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・「会津のけむり、(磐越西線/会津線/只見線)」

218. 裏那須の紅葉、第6大河橋梁 ・会津線/楢原-会津落合


〈0001:30-83:紅葉の第6大河橋梁を行く〉
第6大河橋梁・会津線(楢原-会津落

〈0002:30-88:南会津の山里風景〉
秋の南会津の山里・会津線(? 湯野上-弥五

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〈紀行文〉
 「裏日本」の語は1957年に発刊された浜谷浩さんの写真集のタイトルに使われてから地域を表す表現として定着していたが、最近は見かけることはめっきり少なくなってしまった。しかし、ここで掲げた「裏那須」は野草や紅葉のトレッキング愛好家たちに親しまれている地域で、表那須の代表である那須岳の茶碓山の南に位置する大峠(標高1,468m、旧会津中街道)から流石山(1812.5m)、大倉山(1885m)、三倉山(1888m)と南に連なる一帯を指しており、この連山の西側は南会津の田島盆地の東南部に位置しており、都会からのアクセスの便が良く、自然の景観にも恵まれている地域なのである。
ここを会津側から見れば、会津若松のある会津盆地を阿賀川(上流では大河)に沿って大戸岳と小野岳に挟まれた大河ダムのある険しい渓谷部を抜けて南会津の田島盆地に入ろうとする辺りである。国道118号/121号も会津線(今の会津鉄道)も大河ダムの作る若郷湖の岸を抜けて、その上流にある湯野上温泉や塔のへつりの景観の望める峡谷を抜けると那須連山の西側に広がる傾斜面の広い田島盆地の東南部に当たる下郷地域(昔の楢原町)に達する。
今は午後を過ぎているので、東側に連なる那須連山の西側が順光となり、山肌の起伏が良く見えるようになった。そこには、大河渓谷入り口の大戸岳西麓から南へ、鳳坂(ほうさか峠(標高 825m、国道118号)・白森山(1263m)・甲子(かっし)峠(1380m、国道289号は今はトンネル)・甲子山(1549m)・茶臼岳(1915m)・三本槍岳(1917m)・大峠・流石山・大倉山・三倉山と山の頂と峠のある鞍部とが続いていた。
 そこで、大河ダムの作った細長い若郷湖の水面が尽きて、再び峡谷が姿を現し始めた湯野上から南会津の中心地である田島までの沿線の風物詩をスケッチしながら、私の写真の説明を兼ねたい。
 湯野上温泉駅を出てしばらくすると、長さ108mのアンダートラス+プレートガーダーの第4大川橋梁を渡り、しばらく車窓右手に大河を眺めながら進み、再び全長 98mの上路単純ワーレントラス(スパン 46.8 m)+プレートガーダー2連の第5大川橋梁を渡ることになる。ここからは対岸の「塔のへつり」と云う河岸が川の流れによって侵食された絶景をかいま見ながら広大な林の中にできた塔のへつり駅、そして弥五島(やごしま)駅と過ぎたる。この弥五島集落は大河左岸にあって、日光へ抜ける会津西街道の代替えとして作られた会津中街道の大河を渡る宿場であって、その先は裏那須の山麓をひたすら登って、那須連山の鞍部である大峠を目指していた。現在は県道347号から林道が峠下まで通じていて、裏那須への登山の便を提供している。
やがて、短い鉄橋で急流の戸石川を渡ると、周囲が開けて明るくなり、久し振りに街が見えてくると、会津下郷駅(かっての楢原(ならはら)駅)に到着した。
今まで峡谷を南下してきたが、会津下郷からはしばらく盆地の中を進んで行くことになる。そして再び大河を長いプレートガーターの第6大川橋梁で渡るのだが、盆地に入ったので流れもゆったりと雄大になっている。これが大河本流を渡る最後の大川橋梁たった。撮影ポイントを探し回ったが、遂に三脚を立てられる場所が見つからず、一眼レフを手持ちで撮ったのが、この一枚だけであった。
それに次に掲げた写真では、その撮影場所が思い出せずに戸惑っているのだが、強いて云えば湯野上から弥五島の間の何処かではなかろうか。それは手前の大河の凪がれから砂防ダムの向こうに広がる開けた地形からも推察できようか。
 話を戻すと、会津線は最近開業した「ふるさと公園駅」、次いで昔は会津落合駅と云っていた養鱒公園(ようそんこうえん)駅に停車する。養鱒公園駅を出て、幅が大河本流と見間違えるほど広い河原の加藤谷川(かどたにがわ)を渡り過ぎると、やがて最後の小さな河岸段丘を登って会津長野を通って田島へ出ることになる。
ほの川の雄大さはまるで大河の本流のようだが、大川の支流で、裏那須連山の大倉山(標高 1885m)の西斜面を源に多くの支流を集めて、滝を下って流下する一級河川で、
透き通った流れる水の量も多かったのには驚かされた。
 この 下郷町の東部を走る沿線には、南会津にしては広々とした農地を見ることができて、ここだけ風景が遠方まで広がっているので、やけに眺めが良く感じる。この地形は加藤谷川が裏那須の山々を削った土砂を堆積させて作った緩やかな谷の斜面に、段々の田んぼと畑や果樹園が広がっていて、のんびりとした風情が見て取れるからであろう。特に、養鱒公園駅から東へ坂を登ると、周りに段々になった美しい田んぼが広がる音金集落、そこから方向を南東に向けて加藤谷川の上流部を渡り、更に登ると、畑の多い十文字という集落を経て、標高600mほどの山に囲まれた傾斜ちた猿楽台地が現れる。ここは日本一の規模を誇る「そば畑」が広がっていて、美味しい会津そばをはぐくんでいて、8月下旬から9月上旬の頃には約50ヘクタールほどの土地が「そばの白い花」で埋め尽くされると云う。ここから更に登った先には紅葉が那須随一と云われるようになった観音沼森林公園もある。
 この“加藤”と云う何となく人間くさい川の名前の起源を調べると、江戸時代の前期、慶長16年(1611年)の会津地震で倒壊したままであった若松城天守閣を再建し、城下町の整備を図って近世会津の基礎を築いたことで知られる二代目藩主の加藤明成(あきなり)が、現在の栃木県黒磯の板室から那須連山の大峠越えで会津入りした時に、この川の上流にある二段の大滝を見て、自然の生んだ大景観に心を奪われて、日が暮れるまでその場を離れなかったと云われ、この滝を「日暮滝」の名が付き、谷川も加藤谷川(かどだにがわ)と呼ばれるようになったとあった。
 ところで、湯野上温泉付近から塔のへつりの裏側を通って、ひたすら大河の右岸の山すそを登って南会津の中心である田島の町までの約20kmを結ぶ「塔のへつり裏街道」こと、県道347号高陦田島線があって、大川を挟んで国道121号線の対岸に当たる小高い丘を縫って走っていた。そして第6大河橋梁を渡った会津線も田島まで、この県道に寄り沿って走るようになる。今まで大河の左岸を通っていた日光へ抜ける会津西街道も大河を渡って、この県道に合流して、最後の段丘を越えて田島宿へ向かっていた。この辺りは会津長野と云う集落で、蔵も多く建ち、裕福な土地のようだ。その向こうには八ヶ岳ならぬ七ヶ岳などの奥会津の山々が雄大な姿を遠くに見せており、道筋には街道の名残の田部原の一里塚なども見ながら田島宿へ至っている。
このように旅をしてみると、この下郷地区は南会津の交通の十字路であったことに気がついた。その昔は、会津若松と江戸を結んだ二つの街道が下郷土付近でX字状に接近しながら通じており、それは本街道である山会津西街道であって、山間の宿場保存地区でで知られる大内宿を経て田島から山王峠を越えて日光へ抜ける街道である。一方は、その代替え街道として作られた会津中街道であって、大河沿いを南下して、下郷の弥五島宿で大河を渡り、那須連山を大峠で越えて直接関東平野に出て江戸を目指す街道である。そして現代は、大川素意に山王峠を越えて日光へ抜ける国道121号、それに那須連山を鳳坂(ほうさか)峠で越えて須賀川から水戸へ通じる国道118号、それに甲子トンネル(長さ 4345m)で那須連山の下を抜けて大慶溶岩の「いわき(昔の平)」から南会津の田島、只見を経て日本海岸の新潟までを結ぶ国道289号が通過しているからである。それに東京の浅草まで直通している会津鉄道の会津線がこれに加わることになる。この地域は、鉄道の車窓からの景観から、街道めぐり、渓谷釣り、裏那須トレッキング、それに温泉に紅葉やそばの花などの自然景観と多くの人々を魅了しているようだ。

撮影:ロードアップ:2011−02.

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・「会津の煙(磐越西線/会津線/只見線)」シリーズのリンク
153. 奥会津の「一の戸川橋梁」 磐越西線・山都付近
143. 会津線 滝谷川橋梁の初夏 (只見線・滝谷〜会津檜原)
258.素晴らしきアーチ鉄橋の第一只見川橋梁・只見線/会津檜原−会津西方
033. 只見川に架かるアンダートラス鉄橋たち・只見線/会津西川〜会津川口
169. カラー習作 「紅葉の会津線」 (会津線・湯の上→弥五島)
167. 大川ダムニ沈んだ二つの橋梁 (会津線・会津桑原→湯の上)
217.紅葉の闇川(くらかわ)橋梁・会津線(上三寄-桑原)
165. モダンな南会津のアーチ橋 (会津線・糸沢→会津滝ノ原)