自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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150.  SL最後の牙城「大淀川橋梁を行く」 ・日豊本線/宮崎−南宮崎


〈0001:河口に近い大淀川の岸辺にて〉
大淀川橋梁を渡る (日豊本線・宮崎−南

〈0002:フエニックスの茂る大淀河畔にて、大淀川左岸上流から撮影〉
大淀川橋梁を渡る 日豊本線・宮崎−


〈0003:bQ60243:夜明けの大淀川鉄橋にて〉

〈撮影メモ:昭和48年1月20日撮影〉
大淀川右岸の上流から日の出の陽光が水面に反射する「ギラギラ」を狙ったのだが。
もう少し季節が遅かった方がよかったようだ。


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〈紀行文〉
 SL撮影に南九州を訪れる際に、宮崎に入ったのは数え切れないくらいなのに専ら飛行機+レンタカーか、関東からのクルマでの遠征であるため、一向に宮崎駅のホームに降り立った記憶がなかった。それ故に、あの宮崎駅のホームから眺めることの出来ると云う多彩な大型蒸機機関車たちのめまぐるしい出入りの忙しい光景には理目に掛かったことはなかった。
それでも、宮崎駅と南宮崎駅の間の大淀川に架かる鉄橋では、延岡方面から来る区間客車列車が南宮崎で折り返して、大きなテンダーを先にして逆向き運行で戻ってくるとと云うおまけまで付いていたので、大淀川橋梁での撮影三昧(ざんまい)は正にフイルムの消耗戦であったことを思い出す。それは、この鉄橋が東西に架かっており、日の出前の暁から太陽が西へ傾き没してからまでの時間ごとに陽の光が川面の表情を変えて見せてくれるからでもあり、また冬の使者、マガモをはじめとする野鳥がアクセントを与えてくれたからであろう。その後、余り寄りつかなかった大淀河畔であったが、無煙化の近づいた昭和48年の冬には、大淀川の見納めになるような心象風景を撮りたいと想って狙ってみたのだった。
 所で、この見なれた大淀川橋梁を改めて見直してみると、橋長は436.9mと長く、支間 22.25mの鋼製の上路プレートガーターの桁が何と経間19もある大鉄橋であったのだった。大正4年(1915)開通の古いプレートガーダーが19連も並ぶ様は今となれば大変珍しいことになるであろう。最近の情報によると、宮崎市内で大淀川に架かる橋は上流の山下橋(国道10号線)から河口の一ツ葉大橋(一ツ葉道路)までの“20”も数えるというのだが、日豊本線の大淀川橋梁は河口から数えて四番目に当たっており、この地点は河口からの距離は数km程度と近かったからであろうか、広い川幅と高い堤防に守られた大淀川を、この19連と云う高くて長い鉄橋で渡ることになったのであろう。この大淀川に架かる道路橋の歴史を見ると、大淀川の洪水に南海となく流されては再建されているのに比べて、大小四年に完成した時の姿を大幅に変えずに電化の時代を迎えようとしていることからも当時の建設技術の確かさが忍ばれる。
それにしても、これだけの大洪水の頻発する大淀河川だから、水の流れを妨げる橋脚の数を減らすために支間(スパン)の長いトラス橋梁が用いられなかったのは何故だろうかともかんがえてしまうのだった。
さて、この大淀川は鹿児島県下の都城盆地南部の外延部にある金御岳(標高 472m)の中腹に源を発してから、いくつかの流れを合せて都城盆地で、さらに多くの支流と合流しながら北に流れ、狭い谷部に入って、ほとんど直角に東へ向きを変え小林盆地から流れてくる岩瀬川と合流して流れ下り、急なP野ある狭隘部を抜けて宮崎平野に出てからは、最大の支流の本庄川と合流して宮崎市の中心部をゆったりと流れ、日向灘に注いでいる延長 107kmの大河であった。この長さに比べて流域面積が大きいのは、都城、小林の両盆地を流域に含んでいることと、それに多くの支流を抱えていると云う特徴を持っているというのであった。
そこで、二枚目の写真には、何んとしても宮崎のシンボウであり、「宮崎県の木」でもある「フェニックス」(カナリーヤシ)の並木を何とか前景に入れたいと撮影ポイントを探し回って見たが成功せず、近くのリバーサイドのホテルの庭に茂っている若い「フエニックス」の特徴のある葉や枝をかろうじてアングルに取り入れて、夕暮れの雰囲気の中で撮ることができた。
 この長大な鉄道橋の建設にかかわるテーマが持ち合わせていないので、ここでは吉松から宮崎へ向かって建設された宮崎線の歴史を振り返ってみた。先ず、国が建設すべき鉄道路線を定めた明治25年(1892)制定の「鉄道敷設法」には日豊本線に相当する「福岡縣下小倉ヨリ大分縣下大分宮崎縣下宮崎ヲ經テ鹿児島縣下鹿児島ニ至ル鐡道」が規定されていたが、第1期建設予定線に洩れてしまった。それを受けて、地元での建設促進運動を続けていたこともあって、明治43年に吉松‐宮崎間が第一期線に編入することに成功した。この区間のルートは、明治26年の全国鉄道線路調査の時には、吉松−高岡−宮崎、吉松−都城−宮崎、国分−都城−宮崎の三案比較の結果、高岡経由となっていた。この高岡と云う地点は、江戸時代の大淀川水運が河口から開削された急流の瀬を超えてさかのぼった中流に設けられた終点の港があった所であった。
その後の明治41年帝国鉄道庁の予備測量の時も高岡経由であったが、所が明治44年1月の実測量に際し、突然にルートが変更され、都城経由となったのだった。この背景の詳述は略するが、当時の都城が宮崎町に並ぶ地方都市であったことからも、今なら当然のルート選定と想われるのだがそのルート変更は工事を大幅に遅れさせる難工事を強いることになったのである。
そのルートの地形は、吉松は川内川(せんだいがわ)の流域であり、線路は川に沿って遡り、飯野から1/60勾配で分水嶺を越えると、大淀川支流の岩瀬川流域となり小林に下る。この間は最急1/40であるが短く、大半は1/60勾配となっている。小林−庄内間は霧島山麓を走るので起伏が多いが、最急勾配は1/60である。庄内−都城間は平坦であった。明治43年4月に測量開始、大正2年10月に吉松−都城間が開通した。
都城−宮崎間は大淀川に沿わず、青井岳を越える最短ルートを選んだので、山之口−青井岳間は8.0kmの上り勾配で、うち4,5kmは1/60勾配の連続であり、延長1,529mの青井岳トンネルを掘らねばならなかった。青井岳−田野間も9.5kmにおよぶ下りで、うち9.3kmは1/60勾配の連続であり、トンネル4個がある。田野−清武間も1/60勾配の下りが5.8km連続したが、清武−宮崎間は平坦であった。宮崎付近の大淀川には径間22.3mの鉄桁を19個架けることになった。
 そして宮崎に向かっては、鹿児島本線の駅だった吉松駅から分岐して、吉松-小林間が宮崎線として大正1年(1912)に開業し、大正2年(1913)に都城駅まで開通した。それに続く延伸工事が進められ、大正3年8月に山之口に至った。
 これに合わせる形で宮崎駅の工事も進められていたが、青井岳付近の工事が難工事で遅れたことから、大正2年(1913)2月の時点で宮崎駅だけ先に完成して宙に浮いた状態となっていたのだった。
 所で、すこし話を戻すが、明治の中頃を過ぎると全国的な鉄道建設ブームの中で、宮崎にも機運が盛り上がって来ていた。そこで幹線の宮崎線や大分線が到着するのを待たずに、地方の交通を確保する鉄道を建設しようとしていた。そのような地方の鉄道建設を容易にするための政策として発布されたのが「軽便鉄道法」であった。宮崎県は、この法律をを利用して県営鉄道を設ける提案が新しく赴任した有吉忠一知事の下で始まった。そして宮崎−福島(広瀬、現佐土原)−妻間の妻線(26.5km)が大正元年(1912)2着工し、翌年には宮崎−福島が完成しつつあった。この福島は明治までは宮崎地方が薩摩藩の支藩である佐土原藩の城下町として栄えていた所であった。
そこで、先に完成していた国鉄の宮崎駅を宮崎県が借り受けて宮崎県営鉄道の宮崎駅として大正2年(1913)12月に開業したのである。続いて妻線の延伸が進められる一方、翌年には大淀川の河口に近い瀬頭字出来島に停車場を設け、宮崎駅から2.1kmの川口貨物線を開業して物流の弁を提供していた。この線路跡は通常の街路とは趣を異にする配置の道路となって現存しているようだ。
 さて、宮崎駅と同時に建設が進められていた大、淀川橋梁の架橋工事と清武への延伸工事が順調に進み、大正4年(1915)に清武-宮崎が宮崎駅に遅れて完成した。そこで、宮崎県営鉄道では、この完成した区間を借りて県営鉄道を延長開業して地元県民の交通の便を提供した。中間に残されたの未完成区間を馬車を走らせて連絡するサービスに努めたと云う。
その後最後に残されていた難工事の青井岳トンネルを含む山之口−清武間が大正6年(1917)10月に完成して国鉄宮崎線が全通し、清武 - 宮崎間の宮崎県営鉄道による借受営業が終了して、国鉄が宮崎駅に乗り入れてきた。これにより、宮崎駅は国鉄と宮崎県営鉄道の駅となった。その後の大正6年(1917)9月には、宮崎県営鉄道が国有化されて、宮崎駅は国鉄の駅となった。そして延岡網面への延伸工事が進められて行くことになる。今や、宮崎駅は平成5年(1993)に高架化されて、勾配を登ることなく大淀川を軽快に電車が渡っている。

撮影:昭和48年1月20日。(3枚とも)