岩波少年文庫全作品読破に挑戦! 「か」行の作品



海底二万里 ジュール・ヴェルヌ作/石川 湧 訳

小学校の頃、時間割の中に「読書」というのがあり、本好きなぼくにとって楽しみな時間だった。当時何を読んだのか殆ど忘れてしまったが、「海底二万里」を読んだ時のことは今でもよく憶えている。すっかり物語の世界に入り込んで、ふと顔を上げるといつもの学校の図書室だった時の不思議な感覚は、一生忘れられないだろう。古くさい物語だなんてちっとも思わなかった。それどころか非常にドキドキハラハラしながら読んだ。そして数十年ぶりに再読した今回もそうだ。

科学に関することがら、潜水時の海底や、南極の様子など、現代の常識とかけ離れているところもあるが、これはこれで面白いし、逆に人間の想像力の素晴らしさがよく伝わってくるとも言える。海底の狩のシーンなどは、まるで異星を描いたSFのようだ。現代っ子にも読ませてみたいな。昔の人はこういう風に想像をふくらませていたんだよって。

一角の怪物を追っていたアメリカの新鋭フリゲート艦は、日本近海でそれに衝突され、フランスの博物学者アナロックス教授と従者コンセーユ、カナダ人の銛打ち名人ネッド・ランドの3人が海に投げ出された。彼らは自分たちが追っていたのが潜水艦だと知ると同時に、そのまま囚われの身となり、ノーチラス号でネモ艦長に共に世界の海を旅することになる。

日本近海から太平洋をまわってオーストラリア北東のトレス海峡を通り、インド洋、そして紅海へ。建設中のスエズ運河の地下を流れる海底トンネルを通って地中海に抜けたあと大西洋に出る。カナリア諸島の海中でアトランティス大陸の遺跡を横目に見つつ南下。南極点に到達し、氷に閉じこめられる絶体絶命の危機を乗り越え、今度は大西洋をアメリカ大陸沿いに北上。バハマ諸島で大ダコの群れに襲われ、乗組員の一人が命を落とす。そのまま北上し、アイルラ ンドの南端を経由し、イギリスへ。追ってきた謎の軍艦と戦闘を繰り広げ、撃沈させたのち、北氷洋で大渦に呑まれる。アナロックス教授ら3名はボートで脱出し、助かったところで物語は終わる。ノーチラスは果たして助かったのかどうか…。

ネモ船長以外のノーチラスの乗組員が殆ど描かれていないため、主要な登場人物は実質4人だけだ。閉ざされた空間での人間関係が一つの読み物になっているのだが、謎に包まれたネモ船長の存在感が大きく、独特の魅力を放っている。冷徹で、軍艦を沈めて大量に人を殺めることも厭わないネモ船長が、最後につぶやいたひとことは非常に印象的だ。物語が完結しても、なお多くの謎を残しているところも本書の魅力なのかも知れない。

以下、備忘のためのメモ。1872年の作品。「ノーチラス号」の語源はタコブネから。タコブネとは殻がついた不思議な形のタコ。この頃から大西洋にアメリカとヨーロッパを繋ぐ海底電線が沈められていた。頻出する「腔腸動物」はクラゲ、サンゴ、イソギンチャクなどのこと。

(20090524)


怪盗ルパン モーリス・ルブラン 作/榊原 晃三 訳

ルパンシリーズは小学生の頃にかなり熱中した。ポプラ社の南洋一郎訳から読み始め、高学年になって、焦げ茶色の表紙が渋い偕成社版に乗り換えた時、ちょっと大人になったような気分がしたものだ。同じ物語の筈なのに文章が全然違っていて、翻訳者の存在の大きさに気づかされたのもそのころだった。

しかし、お気に入りの作品だったのに、ルパンが脱獄する方法と、ルパンの少年時代の事件、ホームズとすれ違う場面以外は、綺麗サッパリ忘れていた。ショック。何しろ20年以上振りの再読だもんなあ。

この岩波少年文庫版はしっかりとした全訳で、読みやすく、注釈も丁寧。全ての年代の読者にお勧め。ぼくは本を読むスピードは遅い方だが、あんまり面白くて一晩で読み切りました。客船上で、誰がルパンか分からないという冒頭はなかなかスリリングだし、獄中にいながら古城の宝を盗んだり、鉄道の旅で警察と協力して強盗を追ったりというくだりも面白い。それ以外の短編は、ちょっと落ちる感じがするけど、とにかくルパンが若々しくて爽やか! しかし、う〜ん、ほんまに綺麗に忘れてしまっとるなあ…。

懐かしい気分になったついでにネットで検索してみたら素晴らしいサイトを見つけたので紹介しておきます。怪盗ルパンの館 (http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/lupin/lupin.html)   このサイトによれば、ぼくが唯一克明に憶えていたルパンの少年時代のエピソードは、ポプラ社版では「ルパンの大失敗」に収められていたとのことで、これだけは高学年になってから読んだんだろう。

ちなみに「ルパン逮捕される」が発表されたのが1905年。そういえば去年ルパンの映画が公開されていたが、100周年だったんですね。これからも末永く読み継がれていって欲しいな。

(20070105)


科学と科学者のはなし −寺田寅彦エッセイ集− 池内 了 編

本書は夏目漱石の弟子として有名な物理学者寺田寅彦のエッセイをまとめたもの。書かれた年代は1910年代から1930年代にわたるが、着眼点のユニークさや論理性など21世紀になった今でもまったく古びていない。個人的には、これを読まないと中学校を卒業できなくする必読図書に指定したいくらいの良書。

扱う題材は、身近な自然現象や動植物など、科学にまつわる事柄が多いが、音楽や迷信、時間、さらには電車の混雑の問題までもが俎上に載せられる。その論考のどれもが鋭い洞察力と深い知識に裏打ちされており凄みすら感じるほどだ。ものを考えるということの素晴らしさがストレートに伝わってくる。これはとにかく良書という他ないなあ。

よくマンガなんかのネタで昔の人が現代にタイムスリップしてカルチャーショックを受けるというのがあるが、寺田寅彦ならば携帯電話やロボットなど現代のテクノロジーの数々をみてもさして驚いたりはしないかもしれない。それどころか原理原則を突き詰めて考え、ぼくらよりもかえって仕組みについて深く理解したりして。

寺田寅彦の何事に対しても深く掘り下げる姿勢にはまったく頭がさがる思いだが、本書で特に印象深いのは科学についての話題ではなく「夏目漱石先生の追憶」というエピソードだったりする。学生時代に漱石の家を訪問して俳句を師事する顛末や、漱石の句、漱石作品の裏話的なものなど色々と興味をそそられることも多い。しかしそんなことよりも、深い尊敬と師弟愛が行間から滲み出ており、その姿が純粋で美しく心を打たれるのだ。人の出会いの大切さということについてしみじみと考えさせられた。

(20090329)


鏡の国のアリス ルイス・キャロル 作/脇 明子 訳

「不思議の国のアリス」の続編。有名なハンプティー・ダンプティーが登場するのは本書の方(ここテストに出るよ!)。次々に風変わりなキャラクターが登場してはアリスを翻弄していくさまは前作を踏襲している。

登場人物をチェスの駒になぞらえ、チェス盤上のゲームを進めるがごとく物語が進行していくというユニークな構成を持つ。ただ、それほど厳密にチェス盤上の動きとキャラクターの動きが対応しているわけではなく、かなり適当である。この辺をもうちょっとキッチリ構成してあったほうが、個人的には好みなのだけど。

前作同様、翻訳の宿命として、言葉遊びの面白さが損なわれている(もちろん翻訳者はとても頑張っている)。また日本人の読者としては、マザーグースなどの文化的な下地もほとんどない状態で読んでいるわけで、ぶっ飛んだキャラクターが登場しても、それがどの程度ぶっ飛んでいるかの基準がないため、ものすごく振り回されているような感じがして、少々疲れてしまうのは残念なところだ。

まあしかし、いちいち由来がどうのこうの考えずに、気軽に笑いながら読み飛ばしてしまえばいいのかなとも思う。あと、やっぱりテニエルの挿絵は良い。

(20070917)


風にのってきたメアリー・ポピンズ P.L.トラヴァース 作/林 容吉 訳

何を隠そうぼくはミュージカル映画ファンのジュリー・アンドリュースファンなのだ。もちろん映画の「メリー・ポピンズ」は繰り返し見ている。原作を読むのは初めてなのだが、ジュリー演じるメリー・ポピンズの印象があまりに強烈なので、原作ではどうなんだろうと思いつつこわごわ読んだ。う〜ん、やっぱり随分感じが違うなぁ。

原作を読むと、メリー・ポピンズとは、プロのナニイ(乳母、保母)を誇張して描かれたキャラクターだということが良く分かる。ツンとした高飛車な態度で、優しい感じがあまりないので、子供たちは必死にメリー・ポピンズの御機嫌を伺ったり、かなりビビッている様子だ。それでいて何故か子供たちからは好かれている。映画では「不思議で楽しいお姉さん」という面が強調されているだけに、この様なちょっぴりコワイ姉さんだというのは意外だった。当時のイギリスのホワイトカラーの家庭では、メリー・ポピンズのような保母が身近な存在だったのだろう。こういうキャラクターが人気を博してしまうとは面白いが、媚びてないというか、ある意味嘘が無いからだろうな。

ジンジャー・パンの飾りの星を空につけるエピソードや、赤ちゃんが動物と話せたり、夜の動物園などなど、映画に無いエピソードにも面白いものが多い。確かに映画版の出来は良いと思うが、割愛されたエピソードが多いし、風刺的なところがかなり損なわれているので、原作を読む価値は十分あると思う。ついでに言うと、映画の方も楽しいので見る価値は十分にある(笑)。

訳(あるいは編集)について不満を言わせてもらうが、「パン屋の1ダース」「火薬をばくはつさせたガイ・フォークス」など、イギリス特有の言い回しや歴史的な事件について何も解説が無いのは不親切だと思う。

ちなみに挿絵のメアリー・シェパードは、「プーさん」のアーネスト・H・シェパードの娘だそうだ。親子共々良い仕事をしてますなぁ。

(20021020)


帰ってきたメアリー・ポピンズ P.L.トラヴァース 作/林 容吉 訳

まず最初に苦言を呈すると、主人公が風と共に颯爽と去っていってしまったところにロマンがあるんだから、やっぱり簡単に帰ってきちゃうのはどうかと思う。・・・とはいえ、折角帰ってきたにもかかわらず、「ふん!」と鼻をならして憎まれ口を叩くメアリー・ポピンズの姿を見ると、ほっとしてしまう。

それにしても、相変わらず優しげな態度が微塵も無いところが、らしくて良い。バンクス氏の乳母との乳母対決では、自ずとメアリー・ポピンズを応援してしまうが、最後に子供たちから金を巻き上げてしまうあたりちゃっかりしている。一方で飾り皿の世界から救い出してくれた時の頼もしさも、いかにも彼女らしい。どちらも矛盾してないんだよな。

前作の所感で、メアリー・ポピンズは乳母の漫画化ではないかと書いたが、それ以上に、子供から見た大人の姿なんじゃないかと気が付いた。うん、この子供に対する傲慢さは、大人そのものだ。躾なども、子供にとっては傲慢に思えるだろうし。メアリー・ポピンズが大人のカリカチュアであり、傍若無人な大人を、子供の側から暖かく見守っているという視点で描かれていると考えると、このキャラクターが人気を博した理由も納得が行く。

本書でも色々なエピソードが出てくるが、どれも身近な不思議に題材を取っているところが良い。飾り皿の中に入る話、あべこべターヴィーさん、王さまに仕える「のらくら者」、星座たちのサーカス、不思議な風船、春を運ぶ方舟のネリー・ルビナ、などなど。風船の話の挿絵の中に、トラヴァースとメアリ・シェパードが隠れているのも見逃せない。

初登場の赤ん坊のアナベルが、生まれる前の事を憶えているという話は、前作の「赤ちゃんは動物と喋られる」というエピソードを引き継いだ形になっているが、この世界観はちょっと興味深かった。非常に土着的というか原始的な世界観だと思うのだが、イギリスではこの様な考え方も根強く残っているのだろうか。解説によると、トラヴァースはケルト的な考えを色濃く持っているらしいが。一度ケルトの伝承について調べる必要があるな。

ストーリーを大雑把に分類すると、メアリー・ポピンズの風変わりな知合いに関するエピソードと、子供たちの目に映るちょっとした不思議な事柄について、その背後に広がるファンタジックな世界を垣間見せてくれる、というエピソードの2種類に分けられると思う。赤ちゃん、夜、動物、星、ちょっぴり風変わりな大人、といったものが重要なキーワードになるが、これらは全て前作でも出てくるものだ。アイデアもストーリーも、前作をそのまま踏襲しているような感じで、正直マンネリ感は否めないが、それでも最後までしっかりと読まされてしまうのは、登場人物のキャラクターの強さのお陰だろう。

(20030202)


とびらをあけるメアリー・ポピンズ P.L.トラヴァース 作/林 容吉 訳

バンクス一家が帰りを待ちわびる中、今回は打ち上げ花火から登場したメアリー・ポピンズだが、ツンと澄ました高飛車な態度は相変わらずだ。幼い双子に再会するなりあろうことか「このハイエナが!」と言い放つあたり、なんともスゴイとしか言いようがないが、それでも何故だか子供達には愛されているあたり、実に不思議なキャラクターだ。

様々なエピソードがあるが、基本的な流れは前作までとほとんど同じで、メアリー・ポピンズの風変わりな知り合いが登場したり、不思議なファンタジーの世界に誘われたりしていく。最後に子供たちが体験した出来ごとについて語ろうとすると、メアリー・ポピンズが「そんなことあるわけありません!」としらばっくれるくだりも様式美としてしっかり定着している。どのエピソードも軽やかで安心して楽しめるファンタジーだ。

本書には8つのエピソードが収められている。それぞれ一言で要約してみる。メアリー・ポピンズが帰ってくる話。メアリーのいとこで7つの願い事を叶えられるトイグリーさんの家に遊びに行く話。陶器のネコにまつわるお伽噺風の話。公園の大理石の少年が動き出す話。ペパミント製のステッキにまたがって空を飛ぶ話。海の底の世界を巡る話。大晦日と正月のすきまに本から登場人物が飛び出す話。そして、不思議なとびらが開いてメアリー・ポピンズが去る話。

最終話では、1巻2巻で登場した懐かしいキャラクターたちも次々に現れ、メアリーに別れを告げてゆく感動的なフィナーレとなっている。ここでのメアリー・ポピンズはこれまでになく優しい雰囲気をたたえている。この慈愛に満ちた姿こそ本当で、普段は子供をしつけるために敢えて憎まれ役を買って出ていたのか、それともいつもの高慢で高飛車な姿が本当なのか…。ぼくは後者のような気がするが(笑)。

(20110410)


公園のメアリー・ポピンズ P.L.トラヴァース 作/林 容吉 訳

本作は、これまでメアリーがバンクス家を訪れた3回の間に起こった出来事が描かれており、シリーズの番外編とでも言うべきもの。さすがに3巻のあのフィナーレの後では、また戻ってくるというわけにはいかなかったか。これは読み手としてのぼくの側の問題かもしれないが、これまでの3作と比べると、全体に甘いムードが漂っている感じがする。タイトルを「メアリー・ポピンズの追憶」とでもしたほうがしっくりくるような。

6つのエピソードが収められており、どの話もストーリーの基本的な流れは従来通りだが、全て公園が舞台となっている。「どのガチョウも白鳥」は、自分がもっと立派なものだと思っている者たちへの教訓的な話。「まことの友」は、お巡りさんが公園で旧友のライオンと再会する。「幸運の木曜日」は、マイケルがネコ星へ連れて行かれる。「物語のなかの子どもたち」は、お伽噺の本から少年三銃士と一角獣が出てくる。「公園のなかの公園」は、ジェインが作ったミニチュア公園の中に入り込む。「ハロウィーン」は、影が持ち主を離れて夜の公園でパーティーをする。

これまでの同工異曲というべき作品が多いが、最後にお巡りさんが陶器になるのにハッピーエンドの感じがする「まことの友」が、従来のパターンからちょっと外れていて、世界がねじれた感じで面白かった。あと「幸運の木曜日」が、ジブリアニメの「猫の恩返し」と良く似た話だなあと。

さて、シリーズを通して読み終えたわけだが、第2話のメアリー・ポピンズが子供たちを公園に連れていく場面で、彼女の人となりを簡潔に表現した象徴的な一文があったので、おしまいに抜き書きしておく。

メアリー・ポピンズは、さわやかな空気を楽しみながら、ぶらぶら歩いてゆきました。しかしじぶんでは、さわやかな空気が、メアリー・ポピンズを楽しんでいるのだと信じていました。

(20110417)


風の又三郎 宮沢 賢治 作

賢治の童話10編が収められている。解説によるとこの選集には郷土色豊かな作品が集められているそうだ。他で何度も述べていることだが、ぼくは賢治の熱心なファンであり、どれも子供のころから繰り返し読んできた馴染みの作品ばかりである。それでもチラッと目を落とすとたちまち引き込まれて、そのまま作品の世界にどっぷり浸って最後まで一気に読んでしまった。収められている作品は以下の通り。

「雪渡り」「よだかの星 」「ざしき童子のはなし」「祭の晩」「虔十公園林」「ツェねずみ」「気のいい火山弾」「セロ弾きのゴーシュ」「ふたごの星 」「風の又三郎」

この中でぼくがもっとも好きなのは「セロ弾きのゴーシュ」だ。登場する動物たちが可愛いらしいファンタジーであるが、ゴーシュのチェロが上達するのは決して彼らのおかげばかりではない。ゴーシュ自身が寝る間を削って練習に励む努力の人だからだ。それがほんのちょっとした切っ掛けで花開くというあたりの描写が、音楽の不思議を上手く表現していると思う。

子供の頃はあまり好きではなかったのに、年をとるにつれてどんどん好きになるのは「風の又三郎」だ。子供の頃は、結局、又三郎の正体が風の精ではなく、普通の少年らしいことが不満であった。しかし中年になって読み返すと、このリアリティーがなんとも言えないノスタルジーを呼び起こし、いや、やっぱり彼は風の精だったんだよ、などと気取って言ってみたくなったりする。

その他の短編も、どれもが美しく、いちいちコメントすると大変なことになるのでやめておくが、いずれもぼくにとって大切な作品ばかりだ。老人になっても必ず読み返すだろうが、そのときはいったいどのような感慨をいだかせてくれるのだろうか。

(20110424)


風の妖精たち メアリ・ド・モーガン作/矢川 澄子 訳

本書はド・モーガンの3冊ある著書の最後のもので、他と同じく民話風な短編が7編収められている。「針さしの物語」を読んで以来、彼女の作風はとても気に入っていたが、ここに収められているのも幻想的で美しく、尚且つ独創的な作品ばかりだ。

針さしの物語」でもそうだったが、ド・モーガンの作品の大きな特長として、多くの作品で女性が主人公だということがある。そして作者自身も女性であることから、主人公の言動に、自分の主張や願いを託したと考えても、あながち間違いではないと思う。

妖精に不思議な踊りを教わったことから妃の嫉妬を買ってしまうリュシラ(「風の妖精たち」)。 雲に姿を変え、愛する木を探す小さな池(「木と池」)。 連れ去られた子羊を取り返すため、木の根で足を押さえつけ魔法に抗うナニナ(「ナニナの羊」)。ジプシーの呪いが解けたことを夫に知らせるため、織物に詩を編み込む陶工の妻(「ジプシーの杯」)。恋人オスマルの声を取り戻すため、魔法使いを追って旅に出るフルダ(「声を失ったオスマル」)。 雨の精から授かったが、王との婚礼の日に、激しい雨の中で姿を消してしまう娘(「雨の乙女」)。

農夫が土の精と知恵比べをする「農夫と土の精」の一編を除き、すべて女性が主人公なのだが、重要なのは「戦い」が大きなテーマになっていることだ。戦うといっても、勇ましい女性の勇者が登場するわけではない。彼女たちの武器は、愛、忍耐力、そして信じること。多くの場合、ただひたすら耐えることが問題解決の手段となっている。しかし、情感豊かで幻想的な作風の上、ヒロインたちの愛情や堪え忍ぶ姿ばかりを描いているにもかかわらず、安っぽいセンチメンタリズムに堕すことがないのは、彼女たちがあくまで能動的に困難に立ち向かう強い姿勢を見せているからだろう。

一方で「声を失ったオスマル」に顕著なように、本書に登場する男たちは押しなべて頼りなく、ヒロインの引き立て役となっている。ド・モーガンの活躍した19世紀末は、まだ女性の社会的な地位も低かった筈だ。多くの物語で、男性よりも強い、勇ましい女性たちを描いたのは、社会や男性に対する憤懣が根底に流れていたからではないか? 彼女が生涯独身だったことも考え合わせると興味深い。

オリーヴ・コッカレルの挿絵は、妙な艶めかしさを漂わせているように感じる。「針さしの物語」のウィリアム・ド・モーガンの格調高い作風とは、また違った世界を見せてくれていて楽しい。矢川澄子の訳も相変わらず非常に良い(昨年新聞上で訃報を目にした時は本当に驚いた)。

(20030413)


カッパのクー アイルランド伝説集 オケリー 他編/片山 広子 訳

タイトルから、てっきり日本の物語かと思ったら、アイルランド伝説集だ。表題作の冒頭に訳者の但し書きがあり、日本では男の人魚は馴染みが無いのでカッパに置き換えたんだと。率直に言って訳者の勇み足もいいところだと思う。人魚とカッパは全く別のものだ。ちなみに本書の初版は1952年である。岩波少年文庫も初期にはこういう飛躍が許されたのか。本書の主役はレップラカン(現代風に言えばレプリコーン)というアイルランド土着の小人の妖精なので、本来ならば「レップラカン物語」とでも改題すべきかと思う。

本書には「カッパのクー」「大男の階段」「アキールのカラス」「聖キイランと弟子たち」「レップラカン物語」の合計5編の物語が収められている。最初の4編は伝承風の素朴で短い話。本書の大半を占める「レップラカン物語」は6章立てで、トム・ケラアというオヤジが自分の体験談として語る一続きの物語になっている。

お話はどれもユーモラスで愉快なものばかりだが、何と言っても白眉は「レップラカン物語」だ。伝説というより法螺話のようになってしまっているが、悪賢いレップラカンと欲深いケラア夫妻のやりとりは傑作。エピソードもジョークも現代的で、オケリーが伝説を元に自由に再話した物語のようだ。

おじさん人魚とおじさん漁師の奇妙な交流を描いた表題作もかなり気に入った(つくづく人魚のカッパ化が惜しまれる)。あと茂田井武による挿絵が可愛い。

(20111113)


かもとりごんべえ 稲田 和子 編


ガラガラヘビの味 アメリカ子ども詩集 アーサー・ビーナード/木坂 涼 編訳

62篇の詩が収められている。作者は、男性15人、女性14人、そして名もなきアメリカ先住民の詩が2篇。先住民の詩(唄)以外はプロの詩人による作品で、19世紀の詩人から今も活躍中の詩人まで幅広い時代の詩が選ばれている。

ぼくが名前が知っていたのはシルヴァースタインと、エミリー・ディッキンソンだけだった。詩には言語の壁があるので他国の優れた作品に出会う機会はどうしてもかぎられてしまう。これだけ幅広く様々な詩を紹介してくれる本はとてもありがたい。おそらく大人向けの詩集でもこんな本はなかなか無いのでは? 大人の読者にもお勧めです。

個人的に良いと思ったのは「お手玉名人クララちゃん」「発射」「走る人」「ワニ」「牝牛」「シャボン玉」「快楽主義の欠点」「このごろ」など。特に「牝牛」は、これのどこがいいかさっぱりわかないがとにかくとても気に入った。

詩の作者の経歴が紹介されてるページが凝っていて、文章が上手くデザインされているおかげで説明臭さや堅苦しさが感じられないし、しりあがり寿のイラストがふんだんに使われ楽しい雰囲気を醸し出している。詩の本編にはイラストがないところも気が利いている。気軽に読める詩集だが、細かいところまで丁寧に作られていると感じた。

編訳者二人(夫婦である)によるあとがきが対談形式になっていて面白い。翻訳の中でも詩は最も難しいものだと思うが、英語を母国語とする詩人(日本語も堪能)と、妻でこれまた詩人という組み合わせは最強なのではないかな。

(20111120)


からたちの花がさいたよ 北原 白秋 作

北原白秋による童謡の詩200篇が、春夏秋冬の季節ごとにまとめられ、昔話などを題材とした無季の詩も「いろいろの歌」として収められている。岩波少年文庫では珍しいことに、初山滋による挿絵が2色刷りとなっているが、華美なものではなく、さりげなく詩を彩る程度だ。解説も注釈もほとんどないので、現代っ子にはわけのわからない作品も多くあるだろうが、「詩集」はこのくらいシンプルで良いと思う。

情景が目に浮かぶような美しい詩ばかりで、不思議に懐かしいような切ない気持にさせられる。子供のための詩のわりに耽美的な作品が多く、「夜」や「月」という冷たいイメージの言葉が頻出するが、全体としては何故かどこかしら温かな味わいがある。日本的な哀愁あるメロディーとよく合いそうだ(当たり前か)。

ぼくが知っていたものは「この道」「待ちぼうけ」「あめふり」「砂山」「からたちの花」「ペチカ」「かえろかえろ」「ちんちん千鳥」「赤い鳥小鳥」くらいのものか。他にもメロディーを聴けば思い出すものがあるかも知れない。

知らなかったものの中では「日なが」「海のむこう」「お月夜」「こんころころりん」「吹雪の晩」「夜中」が印象深かった。とりわけ「海のむこう」がいたく気に入ったので転載しておく。

海のむこう

さんごじゅの花が咲いたら、
咲いたらといつか思った、
さんごじゅの花が咲いたよ。

あの島へ漕いでいけたら、
行けたらといつか思った、
その島にきょうはきてるよ。

あの白帆どこへ行くだろ、
あの小鳥どこへ行くだろ、
あの空はどこになるだろ。

行きたいな、あんな遠くへ、
あの海の空のむこうへ、
こんどこそ遠く行こうよ。

(20101205)


ガリヴァー旅行記 1・2 スウィフト 作/中野 好夫 訳

小学校低学年の頃に買ってもらった思い出の一冊。ぼくが本を捨てるはずがないのに、当時の本はどこかへ行ってしまった。記憶では、2巻なんてものは存在しなかった筈なのだが、奥付によると2巻の初版は1951年。昔から2巻はあったらしい。ぼくの推理では、有名な小人国大人国の収録された1巻にくらべ人気も知名度も低かった2巻は、一時期出版を見送られていたが、「天空の城ラピュタ(1986年公開)」によって注目を集め、再び出版されるようになったのではないかと。どうなんでしょうねえ。

前述のとおり、1巻は小人国、大人国の2編が収められている。社会制度や政治の話がしばしば挿入されるため、小学生にとっては晦渋な作品であったが、今読むと軽妙で楽しいし、ディテールが結構しっかりしていて読み応えも有る。小人国で起きている戦争の原因が「卵の尖った方から割るか、丸い方から割るか」だったり、大人国の王とのヨーロッパの政治に関する議論も皮肉に満ちていて面白い。

2巻は、「ラピュタ、バルニバービ、ラグナグ、グラブダブドリップと日本渡航記」と「フウイヌム国渡航記」の2編。「ラピュタ〜」でガリヴァーは不思議な国を渡り歩く。飛島のラピュタは磁力の反発で浮いており、土地に磁石を多く含むバルニバービの上空しか飛べない。バルニバービはラピュタに搾取されている上、無駄な学問が蔓延り荒廃している。グラブダブドリップは魔法使いの島で、ここではイタコがアレキサンダー大王など歴史上の偉人を次々に呼び出す。ラグナグでは不死人が登場するが、老いからは逃れられないため、生ける屍と化し、人々からは疎んじられ、悲惨な境遇である。最後にガリヴァーは日本に立ち寄り、イギリスに帰国。

「フウイヌム国渡航記」では、馬の姿をした高貴な種族と、人間の姿をしたヤフーという野蛮な種族が登場する。ちなみにヤフーはYahoo!の語源である。ここでは、これまでユーモアやオブラートにくるまれていた作者の皮肉や批判がより直接的にあらわれており痛烈だ。どこか病的な印象すら受ける。フウイヌム国からの帰還後、ガリヴァーは静かな余生を送ることになるが、すっかり人間嫌いになった彼の姿にはハッピーエンドとは言い難い後味が悪さが残る。

前書きにこの岩波少年文庫版では割愛されている部分がいくつかあるとのことだったので、青空文庫の「ガリヴァー旅行記(原民喜訳)」をざっと斜め読みしてみたら、岩波少年文庫版では小人国の宮殿火災を放尿で消すシーンが削られていることが分かった。これはガリヴァーが弾劾される大きな原因であるうえ、結構面白いエピソードだと思うんだけどなあ。他では、大人国で、拡大した人間の肌はデコボコでグロテスクだという描写も、当時としては着眼点が良いと思うのだけどやっぱりカット。性的な描写が消されるのは仕方ないだろうけど、こういうところは残しておいて欲しいなあ。

やはり日本人としては日本という国名が頻繁に出てくるところが気になる。小人国から脱出したガリヴァーは日本帰りの船に救助されるし、ラピュタへ行く前に日本人の海賊にさらわれたり、さらには日本にも上陸する。要するに「地の果て」くらいの意味で日本の名を持ち出しているのだろうが、首都の江戸や長崎という地名がでてきたり、踏み絵に関する記述など、それなりに正確な情報もあったようだ。本書が出版された1726年は、日本では徳川吉宗の時代。鎖国時代といえどしっかり外国と交流していた事実が伺われて興味深い。

(20071021)


かるいお姫さま. ジョージ・マクドナルド 作/脇 明子 訳

「かるいお姫さま」「昼の少年と夜の少女」の2編が収録されている。1867年と1879年の作。両方とも童話風のロマンチックな物語だが、その筆致はかなり異なる。

「かるいお姫さま」は、魔女に呪いをかけられたお姫さまを王子さまが命がけで救うという、王道まっしぐらな物語。お姫さまは呪いによって重さを失ってしまうのだが、何故か水の中では重さを取り戻し、精神的にも落ち着くという設定がユニーク。語り口が軽妙で、お姫さまがふわふわと浮かんでしまう様子なども、呪われているというよりむしろ楽しげだ。全編が少々毒のあるユーモアに包まれており、イギリス的な味わいがある一編だ。

一方の「昼の少年と夜の少女」は、シリアスで少々陰がある。魔女ワトーによって、少年フォトジェンは徹底的に闇を避けて昼の光のなかで、少女ニュクテリスは徹底的に光を避けて闇のなかで育てられる。やがて成長した二人は出会い、お互いを補完しあいながら魔女を倒す。ニュクテリスが初めて外に出て、月を見たり風を感じたりする場面の描写が美しく印象的。

個人的には「昼の少年と夜の少女」がとても気に入ったのだが、結局魔女が何をやりかったのかさっぱり分からなかったり、作品としてはいろいろ欠点があって実に惜しい。

(20080413)


ガンバとカワウソの冒険 斎藤 惇夫 作/薮内 正幸 画

これぞ児童文学だ!と叫びたくなる作品である。きょうびの児童文学はちょっと気取って斜に構えたようなものが多いのである。大人が読んでも面白い、などというのは一見凄そうでいて、しかし諸刃の剣なのである。児童文学は何と言っても子供のためのものなのだから。そしてこの作品こそ、子供のための物語と言える。もちろんぼくは嫌味でも何でもなく最大の賛辞としてこの文章を書いているのである。こんなにアツイ物語はそうそうない。直球ストレート、しかも剛速球。

グリックの冒険」「冒険者たち」に続く、ガンバの冒険シリーズの三作目が本書だ。「冒険者たち」が発表されたのが1972年。本作はそれから10年の歳月を経た1982年に書かれた。絶滅の危機に瀕していたカワウソの運命を憂えた作者の哀しみが執筆の動機だ。その哀しみが登場人物にも乗り移ったのか、物語の終盤で自分の運命を憂えたカワウソが半狂乱になる場面などあまりに重くシリアスになりすぎているきらいはあるが、基本的には楽しい冒険物語である。

消息を絶ったナギサを探すため、ガンバとシジン、そして仲間たちは四の島に渡る。ナギサはそこで最後の生き残りのカワウソの世話をしていたのだった。ガンバたちと2匹のカワウソ(カワモとカモク)は、カワウソの仲間を探すため、豊かな流れへと向かう。執念深い野犬と戦い、カモメのキマグレの力も借り、必死の思いで豊かな流れにたどり着く。一行はそこにかろうじて生息していたカワウソの家族に出会えたのだった。

正直、突っ込みどころは非常に多い。どうしてネズミやカモメがカワウソのために命をかけるの?とか、どうしてネズミがそんなことを知ってるの?とか、どうしてネズミがどこからか酒を調達して酒盛りを?とか。しかしそんなことはどうでもいいのである。本作で肝要なことは、作者の主張と文章の端々から迸る熱気を肌で感じとることができればそれでいい。できれば子供のころに出会いたかった作品だ。

(20100314)


木いちごの島をとりかえせ キャサリン・セフトン 作/鈴木 孝志 訳

北アイルランドの海辺の小さな村を舞台に、村の少年少女と、都会(ベルファスト)からやってきた学生グループとの諍いを通して、大人の社会の影が子供の世界にまで悪い影響をもたらしている様と、そんな中でもまっすぐに成長していく少女の姿を描く。1983年の作品。童話のようなタイトルで、活字も大きめではあるが、年少の読者には難しい作品かもしれない。

軽口と皮肉めいたジョークに彩られているが、あまり軽妙な感じにはなっておらず、それどころか全体に妙に緊張感が高い。この緊張感の源は、物語の背景にある社会状況や主人公の家庭事情もさりながら、子供ならではの閉じた世界の不安感みたいなものの描写が見事だからだと思う。非常に危なげがあってハラハラしながら読まされてしまった。

主人公のノーラは賢くクールな少女だが、幽霊を恐れたり、ちょっとしたいたずらで刑務所に入れられるのを心配するような幼い部分もある。そんなノーラが、自らの意思で、家族の問題を乗り越え、人に流されずに自分が正しいと思う道を選んで行動し、大人へと成長していく過程で、「幽霊のためいき」の謎も自然に解けるという、その筋運びが実にうまい。

ちなみに20年くらい前の「マスター・キートン」という漫画で北アイルランドの問題が扱われていて、個人的にすこし調べたことがあったので物語の舞台がキナ臭い土地柄であることは知っていたが、あらかじめそういう社会背景を知らないと分かりづらいところがあるかもしれない。その辺は本書の解説で説明されているので、本編を読む前に、先に解説(のアイルランドの歴史について書かれた部分)を読んじゃうのもひとつの手だと思う。

(20110619)


奇岩城 モーリス・ルブラン 作/榊原 晃三 訳

奇岩城を読むのは3度目である。最初は小学校の頃にポプラ社の南洋一郎訳で、2度目は大学の頃に創元推理文庫の石川湧訳で。こうして三度同じ作品を読んだわけだが、最初に読んだ時のようなオドロキこそなくなったものの、今回も十分に楽しめた。ルパンシリーズの最高傑作は何だ?という話題がよくあるけれど、ぼくとしては断然この奇岩城を推したい。

本作の主人公はイジドール・ボートルレという高校生だ。子供の読者にとっては、自身を投影できる少年探偵の存在は大きい。そして彼が学業や大学入試を優先しつつも、大人たちの鼻を明かしたり、ルパンと対等に張りあう姿は、子供にとってこれほど胸のすくことはないだろう。つまり本作は、シリーズ最高傑作のみならず、最も児童に薦めたい作品でもある。

惜しむらくは、この岩波少年文庫版は、折角の「少年探偵」の魅力を十分に発揮できていない。挿絵のボートルレはいくら長身だとしてももまったく少年らしく見えないし、訳の文体が古めかしくルパンとのシリアスな対決シーンでは「じょうだんおっしゃい!」とまるで高校生らしくない喋り方をしたり…。また翻訳については、ルパンが緊迫した場面でべらんめえ調でまくしたてることにも個人的に違和感がある(いくらなんでも「ドロン」はないだろうよ…)。

ストーリーは盛りだくさんで抜群に面白い。冒頭の、屋敷への怪人物の侵入と消失、殺人、そして少年探偵による最初の鮮やかな謎解きまで、ほんの数十ページである。やがてルパンが登場するが、ふたたび少年探偵によって消失のトリックが暴かれ、さらにルパンと令嬢とのロマンスや、少年探偵による父親の奪還劇など、見どころ満載で本を置く暇もない。

後半は、古文書の暗号の謎解きが主眼に据えられ、ルイ16世やマリー・アントワネットなど歴史上の人物も多数出てきて、にわかに話のスケールが大きくなる。前半でコケにされたホームズも再登場し、壮大な奇岩城もその姿をあらわす。しかし残念ながら、フランスの歴史や地理に疎い者としては、正直分かりづらく、暗号解読の過程もフランス語なのでピンと来ず、前半ほどはのめり込めなかった。一応地図が添えられ、ボートルレの軌跡を簡単に確認できるような配慮もされているが。

そして謎が解明されクライマックスへとなだれ込むが、結末にあまりに救いがないため、読後感は重い。ホームズの扱いがあまりにひどいことにも不満が残る。しかしながら、全ての財宝や冒険を擲ってでも、一人の女性への愛を選んだルパンの姿には感じるものがある。不朽の名作と呼ぶべき作品だろう。

(20110410)


きつねのライネケ ゲーテ 作/上田 真而子 編訳/小野 かおる 画

12世紀後半から13世紀にかけてフランスで生まれたルナールというキツネが主人公の動物叙事詩をもとに、ゲーテが韻文で書き表したもの。この日本語訳では読みやすい散文の形になっている。

かわいらしいタイトルで、ライネケという名もなかなか洒落た響きがある。また文章も平易で読みやすい。いかにも児童向けの楽しい動物童話のように見える。しかし本書を子供に薦めるのは正直ためらわれる。卑劣極まる悪ギツネのライネケが最終的に勝利を収めるという、あまりにあんまりな内容のうえ、彼が他の動物たちをいたぶるさまが残酷で容赦がないからだ。ぼくの感覚では、この描写のむごたらしさは、子供に与える書物としては一線を越えているように感じられる。

物語としては面白い。性悪ギツネが奸智を巡らせ次々に危機を乗り越えていくさまはスリリングである。いったいこのピンチをどのような詭弁奇策を弄して切り抜けるのかとドキドキしながら読み進んだところもある。ラストでの救いのなさも、大人の読者にとっては感じるものがあるだろう。しかし、個人的な希望としては、特に児童向けの本では、悪は最後にはそれ相応の報いを受けてほしいという気持ちがある。やはり本書を積極的に子供に読ませようとは思わない。

一口で言うと、これは大人のための童話なのだ。ところが児童文学の老舗岩波少年文庫で、かわいいタイトル、しかも著名な文豪ゲーテの作品ときたら、中身の吟味もせずに本書を子供に買い与える親もたくさんいるだろう。その辺、もうすこし配慮があればうれしかったのだが。

(20100613)


木はえらい イギリス子ども詩集 谷川 俊太郎,川崎 洋 編訳

イギリスの6人の詩人たちが、子供を題材にした72編の詩を1冊にまとめたもの。 副題から、てっきり子供たちが書いた詩を集めたものとばかり思っていたが、作者はみんな大人のプロである。 以下、それぞれの詩人について簡単な印象を書いておく。

アラン・アールバーグ。 主に学校が舞台になっている。 子どもに向けた詩というより、自身の少年時代を思い出して懐かしんでいるようなノルタルジックな作品が多いので、大人の方が楽しいかもしれない。

マイケル・ローゼン。 子どもの素朴な発見や喜びをサッと詩の形にしたような感じで、楽しい詩が多い。 全体に男の子っぽさが溢れていて、作者自身、悪ガキだったんだろうなと思わされる。

ブライアン・パテン。 学校が舞台の素朴なものから、子どもの見る悪夢のような不思議なものまで幅広い。 多くの詩で、最後の一行でアッ言わせるような仕掛けが施してある。

キット・ライト。 デイブ・ダートという架空の人物が登場する作品を始め、主に空想世界での出来事を描いている。 ナンセンスさが彼の持ち味のようだが、シリアスな詩もある。 訳について、バットマンが「コウモリ男」と訳されてしまっているが、誰かチェックする人はいなかったのか。

スパイク・ミリガン。 まだ学校に行かないくらいの年頃の少年が書いたような素朴なスタイル。 作者自身による挿絵も、まるで子どもが描いたかのようなタッチ。 彼の詩を、「イギリスの小学生が書いた詩だよ」と紹介されても、何の疑いも無く信じてしまうだろう。

ロジャー・マッガウ。 ファンタジックで空想的、そしてユーモラス。 彼の詩には、大人の立場から子供時代を振り返るようなノスタルジーも、また作者が子どもになりきったような素朴さも無い。 子ども向けではあるが、独創的な作品ばかりだ。 個人的にはこの詩人が一番気に入った。

流石にユニークなスタイルを持つ詩人が6人も集まっただけあって、バラエティに飛んだ読み応えのある詩集になっている。 ただ一つ残念に思ったのは、作者が全て男であること。 当然、少年の立場から見た世界を描いた作品が大半なわけだが、少年と少女では物の見方、感じ方が違う筈だ。 ここに一人でも女性の詩人が入っていたら随分印象が違っていただろうな。

(20030330)


きゅうりの王さま やっつけろ ネストリンガー 作/若林 ひとみ 訳

訳者による解説が優れているので引用すると、「子どもが親に反発を覚え、やがて確執を乗り越えたところで、新たな親子関係を築いていく…」というような物語である。 かつて反権威主義児童文学のひとつとされていたというのも納得。 かない重たいテーマを扱っているが、きゅうりの王さまという奇妙な存在を軸に、現代的な家族のありようを見事に描ききっている。

解説をなぞるだけではつまらないので、個人的に気付いたことを書くと、欧米の家の地下室というものは、極めてミステリアスな存在であるようだ。 この物語のホーゲルマン家の地下室には、巨大なきゅうり王国が広がっているし、他にも地下室に動物や不思議な生物が生息しているというモチーフは、欧米の様々な物語で読むことが出来る。 生活しているすぐそばに、異世界への入口が口を開けているのだ。 日本には地下室が無いわけだが、「おしいれのぼうけん」の押し入れなどがこういう感覚に近いのかな。

たぶん子どもの頃に読んでいたら、この物語に登場する父親に対しては、強い嫌悪感しか持たなかっただろうが、何というか、分かってしまうんだよな、この父親の立場も。 そう言えば、2年くらい前に「母をたずねて3千里」のビデオを観た時、子どもの頃大嫌いだったペッピーノさんが、実に愛すべき人物に思われて驚いたことがある。 それだけぼくも年を取ってしまったということなんだろう。

あと、非常に瑣末なことだけど、「小さな灰色の脳細胞」という表現が出てきて可笑しかった。 てっきりエルキュール・ポワロ特有の口癖かと思っていたが、ヨーロッパの方ではこういう言い回しがあるのかな。

それにしても、きゅうりの王さまが何とも憎たらしく描かれていて凄い。 どこかでこいつソックリのキャラクターが登場する漫画を読んだことがあるんだけど、思い出せない・・・。

(20020714)


キュリー夫人 エリナー・ドーリイ 作/光吉 夏弥 訳

ぼくは子供のころ伝記物が苦手だった。グリムに親しみ、ドリトル先生の冒険に胸をときめかせ、シャーロック・ホームズや明智小五郎に憧れて育った少年としては、読書イコール空想の物語の中で遊ぶという事だった。生々しい現実の話を読むという発想はなかったのだ。そんなわけで伝記の類はほとんど読まずに育ってきたが、今から思えば随分もったいないことをした。本書のような面白い伝記に出会いそびれてきたのだから。

マーニャ(マリヤ)・スクロドフスカ(のちのキュリー夫人)は、幼いころから聡明だった。当時のポーランドはロシアの占領下で言葉も文化も奪われた状態であったため、却ってポーランドに対する強い愛国心を育くんでゆく。家庭教師をやって姉を大学にやったりと苦労を重ねるが、結婚したその姉の招きでフランスに渡り、ソルボンヌ大学で才能を開花させる。やがて優秀な学者ピエール・キュリーと出会い結婚、新婚旅行では自転車でフランスを巡ったり、長女イレーヌを授かったりと貧しいながらも充実の日々を過ごす。

マリー(マーニャ)は博士号を取るための研究テーマとして放射能を選び、二つの物質を発見する。そのひとつに祖国ポーランドの名前をとってポロニウム、もう一つにはラジウムと名付けた。この研究により夫妻はノーベル賞を受賞、一躍有名人になるが、ピエールが事故死してしまう。その後もマリーは研究を続け、まだ女性の学者への風当たりが強かった時代に、保守的なソルボンヌで教鞭をとり、再びノーベル賞を受賞する。第一次世界大戦中は負傷した兵士の手当てにX線の装置を各地に配備させる。そして1934年、長年の放射能の研究の影響により66歳で白血病で亡くなる。

本書は、キュリー夫妻の二女エーヴが書いた「キュリー夫人伝」を児童向けに抄訳したもので、原題は"THE RADIUM WOMAN"だ。元々家族の書いた伝記を元にしているので、プライベートなことも詳細に書かれているほか、ラジウムの性質や実験の様子などもこと細かに描写されている。マリーとピエールが長年の実験の末にとりだしたラジウムの光を見つめる場面は、美しく感動的でありながらも、放射能の恐ろしさを思えば、何とも言い難い凄まじい感興を引き起こす。

ちなみにWikiで調べてみたら、マリーとピエールの娘イレーヌもノーベル化学賞を受賞しており、そして、やはり放射能研究の影響で白血病にかかって亡くなったそうだ。これを書いている現在(2011年9月)、福島原発の事故で放射能による影響が不安視されており、政府やマスコミはどちらかといえば安全性を強調する向きにあるが、何と言われようと放射能は恐ろしいものだと思う。

キュリー夫人の生涯はドラマチックで、それこそ物語を読んでいるようだが、(多少の脚色はあったとしても)まぎれもなく現実にあった話だ。やはりノンフィクションから受ける感銘は非常に大きい。かつてのぼくのような伝記が苦手という子供こそお勧めしたい本だ。

(20110911)


銀河鉄道の夜 宮沢 賢治 作

ぼくは気に入った本は繰り返し読むのだけど、今までで一番読んだ回数が多い作品が「銀河鉄道の夜」だ。 小学校の頃に出会って以来、少なくとも20回以上は読んだ。 もちろんその他の賢治の短編も、何度も読み返している。

本書に収録されているのは「やまなし」「貝の火」「なめとこ山のくま」「オッペルとぞう」「カイロ団長」「雁の童子」「銀河鉄道の夜」の7編。 全て傑作である。 ぼくは賢治の作品を読んでいる間は、感受性が強かった頃の少年に戻る。 感覚が研ぎ澄まされ、ほんのちょっとした表現にも心を動かされるようになる。 特別な作家なのだ。

とにかく思い入れが強いので、感想を書き出したらきりがないのだけど、ひとつ気になることがあるので、ここではそれにだけ触れておきたい。 というのは、この岩波少年文庫の「銀河鉄道の夜」には、ブルカニロ博士が登場するのだ。

ややマニアックになるが説明すると、賢治は一つの作品を書くのに推敲に推敲を重ね、何度も書き直しながら完成形に持っていくという手法を取っていた。 「銀河鉄道の夜」も、そうやって何度も書き直され、第4次稿まであるのだが、それでもまだ未完成だった。 現在の「銀河鉄道」は賢治の死後、研究者達が編纂し完成させたものだ。 従って、同じ「銀河鉄道の夜」であっても、出版社、編集者によって採用するバージョンが異なるために、表現や筋に違いが出てしまう事態になった。

さて、問題のブルカニロ博士だが、 賢治は最終稿で彼が出てくる場面を消してしまった。 現在残っている最終稿で存在が削除されているからには、それが作者の意志だと思うのだけど、何故かブルカニロ博士バーションを採用している出版社は多い。 ぼくが最初に読んだ角川文庫でもそうだったので、個人的にはそれなりに思い入れがあるのだけど、じっくりと読み比べてみると、博士が削除されている方が物語としてより洗練されているように思う。 その点で、岩波少年文庫場版がブルカニロ博士を登場させてしまったのは、ちょっと残念だった。

ブルカニロ博士が登場しないものでは、賢治の研究では定評のある天沢退二郎が編集した新潮文庫版がお勧め。ちなみにアニメ映画「銀河鉄道の夜」(登場人物がネコのやつ)も最終稿を採っている。 脚本は別役実で、細野晴臣の音楽も素晴らしかった。

(20010815)


クオレ 上下 デ・アミーチス 作/前田 晁 訳

「最も強く心に残っているテレビ番組は?」と訊ねられたら、ぼくは躊躇なくアニメの「母をたずねて3千里」を挙げる。 この作品は、少年期から今に至るまでの、ぼくの物の見方、感じ方などに絶大な影響を及ぼした。 一昨年レンタルビデオでテレビシリーズを借りて全部見直したのだが、あまりの素晴らしさに息が詰まるほどで、目頭が熱くなってしまう場面も多々あった。

とまあ、いきなり熱く語ってしまったが、それくらい思い入れの強い「母をたずねて3千里」の原作なのだ。 とはいえ「母をたずねて〜」として知られる部分は、挿話として語られているだけで、基本的に「クオレ」は、イタリアの少年達の学校生活を描いたものである。 ちなみに旧版では、「クオレ−愛の学校−」と副題が付けられている。

国のために、家族のために尽くす、といったエピソードが数多く収められているが、このような物語を少年期に読み、自然な愛国心や家族愛を育むのは大切なことだと思う。 自分が少年期に日本を憎むような教育ばかりを受けさせられたから、尚更こう思うのかもしれないけど。 今でこそ封じられてしまっているけれど、調べれば日本にもこのような類の話は、どこかに数多く眠っているんだろうな。

訳者自身による解説が丁寧で面白い上、半世紀近く前の訳なのにそれほど古くなっていない。 なんというか、子供たちの為に良質な物語を伝えるんだ、という意気込みが伝わってくるようで、非常に好感が持てる。 河出書房新社の「クオレ」(杉浦明平訳)も持っているのだが、こちらはエピソードがかなり割愛されていた(しかもその旨は本の何処にも書かれていない!)。 古典的な文学作品には、どうしても今の感覚からすると冗長に感じられる部分があるので、ある程度割愛したりするのも重要な作業だとは思うけれど、ぼくとしては岩波少年文庫版に軍配を上げたい。

(20011123)


クジラがクジラになったわけ テッド・ヒューズ 作/河野 一郎 訳

「象の鼻はなぜ長い?」とか「どうして海の水は塩からい?」といった類の童話は数多くあるが、ここに収められている作品には理屈っぽさや説教臭が無く、どれも楽しく力強いお話に仕上がっている。

冒頭の話が、フクロウが他の鳥を騙して食っていくという残酷な話なので、いきなりビックリしてしまったが、作者が農業を営む詩人であることを考えると、ごく当たり前の自然の摂理みたいな感じで書いているに過ぎないんだろうな。 やっぱり子供向けの物語だからって、変に死などを隠蔽するようなのは良くないよね。

元々クジラは、クジラ草という植物だった!などなど、筋運びが実に奔放で楽しいし、ちょっとマヌケな神様も良い味を出している。

みやざきひろかず氏のポップな挿絵も良い。このような分野での日本の画家(イラストレーター)のレベルって、世界でもトップクラスじゃないだろうか。 外国のキャラクター物って、あんまり可愛くないのも多いから。

(20020120)


クマのプーさん A.A.ミルン 作/石井 桃子 訳

「そうら、クマくんが、二階からおりてきますよ。 バタン・バタン、バタン・バタン…」

素晴らしい! それにしてもこのプーさんの登場の仕方には度肝を抜かれたなぁ(笑)。 動物モノなんだろうと勝手に思い込んでいたのだが、プーさんやその他の動物達がヌイグルミだということは今回初めて知りました。 しかしこの冒頭の1シーンでそこらへんの物語の背景を全て表現してしまっているのは凄い。

またこの作品では、リアルな世界と、作者がクリストファー・ロビンに語りかける空想世界とが平行しているが、その交わり方、捩じれ方が実に見事だ(挿絵と文章の捩じれ方もスゴイ)。 これだけ高度な構成でありながら、単純に「かわいいクマの物語」として読んでも十分面白いという大傑作。

E.H.シェパードの挿絵がまた素晴らしいのだけど、これは単に物語に絵をつけましたという程度の仕事ではない。 登場人物達の可愛らしさはモチロンのことだが、この物語特有の、現実と空想の境界線上にある微妙な世界を見事に表現している。 ということで「クマのプーさん」は、ミルンとシェパードの共著だと考えたい。

個人的に好きなのはイーヨーの尻尾のエピソード。 本を読みながら思わずプッと吹き出すなんて久しぶりだよ(笑)。 「盗まれた手紙」を上回る意外さ。 ビックリしたなぁ。

(20020506)


プー横丁にたった家 A.A.ミルン 作/石井 桃子 訳

これまた傑作! 相変わらずほのぼのとしていながら、心の奥底を詳らかに照らし出すようなところもある、不思議な世界を繰り広げてくれている。 のほほんとしたとぼけた会話の端々にも、妙に知的な雰囲気が漂っているところが何ともすごいな。 新たな仲間トラーを迎え、不思議の森の住人たちの、ちょっとした心の動き方も、より一層鋭く描かれるようになった。

挿絵のシェパードの筆も冴え渡っており、どのイラストも何時間でもぼんやりと眺めていたいくらい素晴らしい。 去年、大阪でシェパードの原画展をやってたのに、行きそびれてしまったのだが、少々無理をしてでも足を運んでおけば良かったなあ…。

物語、挿絵共に、永遠にその中で遊んでいたいような世界を見せてくれるが、クリストファー・ロビンにも、やがてはこの森を去らなければならない時がやってくる。 それにしてもこのラストシーンは切ないなあ。 しかしその気にさえなれば、誰でも、いつでもプーさんの森に帰って来られるのだと思いたい。

(20030928)


クリスマス・キャロル ディケンズ 作/村山栄太郎 訳

何を隠そう、ぼくは大学でディケンズの研究をしたのである。 ということで、一応ディケンズ作品は一通り押さえてるわけだけど、実は大学の頃読んだ印象では「クリスマス・キャロル」は小粒な気がしていた(まあ、他の長編がああいう感じだから…笑)。 ところが改めて読むと、これは物凄いパワーを持った作品だ。

個人的に宗教による価値観の差みたいなものに興味を持っていたということもあって、最初に読んだ時には、キリスト教的な道徳観や倫理観を強く感じたのだが、どうも「クリスマス」という言葉に引っ張られて表面的な解釈をしてしまっていたようだ。 クリスマス云々以上に、この作品の言いたいことは、人が普通に優しくあることの素晴らしさや尊さだろう。 …って、なんか解説をそのまま引用してるみたいだな(笑)。

ディケンズの他の作品もそうなんだけど、19世紀のロンドンの情景や、人々の暮し振りなどの描写が実に素晴らしい。 ドイルの作品を読んでもそう思うのだけど、この時代のロンドンは本当に魅力的な街だったのだろうな。

この作品の文体は少々大時代的というか、訳が難しいと思うのだけど、この岩波少年文庫版は読みやすく優れた訳だ。 ちなみに、ちくま文庫から出ている松村昌家訳では、なんと落語調で訳しているので、興味のある人は一度読んでみたら面白いかも。

一つだけ反省。折角この作品を再読するんだったら、クリスマスに読めば良かった。

(20020310)


グリックの冒険 斎藤 惇夫 作/薮内 正幸 画

本書と、「冒険者たち」「ガンバとカワウソの冒険」の三作品を「ガンバの冒険シリーズ」と言うらしい。確かに本書にもドブネズミのガンバは登場するが、脇役としてであって、あくまで主人公はシマリスのグリックである。

飼いリスのグリックは、伝書鳩のピッポーから遥か北にある森の話を聞き、まだ見ぬ故郷に憧憬の念を募らせ、ついに脱走する。町でガンバと出会ったグリックは、ドブネズミとクマネズミの抗争に巻き込まれたりしながら、ガンバの導きで動物園に辿り着くが、もちろんそこは故郷などではなかった。

動物園に居た足の悪い雌リスののんのんと共に、グリックは改めて北の森へと旅立つ。襲い来る野生の動物や、寒さ、少なくなる食料、そして冬眠準備の為の睡魔など、さまざまな困難を乗り越えながら、2匹は北の森を目指す。

グリック達を追いかけるのは、冬の到来である。物語は夏の終わりから始まり、木々の葉が色付き、やがて雪が舞い始める。自然の厳しさと美しさが見事に描写されていて迫力がある。この移り行く季節や景色もまた本書の主役と言えるかもしれない。

物語の終盤、のんのんが足を悪くした理由が明かされる。前に動物園を脱走しようとしたとき、仲間に傷つけられたのだ。飼いリスとしてなに不自由なく暮らしていたグリック、動物園で安穏と暮らしていたのんのん、どうして彼らは敢えて危険な旅に挑んだのか。そこには「自由」と「生きる」ということの本質がある。のんのんの脱走を阻んだリスたちには決して分からないだろう価値。そして2匹が迎えるラストシーンは感動的。名作です。

(20080224)


グリム童話集 1・2・3 相良守峯 訳

そもそもぼくが本好きになったきっかけは、小さい頃、百科事典のような巨大なグリム童話全集を、毎晩のように母親が読み聴かせてくれたことだ。何度もせがんで、もう本当にしつこいくらい繰り返し読んでもらった記憶がある。母親には言葉に出来ないくらい深く感謝しているし、この時のグリム童話全集(高橋健二訳 小学館)は、今でも大事に取っている。 ぼくにとっての家宝。もし子供がいたなら、自分がしてもらったように、毎晩読み聴かせてやりたい。

さて、上記の小学館版グリム全集は、グリムの収集した膨大な童話をあます所無く収めている上に、挿絵もリヒターやウッベローデなど定評のある格調高いものを採用している。更に各巻ごとに付いている解説も非常に丁寧で行き届いており、グリム兄弟の簡単な伝記に加え、挿絵の歴史の解説まである。はっきり言って最強。ただ、この全集にも一つだけ弱点がある。こういう書き方はあまりしたくないのだけど、収録されている作品に当たり外れがあるのだ。「グリム童話」は楽しい読み物であると同時に、民俗学的な研究の集大成でもあるので、これは仕方が無いことではある。

そこで岩波少年文庫版の出番だ。 ここでは読み物として楽しい物語ばかりが選ばれている。ぼくのような思い入れの強くない人には、廉価で読みやすい岩波少年文庫版の方が良いかもしれない。

岩波版で面白いと思ったのが、登場人物の名前を「トン吉」「熊皮太郎」などと和風にアレンジしているところ。個人的には原典に出来る限り近いのが好みなんだけど、かといって、やたらとカタカナが氾濫しているような訳もどうかと思う。「ラプンツェル」みたいに独特の豊穣な語感がある固有名詞は例外だけど、意訳して日本風の名前をつけるのもありかもしれない。(ちなみに小学館版では「ラプンツェル」を「ちしゃ」と訳してしまっているけど、これは良くないよね。ここらへんのバランスは難しいな。)

茂田井武氏の挿絵も可愛らしくてなかなか良い。てっきり最近の絵描さんかと思ってたら、戦前に活躍した人だそうだ。しかし個人的には好きな絵なんだけど、原典の雰囲気を伝えるためには、リヒターなどの画家が良いようにも思う。

(20020120)


くるみわりとネズミの王様 E.T.A. ホフマン 作/上田 真而子 訳

1816年とたいへん古い作品だが、今読んでも楽しく美しく、そしてちょっぴりグロテスクなところもあるドイツのファンタジーで、チャイコフスキーのバレエ音楽の大元の原案となったことで有名。

この物語は大まかに3部に分けられる。クリスマスにマリーへとプレゼントされたくるみ割り人形が、皆の寝静まった深夜にねずみの王様と戦争を繰り広げる1部。病床のマリーにドロッセルマイヤーおじさんが語って聞かせてくれたくるみ割り人形にまつわる昔話風の物語が2部。そしてマリーがくるみ割り人形の導きで夢のような人形の国へと旅立つ3部。

チャイコフスキーのバレエでは2部が丸ごと割愛されていたため、ぼく自身このパートは初めて知ったが、本書を読む限りではこの2部こそがもっとも面白いと感じた。童話風のストーリーは怪奇に満ちており印象深いし、現実とお話しの間でユラユラ揺れ動くドロッセルマイヤーおじさんのミステリアスなキャラクターが何とも魅力的である。

本作を読み終えた後、改めてチャイコフスキーの音楽を聴いたら、これがまたロマンチックでしみじみと良いんだなあ。

(20081019)


グレイ・ラビットのおはなし アリソン・アトリー 作/石井桃子,中川李枝子 訳

岩波少年文庫ではお馴染みの作家アリソン・アトリーの最初期の4つの作品をまとめたもの。ストーリーといい挿絵といい、真っ先にピーター・ラビットを思い出すのは自然なことだと思うが、実際両者は酷似している。ちなみに本作の発表は1929〜1932年、ピーター・ラビットは1902年。おそらく大なり小なり影響を受けているのだろうが、こちらはこちらで面白いし、大作家の若書きとしても興味深い。

「スキレルとヘアとグレイ・ラビット」では、イタチにさらわれたスキレルとヘアをグレイ・ラビットが救う。「どのようにして、グレイ・ラビットは、しっぽをとりもどしたか」は、第1話でフクロウに取られたしっぽをとりもどす話。傲慢だったリスのスキレルがグレイ・ラビットのため村にベルを盗みに行くところがいい。

「ヘアの大冒険」は、気取り屋で臆病な野ウサギのヘアが、はるばる蛙のトードに会いに行った帰りに、狐に捕まりながらも命からがら逃げ出す。「ハリネズミのファジー坊やのおはなし」は、ハリネズミの一家が主役だ。今までの登場人物が総出で人間に捕まったファジー坊やを救いに行く。

ピーター・ラビットとの類似の他にも、アンデルセン童話、クマのプーさんなど、他の童話で出てきたモチーフが多く出てくるので、正直オリジナリティーはさほど感じられないものの、この作家の特長である自然描写は際だっている。自然の美しさだけでけでなく恐ろしさも感じさせてくれるところが良い。また登場人物たちの性格づけなども面白く、幼年向けながらもなかなか読み応えがある。

フェイス・ジェイクスによる挿絵が可愛らしいが、解説によると原書で最初に挿絵を担当したマーガレット・テンペストの方が評価が高いようだ(岩波少年文庫には版権の都合で入れられなかった)。ネットで検索したらテンペストの挿絵もいくつか見ることが出来たが、どちらにせよピーター・ラビットの影響下にあるとは思った。

(20100221)


クローディアの秘密 E.L.カニグズバーグ 作/松永ふみ子 訳

幼い姉弟が、家出の行き先に決めたのは、メトロポリタン美術館だった。そこで2人は、ミケランジェロの作と言われる天使の像の謎に挑む!

ワクワクするような設定で、話もとても面白いが、それ以上にこれから思春期に入っていこうとする微妙な時期の少女の精神的な成長を、「秘密」というキーワードで見事に浮かび上がらせているところが見事だ。

小学校の頃に読んだ時は、面白かったのは美術館に潜んでいるところまでで、最後におばさんが登場して以降は冗長に感じたのだが、改めて読み返すと、この最後のおばさんとクローディアとのやり取りがなかなかスリリングだ。人は「秘密」を胸に秘めて大人になっていく、というフランクワイラー夫人の言葉は、やっぱりある程度年を取らないと分からないよなぁ。

ちなみにこの作品の原題は「ベシル・E・フランクワイラー夫人のファイルの山から」。もちろん邦題の方が遥かに良いのは言うまでもない。

姉弟が、ある瞬間にちょっとしたことで「1つのチーム」になるところや、ラスト近くのフランクワイラー夫人から見たクローディアの態度など、細かい描写がとても良く行き届いている。 欲を言えば、深夜の美術館という、ある意味極めて不気味な舞台でのお話なのに、子供たちはひたすら無邪気に遊びまわっているので、たとえば何処かで「コトリ」と物音が聞えてハッと縮み上がったとか、展示されている彫像が動いたように見えた、というような描写がもっとあっても良いのではないかと思った。 何時何分にどうしたといった表現はきめ細かいのに、ひとけの無い夜の美術館という魅力的な舞台を活かしきれていないのは理系の作家ならではか?

余談だけど、昔NHKの「みんなのうた」で放映されていた、大貫妙子の「メトロポリタン美術館」は、この作品が下敷きになっていた。 清水信之のアレンジが秀逸で、岡本忠成によるストップモーションアニメも非常に印象的だった。こういうのはビデオで出ていないのかな?

(20010815)


黒馬物語 シュウエル 作/土井すぎの 訳

美しい黒馬「ブラック・ビューティ」の自伝の体裁をとっているユニークな古典的名作。とことん馬目線になりきって、当時決して恵まれているとは言えなかった馬の待遇改善を切々と訴えつつも、周囲を取り巻く人間や馬達との交流をあたたかく描いている。1877年に発表された作品であり、当時のイギリスの郊外やロンドンでの生活ぶりも伺われて面白い。

伯爵の家や、辻馬車引き、貸し馬屋など、さまざまな飼い主のところを転々とし、火事や事故などもあったりするものの、基本的には穏やかで地味な生活描写が主だ。ところがこれがそこはかとなく面白い。初版が1953年だから半世紀以上前の訳文なのに、今もって読みやすい文章であるところもすごい。

キリスト教的な倫理観が全体を覆っていて、悪く言えば説教くさいところもあるが、馬からの素朴な視点から捉えなおしているせいか、そんなに鼻につくことはない。ひとつ「子供を甘やかすことは残酷なことである」という表現があって、もっともなことなんだが、残酷とまで言ってしまうあたりの感覚は日本とちょっと違うなあと。

飼い主が変わるたびにブラック・ビューティの名前も変わってゆくが、最後の家で、立派に成長した少年馬丁と再会し、再びブラック・ビューティの名前を取り戻すところは、いかにもな展開ではあるけれど、それでもやっぱり感動的だ。

自主的に読書を始めたもっとも早い時期に読んだ作品なので、とても懐かしい気分で再読した。

(20070408)


くろんぼノビの冒険 ルートヴィヒ・レン/北 通文 訳

アフリカを舞台にノビの冒険を描く童話。1955年の作だが、早くも1957年に岩波少年文庫に加わっている。評価の定まった作品が入ることが多い文庫において異例のスピード翻訳と言えるが、その理由は、作品の面白さもさることながら、作者の経歴によるところが大きいと思われる。

作者のルートヴィヒ・レンは、ドイツの貴族の出身で、反戦的な著書が原因でヒトラー政権下に3年の禁固刑に処せられる。のちに国外に脱出、スペイン内戦で人民戦線に参加したりメキシコで亡命生活を送ったりし、戦後は東ドイツにもどって人類学の教授となる。第一次世界大戦での体験を題材にした小説は日本でも早くから翻訳されていたそうだが、専門の童話作家ではないようだ。インテリ活動家が童話も書いてみたというところだろうか。

経歴が示すとおり、弱者の側に立つ精神は本書にも生きており、ノビは仲間を救うため奴隷商人と戦い勝利を収める。そのような人類愛と高い理想に基づいて書かれた作品ではあるが、タイトルの「くろんぼ」という言葉だけでなく、内容的にも今の時代にそぐわない点がないとは言いきれない。素朴な幼年向け童話であるが、血腥い描写もふんだんにある。なにしろ古い作品なのでそこは仕方がない。もう復刊されることはないと思うので、せめてここにあらすじを紹介しておく。

誰からも愛される黒人少年ノビは、動物からも愛される不思議な能力を持っており、猛獣を手懐けることが出来た。占い師のお告げにより鍛冶屋の弟子となったノビは、ある日やってきた白人の奴隷狩人を動物の力を借りて退治し、一目置かれる存在となる。

逞しい青年となったノビのもとに修験者があらわれ、奴隷商人のため危機が迫っていることを知らせる。ノビは戦う決意をして、猛獣たちを引き連れ旅に出る。そして行く先々の村で白人を懲らしめ(殺し)、捕まった黒人を解放し、ひとまずの平穏を得る。

数年後、白人に籠絡された若い王が、国民を奴隷として売り飛ばしていることを知ったノビは、王に会いに行く。接見した夜、王は毒蛇に殺され、気性の良い弟に王位が移る。戴冠式の後、ノビは動物たちが踊る不思議な夢を見た。夢のお告げにしたがい、黒人やけものたちが総出で白人征伐に出かけるが、白人はすでに砦から立ち去っていた。やがて落雷が白人の砦を破壊し、ノビの国には平和が訪れる。ノビは故郷の村に帰り、子孫に囲まれ幸せに暮らした。

(20100228)


黒ちゃん 白ちゃん クロード・アヴリーヌ 作/安東次男 訳

アフリカの西端セネガルの小さな村で、ヤシの収穫をしていた男達が、茂みの中で眠る真っ白な子ども(角砂糖ぼうや)を見つけたところから物語は始まる。角砂糖ぼうやと、酋長の息子ババ・ディエーヌ(黒ちゃん)との友情が何とも可愛らしくて心温まる。

フランス人による1937年の作品で、舞台のセネガルは、当時フランス領だった。人種差別や偏見を窘める意図が込められているため、ところどころに顔を出す作者のお説教めいた文章が少々鼻に付くというところはある。しかし、全体にほのぼのとした雰囲気が流れており、また登場人物も気持ちの良い人たちばかりで、作者の主義主張はともかく、とてもハッピーな気分で読み進められる。

結局、角砂糖ぼうやの正体は、容姿が白人になる薬を飲んだ黒人の子どもだったわけだが、彼が親切な白人の長官先生の元を逃げ出し、何としてでも黒人のコミュニティーに留まろうとするあたり、まだ両者は相容れないものだという意識が根底に流れているような感じはする。まあそれは現代にまで持ち越されている課題ではあるのだけど。

黒ちゃん白ちゃんの二人が大人たちの元から逃げ出し、夜の森を抜け、巨大な砂漠を渡る場面で、お互いに励ましあいながらも心細さが拭い切れない感じが懐かしい。ジャン・ブリューレルの挿絵も可愛らしい。

(20050410)


月曜日に来たふしぎな子 ジェイムズ・リーブズ作/神宮輝夫 訳

イギリス人作家によるおとぎ話風の短編集で1956-1962年に出版された作品集からの抜粋。6編が収められている。ぼくは今までに様々な創作童話を読んできたが、これまで読んだものの中でベスト10を挙げよといわれたなら、「おばあさんと四つの音」は必ず上位に入れる。「水兵ランビローとブリタニア」もめちゃくちゃ気に入った。もちろん他の作品についても大変面白く、エドワード・アーディゾーニによる挿絵も味わい深い。

「月曜日に来たふしぎな子」は、善良なパン屋一家に、マンデーと名乗るやっかいな少女がやってきたことからおこる騒動。「おばあさんと四つの音」では、おばあさんが機転を利かせ、大工の隣人から家に宿る音の妖精をまもる。「水兵ランビローとブリタニア」は、ボトルシップの中の船員と、スノードーム(ひっくり返すと雪が降るガラスの置物)のなかに住む少女の、両思いなのに決して成就しない恋の物語。

「エルフィンストーンの石工」は、「トム・ティット・トット」や「大工と鬼六」でお馴染みのストーリーの見事な再話。エルフが石像になるラストが良い。「フーの花瓶」は、花瓶を叩いて美しい音色を競うという中国風の国で、フーの作った割れた花瓶の音色が音楽の始まりになったという不思議な話。「11羽の白い鳩」は、革命により国を追われた国王一家が、旅回りの音楽家となり、やがて元の国王に戻るまでを描く。

どの作品も、どこかしら呑気な雰囲気の中にも、ピリリとした現代的な感覚があり、もちろん子供にとってもそうだが、大人が読んで楽しい童話となっている。

(20081228)


コウノトリと六人の子どもたち M・ディヤング 作/遠藤寿子 訳

オランダの小さな漁村ショーラを舞台とした心温まる物語。「どうしてこの村にはコウノトリが来ないの?」という少女の素朴な疑問が、村全体を巻き込む大プロジェクトへと展開していく。現代とは全く違うゆったりとした時間が流れており、昔のヨーロッパ映画を見ているような、なんともノスタルジックな雰囲気が満ちている。

子供たちは、車輪(コウノトリが巣作りに使う)を探す過程でそれぞれに冒険をして、村人達と交わり、成長して行く。やがて子供たちの純粋な熱意が、大人達をも巻き込んで行くわけだが、その中でとりわけ印象深いのは車椅子のヤーコプだ。彼は病気で両足を失ってからすっかりひねくれてしまっていたが、村人から一目置かれているところを見ると、若い頃は優秀な青年だったようだ。そんな彼が子供たちとの交流を通して快活さを取り戻していくさまがユーモラスに描かれていて気持ちよい。

ある程度環境を整えた上で、あとはコウノトリが来るのを待つという感じの、おだやかな展開を予想していたが、ラストで子供たちや村人が総出で瀕死のコウノトリを救うという冒険が用意されており、少々意表を突かれた。しかし良く読み返してみると、受動的に幸運を待つのではなく、みんなと協力しながら積極的に幸運を掴み取りにいくというスタンスが、最初から最後まで作品全体に貫かれているのが分かる。ただ待っているだけでは幸せは来ないのだ。

田舎の小さな漁村の生活が、克明に描かれているのも良い。 ショーラの男達は殆どが漁師なので、普段の村は子どもと女と老人だけになる。村人は皆敬虔なクリスチャンで、嵐の日にも教会に集まる。 海岸に巨大な堤防が築かれているのはオランダならではの風景だな。

あと驚いたことに挿絵がモーリス・センダックなのだ。名作「かいじゅうたちのいるところ」は、小学生の頃、弟とキャッキャとハシャギながら読んだもんだ。本書では水彩画のようなぼやけた感じの淡いタッチで描かれているので、言われなければセンダックとは気付かなかったが、ほのぼのした物語に相応しい挿絵に仕上がっているのはさすが。

余談だが、ネットで探せば、屋根にコウノトリがいる画像が見られるんじゃないかと思い、「コウノトリ」+「屋根」で検索してみたら、あるわあるわ、数多くの画像付の観光日記が引っ掛かった。やはり日本人観光客にとって、民家の上に大きなコウノトリが巣を作っているのは、インパクトがあるんだな。ヨーロッパの様々な国でこのような光景が見られるが、通常は煙突の上に巣を作ることが多く、本作のように、わざわざ車輪を屋根に上げるのはオランダ(の一地方?)だけのようだ。

(20030923)


氷の花たば アリソン・アトリー 作/石井桃子・中川李枝子 訳

童話的な6編の短編が収められている。目新しさは無いが自然描写にすぐれた美しい話ばかりだ。

「メリー・ゴー・ラウンド」は、真夜中に双子の少年が巡回のメリーゴーラウンドへ行くと、木製の馬たちに命が宿り、少年たちを乗せて深夜の町を駆け抜けるという、何ともブラッドベリ的な一編。「妖精の船」は、船乗りの父の帰りを待つ少年が、クリスマスの朝に、アヒルのキャプテン・ダック率いる不思議な白ネズミの船に遭遇する愉快な話。この2編は舞台が現代に近いのだが、「夢だけど夢じゃない!(Byトトロ)」という感じの、日常のほんの裏側にある不思議さと楽しさが詰まっている。

「七面鳥とガチョウ」は、七面鳥とガチョウ、子ブタにプラム・プディング(!)という4名が、古城を根城にしていた悪党の財宝を手にするというブレーメン的な作品だが、一行の中にプラム・プディングが混じっているというのがユニークで可笑しい。「木こりの娘」は、森に住む裁縫の上手な娘が、クマにされた王子の呪いを解くロマンチックな作品。この2編はグリムの世界に近い。

「氷の花束」では、夜の雪道に迷った父親が、不思議な白マントの男に命を助けられ、代わりに娘を要求される。通常の童話だと、機知を巡らせこの危機を回避するものだが、ここでは娘は幸せの内に白マントの男(その正体は霜の精)のもとに嫁いでしまう。「ふたりの老人は、この人たちの思い出にひたって生きるのでした」という最後の一文が何とももの悲しい。この作品は、西風のくれた鍵 に収録されていた「雪むすめ」「妖精の花嫁ポリー」にも通じる人生観を感じさせるが、本書の解説を読んで合点がいった。作者は夫を自殺で失ったのだ。そのつらい体験が、こうして多くの作品に暗い翳を落としてしまっているのはとても哀しいものを感じる。

「麦の子 ジョン・バーリコーン」は、おばあさんが麦畑で拾った卵から生まれた不思議な少年ジョン・バーリコーンが豊穣をもたらすという、イギリスの農民の麦信仰が強く表れた作品。ここでは農民の土着的な信仰と、キリスト教が無理なく融合されているさまが興味深い。

夜の森や雪道、麦畑など、色彩感覚が豊かで、情景描写、自然描写もとても美しいのだが、アトリーは大学で物理学を修めたバリバリの理系の作家であるらしい。

あと本書は、訳文が優れているだけでなく、訳注がとても親切で行き届いている。すべての児童文学の翻訳家はこのくらいのクオリティーを目指して欲しいものだ。

(20040926)


古事記物語 福永 武彦 作


小ネズミのピーク ヴィタリー・ビアンキ作/網野 菊 訳

ロシアの作家による素朴な幼年向け童話。4人の画家による挿絵もふんだんに挿入されている。岩波少年文庫での初版は1954年だが、原作の発表年はどこにも書かれていない。まえがきの著者紹介から推察するに、1920年代から1940年代にかけて書かれた作品を集めたようだ。

比較的長い話として「オランジェヴォーエ・ガルルイシコ」「小ネズミのピーク」の2編があり、「いろいろの話」の中に19編の小品が、「小さいお話」の中に7編の小品が収録されている。

子犬、イワツバメ、スズメ、アリ、キツネなど、様々な動物が次々に主人公になり、彼らの暮らしぶりを垣間見せてくれる。たまに人間も登場する。どれもとても素朴なストーリーで、ユーモラスで夢がある話が多いが、弱い者は容赦なく食われるというところも描かれる。うまく物語に絡めて動物の習性などが説明されており、子供たちに動物の生態を紹介する啓蒙的な面もある。

中でもひときわ素晴らしい一編は、子沢山のシャコの奥さんの名を冠した「オランジェヴォーエ・ガルルイシコ(オレンジ色ののどの意)」だ。巡る季節によって人間が様々な農作業を行うなかで、シャコの大家族の子育て、友人のヒバリとの関わり、そして天敵や狩人とのやりとりが、美しい自然とともに描写されてゆく。

その他にも、赤ちゃん小ネズミのピークが様々な冒険をして最後には飼いネズミになる表題作や、木に出来たうろに色々な動物が住み着く「へや」、ホトトギスの登場する2編や、たった2ページながら「セイウチ」も印象深かった。

(20100404)


今昔ものがたり 杉浦明平

平安時代に編まれた全31巻1059話の大書「今昔物語集」から、厳選された39編の物語が収められている。原書は仏教説話が半分以上を占めるとのことだ。本書でも5編だけ仏教的な物語が取り上げられているが、それ以外は武士の活躍する話や、庶民の生活に密着した話、幽霊や物の怪の出現する話、僧侶や泥棒の話など、様々なエピソードがある。「宇治拾遺物語」よりも、物語として起伏があって凝ったものが多いように感じた。

今年は映画「ラストサムライ」の公開などで侍に注目が集まっていることもあって、自ずと武士の活躍する話に目がいくが、「充と良文の決闘」の中で、昔の武士は良かったと現状の武士の精神の堕落振りを嘆いているところなどは、昔の武士魂みたいなものが垣間見えて興味深い。まあ、いつの世も「まったく最近の若者ときたら…」というものなんですね。

芥川龍之介の「鼻」の元の話も収録されているが、こちらの方は、鼻が短くなったり元に戻ったりするわけではない素朴な笑い話で、芥川の小説の作り方は上手いなと思わされた。

あと時代が変わればものの価値観や道徳観もガラリと変わってしまうわけで、本書でもそういうところが随所に見られるが、それが良く表れているのが「人形目代」だ。仕事の良く出来る評判の良い役人が、あるとき旅の芸人一座のお囃子にのせられてついつい踊り出してしまい、実は元々人形遣いであったことがバレるという筋で、今の感覚で読むと微笑ましい良い話なのだが、ここでは出自の下賎なものは結局それを一生引き摺って生きねばならんのだなどという、あんまりな結論に終わってしまっている。

現代語訳で感心したのは、昔の役職名や地名など難解な語句について、注釈などは付けず、あくまで文章の中で上手く解説してあるところだ。いちいち巻末の用語集を参照する煩わしさなしに気持ち良く読み進んでいける。特に笑い話みたいなものを読むときはテンポ感が大切なので、こういう配慮は嬉しい。

どうでも良いことだが、本書は「岩波少年文庫全作品読破」の読破100冊目である。まあとにかくこの企画が読破100冊を越えるまで続いたことに祝。

(20030523)



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by ようすけ