在の人物も多数登場しており、中でも1年くらい前に「陰陽師」で流行った安倍清明が活躍しているのに興味をひかれる。この時代の人々の、呪術師にたいする畏怖の念などが良く伝わってくる。本書では鬼が登場する物語も多いが、当時の人々にとっては、それなりに現実感を伴なった恐ろしい存在だったのだろうな。

解説に興味深いことが書かれている。本書と「今昔物語集」には重複する物語が多い事から、底本になった別の物語集が存在するのではないか、という説を紹介しているが、これは聖書研究とソックリではないか。そういう話を聞くとワクワクしてしまうな。

素朴で飾り気の無い話ばかりで、「御伽草子」に比べると芸術性は低いかもしれないが、一方で、当時の天皇や貴族はもちろん、庶民の暮し振りや考え方まで素直に伝えてくれている。ましてや本書では、巻頭の京都市街図のお陰で、地図を追いながら登場人物になったような気分で読み進められるところが良い。

(20030211)


埋もれた世界 A. T. ホワイト 作/後藤 冨雄 訳

考古学について書かれた本で、原著は1941年に発表。なにぶん古い作品なので、最新の研究とは違うところがあるかもしれないが、写真や図版も多数掲載されており、今もって十分面白い本である。ちなみに著者は女性であり、自分の子供に分かるように書いたという前書きどおり、分かりやすい内容となっている。ただし訳文が古めかしく、現代の子供には読みづらいかもしれない。

4部立てで、トロイア、エジプト、メソポタミア、マヤを扱っている。1部のトロイアは、主にシュリーマン、エヴァンズについて。2部のエジプトでは、ピラミッドをめぐる話題を中心に、建設者、泥棒、考古学者の知恵比べや、ツタンカーメンの墓の発見と発掘について。3部のメソポタミアは、楔形文字の解読にまつわるエピソードを主に。4部のマヤは、ジャングル奥地に手つかずで遺されていたマヤの驚異の遺跡について。

そもそもぼくは古代遺跡には関心がある方で、特にマヤ・アステカ文明が大好きで、今でも実家には昔録画した遺跡関連のテレビ番組のVHSテープがたくさん残っているはずだ。なので本書の内容も知っていたことが多いながらも楽しんで読ませてもらった。楔形文字の解読については、あまり知らなかったのでとても面白かった。

少し残念なのは、作者の伝えたいことが、考古学者の人としての生きざまなのか、発見の喜びなのか、遺跡の背景にある歴史や文明なのか、残された遺跡や財宝の素晴らしさなのか、テーマがとっちらかって散漫になってしまっている感がある。まあ、少年少女向けのガイドブック的な書であるため、良くも悪くも総花的であるのは仕方のないところか。ツタンカーメンの発掘について詳しく取り上げていながら、有名な「呪い」については一切言及が無いなど、少々お堅いところもあり、惜しい一冊だと思う。

この手の本は、今は美麗な写真付きのものが多数出ているので、どうせなら現代の子供達にはそっちを薦めたいというのが正直なところではある。しかし本書のピラミッドについての説明を読んでいて思ったのは、図説をみれば一目瞭然なところも、文章で説明されると、仕掛けに満ちた物凄い迷宮がピラミッドの内部にあるように思われ、物凄く想像力を刺激されるのである。きっと本書を読んで大いに刺激を受けた少年少女がたくさんいたんだろうな。ちょっと苦言も呈したけれど、現代でも十分読む価値がある良書である。

(20110828)


海からきた白い馬 ヘレン・クレスウェル 作/猪熊 葉子 訳

海にまつわる3つの物語が収められている。 共通のテーマとして、自然の神秘と、その中でつつましく暮らす人々の姿が描かれているが、細かな表現や描写が非常に優れており、派手さはないながら、どれもなかなかの力作である。個人的にはこういうのはとても好きだ。

海にまつわる短編集なのに「緑の海の船長さん」では、本物の海はでてこない。緑の草木を大海原に見立てているのだが、その描写が素晴らしい。草木がぐんぐん育って周囲を覆い尽くすさまは、なんとも迫力がある。緑がひくラストシーンがまた印象的で、ぼくはてっきり船長が緑の海を抜けて教会の鐘を鳴らすというようなドラマチックなラストを想像していたのだが、結局作者の描きたいことは神秘的な自然の力だということが良く分かる。ちょっとバラードの「結晶世界」を思い出したりなんかした。

「海の笛吹き」では、神秘的なストーリーもさることながら、港町に暮らす家族の暮し振りや、彼らのやり取りなど、細かい描写が冴え渡っている。センチメンタルな表現は殆ど使っていないのに、なんとも感傷的なムードが漂っているところも良い。一方「海からきた白い馬」では、神秘的な雰囲気に加え、独特のユーモラスな味がある。

どれも短いささやかな物語ではあるが、作者の力量は大したものだと思った。是非他の作品も読んでみたいな。

(20021117)


海のたまご ルーシー・M・ボストン 作/猪熊 葉子 訳

コーンウォールの荒々しくも美しい海を舞台にしたファンタジー。トビーとジョーの兄弟は、漁師から卵型の石を買い取り、その石から生まれた海の精トリトンと交流する。自然描写が美しく、詩のような物語だ。

海の描写が印象的で素晴らしいが、そればかりでなく、夜や風、岩など、自然のものすべてが生命が宿しているような濃密な文章に圧倒されてしまう。同じ作者による「リビイが見た木の妖精」にも共通する自然感が感動的。汎神的と言うのかな、こういう表現はぼくはかなり好きです。

トビーとジョーは、トリトンに誘われ、不思議な洞窟を探検し、海の神秘を目の当たりにする。若い二人の眼前に新しい広大な世界がひらけて見える。ところが嵐の到来により、海の情景は一変する。二人は、海のほんの一面を垣間見たにすぎなかった。

最後に漁師のサムが二人にむけて言った言葉が良い。「このわかい紳士方ときたひにゃ、まだ海のことは、なにひとつわかっちゃいないんだからね。」

(20110702)


エーミールと探偵たち エーリヒ・ケストナー 作/池田 香代子 訳

もしも「岩波少年文庫全作品読破」などという企画を思い付かなければ、この作品を読まなかったかもしれないことを思うと、ホントにやって良かった!と実感した。いや、それくらい面白い作品だったのだ。

少年の一人旅、そして巻き込まれる事件に、新しい友達との出会い。読んでいてワクワクするような筋運びで、伏線の張り方もバッチリ。しかし、こんなに楽しい物語なのに、なんだか懐かしくて切なくて堪らなくなってしまうことがあるのは、ぼくも年を取ってしまったということなんだろうな。小学校の頃、友達と少年探偵団ゴッコをして、怪しい大人(ヒゲを生やしている人を見て「あれは付け髭で変装しているぞ!」とか適当にでっち上げた)を尾行したりして遊んだのを思い出したりした。

事件の後で、あまり活躍のなかった「ちびの火曜日くん」を褒め称えたおばあさんがまた良い。こういう気の利いたことの言える大人になりたいもんである。

(20010815)


エーミールと三人のふたご エーリヒ・ケストナー 作/池田 香代子 訳

いやぁ、参った。2つの「まえがき」を読んだだけで、ガッチリと心を掴まれてしまうんだから。しかし既に「探偵たち」を読んでいるなら、この冒頭だけで十分ワクワクしちゃうよね。

前作は少年の一人旅という「はじめてのおつかい」的な雰囲気が漂っていたが、今度の作品のテーマは「少年達の夏休み」というところか。 この辺の題材の選び方は、オッサンにとっては、なんとも懐かしくも切ないというか、ニクイ。子供は学校に通わなければならないので、冒険するとなると自ずと夏休みということになってしまう。そういう意味で王道的な展開ではあるのだが、やっぱり良いね。 そしてエーミールや探偵たちの再会、友人の別荘、夏休み、海、とこれだけ条件が揃えば、もう事件が起きないわけが無い(笑)。

この作品では、母親の再婚話や、子供たちだけの生活など、前作よりちょっぴりだけ成長したエーミールたちが、着実に大人へと近づきつつある姿も見せてくれる。それにしても、顧問官さんやおばあさんの大人なこと! 自分の中の子供を忘れない者こそが、本当の大人になれるんだということを分からせてくれる。

この作品が書かれたのが、二つの大戦に挟まれた1935年だという事実にも驚かされる。 ドイツにとっては厳しい時代だった筈なのに。コペンハーゲンの港で日本の軍艦が停泊しているという記述から、朧に時代背景が浮かび上がってくるが、この物語に戦争の不吉な影など微塵も無い。ひとつ興味深かったのが、「将来何になりたいか?」と尋ねられた時、教授が「核融合に興味がある」と答えるところだ。 原爆を落とされた国民としては複雑な思いがするが、当時は、核が最先端の科学の象徴だったのだろうな。今で言うなら「ナノテクノロジーに興味があります」とか「宇宙開発に興味があります」といったところか。

それにしても流石だと思わされてしまうのは、前作共々この作品には、本物の風格が漂っているのだ。 たとえばBBキングがギターを弾き出した途端に醸し出される、凡人がいくら練習しても決して追いつくことの出来ない、伝統をそのまま体現しているかのような、独特の風格みたいなもの。この作品にも、これぞ児童文学!という本物の風格を感じる。 子供たちが映画館で一斉に「エーミール」と叫ぶシーンなど、ちょっと気恥ずかしくなってしまうようなシーンも多いが(笑)、こういう独特の熱気も児童文学ならではだろう。

(20020728)


エヴェレストをめざして ジョン・ハント 作/松方 三郎 訳

1953年のエヴェレスト世界初登頂の記録「エヴェレスト登頂」を、少年少女向けに分かりやすく構成し直したものが本書で、岩波少年文庫の中では、数少ないドキュメンタリーの一つだ。著者のハントはこの時編成されたイギリス隊のリーダー。ぼくは素直に感動した。是非とも子供たちに読んでもらいたい1冊だ。

全体に抑制の効いた冷静な筆致なのだが、それが却って冒険の困難さをリアルに伝えてくれている。図説や写真も、彼らの装備や行程が具体的に分かるよう適切なものが選ばれており、特にキャンプの位置を記した図や、メンバーの紹介文は、読了するまで何度も見返した。登山に興味を持つ者への入門書としても良い。

それにしても、エヴェレストの麓に到るまでのネパール横断だけでも、大変な旅だったんだな。現在テレビでも優れたドキュメンタリー番組があるが、本で読まないと見落としがちなことがたくさんあると思った。器材を運ぶための人夫350人に加え、20人の熟練したシェルパ、ハント隊の14人の選りすぐりの登山家達が取組み、最終的に登頂出来たのはヒラリーとテンジンの二人だけだったということからも、登頂がいかに困難で大掛かりな事業であったか窺い知れる。

もちろん直接に関わった人たちだけでなく、ハント隊以前の挑戦者や、シェルパ達、更に装備の革新など、様々な助けがあって初めて登頂に成功したのであり、それをよく分かっているハントの謙虚さには胸を打たれる。一方で、本書がアメリカで出版される際、タイトルが「エヴェレスト登頂」から「エヴェレスト征服」に差し替えられてしまったというエピソードは、アメリカ人の気質が垣間見えるようで面白い。

訳者の松方三郎氏も登山家であり、分かりやすい丁寧な翻訳をしてくれているが、特に「訳者あとがき」で、ハント隊以前の挑戦者たちに関しても詳しくフォローしてくれているのが素晴らしい。著者ともども、この冒険の意義を少年達に伝えたいという熱い想いが伝わってくるような、しっかりした本作りがされている。ちなみに彼は岩波少年文庫創刊時の11人の委員の一人でもある。 少年少女向けの文庫の選考委員に、文学関係者だけではなく、登山家(ジャーナリスト)なども入っているというのは良いことだ。

まったくの偶然なのだが、本書を読んでいる最中に、三浦雄一郎さんが70才でエヴェレスト登頂に成功し、登頂の最高齢記録を更新したというニュースが飛び込んで来た。三浦さんもハントたちと同じくネパール側からの登頂だったので、「サウス・コル」「ローツェ」などの要所の名称が良く分かり、非常に感慨深かった。新聞記事の冒頭に「1953年にヒラリーとテンジンが初めて登頂して以来〜」という説明が挿入されており、改めてハント隊の偉大さをひしひしと感じた。

(20030525)


追記 : 三浦さんの最高齢登頂に続いて、シェルパ族の15才の少女ミンキパさんが最年少で登頂したというニュースがあった。ネパールでは16歳未満のエベレスト登頂を認めていないため、チベット側からの登頂だそうな。それにしてもシェルパ族というのは凄いな。

更に5月29日はエベレスト登頂50周年と言うことで、新聞の1面に、すっかり年を取ったヒラリー卿の写真が載っていた。たまたま図書館で手に取った本にまつわるニュースが、こうも立て続けに続くとは、なんとも不思議な偶然だ。こんなこともあるんだな。

(20030601)


追記 2 : つい先日、本書を読んで感銘を受けたばかりなのだが、ちょっと考えさせられる記事を見付けた。エヴェレスト登頂50周年を記念して、ネパールで行われた記念式典に招待されたヒラリー卿が「多くの観光客や登山家がエベレストの奥地に殺到するという予想外の結末をもたらしたことを考えると、自分の行為が正しかったのか疑問に感じている」とコメントしたらしい。そういえば三浦さんが登頂した時の記事に「頂上付近で渋滞したために登頂が2時間遅れた」と書いてあるのを読んで、おや?と思ったのだが、やはりエヴェレストを取り巻く状況は、50年前とはすっかり変わってしまっているようだ。

エヴェレストの観光地化を問題視する声もあがってきているものの、登山にかかわる仕事で生計を立てているシェルパが多いため、山を閉鎖することは出来ないらしい。ヒラリー卿は、地元のシェルパの学校や病院に多大な寄付をして、いわば観光化に力を注いできたとも言えるわけだが、そのことが招いた現状に、いささか戸惑っており、自分の偉業すらも疑問に感じているらしい。

しかしぼくは強く言いたい。「ヒラリーさん、あなたの行為は正しく、立派なものだった」と。1953年のエヴェレスト登頂は、間違いなく歴史に残る偉大な成功だった。敢えて困難に立ち向かい、チームワークでそれを克服するという、人間のもっとも尊い面を見せてくれた。本書を読めば明らかなことだ。

(20030608)


エリコの丘から E.L.カニグズバーグ 作/小島 希里 訳


王への手紙 上下 トンケ・ドラフト 作/西村 由美 訳

人に薦めたい面白い本に出会ったとき、それがベストセラーであったり有名な作家の作品ならば話が早いが、あまり知られていない場合、どのように紹介すればいいか悩ましい。本書は今のところ日本では知名度が低いと思うが、本国オランダでは2004年に過去50年に出版された児童書の中で1位になったそうだ。シンプルな冒険物語だが抜群に面白いので、日本でも広く読まれるようになればいいな。自分自身の備忘のためにあらすじを書いておくが(たとえ抜群に面白い本であってもストーリーを忘れてしまったりすることが最近よくあるのです…)、結末まで言及するので、未読の人は以下は読まないように。

上巻のあらすじ。16歳の見習い剣士ティウリは、騎士になるための儀式の夜、年老いた男に手紙を託された。ところが手紙を届けた白い盾の黒い騎士は瀕死の重傷を負っており、その手紙を隠密に隣国の王に届けるようティウリに頼み、息を引き取った。密命を帯びたティウリは追手から逃れながら森の中を進む。途中の修道院で僧に身をやつすが、次に寄った城で追ってきた4人の騎士に正体がばれた。しかしこの騎士たちはティウリの味方となる。騎士たちとの道中で、ティウリは国々のあいだで起こっている諍いについて聞かされる。どうやら託された手紙は国の将来に重大な影響を及ぼすものらしい。やがて騎士たちと別れたティウリは、山中に暮らす隠者を訪ね、道案内の少年ピアックと共に、険しい山脈を越える。

下巻のあらすじ。山を越え隣国に入ったティウリは、ピアックと共に旅を続けることにした。最初に立ち寄った大きな市では、追跡者の手が回っており、追い詰められたティウリは手紙を暗記したのち破棄し、またピアックが囚われの身となるが、町びとたちの協力で脱出することができた。二人はさらに進み、大河にかかる橋の関所を渡り、変装した殺人者の襲撃をかわし、目的地にたどり着く。王に手紙の内容を伝えたが、それは敵国の和平が偽であることを暴くものであった。国は戦争準備に入る。使命を終えた少年二人は帰路につき、世話なった人々に礼をしながら祖国を目指す。やがて国に帰りついたティウリは騎士に叙せられた。隣国の騎士の証である白い盾を持つ騎士として。

冒頭から息もつかせぬ展開でグイグイ引き込まれる。こういったファンタジーにありがちな、もったいぶった大作感や仰々しさがないのも魅力だ。それなりにボリュームはあるが、込み入った背景も分かりやすく説明されているし、文章は流麗で(訳文も見事)、細かく章立てされているおかげもあり、子供でもつっかえることなくどんどん読み進んでいけるだろう。もちろん大人の読者にとっても十分面白い物語ではあるが、あくまで児童文学の範疇は出ていない簡明な作品なので、特に中学生くらいの若い読者に強くお勧めしたい。

(20110220)


オズの魔法使い フランク・ボーム 作/幾島 幸子 訳

ジュディ・ガーランド主演の映画「オズの魔法使い」は2回見たが、原作を読むのはこれが初めてだ。映画のイメージが強烈なため、どうしてもそれとの比較になってしまうが、基本的なストーリーや登場人物などは、だいたい同じと言って良いかと思う。竜巻によってカンザスからオズの国に飛ばされた少女ドロシーは、脳味噌が欲しいカカシ、心臓(ハート)が欲しいブリキのきこり、勇気が欲しいライオンとともに、オズ大王に会いにエメラルドの都めざして旅をする。

映画版は、モノクロで始まり、オズの国に行くとカラーになるという演出が印象的だった。あれは映画ならではの見せ方だと思っていたが、本書を読むと、ちゃんとそのような表現がある。ある意味、原作を忠実に映像化していることがわかって驚いた。本書には映画に無い「陶器の国」へ行ったり、空飛ぶサル、首が伸びる金づち頭男などユニークなキャラクターも登場するので、新鮮な気持ちで楽しめるところもたくさんあった。

映画版を見たのは2回とも学生の頃だったので詳しく覚えていないが、ブリキのきこりは元々人間で、徐々にブリキに改造された挙句、恋人への愛を失ったためにハートを求めたという背景は映画では描かれていたっけ? なかなかドラマチックな過去だが、ハートを取り戻したブリキのきこりが、恋人への愛情を蘇らせることができたのかどうか、残念ながら本書では不明である。そこら辺は続編で描かれているのだろうか?

ぼくが特に好きな場面は、オズ大王が、カカシ、ブリキのきこり、ライオン達に、ガラクタを与えるところだ。ガラクタにも関わらずもらった者たちはそれで十分満足し、旅の目的を達する。彼らは求めるものを既に自分の内に持っていたが、例えガラクタでも形のあるもの(ライオンの場合は飲み物だが)を求めたというのは、なかなか含蓄に富んでいる。確か映画版では、ブリキのきこりには時計、ライオンにはメダル(勲章?)を与えたのだった思うが、このシーンに限っては映画の方が気が利いているな。

W・W・デンズロウの挿絵がマンガのようだけど味わいがあってとてもいい。ドロシーが幼女のように描かれているので最初は違和感があったが、読み進めていくとこれこそ原作のイメージにピッタリだと思えてきた。オズの国の王となり玉座に座ったかかしを囲み、みんなが緑の色眼鏡をかけている場面の絵が好きだ。

(20110806)


オタバリの少年探偵たち セシル・デイ・ルイス 作/瀬田 貞二 訳

下町の少年達が難事件を解決するというストーリーだ。タイトルから「エミールと探偵たち」を思だすが、犯人はどうやって金の入った箱を盗ったか?という謎(トリック)や、偽札工場での活劇など、こちらの方がより本格的な探偵物を志向している。

ちょっとした事件が大きな犯罪に繋がるというのは少年探偵物の王道パターンではあるけれど、やっぱりこういうのは楽しい。少年達が犯人の相棒を心理的に追いつめる様は良く出来ているし、教会の鐘楼からメッセージを記したパラシュートを落とすシーンは、少年探偵団ノリというか、こういう小道具は少年心をくすぐるんだよね。

少年たちの友情、信頼もいきいきと描かれており、ガラスを割った少年が、弁償するためのお金を盗んだと疑われているガキ大将を庇うところなど、非常に清々しい。ちょっと青臭いとも言えるんだけど、オジサンになってくると、こういうのを読むとなんとも切なく感じるんだよ。

舞台となるイギリス下町の町並みや、人々が生活する姿のさりげない描写も秀逸だし、子供たちが戦争ゴッコしている姿には、なんとも懐かしい気分にさせられた。少年達がガラス代を弁償するためにお金を集めるところなどは、チャップリンの「キッド」を彷彿とさせる(いや、「キッド」はわざとガラスを割る話だったけど、雰囲気のことね)。もちろんぼくは戦後まもなくのイギリスの下町など知らないわけだが、物語全体を通して「貧しくとも古き良き少年時代」という郷愁が溢れているように感じる。

作者の本職は詩人なのだが、他にもニコラス・ブレイク名義で推理小説を書いている。イギリスの作家といえば、「プーさん」のミルンや、大ディケンズも推理小説を書いているし、流石にシャーロック・ホームズの国だな。

(20021006)


おとうさんとぼく 1・2 e.o.プラウエン 作

何とも珍しいことに、本書は漫画である。 やんちゃな「ぼく」と、まるで子どもみたいな「おとうさん」の微笑ましいやり取りが2〜8コマくらいで描かれている。無言劇ではあるが、ナンセンスな笑いではなく、心温まるようなほのぼのとした作品がほとんどだ。60年も前の漫画なのに全く古びておらず、現代人が見ても普通に楽しめるとおもう。

訳者による長い解説があるが、作品についての解説ではなく、作者の人物像についての紹介である。作者の e.o.プラウエン(本名エーリヒ・オーザー)は、「ふたりのロッテ」のエーリヒ・ケストナー、新聞の編集者だったエーリヒ・クナウフらと共にナチスに抗った。ケストナーの著作は発禁処分になり、クナウフはゲシュタポに殺され、そしてオーザーもゲシュタポに捕えられ獄中で自殺するという、それぞれ壮絶な人生を送っている。ほのぼのした本編との対比がすごい。

厳しい状況の中で、これだけ愉快な作品を描けたオーザーの精神力には心底感服するが、そんな背景とは別に、この漫画には普遍的な面白さがある。ぼくは、アートというものは、作品そのものが放つ力が最も大切だと考えている。そういう意味で、この作品が、ナチスの弾圧下で書かれたから凄いと関連付けるのは、作品や作者に対して却って失礼な態度でしょう。本書に対する態度としては、あくまでも気軽に手に取って、ふふふと微笑んだらそれでいいんじゃないかな。そのあとで作者の生き様を知り、改めて作者本人に対して畏敬の念を持てば良い。

ということで、本書は愉快な漫画と、ナチスに抗った画家の短い物語(解説)の2本立てという風に考えたい。ちなみに本書の解説は上田真而子氏。

(20030622)


おとぎ草子 大岡 信 編

「御伽草子」の中でも、日本人の我々には特に親しみの深い物語が収録されている。「一寸法師」「浦島太郎」「鉢かづき」「唐糸そうし」「梵天国」「酒呑童子」「福富長者物語」の7編。いやしかし素晴らしいですよ、これは。日本ってなんて豊かな文化を持っているんだろうと誇らしく思えるような話が満載。

とにかく詩的で、表現の木目細かさや、感覚の繊細さ美しさに圧倒される(中には美しくないというか、尾籠な話も混ざっているけど…)。例えば少女が歌い始める姿を「花に鶯が羽ばたく美しさも比ではなかった」などと表現するセンスが凄い。さらに主人公が重要な決心をする時などに和歌を詠むのだが、これが何とも言えず風雅というかクールでカッコイイ。こういう日本人ならではの感性は大事にしたいものだ。

この年になって読んでみると、丹後、摂津などの古い地名も大まかな場所はわかるし、歴史上の人物などが登場するのも興味深く、色々と発見があって楽しい。「浦島太郎」は、万葉集の時代に既に昔から語り継がれてきたお話として出てくるらしいが、ぼくらの良く知っているストーリーと、ここまで異なっていたとは知らなかった。また「鉢かづき」に出てくる歌の中に、「君が代」が歌い込まれているのにもビックリ。「君が代」って古来から愛されてきた由緒ある歌なんだ。それにしてもラブソングを国歌にしてる国なんて日本くらいだろうな。

神仏や鬼の登場する不思議な話も趣深いが、ぼくとしては「唐糸そうし」が最も印象に残った。少女が、源頼朝に囚われた母を助けるために奮闘する話だ。他に比べて格段に現実感があるのだが、これはフィクションなのかな? 元ネタになった史実がありそうだ。

大岡信による現代語への訳が、読みやすい上に、古典の雰囲気を十分に味わえるようにも配慮されている。非常に読みやすいので、子供はもちろん、ちょっと古典でも読み直してみようかという大人にもお勧めできる一冊。

(20030113)


お話を運んだ馬 I.B.シンガー 作/工藤 幸雄 訳

ポーランド生れのユダヤ人作家シンガーの短編集。原書はイディシ語で書かれており、その辺の背景については 「まぬけなワルシャワ旅行」 「よろこびの日 ワルシャワの少年時代」 でも触れているので、もう繰り返さないが、本書においても内容に関わる重要なことには間違いない。

8編が収められているが、創作のおとぎ話や、民話風の滑稽話、人から聞いた伝承、作者の少年時代の思い出話など、たいへんバラエティーにとんでいる。にもかかわらず不思議と統一感が感じられるのは、全体をもって朧に古きよきポーランドのユダヤ人社会の空気を醸し出しているからか。

どれも派手さのない慎ましい話ばかりだが、ほんのりした幸せ感が心地よい。お馬鹿の町ヘムルのマヌケ話や、ぼんやり夫婦の「レメルとツィパ」、鏡が騒動を巻き起こす「自分はネコだと思っていた犬と自分は犬だと思っていたネコの 話」等々、足ることを知る者たちのささやかな幸せ。自伝的な話では、なつかしいショシャ(ショーシャ)がチラッと登場するのも嬉しい。

作中には一切注釈が無いのだが、巻末にはちゃんとユダヤ教関連の語句の説明が詳しく載っている。これは読書のリズムが妨げられることのない、よく配慮された方法だと思う。中盤で「ドレイデル※」という単語がポンと出てきたときは、思い出すのにちょっと手間取ったが(笑)。※おもちゃのコマ

(20081116)


思い出のマーニー 上下 ジョーン・ロビンソン 作/松野正子 訳

読み終えたあと、すぐにもう一度最初から読み直したくなるような、そういう素敵な作品だ。情緒豊かで内面的な世界を描いた上巻も、物語がダイナミックに動き出し謎が明らかになってゆく下巻も、それぞれに魅力的。

両親を亡くし心を閉ざした少女アンナは、引き取り手の叔母に馴染めず、田舎の海べりに暮らす老夫婦のもとに預けられることになる。近所のお屋敷に住む少女マーニーと出会い、お互いに心を通わせるようになるが、突然マーニーは去ってしまう。やがてマーニーの住んでいた屋敷に新しい家族がやってきて、元気な5人の兄妹と交流するうちにアンナも快活さを取り戻してゆく。そんなある日、不思議な日記の存在を知る。どうやらマーニーの日記らしいが、それが書かれたのは数十年前なのだ・・・。

マーニーの存在が幽霊的であるのと同様に、アンナ自身も幽霊的であることがユニークだ。アンナがマーニーに連れられて、こじきむすめとしてパーティーに出たときのことを、当時の出席者が覚えていたというエピソードなど、時空のねじ曲がった感じは「トムは真夜中の庭で」を思い出す。

物語が始まった当初のアンナは自分の殻に閉じこもっていて、親切な大人たちに対しても心を開くことは無い。上巻ではそんなアンナの子供らしい頑固さや執着が丁寧に描かれており、もどかしいところもあるが、全ての大人にとってこのような子供ならではの頑なさというものは懐かしくもあるのではないか。マーニーとの出会いにより、少なくとも孤独では無くなるが、それでもまだ大人に対して心を開くことは無い。

優しい大人や、友人(マーニー)の存在だけでは凍てついたアンナの心を溶かすことは出来なかった。また5人兄妹との出会いがアンナを良い方向に導いたのは間違いないが、何か明確な理由があってアンナの心が変わったということでもない。要するに、不幸な出来事を自分の中で消化して、新たな一歩を踏み出すのには時間がかかるということなのだろうと思う。凍りついた心が、ほんの少しずつではあっても確実に融けていく様子が丁寧に描写されている。

(20091206)



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by ようすけ