自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・南九州の日豊本線に沿って/青井岳越え
302.  門デフの貴婦人 C57154の発車 ・日豊本線/吉都線

〈0001:3bR5−116:C57 154号 貴婦人の引く都城行き旅客列車の発車
吉都線・どこかで。
日向沓掛駅を発車するC57154号・日

〈0002:33-14:夕焼けの日向路〉
33-14:夕焼けの日向路・日豊本線日向沓掛


〈0003:bQ20522:フエニックスのある風景〉


〈撮影メモ:昭和45年2月14日撮影〉
1545レ、日向沓掛駅近し。左手前から右奥へ、カーブはしていない。一寸した枯草のどて。白煙が上に上がってから横へ、旅客列車、3両くらい見える。向かって左下どれーん。背後は近くの杉林と空。
左手前の畑の中に南国らしい樹木が1本植えてあった。チヘ
フエニックス(棕櫚のような肌、なつめやし、かろりんやし)ではなかろうか)

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〈紀行文〉
 最後まで残っていたパシフイックの牙城であった南九州の日豊本線の電化が近くなった昭和49年1月に都城からの吉都線の辺りを訪ねた。今まで数多く訪ねた日豊本線の撮影の最後のチャンスとなるだろうと思うと、何とか傑作をものにしたいと気を引き締めたのであった。
最初に向かったのは吉都線の加久藤駅辺りで下り列車の発車シーンを狙ったのだった。冬の早朝の要綱は意外に遅くやってきて斜光線が東の空から降り注ぐようになった頃に発車の汽笛が谷間にとどろいた。そして右カーブを描いてSL正面と後ろの客車の左側面が陽に照らされてチラリと見えた。フアインダーの視界に入って来たのは、爆発するように吹き上がる黒煙と、左右に生き良く吐き出されたドレーンの蒸気のものすごさであった。そして門鉄デフを構えた煙室扉に付けられたナンバープレートがギラリと夕陽にきらめいた。夢中であったので情景は全く覚えては居なかったが、プリントしてみて、この壮絶な爆煙シーンの迫力のすごさには我ながら驚かされたのだった。風がほとんど無く、緩やかに右から左に煙が流れているように見受けられ、そのせいで、煙がSLからほとんど離れずにまとわりついているのも良いイメージだと感じられた。
私の写真は背景や前景に重きを置くことが多いので、このような写真を撮ることは珍しいと云わねばならない。
このSLがC57154 [吉]であったので、宮崎−吉松間に設定されていた吉都線経由の列車であったろうか。
このSLは昭和17年に川崎車両で製造されており、蒸気ドームの形状と、組み立て式従台車と板枠のテンダー台車枠の使用だけが基本形と異なる二次形の一輛であった。それ故に、直径 1,750mmの大動輪と細いボイラーを備えていたから、正に脚の長い整った容姿の女性に例えて付けられた“貴婦人”であった上に、美しい門鉄デフを装っていたことは幸運と云えるだろう。最初は九州の鳥栖(とす)区へ鹿児島・長崎などの幹線で特急列車を牽いて活躍した。そして1954年(昭和29年)には標準型のデフレクター(除煙板)を新開発の小倉工場製の切り取り形除煙板 「K−7タイプ門鉄デフ」に交換された。この下半分を切り取った理由は、この部分は煙の誘導効果も小さい上に、シリンダーのバイパス弁の保守点検に邪魔となっていたことに着目して開発されたモノだと聞いたが、そのスタイルは何か洗練された感じがするように思われた。その後は、1972年6月に吉松機関区に転じて最後のご奉公を果たしていた。昭和49年2月に廃車となっているから、
私の撮った僅か1ヶ月後のことだった。この動輪が肥薩線の大隅横川駅前公園に保存されているのはうれしい。
私が昭和42年からSLの撮影を始めて間もなく、私の勤めるホンダの系列会社にホンダロックと云うスピードメーターを製造している会社があって、その工場が宮崎県下の日豊本線の佐土原駅の近くにあり、時々技術指導を頼まれて出かけたのだった。その最初の休日には、清武から田野までの沿線をバスを乗り継ぎながら歩き回ったことがあったので、その辺の地形は熟知していたからであった。この古い街並みの残る清武から清武川の支流である岡川が、東側に連なる鰐塚山地(日南山地)からせり出して来ている低い尾根筋に谷を刻んでいた。この谷筋を日豊本線と並んで昔かラ鹿児島街道と呼ばれていた国道269号が田野を経て都城へ向かっていた。日豊本線は、この清武−田野間の10.2kmのうち5.8kmは約17パーミルの登り勾配が占めており、特に清武から丘陵のサミットで国道269号をアンダークロスするまでの連続勾配は、この先の田野−青井岳間に控えている「青井岳越え」の前哨戦のようであった。この勾配の途中に、かって信号場として設けられ、今は駅となっている日向沓掛がある。ここは国道よりも一段低い所にあるホームからは、山里の集落をゆったりと流れ下っている小川の雰囲気が大変気持ちが良かった。
 次に掲げた写真は、長い付き合いが続いた日豊本線の最後の別れのショットにふさわしい「夕焼けの日向路」と題を付けた作品である。
青井岳から田野へ一気に走り戻って、逆光にシルエットとなって橋を渡るC57を捕らえた。ここは日向沓掛駅を出てから国道の下を抜けて開けた明るい谷間の中の鉄橋を黄金に輝く夕焼けの空をバックニ快走する下りの旅客列車の姿である。この先は河岸段丘をかけ登って広大な農地の広がる別所田野と呼ばれるシラス台地となり、やがて田野駅が近づいてくるはずである。
■急行日南3号のC57
昭和48年(●1973年)10月時刻改正の最大のニュースは、日豊本線にSL牽引の急行が復活した事であろう。これはC62重連「ニセコ」やC59とC62による「安芸」などの蒸気牽引急行が消えてから久しく、突然出現したC57牽引の定期急行列車 「日南3号」1121レは最大の注目を浴びたのであった。これは下り急行「日南3号」の宮崎→都城、僅か50Kmを宮崎区のC57が牽引する片道だけの運行であった。
この下り「日南3号」は京都発の時には荷物車を含めた13両編成であったが、大分と宮崎で次ぎ突きと切り離し、宮崎発では7両編成で、荷物車、10系客車に、オハネが1輛とオロ11(グリーン車)が2輛の堂々たる列車であった。
この運行は1973年10月の時刻改正から翌年の4月の宮崎電化までの僅か半年間であって、しかも冬を挟んだ季節であり、その上に宮崎発は15時:49分、都城到着が16時59分と遅かったので、日没時刻が遅い南九州だったが夕陽の時刻にってしまっていた。このSL復活の背景には、ちょうど南延岡〜南宮崎間の自動信号・CTC化が完成し、機関車に列車無線の装備の有無による運用区分を行ったことから生じたものと伝えられている。これがライトパシフィックC57のふィナーレを飾った。

撮影:昭和49年(1974)1月15日。

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・「南九州の日豊本線に沿って」シリーズのリンク
158. 「宗太郎越え・第1鐙川橋梁」 (日豊本線・市棚→宗太郎)
019.夜明けの日向路(JR九州・日豊本線)
159. 日豊海岸の日向灘沿いを行く (日豊本線・美々津〜日向市の間)
150.SL最後の牙城「大淀川橋梁を行く」・日豊本線/宮崎−南宮崎
032. 南日向の大堂津にて・日南線
・「青井岳越え」シリーズ・日豊本線/宮崎−都城 間
029. 夕暮れのいわし雲とC57・日豊本線/日向沓掛−田野
262. 田野駅のC5552発車・日豊本線/田野付近
261. 青井岳駅界隈(かいわい)・日豊本線/石門(信)〜山之口 間