自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・「会津のけむり、(磐越西線/会津線/只見線)」

167.  大川ダムニ沈んだ二つの橋梁  ・会津線/桑原→湯野上


〈0002:第1大川橋梁とそれに並ぶ旧道のつり橋〉

紅葉ノ会津線 吊り橋と鉄

〈0003:〉
第1大河橋梁を吊り橋下から撮る C

〈0004:30-78:紅葉の目覚ガ淵を渡る〉
30-78?:第2大川橋梁・会津線(桑原-湯野

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〈紀行文〉

ここでご覧に入れる作品は、福島県の会津若松を起点にしている只見線が全通した昭和46年まで会津線滝ノ原方とよばれていた会津線(現在の会津鉄道)のSL撮影のハイライトの一つであった桑原〜湯野上間の第1大川橋梁と、それに寄り添うように掛けられた旧道の木製吊り橋が阿賀川本流の上流である大川を一跨ぎしている風景であるが、これらはいずれも既に大川ダムの出現で湖底に消えてしまって久しい。
そこで先ず、会津線の走るルートの位置を理解して頂くために会津地方の地形から始めよう。本州の東北地方の最南端に位置する会津盆地は南北約34km、東西約13kmの楕円形をしており、大昔の日本海が深く大きく入り込んだ入り江であったものが、海面の後退や、盆地西縁の断層隆起などによって生まれたと説明されている。その東は吾妻山系や磐梯山(標高 1,816m)、それに南に続く那須岳(標高 1,915m)などの那須山系などの奥羽山脈、南は大戸岳(標高 1,416m)や小野岳(標高 1,383m)などをそろえた会津高原と呼ばれる山地、西は越後山脈、北は飯豊(いいで)山地に囲まれている。このほぼ中央を南東から北西に向かって一級河川の阿賀川(上流では大川)が流れ、盆地の西縁を北流する大支流の只見川を合流して、越後山脈を削り抜け、名を阿賀野川と変えて越後平野をうるおして日本海に注いでいる。この盆地の中心都市である会津若松市は盆地の南東に位置しており、磐越西線が東北本線の郡山から会津若松を経て新潟へと東西に通じている。そして会津若松を起点にして西南に只見川に沿って延びる只見線(かっては会津線只見方)が通じており、その支線として西若松より大川に沿って東南に南会津の田島方面へへ伸びる会津鉄道(かっての会津線滝ノ原方)が通じているのである。
江戸時代、会津藩の城下町であった会津若松から江戸へ向かう主な街道としては、会津で南山通り(みなみやまどおり)、または下野(しもつけ)街道と、関東では会津西街道と呼ばれていた道筋であった。ここを会津藩を初めとして、新発田藩、村上藩、庄内藩、米沢藩などが参勤交代に使っており、それに江戸から会津以遠の物流の道としても重要な役割を果たしていた。その経路は会津若松城下からら進路を南に取り、阿賀川を渡って、会津盆地の直ぐ南にそびえる小野岳の西から南の山すそを巻くようにして、福永宿、関山宿を経て、氷玉峠(ひだまとうげ、標高 791m)を、次いで大内峠(標高 899m)を超えて、今も昔の宿場の姿を留めている大内宿、中山峠(標高 696m)、倉谷宿、八幡峠(標高 573m)を超えて大川沿いの楢原宿を経て田島宿へ達する。この経路は現在の県道131号下郷会津本郷線に当たっている。そして田島から先は標高 1000mに近い山王峠(旧国道は906m)を超えて鬼怒川水系の谷を下って日光街道の通じている今市宿へ抜けるもので現在の国道121号にほぼ沿っており、全長約130KMの峠の多いルートであった。
 所が、天和3年(1683)の日光大地震により鬼怒川支流の男鹿川が土砂で堰き止められ五十里湖が出現して街道が通行不能となってしまった。そこで会津藩では突貫工事で代替えの会津中街道を元禄8年(1689)に開通させた。この道筋は、今までの山王峠超えよりかなり北に位置する那須岳(標高 1,915m)のある那須連山を山越えして関東平野へ直接出ると云う険しいるーとであった。それは若松城下を出て今までの峠の多い山間ルートを避けて、阿賀川(上流は大川)に沿ってさかのぼり、小塩宿、桑原宿、そして大川を渡船して小出宿へ、ここで再び大川を渡船して東岸に渡り、松川宿などを経て那須連山の鞍部である標高 1,468mの大峠を乗り越えて、那須山中の三斗小屋宿、そして山麓の板室宿から奥州街道の通じている氏家宿へ抜けていたのであった。しかし、自然湖である五十里湖は、享保8年(1723)になって、大雨で決壊し、宇都宮近辺まで被害を及ぼした事件が起こり、その後に会津西街道が復旧して昔の繁盛を取り戻した。それ故に会津中街道は僅か34年間の本街道としての役目を終わった後は、那須連山の山超え街道部分はすたれてしまったが、会津若松城下から大川沿いをさかのぼって小出宿へ抜ける前半の街道は行商人や物資の流通経路として地元に交通の便をもたらして賑わいを続けた。そして明治に入って、県令 三島通庸(みちつね)が会津西街道に代わる馬車新道の開削を進めるに際して、この会津中街道のルートを採用し、明治17年(1884)に会津三方道路の南北線(米沢−会津若松−今市)、または野州街道(国道121号の前身)として開通させたのだった。その採用したルートは、大川の上流に出るまでに4つの峠を越なければならなかった会津西街道を避けて、会津中街道の前半を踏襲して、小出宿から南へ進んで田島に至り、そして山王峠へ向かっていたのである。この街道はやがて二級国道121号線に格上げされた。更に時代が下がって昭和に入って建設された国鉄会津線滝ノ原方にも、この大川に沿ってさかのぼるるルートが選ばれている。
 さて、ここで会津若松を経由して関東へ通じている国道121号線に乗って、会津若松から南会津の田島へ向かってドライブすることとしよう。(現在は会津若松-下郷間は国道181号と共用区間であるため、この区間では若い番号の118号が表記されているが、ここでは単独時の121号をそのまま使っている。)
出発して約10kmほど南下すると、水田の広がる田園地帯は尽きて、会津高原へと続く山々、東に会津若松の最高峰である大戸岳や、その西の小野岳が迫って来た。この辺りは大川の峡谷への入り口に当たる上三寄(かみみより)駅のある大豆田の集落である。ここを通過した所で、山裾に向かう旧国道121号線と会津線にに別れを告げて、大川に合流する深い谷の闇川(くらかわ)を渡るのだが、地形に邪魔されて国道から本流との合流点が見ることはできない。そして蛇行しながら右に近づいてきた大川の流れを小谷橋で西岸(左岸へ、しばらく走って再び芦ノ牧橋で大川をを渡ると会津若松の奥座敷である芦の牧温泉街を横目でみながら、道は芦ノ牧トンネル(長さ 335m)を抜けると森林の緑がますます深くなってきた。そしてダム直下から3.5kmほど下流にある新大川橋を渡って右岸に戻ると、この先は大川ダム建設のために山の中腹へ付け替えられた区間であって、小沼崎トンネル(長さ 699m)、沼尾トンネル(長さ 251m)、それに下郷トンネル(長さ 1,392m)と抜けるが、そのトンネルとの間では左下に満々と水をたたえた幅が500mを超え、長さ南北4kmにおよぶ湖面が視野に飛び込んできた。これは昭和62年(1987)に完成したダム高さ70mの巨大な大川ダムによってできた人造湖であった。そして下郷トンネル出口の直ぐ下の河岸段丘には水没を免れた以前の国道に面した小出集落が眺められた。ここは江戸時代の会津中街道の小出宿のあった所であり、対岸に渡るための渡船場で賑わった所である。その先を進むと、湖面を横断している大川湖面橋が眼に入ってきた。これは旧国道121号の付け替えの県道214号芦ノ牧温泉南停車場線であって、桑原と小出の集落を結んでいる。この橋の下の水面には、右岸に桑原、左岸には沼尾、ダムサイト直下に舟子の三集落の49戸の民家と共に、歴史を刻んで来た会津中街道、会津三方道路の野州街道、それを引き継いだ二級国道121号線、それに会津線の桑原駅や幾つかのとんねる、それにここで紹介する第第一大川橋梁と、旧道の吊り橋などが湖底に沈んでいるのであった。
 ここで、ダムに沈む前の会津線と旧国道121号線の沿線風景を素描しておこう。会津若松を出た会津線は盆地を東南に大川に沿って田園風景の中を進むが、やがて上三寄駅ー(現、芦ノ牧温泉駅)に近づくと、会津高原につながる山々が迫って来て、いよいよ大川の谷間に突入することになる。会津線の最盛期であった昭和46年頃のC11牽引の貨物列車の運用ダイヤは、会津滝ノ原・田島〜会津若松の上下共に、それぞれ1本、それに会津若松→田島・湯野上の間にそれぞれ1本の単機回送が設定されていた。この補機が必要なのは、鉱石輸送の貨物需要の多い上り列車では、桑原→上三寄の間に25パーミルのきつい登り勾配があって、C11の牽引定数の換算18(180トン)を超える貨物列車には後補機が連結されて奮闘する場面が時おり見ることができた。
この上三寄駅を出た列車は間もなく国道121号線を踏切で横切り、旧道と並行しながら、いよ南会津の山間部へ分け入って行くようで、段々と見通しがきかなくなり、カーブも多くなり、勾配も急になってきた。ここからしばらくは大きく蛇行する渓谷の大川沿いを避けて山裾を抜けるルートが採られているからである。間もなく、わずかな直線区間で鉄橋を渡った。ここは撮影名所で有名な闇川(くらかわ)橋梁で、並走する旧道のコンクリート橋を前景に撮影できる楽しい撮影ポイントであった。それに、この橋は深い谷に架橋するために試験的に考案された「上路曲弦プラットトラス(はね出汁桁付き)と云う形式で両岸の近くにそれぞれ橋脚を設けて、ここを中心に「ヤジろべい工法」で架橋したのであるが、肝心の「はね出汁桁」の部分は茂った樹木に隠れて良く見ることが難しいようだ。
この会津若松で最高峰の大戸岳のブナ自然林をを源に深い谷を作って流れ下ってきた闇川の険しい谷を渡った列車は築堤上に出て、心よいドラフトの響きが、静かな山合にこだまする。目の前に大きな山が迫ってきて、大川から離れて、山すそをはうように登り続ける。舟子(ふなこ)の村落が見えたらサミットは近い。やがて古めかしい短いトンネル、しばしの直線路、再びトンネルに突入、ほれは長さが1kmちょっともある舟子トンネルである。このトンネルの上には旧道の舟子峠(標高 505m)がかろうじて明治の面影を残している。トンネルを抜けると桑原駅までは25パーミルの勾配、ここも上り列車の撮影には人気のあった所で、車窓右手には木々の間から蛇行する大川の白い流れがチラリと見えるのだった。
やがて、すりばち(鉢)の底のヨウナ谷底にある桑原駅に到着する。ここから先は25パーミルの勾配を維持しながら高い橋脚が特徴的な第1大川橋梁を渡って第1小沼崎(こぬまざき)トンネルに突入することになっていた。それ故に、どちらの方向も25パーミルの勾配となっているのだが、桑原駅に必ず給水停車するのは下り貨物列車であった。この駅舎から階段を登った所にホームがあって、その外れに錆の浮き出た給水塔があった。
 やがて桑原駅を発車すると、ドラフトの音は山々に響き、汽笛がこだまとなっていつまでも残っていた。直ぐに勾配に掛かり、やがてこの線区で最長の多連プレートガーダーの第一大川橋梁を渡り、直ぐに対岸の半島のように付出している丘を第1小沼崎とんねる)で抜け、緩やかなカーブを描いて掘り割りに向かって登り続けて行く。
一方、上り列車は第一大川橋梁の下り勾配を一気に下り、その惰性スピードで桑原駅を通過して、舟子方のトンネルに向って駆け上がって行くのであった。
この桑原駅の坂の下には、茅葺き(かやぶき)屋根の民家が14軒ほど寄り添っている桑原集落があり、ここは昔の会津中街道の桑原宿であったし、その後の国道121号線の旧道もここを通っていた。
 最初の写真では、始まったばかりの第1大川橋梁周辺の紅葉ふうけいである。二枚目の写真は旧道の桁が木製のように見える吊り橋の巨大なコンクリートの主塔の下に降りて第一大川橋梁を下るC11を撮った写真である。奇しくも左端に、この吊り橋の重量制限2トンを示す道路標識が撮られていたのには驚いた。この吊り橋の架かっている場所こそは、険しい大川渓谷に沿って南下する昔からの路たちが選んだ唯一の渡河地点だったのである。ちなみに会津中街道の渡船場であり、明治になって開通した会津三方道の野州街道路(県道)の初代の吊り橋もここに架けられたのである。この県道は昭和27年に二級国道121号線に格上げされており、吊り橋を渡って南へはつづら折りで山へはい上がり、小出の集落へ至っているし、北へは河岸段丘を登り蟹坂隧道(かにさかずいどう)を通り抜けて桑原集落へ、そして小さな舟子峠(標高 505m)の切り通しを超えて舟子集落へ通じている。私は昭和44年頃にクルマ(軽のスバル360)で重量制限2トンの吊り橋を渡り、桑原集落へ向かって狭い蟹坂隧道を通過しているが、この経路では鉄道を眺められるポイントを見つけることはかなわなかった。この二つの現役の橋たちと、昔の街道の面影は下流にできた大川ダムの作った「若郷湖)の底に消えてしまった。
さて、ダム工事に際して5.8kmにわたって付け替えられた会津線の線路は、舟子集落の辺りから山の中腹の高い位置に移された。水没を免れた舟子集落も高台へ移住し、そして舟子トンネルの先には、その集落跡地に公園が作られ、その近くに大川ダム公園駅が設けられている。この付近の地形の変わりようもすざましい。そして向山トンネルを抜けると、同様に山の中腹に移住した桑原集落の中に設けられた桑原駅(芦の牧温泉南駅)に到着する。さらに続いて桑原トンネル、わずかな明かり区間で、全約2.8kmの大戸トンネルが続く。トンネルを出た所で付け替え区間が終わると、間もなくアンダートラス一杯の水面に架けられた第3大川橋梁を渡り過ぎると湯野上駅は近い。このように付け替えられた新線は殆ど全区間がトンネルとなってしまい、昔の峡谷美の中を行く楽しみは失われてしまい、ただ高見からかいま見えるダム湖の眺望が唯一の慰めとなってしまった。特に会津線の中で一番深い深沢渓谷に架かる高さ 60mの深沢橋梁からの景観は素晴らしい。
 ここで話を昔の会津線に戻すと、第1大川橋梁をわたり、第一、第二小沼崎トンネルを抜けて大川沿イの小出集落の下をぬけると、大川は最も険しい峡谷を作って蛇行するようになり、地元では「目覚ガ淵」と呼ばれている景観の名所に差し掛かる。
鉄路は蛇行する大川を突っ切るように長さ約400mの第4小沼崎トンネルを抜け、高さ50m以上もあろう断崖に挟まれた淵(ふち)を流れ下る大川を全長 62.4mのアンダートラスの第2大河橋梁で一跨ぎして再びトンネルに突っ込んで行くと云う撮影名所を演出してくれている。
濃い緑に塗られた上路トラスが水の蒼い(あおい峡間をひとまたぎにしている構図は絵になるのだが、トンネルからいつSLが飛び出て来るかが判らないのが難点であった。
ところで、第一大川橋梁は完全にダム湖の中に没してしまったが、この第2大川橋梁は僅かに水面の上方に位置していたことから、上路単純ワーレントラス橋桁は撤去されてしまったが、巨大なトラクを受けていた橋台が残っているのが国道から認められると云う。
なお、「紅葉の闇川橋梁(くらかわ)橋梁)」は別サイトにアップしてありますのでご覧頂ければ幸です。

撮影:1968年
アップ:2009−09−16
関連りんく:
会津線水没廃線地図
・「レポート 会津線旧線 大川ダム水没区間」
http://yamaiga.com/rail/ookawa/main.html 

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・「会津のけむり、(磐越西線/会津線/只見線)」シリーズのリンク
153. 奥会津の「一の戸川橋梁」 磐越西線・山都付近
143. 会津線 滝谷川橋梁の初夏 (只見線・滝谷〜会津檜原)
258.素晴らしきアーチ鉄橋の第一只見川橋梁・只見線/会津檜原−会津西方
033. 只見川に架かるアンダートラス鉄橋たち・只見線/会津西川〜会津川口
169. カラー習作 「紅葉の会津線」 (会津線・湯の上→弥五島)
217.紅葉の闇川(くらかわ)橋梁・会津線(上三寄-桑原)
218.裏那須の紅葉、第6大河橋梁・会津線(楢原-会津落合)
165. モダンな南会津のアーチ橋 (会津線・糸沢→会津滝ノ原)