自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・「会津のけむり、(磐越西線/会津線/只見線)」

169.  カラー習作   「紅葉の会津線」  (会津線・湯の上→弥五島)


〈0001:〉
紅葉の会津線 C11 塔のへつり
〈0002:〉
30-79:南[会津の紅葉・会津線(場所不明、昭和47年

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〈紀行文〉
 今も7箱のスライドケースに残っている35ミリのカラースライドを撮り始めるきっかけとなったのは或る一人の知人の好意からであった。その人は私の勤めていたホンダに自動車塗料を納めていた神東塗料の常務をされていた浜本幸滋さんで、カメラも趣味のひとつとされていた。或るときに、私が専ら「トライエックス」(コダックの高感度モノクロフイルム)一辺倒であることを聞いて、「これからはカラーの時代だよ」と力説されていた。次にお会いした時に、コダックの輸入総代理店であった長瀬産業の友人から提供されたデモ用サンプルだと云って、鮮やかな色を誇る「エクタクローム」や、しっとりとした油絵のような色調を再現する「コダカラー」の35ミリカラースライド用フイルムを10本ばかり持って来てくれたのだった。それを試しに使ってから病みつきになり、数年間に「エクタクローム」を約2800枚ほど撮り続けてから、その後は雑誌への投稿を意識してブローニーの「プロフェショナル エクタクローム」のファンに転向して過ごして来たのだった。
ここでお目に掛けた最初の作品は、その時のASA感度が32と低い「こだからー」フイルムを「紅葉の会津線」で試みた習作の一枚であることをお断りしておきたい。
次の作品は昭和47年の秋、35oエクタクロームからブローニーのコダカラーに進化した時代の作品で、撮影場所は失念している。橋梁の長さから大河に架かる橋ではないだろう。その築堤の手前の畑の色とりどりの風景は一帯何を植えているのであろうか。
 私の住んでいる埼玉県の西南部から補機の付いたSL列車の運転が見られるのは、重連の足尾線と後補機の会津滝ノ原線であった。積雪期はともかく、四季を通じて鬼怒川を遡って山王峠を越えて大川(阿賀川)沿いの南会津の渓谷筋にしばしば出掛けた。その頃は昔ながらの砂利道の国道121号線は改良工事の真っ最中で、新しく山腹を切り開くような工事が続けられていた。それ故に訪れるたびにに今まで見たことのないアングルが突然現れてたのには興奮を覚えたものだった。ここの会津滝ノ原線でのSL牽引の客車列車は早くも昭和42(1967)年の7月でDC化されてしまったが、一方の貨物列車は1974年まで一日2往復が運転され続けて随分楽しませてもらったのだった。
 ここにご覧に入れた南会津の紅葉の風景は、会津滝ノ原線のほぼ中間付近に位置する湯の上温泉から少し上流にある「塔のへつり」と呼ばれる川によって浸食されて出来た奇岩の連なる天然記念物の景勝地を訪れた際の帰り道で撮ったシーンである。
国道から少し入ったところの踏切りから、すこし線路脇を下った切り同志で午後の勾配を登って来る下り貨物列車をねらったのであった。確かに紅葉の再現は他のフィルムとは一味違うように思えたが、何しろ低い露出感度には併行したので、試みたのはこの一本だけであった。
 さて、ここで会津滝ノ原線(現在の会津鉄道会津線)の生い立ちについて触れておこう。先ず会津の地形から始めよう。
この会津盆地は南北約34km、東西約13kmの楕円形をしており、大昔の日本海が深く入り込んだ入り江が海面の後退や、盆地西縁の断層隆起などにより生まれたと説明されており、東は磐梯山などの奥羽山脈、南は会津高原と呼ばれる山間地、西は越後山脈、北は飯豊(いいで)山地に囲まれている。盆地は標高175〜220m程度の平坦地となっており、ほぼ中央を南南東から北北西に向かって一級河川の阿賀川(上流では大川)が流れており、多くの支流を集めて越後山脈を抜けて日本海に注いでいる。中心都市の会津若松市は盆地の南東に位置しており、ここを東西に通る磐越西線から分岐して南へ向かい関東へ抜けようとする鉄路が会津線(滝ノ原線)である。
国会での運輸委員会の議事録によれば、『会津線は標高千メートルから二千メートル級の高山に囲まれ、大川(阿賀川)に沿って57.4キロメートルを走っており、南端の会津滝ノ原駅は標高 720メートル、仙台鉄道局管内第一の高所であり、また橋梁、トンネル、切り取りが連続し、カーブする軌道の最小半径は二百メートル、勾配も最急、標準とも二五パーミルと云う険しさであります。』とある。
 さて、この地に鉄道が敷かれたのは、昭和初期にさかのぼる。会津若松を通る磐越西線から枝分かれした二本の線路は、はじめ両方とも会津線と呼ばれていたが、只見を目指した会津只見線は上越線の小出まで全通して只見線となった。もう一本の会津滝ノ原線は大川に沿って南進し、会津盆地の南縁に当たる上三寄(かみみより、現在の芦の牧温泉)から山間に入り、南会津の中心である城下町の会津田島までが開通したのは昭和9(1934)年であった。さらに硫化鉱の地下資源開発を控えた会津滝ノ原(現在の会津高原)まで延伸されたのが昭和28(1953)年である。頭書は会津線の滝ノ原線と呼ばれていたが、只見線が全通すると、こちらは単に会津線となった。会津滝ノ原から先の行く手には野岩線を建設して、はるかなる東京への連絡での夢が残っていた。
この会津滝ノ原線のルートこそは明治初期の福島県令であった三島 通庸(みちつね)が制作の中心に据えて推進した「会津三方道路」の中の南北線(米沢−会津若松−今市)の一部と重なっており、この道は戦後の昭和28年に県道から二級国道121号線に格上げされている。このルートを鉄道化するのが、下野(しもつけ:栃木県)、岩代(いわしろ:福島県)と羽前(山形県)を縦断する“第二の東北本線”を目指して、奥羽本線(米沢)と東北本線(古河)とを短絡する「野岩羽線」の構想の一環であった。当時、明治25年頃の鉄道建設運動の高まりの中で、「野岩羽線」は盛んに唱えられたのだった。そのルートは、古河(東北本線)−鹿沼−今市−会津田島−会津若松−喜多方−米沢(奥羽本線)を結ぶ南東北の縦貫鉄道線となる壮大な企てであった。
これらの鉄道建設は、大正11(1922)年に改正された「鉄道敷設法」別表に掲げる予定線のうち、第33号の「栃木県今市ヨリ高徳ヲ経テ福島県田島ニ至ル鉄道…(以下略)」の一部である。北側では会津線・只見線・磐越西線を経て同表第26号の「山形県米沢ヨリ福島県喜多方ニ至ル鉄道」である日中線、南側では日光線を経て同表第35号の「栃木縣鹿沼ヨリ栃木ヲ經テ茨城縣古河ニ至ル鐡道」と結び、山形県米沢市と茨城県古河市を結ぶものであった。
その後も南への延伸は野岩線として進められ、紆余曲折を経て第3セクターの野岩鉄道鬼怒川線として昭和61(1986)年に開業して、会津と東京(浅草)が東武鉄道を経由して一本に繋がった。さらに、平成2(1990)年に会津鉄道の会津高原(会津滝の原)−会津田島が電化され、都心から南会津まで直通電車が3時間余で走るようになった。これにより長年の願いであった“野岩”鉄道は実現した。一方、北進する“岩羽”鉄道に当たる日中線は昭和13年に喜多方から熱塩まで開業にこぎ着けたが、米沢への延伸は太平洋戦争のため工事は休止になり、戦後も再開されないまま廃止になってしまい、“岩羽”は結ばれずに終わってしまったのである。
 ここで話を元へ戻すと、この会津線の走る大川の峡谷に多目的ダムの建設が昭和52年に計画決定され、それによる水没対策として会津線はルート付け替えが5.8kmに渡って施された。今までの線路は河岸段丘の上をを主に通っていて、大川の蛇行部や狭谷部に面するところには橋梁やトンネルが設けられ、山岳鉄道風景を演出する舞台であったから、slの牽く列車を撮影する格好のポイントが散在していたのだった。しかし、昭和55年にはそれらは湖底に沈んでしまって失われてしまった。それは新線のルートの大半が長大なトンネルを通過しているからで、ただ満々と水をたたえた「若郷湖」を横断する唯一の橋梁からの風景が新しく生まれたことのみが救いであろう。

撮影:1969年
アップ:2009−09−15

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・「会津のけむり、(磐越西線/会津線/只見線)」シリーズのリンク
153. 奥会津の「一の戸川橋梁」 磐越西線・山都付近
143. 会津線 滝谷川橋梁の初夏 (只見線・滝谷〜会津檜原)
258.素晴らしきアーチ鉄橋の第一只見川橋梁・只見線/会津檜原−会津西方
033. 只見川に架かるアンダートラス鉄橋たち・只見線/会津西川〜会津川口
167. 大川ダムニ沈んだ二つの橋梁 (会津線・会津桑原→湯の上)
217.紅葉の闇川(くらかわ)橋梁・会津線(上三寄-桑原)
218.裏那須の紅葉、第6大河橋梁・会津線(楢原-会津落合)
165. モダンな南会津のアーチ橋 (会津線・糸沢→会津滝ノ原)