岩波少年文庫全作品読破に挑戦! シリーズ物



ドリトル先生物語(全13巻)  ヒュー・ロフティング/井伏 鱒二 訳

ぼくが小学校の頃、本のページを繰るのももどかしいくらいに没入したのが、このドリトル先生のシリーズだ。 この文章を書くにあたって再読したが、素晴らしさは全く色褪せていなかった。

この作品の素晴らしいところは枚挙にいとまが無いが、特に気に入っているのは、ドリトル先生は動物と会話することが出来るのだけれど、超能力などではなく、人並み外れた努力によって、その能力を身に付けていくところだ。

説明すると、ぼくらは犬が尻尾を振る時は「嬉しい」という感情をあらわしていることを知っている。 それでは犬に喜びを伝える時は、手をおしりの後ろへ持っていき、尻尾に見立ててパタパタ振れば良いのではないか? 動物達は、人間の様に声だけで会話するのではないのだ。 もちろん声も使うが、その他にも、ちょっとした尻尾の振り方、耳の傾け方などにも意味が有り、それらをドリトル先生は研究して膨大な情報をノートに書き込み、ついにはあらゆる動物の言葉を「喋る」ことが出来るようになってゆくのだ。

動物と人間が会話するという物語は沢山あるが、何故か動物が人間の言葉を喋ることができるとか、超能力的な方法で会話するとかいったものが殆どだ。 しかしドリトル先生の方法は理に適っているし(?)、その姿を想像するだけで愉快だ。よくある動物ファンタジーとは一線を画している(余談だが、エディー・マーフィー主演の映画「ドリトル先生」は、上のポイントを外している点で全然駄目だったが、レックス・ハリソン主演の「ドリトル先生の不思議な旅」は、なかなか上手く見せていた)。

また、登場する動物達(ネズミ、犬、鳥、魚など、ありとあらゆる種類にわたる)は、それぞれが豊かな人生経験を持っており、先生を囲んで自分の物語を語り出すのだが、そのひとつひとつが実に素晴らしいのだ。 物語の本筋に関係ある話もあれば、全く関係のない挿話的な話もたくさんあるが、それらが本筋である先生の冒険談と重なりあい、奥行のある世界を作り出している。

ドリトル先生を冒険に駆り立てる主な動機が、知的好奇心の充足のためというところも気に入っている。 もちろん困っている動物を救うために冒険することも多いが、そんな時でも先生は研究を怠らない。 動物を治療している場面より、ノートに色々書き付けながら研究をしている場面の方が強く記憶に残っていたりする。 彼は医者であると同時に博物学者なのだ。「航海記」でも、王様として人々を平和に導くよりも、博物学者としての道を選んでいる。ここまで知的好奇心の旺盛な「学者」が主人公である冒険物語は珍しいんじゃないかな。

さらに作者本人による挿絵もなんとも言えず良い。児童文学では、作者本人が挿絵を描くケースも多いが、ドリトル先生はその最も素晴らしい例の一つだろう。 最初の頃は、線の硬いような所があったが、だんだん絵がこなれてきて、ポップな感じになっていく。 動物たちは変に漫画化されていなくて可愛らしいし、ふとっちょの先生の姿も独特の味がある(先生は最初の方はおじいさんみたいだったのが、どんどん可愛くなっていくのが面白い)。

ぼくは大学でイギリス文学を専攻したのだが、実を言うとドリトル先生の国に憧れていたので英文科に入っちゃったという面が強い(笑)。 半年ばかり前に岩波新書から「ドリトル先生の英国」(南條竹則 著)という本が出たが、その筆者も似たような感じらしい。 この本は、資料が豊富で作品世界を理解するのに役立つので、ドリトル先生ファンなら是非とも手元に置いておきたい一冊だ。

個人的な思い入れの強い作品なので前置きが長くなったが、個々の作品について述べていこう。

(20010815)

追記 : ぼくは長年「郵便局」は「アフリカ行き」の直後のエピソードだと勘違いしていました。再読の折、間違いに気付いたので本文を訂正しました。しかし確かにどの順番で冒険があったのか分かりにくい。なので自分の備忘の為に、物語中に起こった出来事を時系列に沿ってタイトルを並べ直してみました。実は作者自身も勘違いしているところがあるようで、細かく読むと矛盾した点があるため、下の順番はあくまで目安と思ってください。「キャラバン」「緑のカナリア」はどう書くか迷いましたが、とりあえずそのまま並べました。「楽しい家」に収録されている短編は、それが入るであろう場所にカッコつきで書いています。

・アフリカゆき
 (あおむねつばめ)
・サーカス
・キャラバン
・緑のカナリア
 (カンムリサケビドリ)(迷子の男の子)
・郵便局


 〜トミー・スタビンズ編〜

・航海記
・動物園
・月からの使い
 (船乗り犬)(ぶち)(犬の救急車)(気絶した男)(虫ものがたり)
・月へゆく
・月から帰る
・秘密の湖

(20100314)




ドリトル先生アフリカゆき

ドリトル先生シリーズの一作目であり、先生が動物語を話せるようになった経緯が紹介されている。 密林での追跡劇や、牢屋からの脱出、病気の猿達の治療に、海賊の船を奪ったりと、手に汗握る活劇の連続。これほどの大冒険なのに、主人公が勇敢な若者などではなく、温和でお人好しでふとっちょのオジサンなのだから面白い。

今回再読して気付いたのは、金銭に関する描写がかなりキッチリしていることだ。ファンタジックなストーリーの児童文学では、金銭関係はおざなりというか、一体何処から金が出ているんだ? というような、いい加減な設定のものが少なくないが、ドリトル先生はいつもお金に困っている。多くの動物を養ったり、冒険に出掛けたりする為には、莫大なお金が必要なのだ。 この辺の現実的な面を疎かにしていないところが、シリーズを単なる空想物語以上の物にしていると思う。

ちなみにこの作品には黒人蔑視的な描写が有り、本国アメリカでは出版が難しいということが解説に書かれている(大きな書店の洋書コーナーでは全作品が簡単に手に入るんだけど…)。しかし、これが書かれた時代を考えれば無理からぬ事だし、当時の他の文学作品と比べれば寧ろ誠実で好意的な印象すら受けるくらいだ。 こういう昔の作品の差別的表現に過剰に反応したりするのは嫌いだなぁ。 どうして「ちびくろサンボ」を絶版にしなければならないのか、説明を聞いてもよく理解できないけれど、こういうのを排斥するような人こそ差別的なんじゃないかな?

「ドリトル先生」再映画化の際、エディー・マーフィーが主演と聞いて、あえて黒人を起用するからには、この辺の問題に果敢に取り組んでいるんじゃないかと密かに期待していたが、ただの下品なお笑い映画に仕上がっていて、とてもガッカリした。 あの映画に「ドリトル先生」の名前をつける必然性は無かったんじゃないかなぁ…。

(20010815)

追記 : 2001年9月に、「ちびくろサンボ」を絶版に追い込んだ、あの「黒人差別をなくす会」が、こともあろうにドリトル先生シリーズに差別的表現があるとして回収を求めていましたが、このたび岩波書店はその要求を突っぱねました。 当たり前の対応をしたに過ぎないけれど、不当な圧力に屈しなかったのは評価したい。 名作が守られた。

(20020211)


ドリトル先生航海記

この作品は「アフリカ行き」と変わってトミー・スタビンズの一人称で書かれている。 シリーズ物なのに、作品によって物語の語り手(ワトソン役)が登場したりしなかったりするという構成はとてもユニーク。最初のトミーの生い立ちを読むと、妙にリアリティがあるので、トミーとは少年期のロフティングに他ならないと思われる。「アフリカゆき」で、ドリトル先生という素敵なキャラクターを生み出したのはいいが、そのうち自分も先生と一緒に冒険したくなってきたんじゃないかな?

ドリトル先生シリーズで一番始めに読んだのが本作なので、個人的な思い入れは強い。小学校2年だった。今までに何度も読み返した作品だけど、今回改めて読んで強く感じたのは、物凄く力のある文章だなと。ぐいぐい引き込まれてしまう。井伏鱒二の訳文が素晴らしい(「これはしたり!」って好きだなぁ)。もう児童文学の最高峰だ!と言い切っちゃおう。

様々なエピソードが盛りだくさんで、恐ろしいくらい密度が濃いが、散漫な感じはあまり無いのは飄々とした文章の力も大きいと思う。それにしても、ロフティングの筆運びの奔放さは尋常じゃないなぁ。これを読んで面白くない子供は、読書には向いてないかも(笑)。

子供の頃に読んだ時はとても感動的したのに、今読んだら妙に可笑しかったのは、ドリトル先生とインディアンの博物学者ロング・アローが邂逅する場面だ。ドリトル先生はインディアンの言葉が分からない。ロング・アローは英語が分からない。 そこでドリトル先生は様々な動物の言葉を試したところ、二人ともワシの言葉を話せることがわかり、めでたく会話が通じたのだった。なんとファンタスティックな(笑)。

あと注意を引かれたのは、冒険を終え家に帰る時の、結びのセリフだ(「4時だ! さあ行こう。―ちょうどお茶の時間にまにあうようだ」)。 ちょっとした推理小説ファンならすぐ気付くと思うが、これはシャーロック・ホームズのパロディーじゃないだろうか。 本書の世捨て人ルカのエピソードや、シリーズの他の作品にも探偵小説的なエピソードがでてくるので、ロフティングは推理小説ファンだったのかもしれない。

ひとつ付け加えると、この岩波少年文庫版では何故か「海のカタツムリ」の挿絵が割愛されている。小学校の頃に、「先生たちを乗せて海底を進むなんて、一体どんな生物なんだろう?」と一所懸命に想像を膨らませながら読んだ記憶があるので、南條竹則氏の「ドリトル先生の英国」という本で初めてその生き物の挿絵を見た時は結構感激した。どうしてこんなに大事な絵が割愛されたか分からないけれど、どんな姿か気になる人は「ドリトル先生の英国」か、洋書店で英語版を見てみてください。

(20020224)


ドリトル先生の郵便局

この物語は時期的には「キャラバン」の後に起こったと考えられる。トミーも登場しない。シリーズ物なのに時間的に連続していない構成はとてもユニーク。

夫を奴隷商人に連れて行かれた女を発見する場面から始まり、奴隷商人との船での追跡劇に、海軍の力を借りての逮捕と、いきなり活劇が繰り広げられる。やがて郵便制度が杜撰で王様宛の手紙が届かなかったために女のつれあいが奴隷商人に連れて行かれた事が判り、ドリトル先生は彼女の暮らすファンティポ王国の郵政事業改革に乗り出すのだった。

渡り鳥を組織化して外国郵便を始め、動物達も手紙を書けるようにと絵文字の研究や、動物達に対する教育、更には恐竜が登場したりコロンブスのエピソードまで飛び出す。 本を置く暇が無いというか、まったくロフティングの汲めど尽きぬ泉のような想像力には脱帽する他無い。

少年時代のぼくがもっとも強く感銘を受けたのは、郵便船(先生達は船を事務所としている)で夜な夜な語られる、動物達の物語だった。夜が更けてから波に揺られる郵便船の食堂でロウソクを囲み、動物達がそれぞれの生い立ちや、先生に出会うまでの経緯、動物の中で語り継がれている御伽噺などを順番に語っていく。 そこで語られる物語の面白さもさることながら、深夜の船上で動物達が物語ってゆく、というシチュエーションの何とも神秘的な雰囲気に、少年時代のぼくはクラクラするような幻惑感を感じたのだった。

ところがかつて印象的だったこのシーンを読み返してみてショックだったのは、状況描写が殆ど無いのだ。 ぼくの記憶では、真っ暗な食堂で動物達が輪になり語り手の動物を取り囲み、ロウソクで彼らの顔がほのかに浮き上がっている、そして外は満天の星空で、舟は暖かい風に揺れている…、といった情景が広がっていた。 まあ普通に読んでいれば自然と浮かぶような情景ではあるし、他に似たようなシーンもあるのだが、本文に書いてあることより、それを読んで思い浮かべた情景の方が、しっかりと記憶に焼付いていたというのは面白い。

その後、真珠泥棒や真珠採取事業のエピソードを経て、聖書時代の大洪水を経験したカメ、ドロンコが登場する。大洪水によって出来た湖で暮らすドロンコのリューマチを直す為に、何万羽もの鳥たちが石や砂を嘴で咥えて飛んで来て、ついには湖の真ん中に小島を作るシーンのダイナミックさ!この場面のスケールのでかさ、壮大さはシリーズ中でも屈指じゃないだろうか。 湖からの帰り道、海岸に寄ったら巨大な穴が空いていたというのには笑わされたけど(笑)。

(20020407)


ドリトル先生のサーカス

一般的にドリトル先生シリーズの中で人気が高いのは、「秘密の湖」と「航海記」らしいのだけど、ぼくが子供の頃に一番好きだったのは「サーカス」だ。 改めて読み返しても、やっぱり面白かった。 何故この作品が特に気に入っているのか、シリーズの他の作品との違いを鑑みつつ、いくつか挙げてみた。

  1. ドリトル先生シリーズでは珍しい一人旅(前半は2人)である。
  2. 冒険が行われるのが夜である(前半)。そしてそれは逃避行である。
  3. 田舎道を徒歩で移動する、といった場面が多い。
  4. 舞台が作者が少年時代を過ごしたイギリスであり、ロンドン周辺や郊外の情景の描写など生き生きしている。
  5. 夢のような大冒険ではないが、その代わりこれまでの作品以上に現実感がある。

こうして整理してみると、自分の嗜好性がハッキリするなぁ。小学校の時から今に至るまで趣味が全く変わっていないのが面白い。

中学生の頃、何を思ったか突然海が見たくなったことがある。海の近くに住んでいる訳でもなく、どうやって行くか悩んだが、そうだ自転車で川沿いに下れば海に辿り着けるじゃないか!と気付いて実行した。 3時間くらいひたすら自転車をこいで、目の前にぱあっと海が見えてきた時は感動したもんだ。 で、帰りは夜になってしまい、草臥れ果ててボロボロになったのを憶えている。 アホな子供だったなぁ…。 しかし、いま思えばドリトル先生と似たようなことをしたわけだ(?)。

閑話休題。 この作品の大きな魅力は、これまでの夢いっぱいの大冒険に比べればスケールこそ小さいかもしれないが、身近なところでの冒険なので何だか手の届きそうな雰囲気を感じさせてくれるところじゃないかと思う。 ソフィーを逃がすという本筋はもちろん、キツネの親子のエピソード、馬車馬の隠遁所、サーカス団での奮闘ぶりなど、ひとつひとつのエピソードが何とも心温まる楽しいお話となっているところも良い。

あと特筆すべきはネコ肉屋のマシュー・マグの活躍ぶりだ。ソフィーが逃亡する際の錠前破りや、サーカス団長のかわりに大舞台で見事な立ち回りを見せたり、ドリトル先生が囚われた牢屋にはマシュー・マグのサインがあったり。 自分が過去にどれほど悪いことをしたかを先生に喋ろうとして遮られる場面も愉快だった。きっと作者は、この人の良い小悪党の活躍を楽しんで書いていたんじゃないかな。

(20020721)


ドリトル先生の動物園

久しぶりにトミー・スタビンズの一人称で語られている。 時間的には「航海記」から続く物語で、ドリトル先生達がイギリスに帰って来た頃のエピソードだ。「航海記」もそうだったが、トミーの語る物語は、冒頭の町の描写などがとても良い。

ドリトル先生が自宅の庭に動物園(動物のための楽園)を作るわけだが、そこで暮らすネズミ達のエピソードと、動物園の近所にある荘園で起こった火事の謎が、本書の中心となっている。折角色々な動物が集まってきているのに、何故かネズミにだけ特別にスポットライトが当てられているところがユニーク。

動物園の中に作られた「ネズミ・クラブ」で、何匹かのネズミがそれぞれ自分達の話をするのだが、それらの一つ一つが面白い。 「ホテルネズミ」の話に登場する「横目使い」という隻眼ネズミの「自分の頭に頼れ」という言葉は印象深い。「火山ネズミ」の話は、噴火によって溶岩に埋もれた町で、ネズミ文明が生まれたというファンタスティックな内容。 「博物館ネズミ」の話に登場するフーズルバック教授という人物は、たぶんロフティングの友達か何かじゃないのかな? 「牢屋ネズミ」は、政治犯として捕らえられた画家を探して牢屋を巡る。 あと「うまやネズミ」は、夫と性悪ガラスとのやり取りについて語るが、この話は突然の火事によって中断されてしまうので、結末が分からない。 「うまやネズミ」の夫は、夫人の話の中にしか登場しないことから、ひょっとすると何か良からぬ事があったんじゃないかと懸念されるので、この話だけは後味が良くない。

探偵犬クリングが、火事の謎を解く顛末も面白く、推理小説としても良く出来てると思う。 「航海記」で、結びの言葉がホームズのパロディーじゃないかと書いたが、チェスタトンからも影響を受けているかもしれない。 そういえば、大昔の推理小説の脱獄トリックで、ネズミを飼い慣らすという無茶なネタがあったが、「牢屋ネズミ」のエピソードはそれとちょっと似てる(?)。 いずれにせよロフティングが熱心なミステリーファンだった可能性は極めて高いよね。

本書では、ドリトル先生よりもむしろ動物を含めた脇役達が光っており、マシュー・マグの火事の際の活躍振りなどは見逃せないし、トミー・スタビンズもいつの間にか動物語を話せるようになっていて、存在感を増している。 最初は平凡な靴屋のせがれに過ぎなかったトミーが皆から頼られる存在となっていくさまは、子供の頃のトミーを知ってる読者としては、親戚の子供の成長を見守っているような気持ちになりそこはかとなく嬉しい。

(20030223)


ドリトル先生のキャラバン

この物語は「サーカス」の続編で、この2編はきれいに物語が繋がっている。 どうして間に「動物園」が挟まってしまったのか良く分からないなあ。シリーズ全体を俯瞰すると謎の多い構成だが、行き当たりばったりで書いてるのかと思いきや、物語の年代や時代背景などはキチンと辻褄が合うようになっているところが凄い(その辺は南條竹則著「ドリトル先生の英国」にわかりやすくまとめられている)。

カナリアの歌姫ピピネラを主人公とするオペラを中心に物語が進んでいくのだが、興味深いのは、鳥の歌が一つのテーマになっていることだ。 ドリトル先生シリーズでは、冒険だけではなく、「動物の言語」「貝の言語」「郵政事業」「動物文化」「植物の言葉」「太古の世界」など、ちょっぴりアカデミックな香りのするテーマが設けられているところが、作品をより深くて面白いものにしていると思う。

ドリトル先生は「航海記」で見事なフルート演奏を聴かせてくれたわけで、それがやがて鳥の歌というアイデアにまで発展するのは自然な流れとも言えるが、作中で主人公に楽器を演奏させたり、音楽理論について語らせたり、更にはパガニーニまで登場してしまうところを見ると、ロフティングはかなりの音楽好きだったんだろう。音楽狂としては親近感が増すなあ。

この作品が発表されたのは1926年なのだが、連続四度や臨時音の使用など、当時の作曲家たちの試みを、既に鳥の世界では数世紀前にやっていたなどとある。ロフティングはドビュッシーなんかも聴いていたのかな? メシアンの「鳥のカタログ」なども頭をよぎるが、ここで描かれている鳥の音楽が、来るべき20世紀クラシックを暗示しているのがなんとも面白い。さらにカナリアオペラのオーケストラについて、驚くような記述を発見してしまった。「カナリアがいちばんいっしょにうたいたいと思う楽器は、ミシンですね」(P180)。カナリアオペラを伴奏するオーケストラは、ミシン、鎖、砥ぎ皮とカミソリ、金槌と靴型などで構成されているのだ。 まるで エルメート・パスコアルの世界 ではないか! 子供時代に熱中したドリトル先生と、今現在夢中になっているパスコアルが、こんなところで繋がってしまうとは思いも寄らなかった(笑)。

このカナリアオペラは大成功し、ドリトル先生の能力が人々に認められ、ロンドンで有名人となってしまう。厭世的と言うか、どこか人間嫌いなイメージの強かった先生が、人間の世界でもここまで名声を博すとは、最初からの読者にとっては少々意外な感じもする。

本書では、ガブガブの食に対する情熱も活き活きと描かれており、楽しいアクセントになっている。更に動物銀行(結局失敗してしまう)など奇抜なアイデアも盛り込まれており、発想の豊かさは相変わらず。サーカスは、最後に動物達をそれぞれの故郷に送り帰して解散するが、アフリカの故郷へ帰る道中で仲良くなってしまったゾウとライオンが、やがて密林の伝説となるエピソードなど、ほんのちょっとした挿話まで実に愉快で清々しい。

(20030321)


ドリトル先生と月からの使い

「動物園」の続きのエピソードで、トミー・スタビンズが物語る。 4部構成で、第1部は、犬の博物学者ケッチ教授の波瀾万丈の人生(犬生?)について。ここだけ「動物園」の雰囲気をそのまま引きずっているので、これは「動物園」に入りきらなかったエピソードじゃないかと思う。

やがて第2部で、虫の言葉という新しいテーマが提示される。例の如く、寝る間も惜しんでの激烈な猛研究で、虫語がある程度理解できるようなったドリトル先生は、虫達から様々な物語を引出してゆく。蜂が人間の戦争を止めさせた話や、渡り鳥の足に乗って遠方に旅するゲンゴロウなど、ユニークなエピソードが続くが、特に興味を引かれたのは、カゲロウについてのついての考察だ。カゲロウは1日の間に、人間でいえば60年分の人生を送るため、極めて早口で、独特の思考法と世界観を持っているとドリトル先生は分析する。 何年か前に「ゾウの時間、ネズミの時間(?)」とかなんとかいう本が注目を集めたが、既に70年も前にロフティングはそのことに想いを巡らせていたわけだ。更に先生は、何千年もの命を持つ山についても言及しているが、これなどは、今年オスカーを獲った「岩のつぶやき」のアイデアにも通じるかな。

そして2部の最後でようやく月のモチーフが現れるが、小さな虫から巨大な虫へ、そして一気に月の世界へと飛翔するロフティングの想像力には脱帽する。個人的に重要だと思うのは、バンポが「めくら旅行」の行先を決める時、偶然月を選んでしまったり、チーチーの物語の中で人間が消失したりと、ミステリアスな超自然現象が描かれ始めたことだ。今までも、不思議な動物が登場したりすることがあったが、それほど現実離れしてはいなかった。 月という未知の世界に旅立つということもあり、一気に作品のムードがガラリと変わってきたように感じる。

サルの間で語り継がれているという伝説というのも面白い。1部では、修道院で飼われている犬達が、何故か皆クリスチャンだったが、2部以降では動物が人間とは異なる独自の神話を持つという、新たな領域に踏み込んでいる。 「ウォーターシップタウンのうさぎたち」を読んだ時、ウサギの神話というアイデアに唸らされたが、本作の方が一足先だということになるよね。

特筆すべきはトミーと先生の関係の変化だろう。トミーは、作品を重ねるにつれ徐々に存在感を増してきたものの、あくまでドリトル先生の助手、筆記係という役割をはみ出ることはなかった。ところが本作で初めて先生の言いつけを破り、自らの判断で、月へ飛び立つ巨大蛾に密航する。トミーが付いて来たことに気付いた先生が「わしはきみがきてくれて、どんなに嬉しく思っておるか、わからんほどだ。」というところは、シリーズ中もっとも感動的な場面の一つだ。 どこか厭人的なところがある先生と、先生に盲目的に従うだけだったトミーが、初めて真の師弟、そして友になった瞬間だ。 このやり取りの直後に、月の地理について二人が異なる見解をぶつけ合い、しかも互いに持論を譲らないという場面があるが、そんなところからも二人の関係がより深いものになったことが伺える。

あと個人的にツボにハマッたのは、執筆当時は最先端だっただろう科学知識に関する描写だ。 宇宙で羽ばたいても空気が無いので前に進まないといった、現在でも通用する部分と、声は空気中のエーテル(!)が伝えるなどという古い考えが、渾然一体となっている。誰の言葉か忘れたけど、科学技術の発達が目覚しい現在では、数年前のSFは腐って読めたもんじゃないが、数十年前のSFは上質なワインになってしまう、というのがあったけど、本作も良い塩梅に熟成して、独特の豊潤な味わいを身に付けている。

(20030907)


ドリトル先生月へゆく

アポロ月面着陸以前に書かれた、月を舞台としたSF小説、映画、漫画には、とても面白いものが多い。もちろん今の知識からすれば、どれもこれも出鱈目だらけなのだが、それゆえに人の想像力というものの素晴らしさが際立って感じられるからだ。メリエスの月世界旅行や、鉄腕アトムにも「イワンのばか」なんて名作があったし、かつて月は人々の想像力を刺激して止まない存在だったんだな。もちろんこの「ドリトル先生月へゆく」も、そのような独創的な月旅行記の傑作にひとつに数えられるだろう。

ドリトル先生とトミー、チーチーにポリネシアの4名という最小のメンバーで月世界探検に挑むが、物語の前半は、植物以外の住人が姿を全く見せないため、不思議な月の世界の描写とあいまって、今までにないミステリアスな雰囲気が漂っている。その中でも、植物の言葉や風を利用した歌など、新たに植物の世界に切り込んだり、月世界ではどんどん体が大きくなっていってしまったりと、相変わらず奇抜なアイデアがふんだんに盛り込まれている。

さて、物語の後半に差し掛かってようやく月の巨人オーソ・ブラッジの登場となり、「会議」を中心とした月世界の驚くべきシステムが明かされる。この「会議」というのは、要するにソヴィエトってことだよな。まあ書かれた時代が時代だし、ロフティングがコミュニズムに希望を持っていたらしいのも肯けなくもないが、この月世界を統治するシステムに関する描写は、今となってはイマイチ空々しく感じてしまうというか、反共精神旺盛なぼくにはチョトつらいのでした。

いつの間にかトミーが堂々と先生やポリネシアと議論を戦わせられるようになっているのは立派。地球に降り立った後、自らサーカスの見世物になって金を稼ぐというあたり、あのトミー少年も逞しくなったものだが、この辺のちょっと笑える感じのエピソードは、いつものドリトル先生シリーズの雰囲気が強く出ているので、もっと詳しく書いてくれていたら嬉しかったなあ。

残念なのは、本書では辻褄の合わないところやすんなりと納得しにくいような部分が散見されることだ。また全体に従来より暗いトーンが覆っている上に、トミーだけが地球に強制送還されるというラストも少々後味が悪く、読後はどうもスッキリしない感じが残ってしまうのは否めない。とにかくシリーズ中でも特にミステリアスな一冊ということは言えるだろう。

(20040815)


ドリトル先生月から帰る

本書は1冊まるごと月世界旅行の後日談ということになるが、大きな特徴は、ドリトル先生による月での体験談を除き、全体を通してトミーがストーリーの中心にいることだ。動物達を養うため帳簿をつける仕事を始め、動物語も上達したうえに、医術を勉強して病気や怪我の動物達を治療するようにまでなり、皆から頼られる存在となっていくさまは気持ちが良い。

月でのエピソードで、ドリトル先生が瀕死のオーソ・ブラッジを前にして、医者としての使命をまっとうするため、自らを犠牲にする決断をくだす場面は、本シリーズでは珍しく内面的な葛藤が生々しく描かれており非常に印象的。そして最終的にドリトル先生の究極の研究テーマは不老不死へと行き着くわけだが、とうとう来るとこまで来たという感じがするな。

またドリトル先生が月に関する研究をまとめるため、誰にも煩わされない場所ということで牢屋に入ろうとするがなかなか上手くいかず、一方マシューはあっさりとぶち込まれてしまったり、苦労して牢屋に入るのに成功してもネズミ達のよけいなお節介で追い出されたりといったあたりは、いかにもイギリス的なユーモアで面白い。

本書は、最初の方は、先生は本当に帰ってくるのかという不安なムードが漂っているし、とうとう帰ってきたと思ったら衰弱しきっているし、また冒険的要素も少ないため、正直言って少々雰囲気が暗いところがある。だから後半のユーモラスな展開や、トミーの目覚しい成長振りには心底ホッとさせられる。

興味深かったのは、ドリトル先生が月から連れ帰ったネコのキャラクターだ。一家の動物達から「あんちくしょう」などというニックネームをつけられトラブルの種として毛嫌いされるが、トミーからは神秘的な魅力を認められており、自分を嫌う面々の前での不敵な振る舞いはとても気位の高いネコであることをうかがわせる。このネコはメスなのだが、ロフティングの女性観みたいなものが色濃く投影されているんじゃないかな。

余談だが、ぼくは子供の頃、トミー・スタビンズ君にたいそう憧れていて、「トミー・スタビンズの冒険」なる動物語が話せる青年技術者(彼は靴屋のせがれなので物づくりができる技術者という設定)が活躍する架空の物語を思い描いたりしていたものだ。しかし、ドリトル先生の薫陶を受けたトミーがこの先どんな青年になっていくのか、少年時代のぼくでなくとも気になるところだよね。

(20060416)


ドリトル先生と秘密の湖 上下

月にまで行ってしまったドリトル先生。もうそれを超える冒険の舞台なんてありはしないだろうと思ったら、なんとありました。今回の舞台は聖書の世界なのである。もっともドリトル先生が訪れるのは聖書世界の廃墟なのだが、カメのドロンコによって語られるノアの時代の大洪水の話はスケールがでかい。

上巻は、ドリトル先生が月から帰って以来熱中していた不老長寿の研究について匙を投げ出すことから始まる。目的を達せられずすっかり意気消沈してしまった先生を励ますため、トミーとポリネシアは先生を新たな冒険に連れ出そうと画策するが、そんな折、ロンドンスズメのチープサイドによって、アフリカに暮らす老亀ドロンコが地震のため生き埋めになったという報がもたらされる。ドロンコを救うためドリトル先生一行は船を準備しアフリカへと旅立つ。懐かしのファンティポでココ王の歓待を受け、ジャングルの奥地へと分け入り、ワニの助けを得て土砂に埋まったドロンコを救い出す。

下巻は、ドロンコが語る聖書世界の物語が大半を占める。悪王マシュツの支配する都で、ノアは動物園の園長をしていたが、神の啓示を受け箱船を作り、やがてそこへ大洪水が訪れる。亀のドロンコとべリンダの夫妻は、箱船に乗ることができたが、波間に漂う飼育係で奴隷のエバー少年と、奴隷の少女歌手ガザを発見し、彼らを救うためにノアと袂を分かち箱船を出る。ドロンコ夫妻は、エバーたちを救うために食料を探し、他の動物から護り、さまざまな冒険のすえ、敵のいない新天地をめざして彼らを連れて旅立つ。辿り着いた新大陸で、エバーとガザは子供を作り、彼らの成長を見届けたドロンコ夫妻は、再び旧世界に帰ってゆく。

以上のドロンコが語った物語を全て聴き取ったドリトル先生一行は帰路につき、地震の影響で再び地上に姿を現したマシュツ王宮を発見する。行方の分からなくなっていたべリンダ夫人がドロンコの元に帰ってゆくところで物語の幕は閉じる。

エバーとガザの若い夫婦が、ノアとは別系統の人類の始祖になるというストーリーは大胆だが、こういう創作はキリスト教的にはオーケーなのかな? おまけにノアとその家族がひどくつまらない人物に描かれているのも気になるが。一方、本作で無償の愛を体現している亀のドロンコ(とベリンダ夫人)の奮闘振りは感動的で、これこそキリスト教の教えに沿うものだろう。

ちなみに「ドリトル先生の英国(南條竹則著)」で興味深いことが指摘されているが、マシュツ王のモデルはヒットラーだそうである。言われてみればなるほどだが、大人の読者にとってはその辺を鑑みつつ読み返すのも面白いかもしれない。

ロフティングの最晩年に執筆された事実上の遺作であり、メッセージ性の感じられる部分や、やや思索的な部分もあるが、海中に沈んだ町の神秘的な様子(挿絵が素晴らしい)や、人間が動物の奴隷になるというまさかの展開、 水中に没していた宮殿と財宝が現れるラストなど、本作もまたロマンと意外性に溢れる素晴らしい冒険物語だ。

(20080211)


ドリトル先生と緑のカナリア

ロフティング死後に発表された作品。夫人の妹オルガ・マイクルによって補完された。3部立てで、1部2部は「キャラバン」でカナリヤのピピネラが語った物語をそのまま拡大したもの、3部は「キャラバン」の後日譚になる。なので、キャラバンを読んだ読者にとって前半は大まかに知っている話なのだが、これが滅法面白い。月シリーズや秘密の湖など、壮大な物語も素晴らしかったが、個人的な好みとしては、こういう身近な動物の体験談に強く魅力を感じるな。

1部では、小鳥飼育場で産まれたピピネラが様々な飼い主の元を転々とする。宿屋、城に住む公爵、フュージリア連隊、炭鉱夫、老婦人、そして窓拭き屋。ピピネラはずっと籠に囚われているため、極めて受動的な冒険にも関わらず、これがそこはかとなく面白い。公爵の城が労働者たちによって占拠されるあたりの描写は社会背景を窺わせるし、炭鉱のカナリアとなったピピネラが、炭鉱夫も自分も一蓮托生なのだと悟る場面もいい。ピピネラはかなり奔放な女性であるようだが、ヒナを産み母親となっても夫や子供にそれほど拘泥していないあたりは、これが鳥的な感性の表現なのか、それともロフティングの女性観の現われなのか。

2部では、ピピネラは、突然行方知れずとなった窓拭きの風車小屋を飛び出し自由の身となる。ヒワのニッピーとの失恋により、破れかぶれで大海原に飛び立ったピピネラは、激しいスコールの中で船に救われ、そこで窓拭きと再開する。窓拭き屋の正体はルポライターであり、某国の窮状を本に書いたためにエージェントに拉致されたのだった。折角窓ふき屋と再会し一緒に帰国したにもかかわらず、ピピネラは盗まれてペットショップに売り飛ばされてしまう。しかし幸運にもそこでドリトル先生と邂逅したのだった。

3部では、ドリトル先生たちによる窓ふき屋の捜索がはじまる。ロンドン・スズメのチープサイド夫妻の活躍により、記憶喪失になって入院していた窓ふき屋を発見する。記憶を取り戻した窓ふき屋は、隠していた原稿を取り戻しに風車小屋へと向かい、先生と動物たちの協力や、泥棒との馬車での追跡劇を経て、原稿を取り戻す。

それにしても不思議なのは、どうしてこれほど想像力豊かでアイデアに溢れたロフティングが「キャラバン」で一度使ったプロットをそのまま再利用するなどということをしたのだろうか? 

改めて「キャラバン」でのピピネラの物語を読み直すと、特に窓ふき屋の描き方があまりに不完全で、いかにも端折った感がある。ロフティングは、窓ふき屋の謎の行動や正体について、自分自身の筆で改めてキチンと明らかにしたかったのだろう。つまり本書の裏の主人公は窓ふき屋だとも言える。1部で謎めいた登場、2部で人物の背景が明かされ、そして3部の捕り物と、窓ふき屋を軸に物語が展開する。公爵家の出身であるなどというオマケがついたのはご愛嬌だが、それもまたロフティングの窓ふき屋に対する執着の表れなのだと思う。

(20090111)


ドリトル先生の楽しい家

ロフティングの死後に発表された短編集。これまでに発表した作品から漏れたエピソードをまとめたもの。身も蓋もない言い方をすればボツ集ということになってしまうが、ファンの贔屓目などではなく一編一編のクオリティーはかなり高いと思う。

船員と共に無人島に取り残された「船乗り犬」、狂犬の真似をして雑種犬ホームに入った血統書付きの「ぶち」、ジップにより編成された「犬の救急車」、探偵犬クリングが活躍する「気絶した男」、以上の4編は「ドリトル先生と月からの使い」から漏れたエピソードだと思われる。個人的にはドタバタ喜劇のような「犬の救急車」がテンポ感が良くてお気に入り。この可笑しさはドリトル先生シリーズの中でも屈指でしょう。

「カンムリサケビドリ」は、「ドリトル先生のキャラバン」の中に入るべきだったエピソードで、カナリアオペラのコーラスを探すために先生とチープサイドがレジェント公園に出向くという話。改めて「キャラバン」を読み直してみても、何が原因で本作のストーリが割愛されたのかよく分からない。

「あおむねツバメ」は、おそらく「アフリカゆき」と「サーカス」の間に挟まる時期のエピソード。韋駄天スキマーとの邂逅場面もある。サルの病気を治してアフリカから帰るとき、食料を補給するために立ち寄ったガンビア・グーグー国で、大量に狩られていたあおむねツバメを救うため、機転を利かせて鳥たちに虫を食べることを禁止し、国を虫で溢れ返させるというお話。

「虫ものがたり」は、「ドリトル先生と月からの使い」から漏れたエピソード。クルミの実に入ったウジ虫が、船旅をして、また故郷の木に帰るという奇想天外な物語。ロフティング本人も気に入っていたというだけあってユニークさでは群を抜く。

「迷子の男の子」は、「ドリトル先生のキャラバン」から漏れたエピソード。迷子の男の子がドリトル先生のサーカスを混乱に陥れる。喜劇調の可笑しい話ではあるが、最後に男の子の母親から罵倒を浴びせられる先生の姿がちょっと切ない。

どの物語も大変面白く読み応えがあり、未収録となったのは、単にボリュームやバランスを取る関係だったのだろう。素敵なエピソードを削ってでも作品の質を高めようとしたロフティングの創作にかける意気込みが伝わってくる。これらの素晴らしい物語がひょっとすると日の目を見ずにお蔵入りする可能性があったのは恐ろしいことだ。作者自身にとっては本意ではなかったかもしれないが、本書を発表してくれた夫人とオルガ・マイクルに感謝したい。

(20091230)





ナルニア国ものがたり (全7巻) C.S.ルイス 作/瀬田 貞二 訳

ライオンと魔女

これは面白いね。最近映画化もされているので、現代の子供たちがファンタジーの世界に迷い込む物語だとは知っていて、まあよくあるタイプのベタな物語なんだろうと思ってた。ワードローブの奥に異世界がひらけてるというのも、アリスの落とし穴かおしいれのぼうけんか、平凡なパターンですなと。ところが冒頭で登場する半獣半人のフォーン、タムナスさんのキャラクターがとてもよくてたちまち惹き込まれた。

ナルニア国は、白い魔女に支配されてから雪に閉ざされている。そこへ迷い込んだピーター、スーザン、エドマンド、ルーシィの4兄弟は、ライオンのアスランとともに白い魔女と戦う。筋運びは前述のとおりファンタジーとしてはたいへんオーソドックスなものである。しかし軽妙な語り口とスピーディーな展開で、全体にそこはかとない面白さが漂っている。タムナスさん、ビーバー夫婦など登場人物も魅力的。突然サンタクロースが登場して子供たちにプレゼントをあげるときのワクワク感も良い。

前半は楽しげなムードに包まれて物語が進むが、後半は一転する。兄弟を裏切ったエドマンドを救う交換条件として、ライオンのアスランが自ら犠牲となり辱められ殺され、そして復活するまでの展開は緊迫感に満ちておりとても迫力がある。その後のアスランと4兄弟の勇ましい活躍など、緩急起伏の幅が大きく、本を置く暇も無くあっという間にラストまで連れて行かれる。

本書のストーリーはキリストの受難と復活の物語がベースとなっているということだが、それ以外にこまかいところでも童話やファンタジーなどの馴染みのあるモチーフが散りばめられており、安心感と不思議な懐かしさも感じさせてくれる。しっかりした作品ながら平易なので、年少の読者にもお勧めしたい。初版は1950年。

(20080302)


カスピアン王子のつのぶえ

作者は元々「ライオンと魔女」の一作だけで続編を書くつもりはなかったそうだ。確かに前作で物語はキッチリ完結しているばかりか、続編が作りにくいような幕の閉じ方をしている。ところがそのことが本編に独創的な設定をもたらし、ナルニアの世界を時間的にも大きく広げることに繋がってしまった。

本作は同じナルニアが舞台でも前作から数百年の時が経っている。迷い込んだ廃墟の城が、かつての自分達の城だと気付くあたりの導入はワクワクしますね。4兄弟は唐突にナルニアへと呼び戻されるのだが、前作ではあまり効果的に活用されなかったつのぶえというアイテムがここで役立ったというのも良い。

この物語を独創的なものにしているのが、4兄弟が子供でありながらナルニアを統治した王としての経験を持っていることだ。本作の主役は若きカスピアン王子であり、4兄弟は伝説の王として彼をサポートする立場になる(クライマックスはピーター王が持っていくのだが)。子供でありながら経験も威厳もあるという風変わりな設定で、しかし不思議と違和感が無く、その辺の感覚が実にユニークだ。

本作をざっくり一言でいえば、カスピアン王子が失われたナルニアの世界を復活させるという物語なのだが、とても印象的かつ感動的なシーンがふたつある。ひとつは星空の下、塔の頂上でカスピアン王子がコルネリウス博士から正体を明かされ、ナルニアの秘密を知るシーン。もうひとつは深夜の森の中で、ルーシィが木々の蠢きを感じる場面。どちらもファンタジー世界の胎動を肌で感じるという象徴的な場面で、ポーリン・ベインズによる挿絵も秀逸なのだが、ここで描かれているのは具体的な何かではなく、あくまで「予感」みたいなものだ。このような、何だかよく分からない巨大なものが果てしなく広がっているという感覚はファンタジーの醍醐味だと言いたいな。

(20080320)


朝びらき丸 東の海へ

今回はエドマンド、ルーシィに加え、いとこのユースチフの3人がナルニアを訪れる。このユースチフという奴のキャラクターが強烈で、最初はとってもイライラさせられるんだけど面白い。3人は突然船を描いた絵の中に吸い込まれるが、そこは前回の冒険から3年ほどたったナルニアの外海だった。「朝びらき丸」に乗り込んだ3人は、カスピアン王子と共に、ミラース王によって追放された7卿を探す航海に加わる。

離れ島諸島では奴隷商人に捕らえられ、嵐の後で辿り着いた竜の島ではユースチフが竜の姿に変えられ、沈んだものを金に変える湖のある死水島などを巡っていく。声の島では魔法使いの呪いを解いて「のうなしあんよ」の姿が見えるようにし、悪夢が現実となるくらやみ島から逃れ、3人の卿が眠り続ける島では星の化身ラマンドゥと出会う。3人(厳密には一人増えるので4人)の卿を目覚めさせるため、一行は「この世のいやはて」へと進み、世界が尽きたと思われるところでエドマンド、ルーシィ、ユースチフは元の世界に戻される。

彼らが巡っていく島がそれぞれ個性的で、密度の濃い冒険が連続する。印象的な場面も枚挙に暇が無く、ユースチフが竜に変身してから元に戻るまでの顛末や、声の島でルーシィが魔法の本を読む不思議なシーン、天国のようでいて同時に禍々しくもある「この世のいやはて」の様子など、どれも忘れがたい

ナルニア世界について、色々分かってきたことがある。今回の冒険にピーター、スーザンは来る事が出来ず、またエドマンド、ルーシィもこれがナルニアを訪れる最後の機会であることから、子供しか来ることが出来ないようだ。そして訪れた子供は精神的な試練を与えられ、それを克服し成長するという機能がある。またナルニア世界には果てがあり(球形の惑星ではない?)、ナルニアの主であるアスランはナルニア外のこちらの国でも他の名前(キリスト?)を持って存在している。おぼろげに見えてきた世界が今後どのように発展していくか楽しみなところだ。

(20080413)


銀のいす

前作(「朝びらき丸」)で活躍したユースチフと、クラスメートの少女ジルがナルニアの世界に入り込み、アスランの使命によりナルニアの王子を救い出すため北方に向けて旅に出る。まずショックを受けるのは、前作で一緒に旅をしたカスピアン王子(と小人トランプキン)の老いさらばえた姿だ。そう、前作から数十年たったナルニアが今回の舞台なのだ。

ユースチフとジルは、沼地でひょろ長い四肢をもつ「泥足にがえもん」と出会い、3人で荒野を越え、巨人の国から命からがら逃れ、やがて地下の国の奥深くへと入ってゆく。地下の国で魔女を倒し、リリアン王子を救い出した一行は地上へと生還。王子と再会したカスピアン王がほどなく崩御するのが残念だが、平和のうちに穏やかなハッピーエンドを迎える。

今回の冒険で大きな役割を果たすのは、沼人の泥足にがえもんだ。不平を言いまくりの悲観主義者だが、やるときはやる頼りになる人物で、主役の二人よりキャラが立っている。ちなみに調べたら英語だとPuddleglumとつづる(puddle=こね土、glum=ふさぎ込んだ)。「泥足にがえもん」とは訳者もえらい名前をつけたもんだなと思うが、これはこれで読んでるうちにすぐ馴染む。ナルニアのシリーズは、脇役たちの存在が大きな魅力だな。

タイトルになっている銀のいすとは、リリアン王子の心を狂わせ地下の国に縛り付けていた魔法の道具なのだが、終盤まで出てこないため、当初はタイトルが意味するものがさっぱり分からない。また読み終えた今も、タイトルになるほど重要なものだったのだろうかという気もする。ぼくが浅学ゆえに分からないだけで、西洋人が読めばピンとくるような象徴的な意味が隠れているのかもしれない。

(20091025)


馬と少年

本作はピーター王たちがナルニアを治めていた時代が舞台であるが、4兄弟の出番はほとんどなく、主人公はナルニア生まれのシャスタという少年である。4兄弟の堂に入った王様っぷりや懐かしいタムナスさんの登場など、思わずニヤリとさせられる場面もあるが、あくまで読者サービス程度のものだ。現代の少年少女が不思議な力でナルニア世界に入り込み、そして最後に現代に帰るという従来のパターンから外れているという点でこれまでとは趣を異にしており、外伝的な感じのする一編となっている。

ぼくはてっきり子供たちがやってくる世界全体が、妖精や魔法のある不思議な世界だと考えていた。ところが本作ではナルニアから地続きでカロールメンというアラブに似た国があり、そこには妖精やしゃべる動物などは居ない。とりわけ意外なのは、神に近い絶対的な存在だと思っていたアスランが、ナルニア国の外では崇拝の対象でもなんでもないように見受けられることだ。それはキリストが異教の地では影響力をもたないのと同じ感じだろうか。

漁師に拾われ育てられた少年シャスタは、貴族に売り飛ばされそうになり、その貴族が乗っていたしゃべる馬のブレーと共に逃亡する。彼らは、政略結婚を嫌って逃げ出した少女アラビスと、しゃべる馬のフインと合流し、共にナルニアを目指す。カロールメンの都市タシバーンで、ラバダシ王子がナルニアを攻めるという情報を手に入れた一行は、砂漠や渓谷を越え、ナルニアへ急を知らせる。シャスタの活躍によりいち早く情報を得たナルニア軍は、ラバダシ王子の迎撃に成功。最後に実はシャスタがアーケン国の王子であったことが判明し、幸せのうちに物語は幕を閉じる。

いままでの作品にあったようなファンタジックなスペクタクルシーンが無いためやや地味ではあるし、魔法的な要素が少ない分、オーソドックスな異国旅行記的な冒険となっているが、個人的には好きな作品である。政治のやりとりなど、今までになく現実世界との接近が見られる。

カロールメン国ではナルニアの者はこっそり隠れたり、馬のブレーも自分がしゃべれることを秘密にしているし、アスランすらもが普通のライオンのように振舞っている。魔法が使えないということではないようだが。ナルニアについては、地球とは違う「果てのある箱庭」的な世界をイメージしていたが、その中にアスランの力が及ばない区域もあるということなのだろうか。それとも前述のとおり本編はあくまで外伝的なものとして考えたら良いのか。なぞは深まるばかりだ。

(20091123)


魔術師のおい

ナルニアの天地創造が描かれる神話的な描写が印象深い作品。物語はロンドンを舞台に始まる。少年ディゴリーと少女ポリーは、魔術を研究しているアンドルー伯父の策略により、魔法の指輪の力で、いくつもの池がある不思議な森へ飛ばされる。池はひとつひとつが別の世界につながっており、ディゴリーとポリーはそのうちのひとつ廃墟の町で魔女ジェイディスを蘇らせロンドンに連れてきてしまう。ロンドンで暴れる魔女を別の世界に飛ばすため、ふたたび指輪を使った彼らはそこでナルニアの創生を目撃するが、その魔女が後の災いの種となる。やがて新しく生まれたナルニアの世界で、ディゴリーの病気の母親を救うためペガサスに乗ってリンゴをとる旅に出る。

無から、山ができ、川ができ、植物や動物が出現し、やがてそれらがまたたくまに広がっていきナルニアになるという、まさに神話のような創世物語が展開され、ここでのアスランはまさしく造物主そのものである。しかしそのナルニアも一歩外に出ると、たくさんある世界のうちのひとつに過ぎないという多層的な世界観で、我々の暮らす世界もまたナルニアと同じく池の中のひとつであるということが言いたいのだろう。こういうのは昔の漫画でいろいろ読んだなあ。子供のころ劇場に見に行った「のび太の宇宙開拓史」を思い出した。

本書では、どうやってナルニアに魔女が入り込んだのか、どうしてナルニアの野原にポツンと街灯が立っているのか、どうしてワードローブがナルニアにつながっていたかなどの謎が明かされる。まだまだ不思議な点はたくさんあるが、たとえばアスランは自分の威光が通用しないカロールメンのような国もあえて作ったということなのか。クリスチャンはキリスト教の神があえてアラブ世界などもつくったという考えなのかな。

ロンドンの街中を馬車で暴れまわるジェイディスとアンドルー伯父の受難など、喜劇調のユーモラスなドタバタしたシーンと、荘厳な創世物語との落差がすごい。とりわけアンドルー伯父がナルニアで植物と間違えられて地面に植えられる場面はえらく意地が悪いな(笑)。こうも魔術師らしくない魔術師もめずらしい。

(20100110)


さいごの戦い

壮大なナルニアの物語も本巻で幕を閉じる。サルとロバの登場から始まる冒頭はまるで寓話のようだが、偶然拾ったライオンの皮をロバが被りアスランに化けるあたりからキナ臭くなり、最後にはナルニアが消滅するまでの大スペクタクルへと急展開していく様はまさに圧巻である。シリーズの中でも特にシリアスで暗いトーンでおおわれているが、今まで登場したキャラクターたちも次々に登場し、まさに集大成という一冊だ。

ライオンの皮を被ったロバをアスランと思い込んだナルニア人や動物たちは、サルの言いなりとなり、王であるチリアンも捕えられてしまう。ナルニアにやってきたユースチフとジルにより王は助けられるが、サルの陰謀を暴いた時には、すでに隣国から入り込んできたタシ神を信仰するカロールメン人と、サルの勢力は強大なものになっており、さらに本物のタシ神が現れて混乱は極みに達する。

ついにナルニア人とカロールメン人との間に激しい戦闘が開始されたとき、ピーター王をはじめとする7人の王たち(何故かスーザンを除く)、さらにはアスランが登場し、やがてナルニア世界の崩壊が始まる…。ナルニアが無に向かって崩れていく場面の描写は壮大でダイナミックである。

しかし、このオチは何なんだろう!? 扉の向こうに新しいナルニアが広がり、今までのナルニアがまぼろしだったと。となれば「魔術師のおい」でアスランはまぼろしの世界をつくったのか。そして扉をくぐった者たちは新しいナルニアの奥深くへと進み、たどり着いた真の世界で歴代の王や死に別れた親に会い、もう元の世界に戻ることはないと告げられる。なぜなら彼らは列車事故で死んだのだ。要するにみんな天国に行ったということらしい。キリスト教の世界観がベースになっていることは分かっているが、これはハッピーエンドなのか何なのかよくわからない。私たちは死んで初めて真の幸せな世界に行けるということなのか。

最後の最後に大きな疑問を残して物語は完結してしまったが、ひょっとすると読者に論争を巻き起こすことも作者の意図のうちだったのかもしれない。いずれにせよスケールの大きな世界観や息詰まる描写は非常に読み応えがあった。

(20100214)





小人たちの冒険シリーズ (全5巻) メアリー・ノートン 作

床下の小人たち メアリー・ノートン 作/林 容吉 訳 訳

先日映画館に映画を見に行ったらジブリの新作らしきポスターが貼られていた。「借り暮らしのアリエッティ」というタイトルだが、よく見ると原作が「床下の小人たち」(岩波少年文庫刊)となっているではないか。というわけで本書を読みだしたわけだが、さすがジブリにアニメ化されるだけあって楽しく読みごたえのある作品だ。

ある屋敷で秘かに人間と同居していた小人の家族が、男の子に発見されたことを切っ掛けに生活が大きく変わり、最終的にその屋敷から逃げだすまでを描く。

本書のユニークなことのひとつは小人たちの世界観だ。小人たちは人間のものを少しずつ盗んで暮らしている。しかし自分たちはあくまで「借りて」いるだけだと主張する。明らかに寄生しているわけだが、本人たちにそういう自覚はなく、それどころか人間は自分たちのために存在しているものだと信じている。人間の男の子との出会いにより、世界観や価値観の衝突があるが、そのような小人的なものの考え方が面白い。

小人たちは、人間から「借りて」きたマッチ箱をタンスにしたり、銀貨を皿にしたり、糸巻きを椅子にしたりする。1953年の作品で、さらにそれより古い時代のことを描いているため、現代とは調度品が違っており、今ではなかなかお目にかかれない小物も出てきたりして、その辺のディテールの楽しさ、ノスタルジックさも魅力の一つだ。ポーリン・ベインズの表紙やダイアナ・スタンレーよる挿絵も、細かい小道具の書き込みが楽しい。

原題は "The Borrowers" 。訳者によるあとがきからは、邦題をどうするか迷ったようなふしが窺われるが、原題はシリーズ全体が英語で語呂合わせみたいになっているから確かに困っただろうな。もちろん「床下の小人たち」でも悪くないが、ジブリの「借り暮らしのアリエッティ」というのは素敵なタイトルをつけたもんだと思う。

(20100207)


野に出た小人たち メアリー・ノートン 作/林 容吉 訳 訳

本来なら小人シリーズは最初の一冊だけで完結していたはずだ。それは前作の最後の一行を読めばわかる。ところが2匹目のドジョウを狙ったのかあるいは作者の創作上の欲求かわからないが、こうして第二作が生まれた。こういう続編は、えてして一作目よりも劣るものだが、ぼくはこの第二作のほうが面白く優れていると思う。

メイおばさんが小女ケイトに「おとうとから聞いた話」として語ったのが前作の小人の話であった。ところが最後の一行がすべてを打ち消したため、本書は冒頭で相当のページ数を割いて、少女ケイトがトムじいさんから小人たちの話を聞くという設定に切り替えた。トムじいさんは直に小人たちと交流があったうえ、証拠の日記まで持っている。

一見、作者がファンタジーの世界へと大きく舵を切ったように見える。しかしトムじいさんは弁護士のビーグッドさんから「五郡きっての大嘘つき」「やっかいな、くわせもの」と呼ばれるような人物である。さらに証拠の日記は出自に疑問があることが前作で示唆されているうえ、その日記以外の証拠は決定的な形では提示されていない。どうもこの作者メアリー・ノートンは油断がならない。

そもそも借り暮らしの小人が借りることをやめたら、それはただの小人なのである。アリエッティたちが野原でロビンソン・クルーソー的なサバイバル生活を始めた時はどうなってしまうのかと思ったが、結論から言うと、彼らはロビンソンにはなれなかった。

野原に出たアリエッティたちは、捨てられた靴の中で暮らすようになり、野生児スピラーと出会う。スピラーから肉や生活雑貨を得て命をつなぐが、彼が居なくなると、自分たちで小動物を狩ることもできず、冬の到来とともに餓死寸前まで行ってしまう。寄生という言葉は印象が悪いが、彼らは人間に寄生しなければ生きていくことが出来ない宿命のようだ。ひょっとすると彼らの存在自体が何かの暗喩なのかもしれないが、それが何なのかはよく分からない。

餓死やジプシーに捕まる危機を乗り越え、トム少年に保護されたアリエッティたちが、トムの家で親戚ヘンドリアリ一家と再会を果たしたところで物語は終わる。ハッピーエンドのようでもあり、決してハッピーじゃないようでもあり、その後の波乱を予兆させる要素もたくさんある。続きが気になるところだ。

本書で描ききれなかった、ケイトとトムじいさん、そしてアリエッティとトム少年とのその後の交流が、第三作以降でどう展開していくか非常に楽しみだ。果たして、再びちゃぶ台をひっくり返すようなこと(「実は小人の話は全部ホラ話でした!」みたいなこと)があるのかどうか。

どうしてもひとつ書いておきたいのがポッドの口調。これは素晴らしい。前作も良かったが、本作でも実にいい味を出している。訳者の勝利。もうぼくはポッドはこういう風にしゃべるんだと思ってしまっている。これじゃ改訳できないよなあ。

(20100411)


川をくだる小人たち メアリー・ノートン 作/林 容吉 訳 訳

例によって冒頭から小人たちは登場せず、まずは人間であるメイおばさんとビーグッドさんのやり取りから物語は幕を開ける。本作では明確に路線変更があって、小人たちの存在は法螺ではなく現実に存在するものとして扱われている。また前作で一種の語り部となっていたトムじいさん(トム少年)はほとんど登場せず、これまでテーマの一つとなっていた小人と人間との交流の描写も避けられている。

前作までの虚か実かあやふやな世界観も面白かったが、シリーズ物の長編を書き続けるのにあたって、それではもたなくなってしまったのだろうか。その分、ファンタジーとしてはストレートな力強い作品になった。余韻のあるラストシーンも、前作までなら絶対に見られなかったような場面だろう。

ポッド一家は、ヘンドリアリ一家と再会し、彼らの住処に居候に近い形で間借りすることになるが、もうひとつ折り合いが悪く、家主である人間(トム少年たち)が引っ越して空家になるのを機会に、新しい住処を求めて旅にでる決意をする。放浪児スピラーの助けを借り、下水管から家の外に脱出し、さらにヤカンの舟に揺られて川を下る。ジプシーの「マイルド・アイ」に見つかるが、際どいところで難を逃れ、スピラーと共に夢の町「リトル・フォーダム」を目指して川を下っていく場面で幕を閉じる。

本書でとりわけ印象に残るのは家族の結びつきのつよさだ。アリエッティの冒険が抑えられ、家長としてのポッドの存在感が増しているが、このことも「家族の物語」という色合いを強めている。ポッドとホミリーの夫婦愛がしみじみと感じられる描写もあり微笑ましい。

(20101024)


空をとぶ小人たち メアリー・ノートン 作/林 容吉 訳 訳

人間側の登場人物が一新され、これまでの小人たちシリーズとは構成、趣向がやや異なっている。いちばん大きな違いは、過去のものとして語られていた小人の存在が、現在進行形になったことだ。前作までの物語は3部作としていったん完結し、新たに仕切り直したような感じだ。

元鉄道員のポッター氏は、退職後の趣味として模型の村「リトル・フォーダム」を作り上げた。ポッド一家はそこにたどり着き、住みつくようになるが、ポッター氏(と村づくりを手伝ったミス・メンチス)は知らぬふりをしつつ彼らを見守っていた。近所のプラター氏は、金儲けのためにポット氏を真似て模型の村を作ったが、「リトル・フォーダム」偵察の折に小人の存在を知り、見世物にするため彼らを拉致し、自宅の屋根裏部屋に監禁する。

捕えられたポッドたちは、屋根裏のガラクタを駆使し、古雑誌の記事を参考にしながら気球を制作、空から脱出する。帰りついたリトル・フォーダムの家は、ミス・メンチスによってさらに住みやすくなっていたが、人間の庇護のもとに生きることを拒否した一家は、ふたたび旅に出るところで物語は終わる。

人間たちは、これまでになく深みを持って描かれているし、前半に出てきた小道具が伏線となってのちの脱出に活きてくる構成も小気味いい。気球の制作や、空の旅も読みごたえがある。小人が登場するファンタジーとしては独創性、娯楽性ともに非常に高い傑作であると思う。この作品こそジブリが映画化したら面白くなりそう。

(20101031)


小人たちの新しい家 メアリー・ノートン 作/猪熊 葉子 訳 訳

前作までの4作で小人たちのシリーズは完結したかに思われていたが、21年の歳月を経てこの第5作が書かれた。読者としては、ついつい21年という歳月の重みにとらわれてしまいがちではあるが、読んでみると筆の運びは滑らかでブランクなど微塵も感じられなく、これまでどおりの楽しい物語である。挿絵がダイアナ・スタンレーからポーリン・ベインズに代わり、訳者も林容吉から猪熊葉子に代わったが、ベインズは小人たちシリーズの表紙をずっと手掛けているし、猪熊葉子の翻訳もこれまでの登場人物たちの喋り方を丁寧に踏襲しているので大きな違和感はない。

物語は前作でクロック一家がリトル・フォーダムを旅立った直後から始まる。プラター氏の執拗な追跡を逃れ、牧師館にたどり着いた一行は、そこで新しい暮らしを始め、ピーグリーンという小人の少年と出会ったり、隣の教会に暮らすヘンドリアリ一家とも再会して、平穏で幸せな生活を手に入れる。唯一心をさいなむ存在であったプラター夫妻は、小人をつかまえるため深夜の教会に忍び込んだところを村人たちに見とがめられ、村を出て行った。小人たちに平穏が訪れたのだ。

21年も経って物語の続きを書いた理由はなんだろうと考えた。解説には、人間の現代社会に対する批判だとあるが、ぼくの見解は違う。思えば、本シリーズの1、2作目は、小人たちは実在するかしないかわからない法螺話のような扱いだった。それが3,4作で、昔は小人がいたのかもしれないという世界観に変わった。そして最終巻の本作では、古い教会や牧師館には、ひょっとしたら「今でも」小人たちが暮らしているかもしれないという余韻が残った。1作目の意地悪なラストから考えれば180度の転換である。これこそが老境に達した作者がやりたかったことではないか。

一作目では孤独な存在であった小人たちが、存外あちこちに仲間がいることを知り、一番の天敵であるプラター夫妻も除かれる。アリエッティは人間たちとは決して関わりをもたないことを再び誓い、小人たちは美しく恵まれた環境で暮らしていくこととなり、シリーズ全体を総括するようなハッピーエンドである。ただ、子供のころに読んだならば、悪者が成敗される本書の結末には拍手喝采したかもしれないが、この歳で読むと、プラター夫妻のあまりにひどい扱いに少々心が痛むのが正直なところだ。小人を現代にまで生きながらえさせるためには、プラター夫妻のような不安要素は排除せざるを得なかったのかもしれない。

個人的には、本作において幽霊や超能力者が登場したのも残念なことだった。小人という不思議な存在を扱っていながらも、細部までリアリティーを追及している点がこのシリーズの面白さの一つだと思っていたので。しかも幽霊はただ佇んでいるだけだし、超能力者は能力を発揮しないし、物語の本筋に大きな影響は与えておらず、なぜわざわざこんな存在を持ち出したのか意図を図りかねる。現実世界と空想世界との垣根を取り払うという作者の新たな方向性が、日常に溶け込む形で幽霊や超能力者を登場させることにつながったのだろうか。

ともあれ、この最終巻で作者の言いたかったことはただこれだけだろう。「あなたのそばに小人は実在するのですよ。」 いろいろ文句も書いたが、ファンタジーのラストとしては美しい締めくくり方だと思う。

(20110130)


ローラ物語(全7冊)  ローラ・インガルス・ワイルダー 作/谷口 由美子 訳

ぼくが子どもの頃、「大草原の小さな家」というアメリカ制作のテレビシリーズをNHKで放送していて、結構人気があったのだが、それの原作シリーズである。小さい頃の番組なので詳しくは覚えていないけれど、とても懐かしく、親しみを感じる。覚え間違いかもしれないが、オリンピックのアメリカ大会(ロス?アトランタ?)の開会式のマスゲームに、「大草原の小さな家」の家族が登場して、感動した記憶がある。子供ながらに、アメリカ人がこの物語を大切にしていることは伝わってきた。

注意しなければならないのは、日本では版権の関係で、「大きな森の小さな家」から始まる前半の5作が福音館から、そして後半の5作(7冊)が岩波書店から出版されることになった。つまり、岩波少年文庫だけではローラの幼少期などはわからない。大人の事情だかなんだかしらないが、版権関係のゴタゴタは煩わしい。

というわけで、岩波少年文庫ではないけど、一作目の「大きな森の小さな家」からキチンと読んでいくことにした。今は複数の出版社から出ているようだけど、訳と挿絵に定評のある福音館文庫(ガース・ウィリアムズ絵/恩地三保子訳)で読んでいく。


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by ようすけ