自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・南九州の日豊本線に沿って

158.  宗太郎 え・第1鐙川橋梁」  ・日豊本線/市棚→宗太郎


〈0002:〉
宗太郎超え 日

〈0001〉
宗太郎越に向かうどこ

〈0003:bP70743:北川-長井 間の北川鉄橋〉

〈撮影メモ:昭和43-9-17日撮影〉
左の土手から、川の流の中に橋脚6本目までみえるが、そのさきは手前の雑木で隠れて見えない。
左から灰色の煙りを向こう側へ流されている5両編成の旅客列車が渡って来た。
背後は近くの山々。手前に砂利道のコンクリートの橋が少しみえている。
この鉄橋は1923年の開通で、プレートガーダー桁は、21m11連+12m 9連で構成されていました。

〈0004:bP70742:北川鉄橋〉

〈撮影メモ:昭和43年9月17日撮影〉
左の土手から橋脚 13ほんのプレートガーターてっきょう。
川野中ほどに橋桁4本分ほどの中洲が見える。
両脇は水面。
ひだりから下り貨物列車が渡って居る。安全弁が吹いていた。
足元の川の流れの中に用水取水のための堰堤が見える。
背後は近くの山、山裾に集落。
遠くの九州山地の山並みが霞んでいる。

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〈紀行文〉
 この数年は初春の2月中頃になると必ずと云って日豊本線の高鍋駅を訪れて、夜明けの遅い日向灘の朝焼け空をバックニ7時発の上り貨物列車が逆行に光る川面を前景に長大ナ小丸川橋梁を長い黒煙を牽いて渡って行く光景に魅せられて通い続けていた。今日は9月の末なので今までとは逆に北上して延岡の北に続く“宗太郎越え”までの撮影行を試みることにしたのだった。
 そこで先ず、“宗太郎越え”のある地域の地理から始めよう。この九州の中央部は阿蘇山や由布岳などの大火山が噴火や隆起の活動をする前は瀬戸内海につながる内海であったと云うから、九州は南北二つの島に分かれていたのだった。その南の島には脊梁となる九州山地が北東から南西に連なり、その北部には盟主 国見岳(1739m)、そして,祖母山(1756m)や傾山(1,605m)などがそびえており、そこから東に走る冠岳(かんむりだけ、617m)などの山系が次第に標高を下げて、四国との狭い海峡をなす豊後水道に落ちこんで、リアス式海岸をなしていた。時代が下って、豊後(大分県)と日向(宮崎県)を結ぶ道筋は豊後道とか、日向街道と呼ばれていたが、この東西に走る山脈を横断しなければならなかった。その西側には三国峠(標高 664m)、東側には宗太郎峠(標高 266m)と云う険しい山越えであったから、交通の主役は豊後水道を往来する海路であったこともうなずける。その標高が300m程度ながら地形が複雑な地域を横断しているのが“宗太郎越え”と呼ばれる日豊本線と国道10号線が通り抜けている延岡から佐伯へのルートであった。
 そこで 話を元に戻そう。そして朝の上り貨物列車を迎えるために、泊まっていた高鍋から国道10号線に出た。途中の絶景にも目を暮れずにひたすら北上し続けた。やがて右手に工場群が現れて南延岡に入ったが、南延岡機関区を覗くのは帰路に回して先を急いだ。間もなく五ヶ瀬川を渡る日豊本線の橋梁も素通りして、秋祭りで賑わう延岡市街に迷い込んでしまった。何とか我慢して通りぬけて「宗太郎越え」に向かったのだった。
この五ヶ瀬川は九州山地の熊本県境を水源に高千穂の深い峡谷を蛇行して東流し、その河口平地に城下町 延岡を繁栄させ、その河口間際で大支流の北川を合流させてから日向灘に注いでいた。この北川こそは今でこそ国道10号線のバイパス的役割を果たしている国道326号線が通り抜けるための三国トンネルの真上に当たる三国峠を水源とする水の美しい川であって、この支流の小川へ、更に上の支流である鐙(あぶみ)川とさかのぼる水系筋が日豊本線と国道10号線が寄り添いながらの延岡から佐伯へと峠越えする“宗太郎越え”のルートであったのだった。この三国峠と共に西南戦争の激戦地のひとつであった北川の街並みで、北川の本流と大分市へ向かう国道326号線に別れを告げて、その支流の小川に沿って市棚を経て北進する。やがて小川橋梁と沈下橋が並んでいる里山の風景を横目で見ながら鉄路と国道は宗太郎越えを目指して山間に入って行く。まもなく鐙川が小川に合流する葛葉集落辺りで鉄路は第3鐙側橋梁を渡り、新緑や紅葉の四季の美しい山間の風景の中に入って行く。しかし、めぼしい撮影ホイントを探しあぐねているうちに、上りの普通列車の通過時刻が迫ってきてしまった。運良く、ゆるやかなカーブの向こうで、国道は日豊線と交差をして深い山道へと続いている風景に出くわした。明るい秋の陽光に亜包まれた昼時であった。この第1鐙川橋梁は徑間が40フイート 二連+60フイート 四連で国道と鐙川をひとまたぎしていた。アングル探しの暇もなく、安易な鉄橋撮りとなってしまった。やがて、山間にこだまするドラフト音が山奥へと遠ざかると、そんな不燃焼気味の感慨に嫌悪感が襲ってきたためであったろうか、予定の分水嶺まで偵察するべき気力を失ってしまい、南延岡機関区を少々覗いてから泊まっていた高鍋駅前に戻ってしまって、今回の宗太郎撮影行は終わってしまった。その後に、宗太郎越えのハイライトは「宗太郎桟橋」であることを知ったのだったが「あとのまつり」となってしまった。
 40年も過ぎてしまった今日、日豊本線をHPにロードアップするに当たって、「宗太郎越え」をどうしても載せたい願望に負けて、この「第一鐙川橋梁」の駄作をアップしてしまった次第なのである。そこで、写真の補いとして、「宗太郎越え建設風景」を参考文献からまとめて記述させてもらい、合わせて延岡市在住の山下さんの提供しているHP:「日豊本線の四季:光る宗太郎桟橋」の写真をリンクさせてもらうことにした。
 明治の中頃に幹線鉄道は国が建設することになって主要幹線の国有化が断行された。そして未開通区間を鉄道員が建設を推進していた。遅れていた東九州海岸縦貫線では大正5年までに、北の小倉駅から豊洲本線が佐伯駅まで、南は鹿児島本線の吉松駅から宮崎本線が宮崎駅まで開通していた。しかし、その後の進展は長年放置されていたが、大正4年度にやっと予算が成立して動きだした。そして北では1920年(大正9年)末には佐伯から神原駅まで豊洲本線が延長開通しており、南からは1923年(大正12年)7月までには延岡を経て市棚駅まで宮崎本線を開通させていた。しかし最後に残った神原駅から市棚駅までの間は地形や地質の困難さに加えて、第一次世界大戦下の物価高騰、建設資財と労働力の不足などから請け負い工事契約の解除の事態となり、空白の8ヶ月を過ごしてしまった。大正9年1月に国の直轄工事に切り替えられて再開したが、工期は大幅に遅れて1923年(大正12年)12月になって竣工し、全線が開通したのであった。そこで、最後の工事区間であった直川〜市棚間の宗太郎越えの建設の様子について述べておきたい。その予算が成立すると現地測量に続いてルートの選定に入った。先ず山間線案(佐伯―上岡―神原―大原)と、海岸線案(佐伯―堅田―森崎―古江―浦尻)とが比較され、併走している国道10号線が建設資材の搬入に便利なことと、工事費の少ないことが理由で山間線が採用となった。これが後年になって「宗太郎越え」と呼ばれたルートで、直川ー市棚間の約25kmに及ぶ山越え区間が含まれていた。
その経路は、佐伯から海岸を離れ、番匠川を渡り、耕作地帯の中を走り、どんどん標高を上げていく。直見を出ると、番匠川の支流久留須川が近づいてくる。しばらくは蛇行する川が作り出した平野をのんびりと走り神原を過ぎる。やがて蒲原からは徐々に谷が深くなり、同時に線路は谷の高いところを走り、上り勾配と多くのトンネルを掘り、分水例に当たる第1大原トンネルを抜ければ重岡駅は近い。県境は更に下った宗太郎信号場の先になっている。ここから下り勾配で、宗太郎信号場を経て、鐙川に沿って下るのだが、雑木林で川面はしばらく見ることができない。多くのトンネルや築堤をぬけ、川を何度か渡って市棚を通過する。やがて川幅が広がってくると北川になる。北川とを出ると、その名の通り北川に沿って下っていき、かなり川幅が広くなると北延岡。そして、北川が離れていき、家屋が増え、五ヶ瀬川の支流祝子川を渡ると延岡市街に入り、延岡に至るコースであった。
この急峻な山地の中を、最急勾配20パーミルの区間は6.1kmの上り、更に4.3kmもの下りと云う長い距離であり、それに37箇所ののトンネル(直川〜重岡11、重岡〜宗太郎14、宗太郎〜市棚ん12)が設けられ、それに築堤、山腹の開削、橋梁や桟橋を架けるなどの難工事であった。その中でも最も難工事であった第4〜6工区の様子について参考文献を要約して記述を試みた。
 先ず第4工区は20パーミルの勾配が続く区間であり、分水嶺となる第1大原トンネル(全長 521M)の建設には初めて削岩機や軽便機関車などを投入して掘削を進めた。そして早めに完成した神原駅から重岡駅までは豊洲本線として延伸開業している。
次の第5工区は重岡駅から南の宗太郎信号所までの5kmの下りの区間である。この山が険しい区間にはは12のトンネルを抜き、2つの橋を架ける工事が予定されていたが、資材を運ぶべき道路は狭くい県境の山奥であったから苦難の連続であった。工事が始まった頃、県境に近い宗太郎集落には5軒の家族14人が暮らしていたのみであった。国道沿いには飲食店と宿屋を兼ねたあづまやがあった。主人の河野角太郎さんの語るには、『宗太郎村は元禄6年ごろから始まった。この付近は約3里四方が官山で藩政時代、竹田の知事公から番人を命じられ、ここに居住した平家の落人(おちうど)であった洲本宗太郎さまに因んだ(ちなんだ)名なのである。』と記されている。
 最大の難工事のあった第6工区は宗太郎信号場から南へ鎧川や小川に沿って山腹を走っており、トンネルは6カ所、橋は3カ所が連続し、崖際を切り開き、渓谷を渡る険しい区間である。大正10年後半の頃は延岡から市棚まで既に開業していたから、工事用機関車や起重機などを延岡方から導入して工事の促進をはかった。この辺りの地質は全体的に秩父古生層に属しており、変成作用を受けた堆積岩が主体で、所々に火成岩を挟んでいて地質的に不安定な個所があった。これらはほぼトンネル掘削に適した硬さのものであったが、一部風化した粘土を含んでいたので支持力の無い区域があり施工に困難を伴った。特に第四宗太郎トンネルは延岡方坑口付近の地山の支持力が無く、掘削中にトンネル上の地表面が幾度となく崩落したことがあったと云う。現在、この付近は鐙川を挟んで右岸を国道が左岸を鉄道が並行して走っているのだが、当時は、国道も鉄道と同じ左岸を走っていて、この土砂崩れの度に不通になったのだった。さらに施工中のトンネルにも偏圧がかかり危険な状態であった。この対策として、国道ととんねるとの間に高大な土留擁壁を築造し、トンネル内部は特殊な覆工を施すことになり、大変な苦労の末に完成させていたと云う。
所が、大正12年の春先の4月29日にトンネル山腹が崩壊と云う大事故が起こった。完成間近な第四宗太郎トンネルの延岡方坑門付近で山腹が大崩壊したのである。トンネルの内部は延岡方坑門から約40mが圧壊、土留擁壁も約30mにわたって倒壊し、国道が55m程埋没した出来事である。検討の末に、延長約170mの第四宗太郎トンネルは放棄することになり、新しい線路は第三宗太郎トンネルからすぐ右に曲がって川寄りを迂回し、新に別の第四宗太郎トンネル(全長97m)を掘り、山腹の崩壊した部分は、トンネル工事用の足場を兼ねて鐙川に張り出した宗太郎桟橋(延長約150m)を架けて通ることになった。このため工期は約6ヶ月延びることになった。これには多数のコンクリート橋脚を設置して、起重機で桁を架けて工事が進められた。不幸なことに、この頃に関東大震災が起こっている。工事中に撮られた写真のキャプションによると、この宗太郎桟橋は、鈑桁70フイート6連40フイート1連の規模の橋梁であると書かれている。そして大正12年の冬が迫ってくる頃に工事が竣工した。
ところで、建設工費は、物価比率を1000倍とすると、19億円/kmとなると云うが、これは宮崎ー延岡の7億円/kmや昭和56年に開通した、九州高速道路宮崎線の15億円/kmと比べても、いかに難工事であったかが理解できると開設してあった。
この「宗太郎越え」の峠越えはルート設定から施工までが難工事だったことは確かだが、それにも増して、ここを運行する乗務員の人たちに加えて、ここを旅する乗客の人々も、どんなにかSLの煤煙に苦しめられたことだろうか。
 さて「宗太郎桟橋」のある風景だが、次のリンクを開けば、SLではないが電化後の素晴らしい鉄道写真を鑑賞することができるのは有り難い。
「日豊本線の四季 宗太郎桟橋」  
http://www.wainet.ne.jp/~yama-hkn/nippou15.htm
宗太郎桟橋  光を浴びる桟橋 
撮影:2004年11月 山下さん(延岡市)
そのギャプションには、
『鐙川に沿って長く続く宗太郎桟橋に日が差し込む時間は、晴れた日でも僅かな時間です。山と山の間の狭い隙間を走り抜ける列車に、この桟橋を作った人たちの当時の苦労が偲ばれます。』とあった。

撮影:昭和43年9月、未発表。
アップロード:2010年2月1日。

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・「南九州の日豊本線に沿って」シリーズのリンク
019.夜明けの日向路(JR九州・日豊本線)
159. 日豊海岸の日向灘沿いを行く (日豊本線・美々津〜日向市の間)
150.SL最後の牙城「大淀川橋梁を行く」・日豊本線/宮崎−南宮崎
032. 南日向の大堂津にて・日南線
・「青井岳越え」シリーズ・日豊本線/宮崎−都城 間
029. 夕暮れのいわし雲とC57・日豊本線/日向沓掛−田野
262. 田野駅のC5552発車・日豊本線/田野付近
261. 青井岳駅界隈(かいわい)・日豊本線/石門(信)〜山之口 間
302. 門デフの貴婦人 C57154の発車・日豊本線/日向沓掛付近