自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・南九州の日豊本線に沿って/青井岳越え」:
262.  田野駅を発車するC5552号 機・日豊本線

〈0001:17-2-3:田野駅を発車するC5552牽引の上り貨物列車〉
0001:昭和43年8月の昔懐かしい構内風

〈0002:17−2−4:田野駅構内をダッシュ〉
0002:田野駅には上下のいずれにも待避線が設けられていた

〈0003:17−2−5:水かきのような補強のついたスポーク動輪は美しいC55〉
0003:C5552 [吉]、現在吉松駅前に静態保存中

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〈紀行文〉
 宮崎平野のの東南部には鰐塚山地が広がっており、その中央部には主峰の鰐塚山(1,119m)がそびえている。その山地の北東部には三方を山に囲まれた田野盆地があって、標高 200m以下のシラス土壌に覆われた段丘となっていて、北東部で宮崎平野に臨んでいた。この盆地の中央部を鰐塚山に源を発した別府田野川(びゅうたのがわ)や井倉川、松山川などが北流し、合流して清武川となり北東に流れ下って日向灘へ注いでいて、それぞれが河岸段丘を発達させている。
 宮崎から国道269号を南下して日向沓掛を過ぎて、広い稲田の広がる谷底平野を流れ下る井倉川を渡って緩やかな坂を登り切ると農地の広がる台地に出た。すぐに田野駅を出て宮崎へ向かう線路の跨線橋を越えると、目前にズングリとした鰐塚山の山容が迫り、その山麓に続いてなだらかな丘陵が広がり、豊かな畑作地帯が見て取れた。間もなく家並みが濃くなってくると、やがて落ち着いた雰囲気を残している田野駅前に出た。
この鰐塚山は古くは鰐ノ塚山と呼ばれており、この鰐(わに)とは「サメ(鮫)の古い言葉であって、古事記に出てくる神話「山幸彦と海幸彦」に登場する鰐に由来するのだそうだ。この盆地の南部には西日本最大の縄文時代の集落を始とする多くの遺跡が発見されており、昔から開けていた土地柄のようだ。“田野”の名が現れるのは、時が下って鎌倉時代のことであり、日向の地頭に任じられていた伊東氏の支族である清武氏が足利尊氏から清武川一帯の五郷を与えられて領したことが古文書に現れており、その中の一つがに田野郷であったと云う。続いて、盆地の北部の段丘を開墾して開いた農地は別所田野(びゅうたの)と呼ばれるようになった。この「別府(びゅう)」と云うのは11世紀以後に使われるようになった農地の租税徴収支配の単位であって、荒地などを開拓して農地とすることに成功した地域を従来の荘園などと区別するための地名の接頭語であったのだったが、「りゅう」とは宮崎地方独特の難読地名であった。下って、伊東氏は秀吉から九州征伐の功により大名に取り立てられ飫肥(おび、今の日南市)の地に飫肥藩を創設して藩主となり、江戸時代には五満七千石となり明治まで続いた。この飫肥藩では田野を本田野と別所田野に分けて清武郷に属させて治めていた。
この田野を通って都城から宮崎へは昔から「薩摩古道(鹿児島街道)」が通じていて、参勤交代にも使われたと云う道が残っている。そして明治初期の国道指定では38号の一部として指定をうけていたが、間もなくルートが山越えから大淀川沿い(今の国道10号)に変更されて指定から外れた。そして、明治31年(1898年)には県道として「青い岳越え」を開通させ、次いで主要地方道 宮崎田野都城線となっていた。次いで作られた鉄道の日豊本線も同じルートを踏襲している。これが昇格して国道269号(宮崎−鹿児島県指宿)となり、「青井岳渓谷ライン」と愛称が付けられていた。また、日南から大淀川沿いの高岡を結ぶ県道28号線が田野で交差していたから、まさに田野は交通の要所なのであった。
この盆地は米作が中心でもあるが、この高原地域の土地の広さと、肥沃な土壌と温暖な気候のもたらす恵みであろうか、農家一戸辺りの農業生産は宮崎県内トップクラスであるとのことである。その中心は全国一を誇る漬け物用の干し大根と葉たばこだとHPに述べられていた。確かに、清武から田野に向かって来る車窓で畑の中に白く輝く切り干し大根の干し場が点在する風景を印象深く覚えてはいたが、鰐塚山から吹き下ろす「わにすかおろし」の寒風の季節である12月から二月に掛けては、畑の中に竹で組んだ高さ6m、長さ50mに及ぶ櫓(やぐら)には葉の付いて丸々と太った冬大根が架けられ、十日間くらいの南国の陽光にさらされて、適度な干し大根を造りあげる冬の風物詩があることを知ったのだった。
私が初めて日豊本線の宮崎以南に足を伸ばした昭和43年のころの宮崎機関区にはC55とC57がそれぞれ12輛も配置されていて、まさにライトパシフイックの牙城であった。私にとって水かき付きのスポーク動輪を履いたC55の細身のボリラーの旅客用機関車は大変な魅力であった。最初に出会ったのが清武駅での入れ替え作業の最中に、都城方の鉄橋の上まで姿を見せることがあって足回りを狙ったのだったが、出来映えは芳しくなかった。その次の機会は、幸運にも田野駅に到着したC5552号であった。この時に撮った性かを3枚続けてお目に掛けた。
この田野駅は1面1線と島式のホームがあって、それに上下線にそれぞれ待避線のある配線で、その宮崎方へ出発して行くC5552号機が牽引する貨物列車の姿を捕らえた。
このC5552号は総勢62輛のうちの一両で、昭和12年に汽車製造会社の大阪工場で製番1460として誕生したもので、山陽本線の小郡機関区に新製配置されていた。その後の昭和14年に九州に入り、鳥栖区から大分区に移り、ここで門デフに改造、ロングラン運用に炭水車をD51と振り替えを実施している。その後昭和39年(1964年)に、大分をC57に追われて宮崎区に移動した。その後またもやC61などに追われるように筑豊本線の若松に移動している。今度は無煙化でC5775と共に吉松へ転属し、C57との共通運用で肥薩線、吉都線、日豊本線で余生を送った。今は吉松駅近くに静態保存中である。
その直径1750mmの大動輪のスポークには強度を増すための水かきのような補強が施されているのが魅力的であった。それに門司鉄道管理局デフ(小倉工場式デフ)の変形(K-6)下部取り外し式がそうぎされているのも特徴であって、通常の門鉄デフより一回り大振りであった。この門鉄デフと同様に九州特有の「リンゲルマン煙色濃度計」と云う色板が煙突の後ろ脇に装着されていた。これは乗務している助手が煙突から吐き出された直後の煙の色と取り付けられている色板とを目視で比較して、その煙の濃度のレベルを把握して、石炭節約と煙害防止のためにより良い燃焼管理に努めるための道具であった。これは正式には「Ringelmann smoke chart(リンゲルマン煤煙濃度表)」と云い、ボイラー煙突からの煤煙(ばいえん)の濃度を目視で比較測定するための4段階の煙色を表した板である。大気汚染防止方では、この方法で測定して3度以上の煙を6分以上排出してはならないとボイラーマンに要請しているものであった。
 続いて、田野駅から青井岳駅へ向かって約1qほど歩いた所に「田野々大築堤」と呼ばれる有名撮影地点が散在していた。田野駅を出て町並みが途切れて切通しを抜けると両側に水田が広がる中を15.5‰の下り勾配の築堤となった。それほどの距離ではないが勢いを付けて駆け下ると、盆地の底を流れる清武川を全長 158mのプレートガーター桁8連の別府田野川橋梁(びゅうたのがわ橋梁)で渡って、今度は青井岳までの最高18.7‰の登り勾配にに向かって猛然と大築堤を加速して駆け上がって行くC57の姿が眺められた。
丘の上からの俯瞰(ふかん)撮影が可能で、周りの畑に冬大根が干して有ったりすれば素晴らしいのだが。鉄橋は高い煉瓦積みの橋脚が並んでいる。
続いて厳しい登り坂の築堤を野ゴリ詰めると左右からけわしい山々が近づいてきて長い青井岳越えの挑戦となる。
蛇足だが、ここでは清武川に掛けられた別所田野川鉄橋があって、橋名と掛けられている河川の名前とが一致しないのであった。おそらく宮崎線が大正5年(1916年)10月に青井岳−清武間を延伸開通した時点では、川の名前は「別府田野川」であったにちがいないだろう。その後の河川の公的な分類や流域指定などが行われる際に支流と本流の区分規定などに照らして変更がなされたものと理解しているのだがいかがであろうか。この別所田野川は清武川上流部にある川の名前であり、その由来は田野町の北部を占める広々とした畑となっている別所田野と呼ばれた台地の中を潤しながら流れ下っている。この地域を代表するかわとして「別所田野川」が清武側の上流部の呼び名として使われていたと推察している。この考察に当たっては、
「1972 九州の蒸気機関車」 の管理人の「あだち ゆういち」さまに
http://members.jcom.home.ne.jp/yuuichi3/index2.html
多大な示唆をいただいたことを書き添えて感謝の意を表します。

撮影:昭和43年(1968年)8月15日。

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・「南九州の日豊本線に沿って」シリーズのリンク
158. 「宗太郎越え・第1鐙川橋梁」 (日豊本線・市棚→宗太郎)
019.夜明けの日向路(JR九州・日豊本線)
159. 日豊海岸の日向灘沿いを行く (日豊本線・美々津〜日向市の間)
150.SL最後の牙城「大淀川橋梁を行く」・日豊本線/宮崎−南宮崎
032. 南日向の大堂津にて・日南線
・「青井岳越え」シリーズ・日豊本線/宮崎−都城 間
029. 夕暮れのいわし雲とC57・日豊本線/日向沓掛−田野
261. 青井岳駅界隈(かいわい)・日豊本線/石門(信)〜山之口 間
302. 門デフの貴婦人 C57154の発車・日豊本線/日向沓掛付近