自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・「会津の煙(磐越西線/会津線/只見線)」

143.  会津線 滝谷川橋梁の初夏   只見線 滝谷〜会津檜原


〈0002:滝谷の鉄橋〉
会津線 滝谷川橋

〈001:大川に架かる最後の鉄橋、bR10214〉




会津線只見方(今の只見線)が西会津駅をでて、大川(阿賀川;阿賀野川の上流)に架かる唯一の鉄橋です。対岸の高所にある公園から撮りました。大川はこの先で越後山脈を谷を刻んで通り抜けているので、会津盆地に大雨が降ると満満と水を湛えた大河となります。

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〈紀行文〉
 SL写真を始めて1年も経ないうちに、二臺の35ミリアサペンに加えて、機動性に富んだ“コニオメガ”と云う6X7のプレスカメラを専らモノクロ用に使い始めた。それでエクタクロームを装填したカラースライド専用のアサペンが誕生したのだった。その手始めにしばしば出撃したのが、鬼怒川上流の山王峠を越えて会津線(滝ノ原線)や只見線沿いであった。その筆おろしの一枚が当時から撮影名所として知られていた「滝谷鉄橋」だった。これが私の約4500ショットに及ぶカラー撮影修行のマイルストン(一里塚)であることに免じて展示した次第なのです。
 会津盆地の会津坂下(あいずばんげ)の町から山裾に取り付いて25‰を登って塔寺駅を過ぎて更に七折坂を超えると只見川の谷の入り口に出たようで水田の広がる谷間の開けた所に出た。鉄路は山裾を登りつつ、やがて虚空増菩薩(こくうぞうぼさつ)の寺でで知られる会津柳津(あいずやないず)の温泉街に入った。この先の郷戸駅附近からは古屋敷峠を超えて25‰の急勾配をゆっくりと下って来ると只見河の支流である滝谷川筋に入り、滝谷駅に至っている。
私たちは
柳津温泉町から会津川口方面に国道252号を約3.4kmほど進んだところで、右折し県道32号柳津昭和線を進むと、やがて昭和16年(1941年)に開業当時のままの木造のとても良い雰囲気の駅舎が現れた。この滝谷駅では列車交換が見られたし、貨物取り扱いも行なわれていた。この谷の上流には閑静な西山温泉があり、岩魚(いわな)と山女魚(やまめ)の釣り場としても知る人ぞ知る谷筋であると云う。
この滝谷駅を出た先の鉄路は長さ 155mの勾配3‰でーブした滝谷河橋梁を渡ると、ぐにに長さ 772m、13.2‰の勾配のある原谷トンネルに突っ込んから夏場でも強烈な力行ぶりが見られた。この鉄橋は会津坂下駅を出てから最初の大きな鉄橋で、深い谷間に架けられた上路式RCラーメン桁1連 + 上路式ワーレントラス1連 + 上路式プレートガーダー3連の形式であった。その橋は緩やかな曲線を描いており、スパン長62.4mのトラス桁には半径500mのカーブでレールが敷かれていて、プレートガーダーは角度を付けることにより架けられていた。滝谷川は深い谷と急流のため足場などが設けることがむずかしいので、両岸に立てた塔よりケーブルを張り、橋体を支持する懸吊式ケーブル架橋工法が用いられたと云う。ここでは正面、サイド、上からといろいろな撮影ポイントがあるが、滝谷川橋梁の上方からは線路が大きなカーブを描いているので、原谷トンネルから橋上で左カーブを進行してくる勇姿も見ることが出来たのだった。
この時も、鋭い汽笛が谷間に何度か長く こだまする頃には列車は既にトンネルに頭を突っ込んでいたのだった。
しかし、その後、出撃すべき撮影地が拡がるにつれて、遂に紅葉に染まった滝谷鉄橋を撮る機会には恵まれずに終わってしまったのは残念の一語に尽きるのである。

撮影:1968年

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・「会津のけむり、(磐越西線/会津線/只見線)」シリーズのリンク
153. 奥会津の「一の戸川橋梁」 磐越西線・山都付近
258.素晴らしきアーチ鉄橋の第一只見川橋梁・只見線/会津檜原−会津西方
033. 只見川に架かるアンダートラス鉄橋たち・只見線/会津西川〜会津川口
169. カラー習作 「紅葉の会津線」 (会津線・湯の上→弥五島)
167. 大川ダムニ沈んだ二つの橋梁 (会津線・会津桑原→湯の上)
217.紅葉の闇川(くらかわ)橋梁・会津線(上三寄-桑原)
218.裏那須の紅葉、第6大河橋梁・会津線(楢原-会津落合)
165. モダンな南会津のアーチ橋 (会津線・糸沢→会津滝ノ原)