自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・「南九州の日豊本線に沿って」
159.  日豊海岸の日向灘 に沿って   ・日豊本線/日向市〜美々津

〈0001:bP70813:前景はお花畑、列車が目の前まで来ている。〉


〈0003:bP70822:日向灘をバックに、前景は背の高いオ花畑です。〉



〈撮影メモ:昭和43年9月21日撮影〉
手前は瀬の高い花畑が広がっている。何のはなだろうか。
右から黒い煙の貨物列車がやってきた。その背後の右側は海へ岬となった丘陵が出ている。背後は日向灘、少し白波が建っている海、地平線、右側に灰色の雲がある。

〈0002:bP70942:美々津の北の岬を回って〉

〈撮影メモ:昭和43年9月22日撮影〉【かまり】
場所は、延岡方面に向かう列車が耳川鉄橋を渡って、美々津の町の耳川対岸に横たわる権現崎(岬)の根元のトンネルを抜けた直ぐの所ではなかろうか。この日向灘を見渡す岬には郷里が近い若山牧水の歌碑が立っている。

〈0004:bP70812:C55客レ〉

〈撮影メモ:昭和43年9月21日撮影〉
右中ほど奥から左手前に大きくも外側にカーブした雑草の築堤。煙、ドレーンは全く見えないが、右側の動輪があかるくきれいに写っている。
背後は遠い山が霞んでいる。背後の左側に雑木。手前は雑草。

〈0005:bQ20513:日向灘に面した海岸段丘からの599レ貨物列車〉



〉撮影めも:昭和45年2月14日撮影〉
日向灘に面した海岸段丘の上を国道10号線が通じていた。
その眼下に日豊本線の美々津駅があって、左から黒から灰色の煙りを海側へ吹き流させながら下りの貨物列車が発車してゆくところであった。
背後には雑木の生えた堤防らしきものの先が日向灘の海。水平線までが広い。沖には岩礁があって、その上に見えるのは“神のみあかし”と呼ばれる灯台だそうで、これも神武天皇の東遷2600年記念事業として建てられと云う。

〈0006:bQ20512:539客レ〉

〈撮影メモ:昭和45年2月14日撮影〉。
夜明けの川南駅の南西にある海岸段丘の上から539レ旅客列車を狙ってみた。
白煙が海側へなびかせた旅客列車、右下からドレーンを吐いている。
背後は夜明けの前の明るくなった空と海。

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〈紀行文〉
 九州の太平洋岸に沿って南下する日豊本線の延岡から宮崎の間は黒潮の洗う日向灘に寄り沿って走る陽光のまぶしい南国の風景にあふれている。宮崎駅から北上すると海が見ええ始めるのは高鍋駅付近の美しい松の防風林を抜けて小丸川鉄橋にかかる辺りからで、延岡の少し手前で見える門川湾の辺りまでである。特に日豊海岸国定公園の最南端となっている美々津(みみづ)海岸から北へ役20kmには照葉樹林の茂る断崖の岬と白砂青松の砂浜とが交互に続いている海岸線を俯瞰(ふかん)しながら国道10号線や日豊本線は北上しているのだった。
 さて、いつのまにか宮崎にくると必ず高鍋駅前旅館の浜層へ泊まって、翌朝の撮影に備えていた。早暁の撮影の手ごたえに気を良くして、朝飯を済ますとすぐに初秋の国道10号線に出てを北上を始めた。今回は日向灘に面すた砂浜の海岸線をバックニ疾走するSLの姿を狙うことにした。
小丸川大橋を渡って高台へ登った先の川南町、都農町は日向灘に開けた明るい地域で、大部分が台地状の所謂、西高東低の、ゆるやかに傾斜した高台となっていて、広大な畑作が広がっていて、きっと南国豊かな農業生産が主体の地域であろうことを思わせた。
やがて、国道の右手の低い所を走る日豊本線の線路が現れてきた。実は私が初めて訪ねてから数年後の昭和52年(1977年)4月には、日豊本線を跨ぐかのような直線的な高架線路の約7q(日豊本線 東都農駅から南へ)
の「超電導磁気浮上式高速鉄道(リニアー新幹線) 宮崎実験線が設けられて実用化試験が始まり全国からの注目を集めた所であった。実用化試験の舞台は山梨県下へ去ってしまったが、現ライのい高架橋はソーラーパネルが敷き詰められて太陽熱発電所の研究に活用されていると云う。
 そして海浜沿いを北上する日豊本線を大きく広がる日向灘の海面をバックにして俯瞰(ふかん)できる海岸段丘の上を国道が通っている場所を見つけた。その眼下には二面三線と跨線橋を備えた美々津(みみつ)駅が見下ろせた。駅の向こう側は家並みが集中していて、防潮堤のように見える雑木の生えた堤が続いていた。沖の左手に小島があって灯台らしき姿が眺められた。この駅から約 20分も歩かなければ耳川が日向灘へ注ぐ河口に発展した古い美々津湊の中心街へ出られないと聞いて嫌な違和感をおぼえたのだった。私が国道を通り掛かったときに、丁度下りの貨物列車が交換のため待避なかであった。そこですこし駅から南へ進んだ崖上から列車の発車風景を日向灘を遠望しながら俯瞰撮影した。 ところで、美々津駅を延岡方へ発車した上り列車は海が見えるほど海岸線に近い石並川鉄橋を渡って左に大きくカーブして海岸段丘の下に口を開けている美々津トンネルに吸い込まれる。この全長 462mもあるトンネルを抜けて内陸に回り込んだ日豊本線は築堤で高さを維持しながら全長 453m、20連の桁を架けてカーブを描いている耳川鉄橋を渡って再び対岸の丘陵の中腹に取り付いて登り始めていた。
これは、やはり宮崎から延岡へ延伸する宮崎線がの美々津湊の街を通過することを避けるための大きなう回路としての
Ω(オメガ)カーブを描く千系となった者とすいさつされた。ここを通る列車の右手の車窓からは耳川河口右岸に開けた神話
に彩られた美々津港の街並みが日向灘をバックに眺められることであろう。この鉄道線路の迂回のお蔭で江戸時代の古い港町の風情がそのままのこされていて、今や国の指定にもなっていた。
 この耳川(みみかわ)は九州山地の熊本県と境を接する三方山(標高 1577m)に源を発し東へ流れ宮崎平野の北部を流れ下り日向市の南端で日向灘に注ぐ全長 102qの大河であった。何と云っても、この川の名を世に知らしめているのは、その中流域で行われた九州の覇権を競った「耳川の戦」であろう。それは
戦国初期に薩摩の島津氏は念願の日向国の統一を果たしたのだが、これを重くみた九州制覇を狙う大友氏は天正六年(1578)四月に5万の兵力での
日向へ攻め入り、耳川以北の北日向を制圧した。さらに大友勢 四万三千は陸路を南下して、小丸川中流の木城のを主戦場として4万の島津勢と激突した。数におごる大友勢に対して、島津軍は特異の誘導作戦により大友軍を混乱させ、敗走する大友軍を耳川に追い詰めて壊滅させた。この合戦の中心地はこの小丸川付近だが、最終的に小丸川から豊後へ敗走する大友軍を
追いつめたのが耳川であったことから「耳川の戦い」と呼ばれているという。
この耳川の河口の右岸が港となっていて、中世には民国との交易港であったようで、江戸時代には高鍋藩の商業港として重要視され、その藩主秋月氏もこの港を参勤交代に利用していた。そして「美々津 千軒」と呼ばれた港町には、廻船問屋の持ち船である帆船(千石船)により関西との交易が行なわれた。それは耳川の上流で生産された木材や木炭などを大阪方面に出荷し、帰路には上方(かみがた)の特産物や美術工芸品を持ち帰ったと云う。明治から大正時代に最盛期を迎ていたが、大正12年に日豊本線が開通して海運は衰えてしまった。そこには今にも耳川河口に築かれた港にの隣接した街並みが残り、江戸時代から明治時代の瀬戸内船運の西端に当たっていたことから、上方風の商家、操船・水運業者の家、漁家の建物、その屋敷地割などが現存しており、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。
遅れたが、この神話とは、神武天皇(カムヤマトイワレヒコノミコト)がこの地から東征に出発したというもので、これにちなんで「日本海軍の発祥の地」を記す碑が近年になって海上自衛隊の手で河口に再建されたと云う。
 さて、耳川鉄橋を渡った列車が南日向駅へ向かう約3qの間は険しい岬へつながる権現崎(ごんげんざき)の根本を抜けるところで、海岸まで迫った山とのわずかな空間を国道と寄り沿うようにして、ゆるい勾配を保ちながら、築堤と切り通し、それに権現トンネルと遠見トンネルを通り抜けている。この権現崎は美々津の街並みの耳川の対岸の東に横たわる標高52mの権現山から海に迫る岬があって、その突端は柱状節理の断崖の荒々しい海岸線となっているが、丘の上には照葉林の自然の姿が残っていて天然記念物となっていた。その岬には日向灘に向かって「美々津の権現崎にて」と云う和歌山牧水の歌碑が立っている。
『海よかげれ水平線の黝(い)みより 雲よ出来て海渡れかし』
これは祖母の実家から耳川を下って美々津にやってきて、初めて海をを獲
ん邊した牧水が感動して詠んだ歌だそうである。
この岬は日豊海岸国定公園の最南端となっている美々津海岸であり、ここから北へ役20qは照葉樹林の茂る断崖の岬と白砂青松の砂浜とが交互に続いている海岸線を俯瞰(ふかん)しながら国道10号線と日豊本線が並走して北上している日向路であった。
 その権現崎へ続く尾根のトンネルを抜けると、線路も国道と共に高台を走り抜けている所で、眼下には岩が露出している「お金が浜」の海浜を見下ろすようになる。ここは海が荒れるのでサーフィンには格好の場所であるとか。やがて砂浜となり南日向に着の先には撮影ポインので知られている大築堤を過ぎると、昭和4年に海軍富高飛行場が設けられていた財光寺平原を突っ切って改装する。その海側は「日本の渚(なぎさ)百選」に推された「お倉ケ浜」となり、塩見川の河口まで約4kmの一面の砂浜が続いている。この二つの砂浜は、弘法大師の「はまぐり伝説」と日向碁石の里として知られている。ここは日本で唯一の“スワブテ(蛤貝)”の産地なのである。
 『岩脇(日向市)の海沿いの里に、昔、お金とお倉と云う二人の女が住んでいた。お金もお倉も、毎日遠浅の浜辺に出て「はまぐり」を採り、生計の助にしていた。ある晴れた日であった。お金は浜に出、いつものように「はまぐり」をあさっていた。すると見知らぬ行脚姿の老僧がやって来た。老僧はお金のそばに近づいてくると、籠のなかをのぞき込んだ。「ほう、これは見事な蛤じゃ。わしに少し恵んではくださらぬか。」
 お金は欲の深い女である。老僧の言葉を聞くと、手籠を背に隠すようにして答えた。「籠のなかは石ばかりですのよ。」 すげないお金の言葉に、老僧は黙ってその場を立ち去った。渚づたいに歩いていたが、間もなくまた蛤を採っている他の女の姿が眼に映った。お倉であった。老僧はお倉のそばまで行き、今度も同じように蛤を分けてくれるように頼んだ。 お金と違って、お倉は情深い女である。老僧の頼みに快く応じた。
「こんなものでおよろしければ、いくらでもお持ちください。」
 頭陀袋(ずだぶくろ)に優しく自分から蛤を入れてやったのである。
「これは誠にありがたい。何とお礼を申し上げていいやら………。」
 老僧は言った。
「あなたは本当に優しい女じゃ。そのうちきっといいことがあろう。」
 老僧はそのまま磯づたいにどこへともなく立ち去っていった。
 このことがあってのち、お金が採っていた浜辺からは、蛤がほとんど採れなくなった。反面、お倉の住んでいた近くの浜辺からは、たくさんの蛤が採れるようになった。土地の人々は、この二つの浜辺をお金ヶ浜、お倉ヶ浜と区別して呼ぶようになり、老僧の話を伝承した。この老僧こそが弘法大師で、中国から帰国して、大宰府に約1年間九州に滞在し、その間に日向の国の浜をおとずれたと云うのである。それと、那智黒と共に世に知られている日向の白碁石は、このお倉ヶ浜で採れる「はまぐり」からだけ作られる一品だと云うのである。
 お蔵が浜が尽きて、塩見川を渡り1kmほどで、明治の頃に宮崎県庁も置かれてた富高、現在の日向市の中心にある日向駅に達した。

◆エヒローグ 宗太郎越え
 この日向市の海岸は日本の海水浴場88選に選ばれた「伊勢ヶ浜」の砂浜が広がっていて、その先には日向灘に突出した細島半島があって、この半島に対向する牧島山の半島とに挟まれた奥行約2.5kmの狭くて長い入り江の奥に細島港があって、ここまで日向市駅から4km足らずの細島線が通じていた時代もあった。
実は日豊本線からは眺めることはできないのだが、この細島半島の東端に日向岬が更に突き出していて、この一帯の海岸は、いたる所に柱状節理の岩(上から見ると6角形の形をした柱のように見える岩)が連なっていて、中でも高さ約70mに及ぶ柱状節理の絶壁は凄絶な風景でであると云う。
日向市駅をでると門川までは平均5パーミルの勾配で大低い丘陵を横断すれば門川湾をかすめて、五ヶ瀬川の作った沖積平野の中の旭化成の城下町である延岡の工場群を左手にながめながら延岡の街に入って行くだけであった。

撮影:昭和43年9月

ここに掲げた作品について、今となっては私には撮影場所や列車番号などを特定することがかなわなかったことをお許し下さい。
 さて、高鍋の小丸川橋梁を渡った北では、私が訪ねてから数年後の1977年(昭和52年)4月にリニアー新幹線(浮上式鉄道)の宮崎実験線が開設されて日豊本線に並走して約7qにわたる高架線が設けられ、磁気浮上式の高速鉄道の実用化試験がおこなわれることになって、この沿線は注目のまととなった所である。後年、実験線は山梨県へ去ってしまった跡の高架線の上にはソーラパネルが設置されて活用されていると云う。
 話題を元に戻そう。やがて、海浜沿いを南下する日豊本線を大きく広がる日向灘の海面をバックにして俯瞰(ふかん)できる海岸段丘の上を国道が通っている場所を見つけた。その眼下には二面三線と跨線橋を有する美々津駅が見下ろせた。ここは耳川河口右岸に栄えた古い美々津港の街並みから徒歩で20分も離れた位置の南寄りの浜辺に開けた街並みの背後であって、ここに駅を開業せざるを得なかったのは海運で栄えた港町から嫌われたからであろうか。幸運にも、下りの貨物列車が発車しようとしている所であった。
ところで、美々津駅を延岡方面に出た上り列車は海の見える石並川鉄橋を渡って左に大きくカーブして海岸段丘の下に口を開けている美々津トンネル(全長 462m)に吸い込まれていた。そしてトンネルを抜けて内陸に回り込んだ日豊本線は全長 453mのプレートガーター 20連でカーブを描く耳川鉄橋を目指して築堤を北上して行く。その右手の車窓からは耳川河口右岸に開けた神話に彩られた美々津港の街並みが日向灘をバックに眺められることであろう。この耳川(みみかわ)は九州山地の熊本県と境を接する三方山(標高 1577m)に源を発し東へ流れ宮崎平野の北部を流れ下り日向市の南端で日向灘に注ぐ全長 102qの大河であった。何と云っても、この川の名を世に知らしめているのは、その中流域が
戦国時代の「耳小川の戦い」のこせんじょうで、「九州の関ヶ原」と呼ばれる薩摩の島津氏と大友宗麟とが二度も戦っているからであった。
その耳川河口右岸が港となっていて、
中世には民国との交易港であったようで、江戸時代には高鍋藩の商業港として重要視され、藩主 秋月氏もこの港を参勤交代に利用していた。そして「美々津 千軒」と呼ばれた港町には、廻船問屋の持ち船である帆船(千石船)により関西との交易が行なわれた。それは耳川の上流で生産された木材や木炭などを大阪方面に出荷し、帰路には上方(かみがた)の特産物や美術工芸品を持ち帰ったと云う。明治から大正時代に最盛期を迎ていたが、大正12年に日豊本線が開通して海運は衰えてしまった。そこには今にも耳川河口に築かれた港にの隣接した街並みが残り、江戸時代から明治時代の瀬戸内船運の西端に当たっていたことから、上方風の商家、操船・水運業者の家、漁家の建物、その屋敷地割などが現存しており、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。
遅れたが、この神話とは、神武天皇(カムヤマトイワレヒコノミコト)がこの地から東征に出発したというもので、これにちなんで「日本海軍の発祥の地」を記す碑が近年になって河口に再建されている。
 さて、耳川鉄橋を渡った列車が南日向駅へ向かう約3qの間は険しい岬へつながる権現崎(ごんげんざき)の根本を抜けるところで、海岸まで迫った山とのわずかな空間を国道と寄り沿うようにして、ゆるい勾配を保ちながら、築堤と切り通し、それに権現トンネルと遠見トンネルを通り抜けている。この権現崎は美々津の街並みの耳川の対岸の東に横たわる標高52mの権現山から海に迫る岬があって、その突端は柱状節理の断崖の荒々しい海岸線となっているが、丘の上には照葉林の自然の姿が残っていて天然記念物となっている。
その岬には日向灘に向かって「美々津の権現崎にて」と云う和歌山牧水の歌碑が立っている。
『海よかげれ水平線の黝(い)みより 雲よ出来て海渡れかし』
これは祖母の実家から耳川を下って美々津にやってきて、初めて海をを獲
ん邊した牧水が感動して詠んだ歌だと云うのである。
それを過ぎて線路も国道と共に高台を走り抜けている所であって、素晴らしい「お金が浜」、「お倉が浜」が続いて現れる。その
海には岩が露出している金が浜の海浜を見下ろすようになる。ここは海が荒れるのでサーフィンには格好の場所であるとか。
やがて、南日向に着く。この先に有名な大築堤があり撮影の名所であると云うのだが。これより先は財光寺の平原(昭和4年に海軍富高飛行場が建設されていた)を突っ切って平坦線を改装する。その海側は、「日本の渚(なぎさ)100選」に選ばれた「お倉ケ浜」となり、塩見川の河口まで約4kmの一面の砂浜が続いている。この二つの砂浜は、弘法大師の「はまぐり伝説」と日向碁石の里として知られている。ここは日本で唯一の“スワブテ(蛤貝)”の産地なのである。
 『岩脇(日向市)の海沿いの里に、昔、お金とお倉と云う二人の女が住んでいた。お金もお倉も、毎日遠浅の浜辺に出て「はまぐり」を採り、生計の助にしていた。ある晴れた日であった。お金は浜に出、いつものように「はまぐり」をあさっていた。すると見知らぬ行脚姿の老僧がやって来た。老僧はお金のそばに近づいてくると、籠のなかをのぞき込んだ。「ほう、これは見事な蛤じゃ。わしに少し恵んではくださらぬか。」
 お金は欲の深い女である。老僧の言葉を聞くと、手籠を背に隠すようにして答えた。「籠のなかは石ばかりですのよ。」 すげないお金の言葉に、老僧は黙ってその場を立ち去った。渚づたいに歩いていたが、間もなくまた蛤を採っている他の女の姿が眼に映った。お倉であった。老僧はお倉のそばまで行き、今度も同じように蛤を分けてくれるように頼んだ。 お金と違って、お倉は情深い女である。老僧の頼みに快く応じた。
「こんなものでおよろしければ、いくらでもお持ちください。」
 頭陀袋(ずだぶくろ)に優しく自分から蛤を入れてやったのである。
「これは誠にありがたい。何とお礼を申し上げていいやら………。」
 老僧は言った。
「あなたは本当に優しい女じゃ。そのうちきっといいことがあろう。」
 老僧はそのまま磯づたいにどこへともなく立ち去っていった。
 このことがあってのち、お金が採っていた浜辺からは、蛤がほとんど採れなくなった。反面、お倉の住んでいた近くの浜辺からは、たくさんの蛤が採れるようになった。土地の人々は、この二つの浜辺をお金ヶ浜、お倉ヶ浜と区別して呼ぶようになり、老僧の話を伝承した。この老僧こそが弘法大師で、中国から帰国して、大宰府に約1年間九州に滞在し、その間に日向の国の浜をおとずれたと云うのである。それと、那智黒と共に世に知られている日向の白碁石は、このお倉ヶ浜で採れる「はまぐり」からだけ作られる一品だと云うのである。
 お蔵が浜が尽きて、塩見川を渡り1kmほどで、明治の頃に宮崎県庁も置かれてた富高、現在の日向市の中心にある日向駅に達した。市街地は海岸の方向に広がっていて、日向灘に突出した細島半島があって、その手前には日本の海水浴場88選に選ばれた「伊勢ヶ浜」の砂浜が広がっている。この半島に対向する牧島山の半島とに挟まれた奥行約2.5kmの狭くて長い入り江の奥に細島港があって、ここまで日向市駅から4km足らずの細島線が通じていた時代もあった。