岩波少年文庫全作品読破に挑戦! 「は」行の作品



800番への旅 E.L.カニグズバーグ 作/金原 瑞人,小島 希里 訳

父と子がトレーラーハウスでアメリカを旅するロードムビー的物語、と言ってしまえばいかにもありきたりな話のようだが、名手カニグズバーグの手にかかるとさすがにひねりが効いた感動的な作品になっている。12歳の少年マックスは、母親が再婚して新婚旅行にでかけることになったため、夏休みの一か月を別れて暮らしていた「ラクダひき」の父親のもとで過ごすことになる。各地を旅しながら、謎めいたリリーとサブリナ母娘や、歌手のトリーナ・ローズなどユニークな人々と出会う。カニグズバーグの文章は、不思議に生活感が漂うので、ラクダと一緒のユニークな旅回りの暮らしもリアリティーがある。

ぼくはすでにいい年をしたおっさんなので、最初っから主人公のマックスよりむしろ父親ウッディのほうに肩入れしつつ読んでしまったのであるが、この父親ウッディが不器用だけどめっぽういい奴なのである。そして最後まで読み終えたときは愛おしくすらなっている。旅の過程で父と子が心を通い合わせるなんていうのは、いかにも王道な展開ではあるけれど、最後の最後で意外な事実が明らかになり、非常に感動させられた。

物語終盤で「800番への旅」という題名の意味が、リリー、サブリナ親子の正体と共に明かされるが、800番というのはアメリカでのフリーダイヤルの番号なのだった。そんなの日本人のぼくらにわかるわけないじゃん。原題の"Journey to an 800 Number"を直訳しただけで邦題としては最低の部類だと思う。ちなみに同じ作者の「クローディアの秘密」は、原題の"From the Mixed-Up Files of Mrs. Basil E. Frankweiler" からはかけ離れているがうまく内容を表す素敵な邦題だと思う。

本書は2000年に出版された版が誤訳を指摘されたため、2005年に共訳という形で改訳されたもの。カニグズバーグ作品の誤訳問題についてはネット上で大きな騒ぎになっていた。このタイトルも誤訳の翻訳者がつけたものだろう。子供に読ませる本はもっと大事に作ってほしいと切に願う。図書館などで借りるときは、誤訳の古い版である可能性があるので要注意。

(20100124)


灰色の畑と緑の畑 ウルズラ・ヴェルフェル 作/野村 ひろし 訳

1970年に西ドイツで出版された問題作。貧困や人種差別、嫉妬や悪意など、様々な問題が扱われた14編の短編が収められている。その描き方があまりにあからさまなうえ、ほとんどの作品が読者を突き放すような冷たい終わり方をしているため、読後感は正直気持ちの良いものでは無いが、特に子供にとっては色々と深く考えされられることが多いだろう。

また大人が読んだ時には、別の側面が浮かび上がってくることがあるように思う。というのは子供の持つ残酷な一面についてだ。子供は純粋だという風によく言われるし、ぼくもほとんど無条件にそういう捉え方をしているところがある。しかし果たしてそれだけか? よくよく自分の少年(幼年)時代を振り返ってみると、自他共に認める生真面目で従順な子供だったが、決して純粋では無かったし、自分が子供である事を利用して狡猾に立ち回ってたりもした。例えば学校の作文では、こう書けば大人が喜ぶだろうなという事を書いていた。まあそういうのは全部バレバレだったのかもしれないけれど、他にも色々な悪いことをしたものだ。

ふたごの老婆や知恵遅れの青年を子供たちがからかう話などを読んで、とても切なくなってしまった。似たような経験は誰にでもあるのではないだろうか。本書は記憶の彼方に葬り去りたい少年時代のことを色々と思い出させてくれる。子供のする事にも明らかな悪意が孕まれていたり、子供ゆえに却って残酷な場合もある。児童書を色々読み込んでいると「子供は天使」みたいな意見を目にすることが多いのだけど、それは安易過ぎるかもしれないと自戒を込めて思う。 良いところも悪いところも全部ひっくるめて、一段高いところから子供を見守るのが大人の役目なんじゃないだろうか。

身も蓋も無いような話が多いが、幾つかのエピソードで、学ぶことの大切さが強調されているのが本書の救いであり、またそれが作者のメッセージなのだろう。

(20040125)


走れメロス 富嶽百景 太宰 治

内向的な読書少年の例にもれず、ぼくも高校生のころ太宰に狂った。当時は、ぼくこそが世界で一番の太宰の理解者だと思っていた。恥ずかしい過去ではあるが、同じような人は、きっとうんざりするほどたくさんいるのだろう。今でも実家の本棚には、黒い背表紙の文庫本がズラリと並んでいる。あれからぼくも歳をとり、太宰に対して持っていた特別な思い入れも少々薄らいでしまったけれど、今もって大好きな作家であることは間違いない。

この岩波少年文庫版には8つの短編が収められている。「魚服記」「富嶽百景」「女生徒」「走れメロス」「浦島さん(御伽草子より)」「カチカチ山(御伽草子より)」「畜犬談」「竹青」。中期の明るくユーモラスな作品が多いが、太宰ファンには馴染みのある作品ばかりだろう。ぼくも学生時代にはどれも二度三度と繰り返し読んだ。太宰治と言うと「人間失格」など暗くシリアスな作品が有名だが、個人的にはこの時期の明るいものが好きだ。好きな時期の太宰を岩波少年文庫でまとめて再読できるのはありがたい。

昔も今も群を抜き素晴らしいと思うのは「富嶽百景」。読みながら始終ニヤニヤしながらも、切ない味もある。「畜犬談」のユーモラスな味や、「魚服記」の不思議な余韻も忘れ難い。「女生徒」のみ、昔からさほど好きではなかったが、今回の再読でも冗長なばかりでいまいちピンとこなかった。確かにこの無駄話の感じはいかにも女生徒のモノローグのようではあるが…。

思えば、ぼくが太宰に熱中した時から既に20年ちかくも経っているのか…。こうして歳をとってから学生時代に親しんだ作品を改めて読み返しても、沸き起こる感覚は当時とほとんど同じなのであった。良くも悪くも。滅法面白かったが、新たな発見も無かった。まあとにかく太宰が大好きな作家であることは間違いない。

(20110110)


はてしない物語〔全2巻〕 ミヒャエル・エンデ 作/上田 真而子,佐藤 真理子 訳

映画「ネバーエンディングストーリー」を見たのは中学校のころだった。劇場ではなくレンタルビデオで見たのだが、なんて面白い映画なんだ!と夢中になったことを良く覚えている。あれは当時としては圧倒的に良くできた映画だった。本も欲しかったが、ハードカバーは高価で子供には手が出せず、購入して読んだのはだいぶ後になってからだった。ハードカバー版は、あかがね色の表紙にアウリンの模様があり、本文も2色刷りという立派なつくりで、これはこれで存在意義の高いものだが、手に取りやすい岩波少年文庫にも本作が収録されたのは喜ばしいことだ。

最初に原作を読んだときは、映画と重なる前半(上巻)は非常に面白かったが、初めて接する後半はピンとこなかった。観念的で暗いトーンに覆われているうえ、爽快感に欠けるため、正直、子供のぼくには難しかった。しかし、この年になって読み返すと、もちろん王道なファンタジーである前半も滅法面白いが、様々なアイデアぶち込まれているスリリングな後半には舌を巻く。今更だが、後半こそがエンデの描きたかったことなんだと気づいた。

物語に呼び込まれ、本の世界に入ってからのバスチアンの冒険は、ひとことで言えば「自分探しの旅」だ。そこには意味深な出来事や教訓めいたテーマもあろう。しかし、ぼくにとって何より魅力的なのはファンタジーとしてのイメージの鮮烈さだ。夜の森ペレリン、色の砂漠ゴアプと、毎夜石化するため永遠にペレリンをみることのないライオンのグラオーグラマーン。銀の都アマルガントに、不幸な生き物アッハライ。枯れ木のようにしおれてしまったアイゥオーラおばさま。盲目の坑夫ヨルと共に潜る、絵の採掘抗。ひとつひとつの冒険が頭の中で鮮やかにヴィジュアル化され強く心に残る。

もちろん自分探しの旅の終わりには、救いと生まれ変わった新しい自分が待っているわけだが、読み進むほど、どんどんバスチアンが精神の暗黒面に陥っていくためハラハラさせられるし、アトレーユとの確執や、憂いを帯びたエピソードが多いため、全体に暗い影が差しかかっている。しかし次々に現れる世界や人物が意外性と独創性に溢れており、ファンタジーならではの醍醐味が詰まったダイナミックな展開にぐいぐいと引っ張られていき、ラストでは爽やかな感動を与えてくれる。この巧みな構成には思わず唸らされてしまう。

(20090923)


波紋 ルイーゼ・リンザー 作/上田 真而子 訳

ドイツの女流作家の自伝的小説。5歳の少女が母親と一緒に地方の僧院にやってくるところからはじまり、思春期の入り口までが描かれる。僧院の静謐な空気と、少女のうちに渦巻く感情の起伏の対比が凄まじい。長編小説ではあるが12章がそれぞれ独立した物語としても成立しており、短編集としてみても、一編一編が極めて素晴らしい内容を持っている。本書は子供向けではないし、あまりに質が高すぎて何とコメントするか困ってしまうほどだが、こういう作品が紛れ込んでいるのが岩波少年文庫の侮れないところだ。

全体を通して境界線上のあやうさのようなものが鮮やかに表現されている。現実と空想、愛情と憎しみ、大人と子供、自由と規律、生と死、そういったものの際どい境い目を主人公は危なげに揺れ動く。ぼくがこよなく愛する映画「ミツバチのささやき」を思わせるような、ピリピリと肌を突き刺すような鋭い感覚が全編を貫く。

印象的な人物も数多く登場する。僧院をきりもりする伯母。森のフランチェスカとの謎めいたごっこ遊び。農園で働く陽気で健康的なヴィッキー。親に対する強烈な反抗。不思議な佇まいの祖父。同級生コルネリアと若い新任教師エリナに対する、思春期前に特有の同性に対する恋心に似た感情。そして思春期が訪れ、二人の少年、レネとゼバスチアンとは、もはや子供らしい無心な交流が出来なくなる。

ここにあるようなエピソードのひとつひとつは、誰にでも経験があるんじゃないだろうか。個人的には主人公の少女が友達を呪い殺してしまう場面にはドキリとさせられた。そうだ、ぼくも幼い頃は呪いの力を持っていた。本来なら決して口に出すことはなく一生胸の奥にしまっておくような繊細なことがらが赤裸々に語られていくが、作者の冷静な視線と感受性にあふれる表現のおかげで、露悪に陥ることなく、読む者の古い記憶や古い感情を蘇らせてくれる。

(20050410)


針さしの物語 ド・モーガン 作/矢川 澄子 訳

非常にクラシカルな雰囲気のある短編集だ。アンデルセン、グリム、ペロー等々、様々な童話集を読んできたが、その中にこの短編集の一編が紛れ込んでいたとしても、全く遜色が無いばかりか、鮮やかな光輝を放つくらいの面白さ、風格がある。更に、いかにも西洋の童話的なモチーフが数多く散りばめられているにもかかわらず、酷似した話が思い当たらない。つまり伝統的なスタイルでありながらオリジナリティーがあるのだ。 …というより、これは童話の形を借りた幻想小説と言うべきだろうな、やっぱり。

たとえば「おもちゃのお姫さま」。感情を押し殺す事が美徳とされる城で、天真爛漫な性格のお姫さまが辛い思いをしていた。それを見た妖精が、「どうぞ」「いいえ」「はい」「たしかに」の4語しか話す事の出来ないおもちゃのお姫さまを身代わりに置く。この物語の面白いところは、海辺の家に引き取られた本物のお姫さまが幸せになるのは良いとして、城で暮らす人々も、おもちゃのお姫さまを頂いて幸せに暮らすのだ。従来の童話なら天誅でも下りそうなところだが、おもちゃの姫と、彼女を慕う城の人々の姿に、何とも退廃的で妖しい美しさを感じるのはぼくだけだろうか? この作者独特の美意識があるような気がする。

「髪の木」に出てくる魔法の島の描写も凄まじい。この島は不思議な光に満ちており、暗い太陽が闇を放つ。光が凶々しさを感じさせるような独特の状況描写には強いインパクトを感じた。この魔法の島に限っては、挿絵が無いところが却って想像力を刺激させられる。ふと藤野一友(フィリップ・K・ディックの表紙などを書いている)のイラストのような世界が思い浮かんだ。

その他にもギリシア神話のような「みえっぱりのラモーナ」、グリム童話にそのまま入っていてもおかしくないような「愛の種」「シグフリドとハンダ」、宮沢賢治に近い肌触りを感じる「オパールの話」、現代的な「炎のかなたに」と、収録されている作品全てが読み応えのある面白い物語となっている。 実兄のウィリアム・ド・モーガンによる挿絵も美しい。

(20020623)


はるかな国の兄弟 アストリッド・リンドグレーン 作/大塚 勇三 訳


ピーター・パン J.M.バリ 作/厨川 圭子 訳

子供目線が貫かれている作品だ。とにかく出てくる子供たちが、みんなわがままで身勝手でとんでもなく虫がいい。男の子はみんなやんちゃで、人を殺すことすらいとわない。ウェンディーや幼い兄弟も、遊ぶのに夢中で、家に残してきた両親をそれほど心配してるそぶりもない。子供特有の、世界が自分を中心にまわっているような感じ。

子供たちの良くも悪くも無邪気なところははつらつと描かれている一方、大人たちの人物造形はムチャクチャで、大人はこんなもんだという子供の勝手な想像そのままというか。たとえば母親は何があろうと無条件に子供を受け入れてくれるわけだ。しかし子供たちが居なくなって悲観にくれたお父さんが犬小屋で生活するようになるパートは、ジョーク半分にしてもちょっと心が痛む。子供は残酷だ。

そんな世界の中で、唯一の異質な存在であり、また人間的な深みを持って描かれている大人が、ピーターの好敵手、海賊フックだ。彼がイギリスの超名門、イートン・カレッジの出身だったという設定も面白い。最期の瞬間まで「行儀」というものにこだわるフック船長の姿は、大人の愚かしさの象徴でもあるんだろうが、ぼくはむしろたいした奴じゃないかと思ったし、作者自身もフックにはえらく肩入れしてるような気がするなあ。

ディズニー映画のせいもあり、てっきり永遠の少年という存在に対する憧れを描いた作品だとばかり思っていたが、本書を読んで、海賊フックの姿に感じるものがあったり、ところどころに顔を見せるピーターの孤独や哀しみが深く胸を衝くのは、やはりぼくがそれだけ年を取ってしまったということなのかな。ふと「100万回生きたねこ」という絵本を思い出させられた。

(20061029)


肥後の石工 今西 祐行 作

本書は、江戸時代の薩摩で橋を築いた岩永三五郎という実在の石工に材を採ったフィクションだ。石工が城や要塞を築いた後で口封じのため殺されたという話は世界中に残っている。フォーサイスの小説でもフセインの秘密基地を作った作業者達がまとめて始末されるエピソードがあった。自らの命と長年培った技術を救うため、ユダヤの石工たちが秘密結社フリーメーソンを作ったのは有名な話だ。かつての日本でも、建築を終えた石工は「永送り(暗殺のこと)」にされたという。

石工を次々に永送りにしていた人斬り侍は、追われながらも河原で石の研究に没頭してしまう三五郎のひたむきな姿に打たれ、身代わりに乞食の首を持ち帰る。生き長らえた三五郎は、孤児となった乞食の娘と弟を育てる決意をするが、親の仇として命を狙われるようになる。故郷に帰った三五郎は、他の石工仲間の命を救えなかったことから村八分にされ、自らも恥じて引き篭るが、彼の技術を見込んだ隣り村の庄屋から、困難な場所に橋を架ける事業を持ちかけられる。

見事な筋立てと構成で、最後までハラハラしながら読んだ。橋を架ける事業や、三五郎の技術を後継者に託そうとする思いは、陳腐なたとえだが「プロジェクトX」のようで感動的。特に完成した橋を見た三五郎が「宇助がかけました橋はあれにございます」と言うところなどグッと来る。九州の建築物や、永送りなど、歴史風土にまつわる描写も興味深く面白い。また「山椒太夫」にも通じるような、不思議に心の琴線に触れる日本独特の情感があるところも良い。人買いにさらわれた姉弟が蝋燭作りをさせられるなど、山椒太夫と直接的に似ている部分もあるのだが、全体に漂う湿っぽい雰囲気がいかにも日本的という感じがする。

三五郎が架けたとされる橋は、今でも現役で頑張っているものがある一方、鹿児島のめがね橋は既に取り壊されたという。寂しい話であるが、彼らが必死に守ってきた技術が形を変えながら現在の瀬戸大橋や明石大橋になっているんだろうな。フィクションとはいえとても良いものを読ませてもらった。熊本に行く機会ががあれば、霊台橋(この物語中で架けられた橋)、通潤橋(矢部郷の水道橋)は見ておきたいなあ。

(20040404)


ピノッキオの冒険 コッローディ 作/杉浦 明平 訳

ディズニーで有名な「ピノキオ」の原作であるが、これが結構驚きの内容なのだ。とにかくアニメと全然違う。ジェッペットじいさんは、初登場の時はチンピラやくざ風の「おかゆやろう」だし、ピノッキオは嘘をつかなくても鼻が伸びるし、コオロギ(クリケット)は、登場するなりピノッキオに殺されてしまうし。とりわけ物語序盤でピノッキオが悪者に木に吊るされで死んでしまうところなどは、かなりショッキングだ(ちなみにこの場面の挿絵はKKKみたいでえらく感じが悪い)。

原書は1881年から3年にわたって「子ども新聞」に連載されたものということだが、早い話が少年ジャンプみたいなノリで当時の子供たちに愛された作品だったんだろう。ピノッキオが生き返ったり、幽霊だった少女が実は仙女だったりと、辻褄の合わないこじつけだらけなわけだけど(まさに少年ジャンプ的だ)、今日まで読み続けられてきたのは、ピノッキオの憎たらしいけど憎めない、なんとも愛らしいキャラクターのお陰だろう。

古い児童文学に登場する子供は、大抵は良い子と悪い子がハッキリ分かれているものだけど、ここに登場するピノッキオは、善良な心を持ちながらも、誘惑があると必ずそれに負けてしまって、さらに自分自身に言い訳しながらどんどん悪いことをしてしまう。本書は多分に教育的な意味合いを込めて書かれているわけだが、それが足枷とならずに、逆にそこら辺にいる心の弱い腕白小僧(読者自身の姿でもある)を生き生きと描き出す結果になっている。

ラストで人間の子になったピノッキオは、衰弱していたはずのジェッペット爺さんが元気になった姿を発見するが、その時の「なぜって、わるい子どもがよい子どもになるときは、その家庭の中まで、あたらしい、ほほえましいようすにかえる力をもっているのだからね」という台詞が気持ち良い。

もちろん本書は十分に面白い内容だが、中の要素を上手に抽出して見事に作り変えたディズニー映画の凄さも改めて認識させられた。初期のディズニー映画って神がかってるよなあ。

個人的に訳者による解説が納得いかなかった。物語の矛盾にいちいち突っ込んでいるのは、まあいい。しかし、身障者を装ってピノッキオを騙すキツネとネコが、ラストで本当に障害者になってしまうことについて、この者たちは罰を受けたわけではないし、そんな因果関係があるわけもない、などと説明しているのは蛇足。何でこんな余計なことをわざわざ書くんだろう。この訳者は「貝の火」を読んでどう思うんだろう。

(20041024)


秘密の花園 上下 バーネット 作/山内 玲子 訳

ぼくはいい歳して児童書を読みまくっているわけだが、大人になってから初めて読む作品は、子供の時に出会っておきたかったなあと思うものと、大人になったいま出会えてよかったなあと思うものがある。ぼくにとって本書は後者にあたる。子供のころのぼくはこの物語を地味で退屈だと感じたかもしれないし、コリンの言う「魔法」の意味も分からなかったかもしれない。しかし大人になった今はしみじみ良い作品だなと思う。

両親を亡くしてヨークシャーのお屋敷に引き取られた少女メアリは、豊かな自然のなかで閉ざしていた心を徐々に開いてゆく。ムアに暮らす動物と話せるディコン少年と、自分が死ぬと思い込んでいるコリン少年と出会い、それぞれが長らく閉ざされていた「秘密の庭」で、豊かな自然とともに友情を育んでゆく。

上巻ではメアリを主人公に物語はミステリアスに進行し、秘密が詳らかになった下巻ではいつのまにか主役の座がコリンへと移るが、どちらもでも描かれているのは暗く閉ざされた子供の心が開かれ、いきいきと輝くようになる様子だ。付け加えれば閉ざされた心が開くのは子供だけでなく、コリンの父親もまたそうなのだが。

コリンの言う「魔法」の効用は、なるほど一理あると思わされるところがあり、彼がメアリやディコンとのとの交流を通じて快活になって行くさまは感動的だ。しかしぼくが注目したのはメアリの方だ。両親を失い、すっかり捻くれ、親切な使用人がついたにせよ基本的に孤独な彼女の心を良い方に向かわせたのは、ムアの自然とその中で身体を動かすということ、そして同年代の友人の存在だ。幼子をかかえる親としては、なかなか示唆に富むと感じた。

ところで岩波少年文庫には、吉田勝江訳と山内玲子訳の二つの「秘密の花園」があって、今回ぼくが読んだのは2005年に改訳された山内玲子訳なのだが、新訳だけあって現代的で大変読みやすかった。面白いのは、重要な役回りを果たすヨークシャ弁が、この新訳では広島弁で訳してあるのだ。ぼくの嫁が広島出身なので一応確認したが、これは広島弁で間違いないと。大昔の児童書では、召使いや田舎者などが、「だんなさま、おねげえしますだ」みたいなまるでリアリティーのない喋り方で訳されてしまっていることがよくあったが、広島弁を使うことで地方の感じをだすという手法は、字面もスッキリして読みやすいし悪くないと思う。嫁は釈然としていないようだったが(笑)。

(20111029)


ファーブルの昆虫記 〔全2巻〕 大岡 信 編訳


ふくろ小路一番地 イーヴ・ガーネット 作 / 石井 桃子 訳

イギリスの地方都市の下町に暮らす、子沢山のラッグルス家の日常をいきいきと描く。発表された当時(1953年)は、このような下層階級の生活を描いた児童文学は無かったそうで、そういう意味でエポックメイキングな意義深い作品らしいのだが、そんなこと抜きに肩肘張らずに楽しく読める。作者の本職は画家だそうで、自身によるしっかりした挿絵も作品の温かい雰囲気を引き立てている。

洗濯屋のおかみさんと、ごみさらい屋のだんなさんによる子供たちの名付けの様子から始まるが、これが大変分かりやすい登場人物紹介になっていて、あとは家族のものがそれぞれ主人公となり、小さな事件が次々に起きてゆく。

長女のリリー・ローズは母親を手伝おうとしてお得意さんの洗濯物をちぢませ、奨学金を得た賢い次女ケートは大事な帽子を海に流してしまう。双子のジムとジョンは、入団したちびっこギャング団で冒険することを要求され、ジムは土管に隠れて船に密航し、ジョンはとある富豪の車に潜り込み同い年の子供の誕生日会に参加する。生後10ヶ月のウィリアムは赤んぼコンクールで入賞し、映画好きなジョーは映画館に潜入する(映画館に楽士がいて実際の演奏を聴かせるというところが時代を感じさせる)。7人いる子供達の中で、幼いペグに焦点が当てられた物語だけ無いのは不思議なことだ。

父親のラッグルス氏は、小説家の家のゴミの中から発見した大金を正直に届け出て、謝礼金で一家揃ってロンドン旅行へと行く。この旅行のドタバタ具合、慌ただしさが凄い。しかし充実感と幸福感がそこはかとなく漂っており、つつましいながらも幸せなクライマックスとなっている。

特に面白かったのは、ケートが奨学金を得て良い学校に行くことになる顛末と、双子のジョンが大金持ちの子の誕生日会に参加するエピソードなのだが、そういえばこの2編は下層の人々の境遇がよく現れているな、と解説を読んでいて気付いた。ジョンと同世代のお金持ちの子供達との会話には、ユーモアの中にもピリリとした風刺が見て取れる。ほとんどのエピソードで貧しさや貧富の差がテーマになっているにもかかわらず、明るく楽しい印象しか残らないあたりは見事であり、かなり意欲的な作品であったことが窺われる。

(20090405)


ふしぎなオルガン レアンダー 作/国松 孝二 訳

ドイツの外科医が戦場で子供に宛てて書いた創作童話集21編が収められている。グリムからの影響が強いが、創作童話集というよりも、キリスト教的な倫理観を説く話が多い。殆ど全ての物語の背後に、子供たちの信仰心や倫理感を育むという意図が見える。初版が1871年とのことだが、当時はこんな物語が多かったのかもしれない。

表題作の「ふしぎなオルガン」や「見えない王国」などが特に良く出来てると思ったが、もちろんこれらの話もキリスト教的だ。作者はとても敬虔なクリスチャンだったんだろうな。

気になることが二つ。一つは挿絵の画家の名前が何処にも無いこと。どうも複数の画家が書いているような気がするが、それすらハッキリしたことがわからない。挿絵も物語を形作る大きな要素の一つなのだからおろそかにしてはいけないと思う。

もう一つは、新版に切り替わる際に「小さな黒ん坊とこがね姫」という一編が割愛されたということ。こういうのって嫌いなんだよね。今時そのような話を読んだからといって黒人を蔑視するようになる子供なんていないと思うし、万が一そのようになることを危惧するのなら、解説で当時の物の見方や世界観、歴史なども説明して、問題提起するという形にすればいいのに。勝手に物語を削除したり改変したりするというのは、作品はもとより事実や人類の歴史に対する許されざる冒涜だと思う。ということで、何とか旧版を探して読むつもり。

(20021104)

追記:「小さな黒ん坊とこがね姫」を読みました。封印しなければならないほど差別的な内容だとは思わなかったし、同書に入っている「悪魔が聖水に落ちた話」には、悪魔が黒ん坊の国で捕虜のお仕置きを見物するなんて描写があるのに、それは削除されずにそのまま残っている。基準が良く分からない。いずれにせよ現在極めて読みづらい状況にあり、復刊も難しいと思うのであらすじを書いておきます。

むかし、色の黒い少年がいた。生粋の黒人ではなく、その色がはげて服やまわりのものを汚すため、親からは疎まれ、奉公先の親方や主人からも見放される。働き先の優しい奥さんからプレゼントされたヴァイオリンを習得した少年は、演奏家として旅回りするようになる。

全身が金でできたお姫様が治める国で、少年は光り輝く姫のあまりの美しさにその場で求婚するが、侮辱され、傷ついて逃げ出した。やがて少年は、旅回りをしながらヴァイオリンの腕を磨き、名声は高まり、そのうち色も徐々にはげて、ついには真っ白になった。

少年は、とある町の見世物小屋で姫と再会する。彼女はすっかり金がはげおちてブリキになってしまい、惨めな見世物になっていた。しかし姫の心は昔の傲慢なままであった。少年は姫に別れを告げる。その後、演奏に惚れ込んだ王の寵愛を受け、お姫様でも金ずくめでもないが心の美しい女性と結婚し、幸せに暮らしたとさ。

(20100322)

追記2:つい先日、復刊が難しいだろうと書いたばかりだが、その一週間前に復刊されていたとは全く知らなかった。名作が復刊されるのはめでたいことだが、web上で読める情報によると、20編が収録とある。本来なら21篇なければいけないはず。さすがに「小さな黒ん坊とこがね姫」が再録されることはないだろうとは思っていたが、まさか、さらに一編削られてしまうとは…。どの作品が削除されたのか確認するため書店に走った。

たぶん「小さなせむしの少女」だろうと予想していたが、果たしてそうだった。優しい母に先立たれた小さなせむしの少女は、後から来た継母に冷たくあしらわれ、衰弱して亡くなってしまうが、そのとき背中の瘤の中から天使のつばさがひろがり、天国へと飛び立ってゆくというストーリーだ。

悲しい物語ではあるが、上に書いたような要約では伝わらない不思議な美しさを湛えており、一度読んだら生涯忘れられないような深い印象を残す。これほど美しい作品が、読まれる機会を失ってしまったのか…。

子供のための文庫であることを考えれば、色々配慮が必要なことはわかる。この新版で「黒ん坊」が「黒人」に直されるなど、語句が訂正されている箇所を確認したが、まあそれは仕方ないと思う。しかし、童話、ファンタジーの愛好家として、美しい作品の存在そのものが抹消されてしまうのは哀しい。

(20100418)


不思議の国のアリス ルイス・キャロル 作/脇 明子 訳

久しぶりに再読してみたが、なかなか楽しめた。大学生の頃に読んだ時は、正直つまらんなぁと感じたのだが、改めて読んでみると楽しく一気に最後まであっという間に読みきってしまえた。なぜ大学の頃はつまらなく感じたのだろう?

折角なので、この岩波少年文庫版と、手元にあった新潮文庫版(高杉一郎訳)と読み比べてみたら、駄洒落の多い作品なので、訳者の苦労が伺われて面白かった。新潮版は、駄洒落や特殊な言葉づかい、引用されている詩などについて、細かく注釈を付けてある。一方岩波版は、注釈は付けずにあくまで日本語として自然に読めるように訳したという感じだ。個人的には、いちいち丁寧な解説がついている新潮版の方が好きだが、子供に読ませることを考えると岩波版の方が良いかもしれない。

駄洒落の所を読み比べてみたのだけど、最初の方で「dry=乾いた、つまらない」を新潮は「無味乾燥」、岩波は「干からびた」と訳している。これは新潮の方が上手い(しかも注釈付)。しかし、「地球のおのおのの側(岩波p95)」、「地球のおのれの軸(新潮p87)」という所や、「おともは居るか?(岩波p169)」 、「何用でいくのかね?(新潮p161)」という所は、岩波の方が自然に訳せている。

やっぱり一長一短だなぁ。駄洒落や言葉遊びの部分で表現の重複が殆ど無く、訳者ごとに工夫を凝らしているのがよく分かる(岩波と新潮以外はチェックしていないから、ひょっとすると他の版では重複があるかもしれないが)。英語の駄洒落や言葉遊びを日本語に訳すのはどうしても無理があるのだから、色んな訳者の出来の良い訳を組み合わせて、注釈なしに楽しめる決定版が作れたらいいんだろうけど、そういうのは難しいんだろうな。

「アリス」と言えば当然テニエルの挿絵なわけだが、やっぱり良い。これはもう共著と言ってしまっても良いくらいの仕事だと思う。 あと今回再読するまですっかり存在を忘れていたが、「にせ海ガメ」って何か好きだなぁ。

(20011008)


ふたりのロッテ エーリヒ・ケストナー 作 / 高橋 健二 訳

いやぁ、これは大傑作だ。今回初めて読んだのだが、さすが人気BEST10に入るだけはある。双子が出会うミステリアスな冒頭でたちまち惹き込まれ、あっという間に読み終わってしまった。やっぱり双子が入れ替わってしまうというアイデアが良いね。 全体的に簡潔に書かれているが密度は恐ろしく濃いので、書き様によってはもっと話を膨らませられるんじゃないかとも思った。でもやっぱり、これくらい軽妙なほうが良いのかな。

男と女では感性や考え方で大きな差違があると思うのだが、私見だが、やっぱりこの物語は女の子のためのお話だという気がする。主人公が女の子だということもあるが、別れた両親をくっつけるため機転を働かせ立ち回るというのは、いかにも女の子向けなストーリーだと思ったし(ぼくが少女漫画的だと揶揄した「まぼろしの白馬」もそういうストーリーだった)、さらにちょっとした表現や言い回しなど、作品の端々に独特の高踏感というかワクワク感があって、なんとも言えない女の子っぽさを漂わせているのだ。

ケストナーといえば、「エーミールと探偵たち」や「飛ぶ教室」(何故か岩波少年文庫には入っていない)など、男の子を主人公にした大傑作を書いており、ぼくとしては「少年心を見事に表現する大家」という風に認識していたのだが、女の子を描いてもこれほど緻密な作品を書けてしまうとは、まったく恐れ入る。

(20021223)


フランダースの犬 ウィーダ 作 / 畠中 尚志 訳

泣く子も黙るというか、笑う子も泣いてしまう名作、フランダースの犬である。アニメの印象が強すぎて、読みながらどうしてもあの絵が浮かんでしまったが、もちろんこの原作も人の心を揺さ振る大きな力を持っている。子供はもちろん、かつてあのアニメを見て育った大人にもお勧めしたい一冊だ。

しかしぼくも色々な児童文学を読んできたが、ここまで救いの無い作品も珍しい。物心付いた頃から働き詰め、それでも年々貧しさは酷くなり、友達に会わせてもらうことも出来ず、やがておじいさんが亡くなり、挙げ句の果てには放火犯の嫌疑をかけられ家を追い出され、失意の内に命を落としてしまう。ネルロ少年の死後、その画才が発見されるところが哀しみに拍車をかける。よくこんな物語を原作に忠実にアニメ化出来たものだとつくづく感心する。う〜ん、どうしてもこの作品については、あのアニメと切り離しては語れないなあ。

本書にはもうひとつ「ニュルンベルクのストーブ」という中編も併せて収録されているが、こちらもユニークでなかなか良い。貧しい一家を長年温めてきた骨董品のストーブを、酒に酔った父親が二束三文で業者に売り払ってしまった。それに反発してストーブの中に身を潜めたオーガスト少年は、ストーブもろとも遠い異国へと運ばれて行く。

馬車や鉄道、船などを乗り継ぐ長旅にもかかわらず、オーガストがずっとストーブの中に隠れているため外界の描写が一切無い。それでもしっかりと旅の雰囲気が感じられるのが不思議。実に奇妙な冒険旅行譚だ。

このストーブは名陶工ヒルシュフォーゲルの手によるものなのだが、様々な骨董品たちが夜中にくるみ割人形的に喋り始め、本物と贋作の違いについて一大論争を繰り広げる場面が非常に興味深い。「フランダースの犬」でもそうだったが、作者は芸術に関して特別な思いれというか崇拝の念を持っているようだ。ひょっとして画家になりたかったのはネルロやオーガストよりも、作者自身だったのかもしれない。

それにしてもヒルシュフォーゲルを買い取ったのがパヴァリアの狂王ルートヴィッヒ2世だったというオチにはあっけを取られてしまった。ワグナー指揮のパルジファルをバックにストーブが城内に運び込まれる場面なんて面白すぎ。国王の寵愛を受けたオーガストが芸術家を目指して新たな人生を歩き始めるという結末で、普通に考えれば文句の無いハッピーエンドなのだが、こと相手がルートヴィッヒ2世となるとどうしてもあらぬ想像をしてしまうというか…(笑)。しかしこの作品を読む限りでは、ルートヴィヒ2世は芸術を理解する温情を持った後見人だとしか読み取れないので、まあ人物の評価は時代や国によって大きく異なるものだということでしょうか。

ちなみにフランダースを一大観光地にしてしまった作者のウィーダはイギリス人。晩年はイタリアで過ごしたそうだ。風景描写が巧みなので、フランダースの作家とばかり思ってた。「ニュルンベルクのストーブ」に出てくる町の描写も秀逸だ。舞台となっているチロルのインスブルックを地図で調べると、オーストリアのスイスに近い地方だった。こんなところから遥々パヴァリアまで運ばれていったんだなあと思うと感慨もひとしお。

(20031228)


冒険者たち 斎藤 惇夫 作/薮内 正幸 画

この作品は、不思議な熱っぽさを放っている。悪く言えば芝居がかったくさみを感じさせられるような所もあるのだが、逆にそこも異様に熱気に溢れたこの作品の魅力になっているように思う。

早い話が「七人の侍」のネズミ版なわけだが、主人公のネズミたちと鼬の、命を懸けた戦いの描写が素晴らしい。歌あり踊りあり、と言えば「なんだ?」と思われるかもしれないが、これがなかなか迫力があるんだな。特に鼬のリーダー、ノロイが凄まじい迫力を放っていて印象的だ。主人公が人間であれば、ここまで邪悪な存在は描けなかったかもしれない。動物だからこそ、児童文学でこのような圧倒的な悪役を登場させることが出来たのだろう。

関係無いけど、アニメの「ガンバの冒険」は、この作品が下敷きになっているんだっけ? 子供の頃は、動物が主人公のアニメは「子供っぽいなぁ」と思って、あまり観なかったんだけど、観とけば良かったなぁ…。

(20010815)


ベーグル・チームの作戦 E.L.カニグズバーグ 作/松永 ふみ子 訳
(旧題 ロールパン・チームの作戦)

マークはユダヤの成人儀礼(バーミツバ)を目前に控えた多感な12歳。自分が所属する少年野球チームの監督に母親が、コーチに大学生の兄が就任してしまったことから、家庭の事情とチームの事情とが交錯して頭を悩ませることになるが、奮闘しながらも成長していく。

一読して思うのは、ああ上手いな、カニグズバーグだなと。たとえ著者名と挿絵を伏せて読んだとしても、100人中100人がカニグズバーグの作だと分かるような作風だが、決してマンネリというわけではない。少年の成長を描くという骨子はシンプルで明快だが、全編に漂うユーモアが可笑しいし、ユダヤ人としての生活の描写なども興味深く、とても楽しい読み物となっている。

いつもながらカニグズバーグの作品は、平凡なアメリカ市民の生活がよく伝わってくるので楽しい。選手を点数化してトレードしてチームを編成する少年野球のシステム。チームでの子供の扱いにクレームをつける保護者たち。ユダヤ人としての儀式や、ちょっとした差別意識。金を払って友達のエロ本をみせてもらったり、自分のエロ本をベッドの下に隠したりする少年たち。日本と同じだなあというところも、違うんだなあというところもそれぞれ面白い。子供たちは一見過保護に見えるが、ティーンになったら途端に放任されるんだろうな。子供への関わり方はアメリカンな感じ。

本書でなんといっても良い味を出しているのは、母親のベスだ。もしこの作品が映像化されるようなことがあれば、母親の方を主役にしてもらいたい。「野球のことなんて知らないのに監督に大抜擢! よその保護者からは自分の子をレギュラーにしろと文句は言われるし、息子のベットの下からはエッチな雑誌はでてくるし、もうてんやわんや。そのうちチームは地区での優勝が見えてきた! さあどうしましょう?!」なんてね。困難にぶつかり、それを克服して成長していくというのは、子供ばかりではなく大人だってそうなんである。

(20110123)


ペロー童話集 天沢 退二郎 訳

「眠れる美女」「赤頭巾ちゃん」「サンドリヨン」など有名な童話が10編収められている。大人向けの翻訳だと韻文で訳される「ロバの皮」「おろかな願い」の2編が散文に直されており、とても読みやすくなっている。ただし「グリゼリディス」は割愛されている。

グリム童話集よりも100年も前に編纂された古い童話集であり、もともとの伝承に忠実であるため、たとえば「赤頭巾ちゃん」が最後にオオカミに喰われたところで物語が終わったり、現在よく知られた結末とは違っていたりする。また物語の終わりごとに教訓が付されたり、説教臭いところもあるが、童話の面白さの本質はしっかり伝わってくる。たとえば赤頭巾ちゃんなどを改めて読むと、オオカミと赤頭巾ちゃんのやりとり、そして最後にオオカミが喰うところまでのリズム感が胆であり、この面白さは、口承ならではだと思った。

訳者の天沢退二郎は仏文学者、詩人だが、宮沢賢治研究の第一人者としても名高く、賢治ファンのぼくには評論の方で馴染みがある。それにしても、解説はもちろんのこと、注釈でまで賢治の作品を引き合いにだすあたり、賢治ファンぶりが徹底しているなあ。肝心の訳文については、手元に「完訳ペロー童話集」(新倉朗子訳/岩波文庫)も持っていたので、読み比べしてみたが、さすがに詩人だけあって、選び抜かれたやさしい言葉でシンプルに訳されており素晴らしい。解説も詳しく、グリムとの比較なども書いてくれているので面白い。

マリ林(天沢退二郎夫人)による挿絵も美麗で印象深いが、個人的には上記の「完訳ペロー童話集」の版画(作者不詳)などの方が好きだ。童話集や古い物語などは、それが出版された当時のムードを今に伝えてくれるような、古い挿絵を採用してもらえるとありがたいのだが。

(20110508)


ぼうしネコのたのしい家 ジーモン&デージ・ルーゲ 作/若林 ひとみ 訳


北欧神話 P. コラム 作/尾崎義 訳
(旧題 オージンの子ら)

日本では少々馴染みの薄い北欧神話、初めて触れるエピソードが多く新鮮であるが、神々の名や地名、武器などの固有名詞は、文学、漫画やゲームなどどこかで見聞きして知っているものも多く、知らず知らずのうちに浸透していることがわかる。ファンタジーやクラシック音楽を愛好する者としては、もっと早く読んでおくべきであったと後悔した。

3部構成になっており、第一部の「アースガルドに住む神々」では登場人物達や世界観が紹介される。第二部の「さすらいの旅人オージン」ではオージンが片目と引き換えに知恵を授かる話から始まり、力自慢のトールやいたずら好きのローキが巨人の国を旅する話などがある。第三部の「魔女の心臓と神々のたそがれ」では、魔女に魅せられその心臓を食らったローキがアースガルドに災いをふりまき、やがて「神々のたそがれ(ラグナリョーク)」と呼ばれる最終戦争へと突入していく。

様々なエピソードがあるが、多少時系列の乱れはあるものの、全体が一つの物語として世界の創世から終末へと淀みなく流れていくため読みやすく、またギリシア神話などとくらべ全体像が掴みやすい。イグドラーシルという世界樹を中心とする世界観がユニークで、ひとつひとつのエピソードは面白いし、最終戦争で神々や巨人、小人たちがほぼ全滅する結末はダイナミック。

隣接する異国の種族との戦いがひとつのテーマになっており、実際の歴史が反映しているのだろうかと思わされるようなところも多々あり興味が尽きない。ウィリー・ポガニーによる挿絵も趣があって良い。ファンタジーの愛好家は手元に置いておくべき一冊。

(20101011)


ぼくがぼくであること 山中 恒 作


ぼくたちの船タンバリ ベンノー・プルードラ 作/上田 真而子 訳


ぼくたちもそこにいた ハンス・ペーター・リヒター 作/上田 真而子 訳

ナチスの勃興期にヒトラー・ユーゲントとして少年時代をすごした作者の自伝的な作品。あのころはフリードリヒがいたの続編にあたるが、連続した続きの物語ではない。前作ではユダヤ人の隣人の運命にスポットライトが当てられていたが、本書は当時の少年少女がナチスに組み込まれていくシステムと、ドイツの社会情勢についての描写が主眼である。ユダヤ人の迫害等についてはそれほど多くは語られていないが、一瞬、あのフリードリヒが登場する場面ではドキッとした。

何といっても本書の大きな特徴は、並外れた描写力にあると思う。冒頭などまるで映画のワンシーンを見ているような臨場感があるし、場面の展開や章の変わり目など、演出効果が抜群である。テーマがテーマだけにこのような言い方は相応しくないかもしれないが、エンターテインメント的な面白さがあるのだ。そして、このような重いテーマの作品にとって、この筆力が大きな力となっている。そもそもナチスの話なんて、読む前からつらいことが分かりきってるのに、それでもグイグイと読まされてしまうのだから。

もうひとつ特徴的なことは、書き手である「ぼく」の存在感のなさだ。優等生のハインツ、反抗的なギュンター、そして「ぼく」の3人の交流を軸に物語が進んでいくが、「ぼく」の主体性がまったく感じられない。私小説の体裁をとっていながら、まるで第三者からの視点のような不思議な印象がある。この「ぼく」とは、作者だけではなく、当時のドイツの少年すべてであり、また読み手であるぼくらのことでもあるのだろう。

ちょうど思春期の少年たちを描いていることもあり、一種の青春小説のようになっているところもある。またナチスのおかげで大不況から抜け出しつつあり、生活が楽になってきたという描写もある。どうしてもナチス時代のことといえば暗黒面ばかりが強調される傾向が強いが、本書はもっと多様な視点を与えてくれる。そのことにより、作者がこの時代の当事者として、責任をナチスのみに押し付けようとするような安易な姿勢をとってはいないことが伝わってくる。

(20090222)


ぼくと(ジョージ) E.L.カニグズバーグ 作 / 松永ふみ子 訳

これは岩波少年文庫に収められている作品中で、1、2を争う問題作だろう。というのは、心の中に「ジョージ」という別の人格が棲んでいる少年が主人公なのだが、彼は優れた頭脳を持っていて特殊な教育を受けていたり、友人が LSD を精製して販売を企んでいたり、更に複雑な家庭環境など、かなり異常な(しかも妙に生々しい)設定なのだ。これは大人向けの物語ではないのか?という気もするが、こういうのは案外子供のほうがすんなりと受け入れたりするもんなんだよな。

一時期(3〜4年前くらいか)、多重人格物や、幼少期のトラウマが原因で精神分裂病になった人の物語などが、妙に流行ったことがあったが、それらの多くは、登場人物の暗い過去や、犯罪まつわるエピソードなど、ショッキングな内容のものが殆どだった。しかし「ぼくと(ジョージ)」は、あくまでも少年の精神的な成長をテーマとしている点で、れっきとした児童文学だと言える。

二重人格といえば、一方の人格が表れている時には、もう一方は隠れてしまっているものだが、この物語の主人公ベンジャミンと「ジョージ」は共生関係にあり、常にお互いにおしゃべりしたりしている。「ジョージ」が、宿主であるベンの感情の暗黒面を担っているというのは、まあ分かる。しかし、ベンが「ジョージ」の考えを全く忖度できなかったり、記憶力の優れた「ジョージ」の助けを借りないとベンは勉強が出来なくなってしまうという設定はとても面白い。まさしく他人が自分の中に棲んでいるという感じなのだ。

心の中に別の人格が宿るには、例えば主人公が幼い時に虐待されたなどの理由があるものだが、この作品では、物心が付いた時から普通に「ジョージ」がいたということになっており、そういう状況が当たり前のことのように描かれている。それどころか、「ジョージ」が居ないベンからは、不完全な印象すら受けるのだ。作品終盤で「ジョージ」が隠れてしまった時、読みながら「ジョージ」の復活を期待している自分に気が付いたが、ベンは「ジョージ」と二人でいるときこそが、完全な状態なのだから、そういう風に感じたのだろう。

最終的には、成長と共にベンと「ジョージ」が緩やかに融合していくという形で、この共生状態は解決に向かう。作者のカニグズバーグは、「クローディアの秘密」でも、子供から大人への精神的な成長を扱っていたが、同じテーマをここまで全く違う切り口から表現してしまうとは全く卓越した手腕だ。

それにしても、ベンの義母の前で「ジョージ」が現れたシーンの不気味さが、忘れられない。

(20020811)


星の王子さま サン=テグジュペリ 作/内藤 濯 訳

児童文学の金字塔。何度読んでも素晴らしい。勿論子供が読んでも楽しいが、大人になってから読んでも色々な発見がある本当の名作だ。

高校、大学時代を通して何度か読み、その時は王子様の純粋な物の見方や、きつねの言葉にハッとさせられたりした記憶があるが、いま改めて読み返してみると、これは純粋に恋愛物語だということに気付いた。哀しい筈の結末なのに、読後感が不思議に爽やかなのは、王子様が物語を通してバラの花に対する自分の愛情を悟り、そして愛するバラの花の元に帰るからなんだな。

ちなみに作者の妻は、典型的な悪女タイプだったらしい。結婚後も他の男と遊び歩き、最後は別居に近い状態だったらしいが、それでも作者は妻を愛し続けたという。それを知って改めて王子さまとバラ花の関係を考えると、切ない。

作者本人による挿絵が素晴らしい。 そして最後の砂漠の風景が、なんとも言えず哀しい。たった2本の線が、これほど強く心に沁みるとは。この作品は、これからも何度も読み返すことになるだろう。

(20010815)


追記: サン=テグジュペリが妻コンスエロと交わしたラブレターが2000年に発見され、それを中心としたドキュメンタリーが放送されていたのだが(2006年12月18日NHKで放送の「星の王子さまこころの旅 サンテグジュペリ愛の軌跡」)、ぼくは今まで誤った情報を信じたため大きな勘違いをしていたようだ。「星の王子さま」は、孤独な片思いから生まれたものではなく、二人の愛情(と葛藤)の結晶であることがよく分かった。作品と作者は切り離して考えるべきものと思うが、それでもこのような名作が幸せの中で書かれていたということはなんとなく嬉しいことではある。

(20061220)


坊ちゃん 夏目 漱石 作

ぼくは学生時代、漱石に凝った時期があり、随分いろいろ読んだ。作品中に描かれる明治の時代の雰囲気が好きだったのだ。高等遊民、書生などという存在には今でも憧れる。大人になってから読み返そうと思っていた作品がいくつかあるが、よりによって「坊ちゃん」を読み返すことになるとは思わなかった。しかし当たり前だがこの年で読み返すと、子供のころとは全く違った印象を受ける。子供向け推薦図書の定番だが、むしろ大人が読んだほうが楽しめる。

文章のスピード感と軽妙さ、登場人物たちによる会話のそこはかとない可笑しさ。今読んでも十分面白く小気味のいい小説だ。1906年発表だから100年以上前の作品なわけだが、当時の日本人の生活がここまで鮮やかに浮かび上がるという、ただそれだけのことだけで感動的だ。

とにかく主人公が血気盛んでせっかちでガキっぽい。また東京に残してきた下女の清を気遣うさまは心温まるものがあるが、乳離れしてないような感じも受ける。そもそもタイトルからして「坊ちゃん」なわけで、主人公の子供っぽさが目に付くのも当たり前といえばそうなのかもしれないが、こういう感想を持ってしまうぼく自身がいつの間にか赤シャツ側の人間になってしまったのだろうなあ。まあそれはそれで悪くないとも思うからいいや。

巻末の奥本大三郎氏による解説が本文を引用しながら実にうまく内容をまとめており、大筋を知りたいだけならこの解説を読めばそれで十分なくらいである。しかし、ここはやはり丁寧にしみじみと読んで、明治の空気を存分に味わいたい。

(20091115)


ぽっぺん先生の日曜日 舟崎 克彦 作

しまった。こりゃぼく好みの快作だ。子どもの頃に読んでおけば良かったな。

主人公がなぞなぞの本の中に入ってしまい、なぞなぞを解かなければ次のページに進めないというストーリーはそれだけでも楽しいが、主人公が大学の生物学の助教授で、出題される理不尽ななぞなぞに頭を悩ませるというのが面白い。陳腐なたとえだが、テレビゲームっぽいノリで、本の世界を1ページ進むごとに1面クリア!って感じ。

設定だけでも見事だが、問題に正解するごとに次々に現れる世界がどれも鮮やかで強く印象に残る。アワダチ草の広大な草原、バラ園のある廃墟、絶滅した動物達の動物園、ぬけがら(服)の町、中国の珍しい調度品のある地下室、巨大でカラフルなかぼちゃの実るかぼちゃ畑、霧につつまれたブナの木立ち、そしてその舞台に登場するユニークな登場人物(動物)達。アイデアの奇抜さもさることながら、全体としては謎解きよりもむしろファンタジックな世界の探索に焦点があてられており、重量感のある正統派のファンタジーという感じがする。

感心させられたのは、童話であるにもかかわらず、結構難しい言葉が散りばめられていることだ。主人公が助教授だから、単に雰囲気作りというのもあるのだろうけど、情報量が多く、大人にとっても読み応えがある。自分の子どもの頃を思い出せば、難しい言葉が出てきたら頑張って辞書を引いたもんだし、知的な物語を読んでいるという感じがして良い気分だった記憶がある。年少の読者にとっては、平易な言葉遣いに終始している作品は、手加減されているようで、却って不快なことが良くあるんだよね。もちろん配慮は必要だけど、この作品はその辺の匙加減が絶妙だと思う。

ぼくはドリトル先生のファンなので、さえない中年学者みたいなキャラクターにはとても親しみを覚える。作者自身による挿絵も良い。

(20030511)


ぽっぺん先生と帰らずの沼 舟崎 克彦 作


ホビットの冒険 上下 J.R.R.トールキン 作/瀬田 貞二 訳

平穏に暮らしていたホビットのビルボ・バギンズは、ひょんなことから、魔法使いのガンダルフと13人のドワーフたちとともに、荒くれ者の竜スマウグに奪われたドワーフの宝を取り戻す旅にでる。ファンタジーの古典とされる名作だが、発表されたのは1951年とそんなに古い作品でもない。この作品もそのうち映画化されるかもしれないので、備忘がてら駆け足で粗筋を辿ってみる。

上巻は、ビルボと13人のドワーフ、魔法使いガンダルフの旅立ちから始まり、巨人トロルをかわし、エルフの村で歓待を受け、ゴブリンの棲む山を抜け、オオカミの森を大鷲の助けを借りて命からがら逃げ出し、大男ビヨルンの館で態勢を立て直し、ガンダルフと別れて真っ暗な森に足を踏み入れ、森の奥深くで蜘蛛に捕らえられるが、ビルボの活躍で逃れるところまで。印象的なのはゴブリン山の地底湖に潜む「ゴクリ」という奇妙な怪物とビルボとのなぞなぞ合戦で、ここでビルボは体を隠すことが出来る魔法の指輪を手に入れる。

下巻は、森で力尽きた一行はエルフに捕らえられるが、ビルボの機転で樽に潜んでエルフの城を脱出。湖の町エスガロスで装備を整え、スマウグの棲む「はなれ山」に潜入する。他方、湖の町で暴れたスマウグは、人間バルドに倒されるが、スマウグの宝をめぐり、ドワーフたちと人間、エルフの間に新たな衝突が起こる。そこへゴブリンの大軍が押し寄せてきたため、ドワーフ、人間、エルフたちは和解し、更にビヨルンや鷲の力も得て、死闘の末ゴブリン軍を破る。戦いの後、ビルボは皆と別れて、ガンダルフと共に故郷へと帰り、壮大な物語は幕を閉じる。

スマウグの強さがあまりに圧倒的に描かれているため、いったいビルボたちはどうやって退治するんだと思っていたら、人間の放った弓矢の一撃であっさり殺されてしまい少々あっけにとられてしまった。レベルアップした主人公が最後に竜を倒してゲーム終了!みたいに思い込んでいたので(笑)。しかしその後の、竜の宝をめぐり、それまで(表面上は)穏やかであった種族間の対立が激化するという展開には唸らされた。絶対的な権力者が倒れて訪れたのは平和ではなく混沌だったのだ。

ホビットやドワーフ、ゴブリンやエルフなど、ファンタジーの世界ではお馴染みのさまざまな種族が登場するが、種族ごとにそれぞれ顕著な特徴をもって描かれており、ファンタジーの教科書のようだ。ホビット族はRPGの世界ではお馴染みなのだがトールキンの創作だとはしらなかった。解説で瀬田氏がホビットのモデルはウサギ(Rabbit)ではないかと推測しているのは鋭い指摘だと思う。そのホビットのビルボは、冒険の当初はうっかり八兵衛的な役回りをはたしており、まるで冒険談の主人公らしくない。ところが冒険を通じてみるみる精神的な成長を遂げ、物語を牽引するような人物になっていく。一方で温和な性格も失っておらず、そうしたキャラクターが、とかく殺伐としがちなストーリーの中で、ほっとできる雰囲気を醸し出している。数々の冒険や戦いを通して経験をつんだビルボが、最後には詩人になるという結末はムチャクチャ格好良いね

(20060416)


ほんとうの空色 バラージュ/徳永 康元 訳

作者はハンガリーの詩人・映画監督で、バルトークと親交があり、あの「青ひげ公の城」の台本も書いているということだ。どこの国にもこういう多才な人がいるものなんですね。

ハンガリー文学を読むのは初めてだが、カルマール・フェルコー、チェル・カリ、ダーン・ジュジ、ヒダシュ・シャニなどといった登場人物の名前の語感が気持ち良い。それにしてもハンガリー人の気質は日本人と近いのだろうか、なんとも懐かしいような甘酸っぱいような雰囲気があり、自分の少年時代を思い出してしまった。

懐かしいといえば、ちょっと面白かったのは謎の用務員さんだ。用務員のおじさんというのは、先生でもなければ普通の大人ともちょっと違うような、微妙な存在なのだ。個人的な昔話だが、小学校の頃に昼休みに友達と体育館の裏で子猫を見付けたことがある。 午後から授業があるのでたまたま近くにいた用務員さんに子猫を委ねた。「ああ、給食センターで牛乳の残りでもやるよ」といって、気軽に預かってくれたが、結局その子猫は何処かに行ってしまった…。いや、なんか上手く表現できないけど(笑)、ぼくが子供の頃用務員さんに対して持っていたイメージと、この物語に出てくる用務員さんのイメージが全く同じなのだ。そういう細かい部分でも、異国の物語でありながら強い郷愁を誘われる。

冒険やエピソードのひとつひとつが楽しいが、何といっても「ほんとうの空色」を見付けるラストが素晴らしい。それがきっかけで、少年時代を象徴する半ズボンと決別するわけで、非常に意味深い場面なのだが、まったくケレン味を感じさせない構成力も見事。少年期から次のステップへと踏み出す微妙な時期を、緻密な構成で描き切っている。ホントにあの「青ひげ公の城」と同じ作者とは思えない爽やかさだ。

(20020623)



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by ようすけ