自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・「南九州の日豊本線に沿って」
019.  宮崎平野を南下して宮崎駅へ  ・高鍋〜宮崎

〈0001:bP90422:日向路での田舎風景〉



〈撮影メモ:昭和44年2月13〜16日撮影〉
高鍋駅を出て南へ進んだ所で宮田川を渡る鉄橋であろうか。
冬の季節には、川べりにある特産の焼酎の醸造所があって、蒸留した残差駅を川に流すためか水面は白く濁っているのには閉口した。
早朝に白い煙に、ヘットランプを点灯した6両編成の旅客列車がやって来た。
背後の右側の近くの山の麓には鳥居があって、集落があるようだ。

〈0002:bQ60231:C6128号の客れ〉



〈撮影メモ:昭和4年9月20日撮影〉
高鍋駅から宮崎駅までの間のどこかのえひであろう。
右手前の線路の両側に腕木式信号柱、向かって右に2本、左に1本。
早くも電化の架線が設けられていた。
画像に白線が何故か入ってしまった。

〈0003:bP40965:トンボ重連の居る駅風景〉

〈撮影メモ:昭和43年9月23〜24日撮影〉
ホームの先の線路に、煙灰色の煙の前補機のトンボ重連が見える。
背景は木立。手前から陽光が当たっていて3個の動輪が美しい。

〈0004:bP41014:宮崎機関区〉

日〈撮影メモ:昭和43年9月23〜24日撮影〉
白い煙の重連の機関車の頭が写っている。動輪3個。
背景に駅舎がある。駅舎の左に給水塔が見える。

〈0005:bP40941:

〈撮影メモ:昭和43年9月23〜24日撮影〉
賑やかな宮崎駅交何のじょうけい。
右川の線路は先で車止め。次の線路に、こちら向きで C57 48号が黒い煙で、止まっている。
車止めの先の方にホームがあり、両側の線路にこちら向きの機関車が見える。左側のカマが灰色の煙と、下からすごいドレーン。右側は煙なし。
背後の左奥に3階建のガラスハリの建物。

〈0006:bP40946:

〈撮影メモ:昭和43年9月23〜24日撮影〉
道路の跨線橋が遠くにみえる。
左側の線路にヘッドライト点灯の旅客列車、黒から白煙の煙が流れる。
両方からドレーン。
C55 10号[宮]の勇姿。

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〈紀行文〉
現在執筆中です。
少々お待ち下さい。







◆紀行文案
ここでは日豊本線が日向灘に沿って南下している 延岡から宮崎への南半分に相当する小丸川橋を渡った先の高鍋駅から宮崎駅までの情景を掲げた。
この小丸川河口から南へ大淀川河口の宮崎港までは宮崎平野がの海岸線に接している所で約30qは一直線の
砂浜が続いていた。日豊本線と国道10号線は並行しながらやや内陸を南下しており、小丸川を渡った先は左手は濃い松林の防風林が続いており、その先の宮崎海岸は高さ10〜20m規模の砂丘がいくつか連なっていたのに阻まれて浜辺を眺めることは難しく、ただ向灘に流れ込む宮田川、一の瀬川を渡る鉄橋からは海が眺められた。
 さて、あの小丸川を渡り切ると防風林の松林が左手に迫ってきて、高鍋駅から宮田川まで続いていた。この川を挟んだ高鍋海岸と新富海岸の砂浜は「赤海亀」の産卵地として知られていた。ちなみに、国道10号線の小丸川大橋、それに宮田川橋の欄干には、ここの海岸が「赤海亀」の産卵地であることを示した亀のモニュメントが飾られていた。
この宮田川は宮崎平野の北端にある茶臼原古墳群で知られる西都市の茶臼原付近を源として東流し、高鍋町の西側をかすめて古港(ふるみなと)の河口で日向灘に注いでいる。現在の河口では、川は細々と流れすぐ砂浜になっていて、宮田川鉄橋からは白波が見えるほど海は近かった。だが、江戸時代には宮田川の河口は港になっていて、満潮の時は五枚帆までの船の出入りが可能であった。その頃には川名を古港川と云っていた。ここを渡る1920年(大正9年)開通の日豊本線の鉄橋名は「小湊川鉄橋(長さ 39m、3連)」であることが何よりの証であった。しかし、すぐ上流に架かる国道の橋は「宮田川橋」となっていた。このように鉄道の鉄橋名に付けられた河川の名と、現在の河川名とが異なる例が日豊本線の田の駅前後にも少なからず見受けられて戸惑うことしきりであった。
さて、ここから宮崎機関区の話題を始めよう。
 SL撮影に南九州を訪れる際に、宮崎に入ったのは数え切れないくらいなのに、専ら飛行機+レンタカーかクルマでの訪問であるため、一向に宮崎駅のホームに降り立った記憶がなかった。それ故に、あの宮崎駅のホームから眺めることの出来ると云う多彩な大型蒸機機関車たちのめまぐるしい出入りの忙しい光景には理目に掛かったことはなかった。それでも時間を見つけては駅の東側にある宮崎機関区を訪ねることがあった。こここには矩形をした機関庫と、正に大車輪に稼働するターンテーブル、ハンプ付きの給炭台、高い給砂塔などをそろえた意外に小じんまりとした機関区なのに、そこにはC56 1輛、C57 12輛、C61 4輛などが在籍すると云う大世帯であった。その上に、日豊本線の鹿児島区・延岡区、さらに吉都線の吉松区や日南千からの機関車たちの発着が加わり、C11、C55、C56、C57、C61、D51、DF50などなどの多彩な形式の機関車が出入りしていた。その中には門デフあり、変型デフあり、ナメクジ、戦時型などなど多彩を極めていたことだけは良く覚えている。
それに、C61は、奥羽本線電化で余剰となったカマを転用したもので、71年9月に青森区から宮崎にやって来たのでした。これはボイラーはD51、脚回りはC57+2軸従台車という組み合わせで、C57以上の活躍を期待されたが、結局、南宮崎〜延岡間でC57の代わりに運用されただけであった。しかし、鉄橋の上でのサイドビューは大淀川でも小丸川でも取りやすくて楽しかった。