自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役

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・奥羽・越後山脈を横断する磐越西線

153.  奥会津の「一の戸川橋梁」 磐越西線 山都付近


〈0001:
磐越西線 一の戸橋梁 (山都−喜多方

〈0002:〉
磐越西線 一の戸橋梁 (山都−喜多方

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〈紀行文〉
 これは現在、復活したSL列車 「SLばんえつ物語号」が走る磐越西線の山都駅の直ぐ東に架けられた「一の戸川橋梁」の美しい姿である。ほの山都〜喜多方の間の「慶徳超え」は煙を吐きながら走るSL列車の撮影地として最も人気がある場所のひとつこなった。そこで、この地域の風土を説明することから始めよう。
この福島県山都町(現在は喜多方市の一部)は会津盆地の西縁に位置している。この会津盆地は南北約34km、東西約13kmの楕円形をしており、大昔の日本海が深く入り込んだ入り江が海面の後退や、盆地西縁の断層隆起などにより生まれたと説明されており、東は吾妻山系や磐梯山などの奥羽山脈、南は会津高原と呼ばれる山間地、西は越後山脈、北は飯豊(いいで)山地に囲まれている。このほぼ中央を南南東から北北西に向かって一級河川の阿賀川(下流の新潟県では阿賀野川)が流れており、多くの支流を集めて越後山脈を抜けて日本海に注いでいる。盆地の中心都市である会津若松市は盆地の南東に、第二の中心都市の喜多方は北西に位置しており、これらの都市を経由して郡山と新潟を東西に連絡する磐越西線が通っている。
この鉄道の建設は、日本鉄道の奥州線が郡山を経て開通するに伴って、郡山と新潟とを連絡する本州横断鉄道の建設の機運が高まったことに始まる。そして、そのルートは明治25年(1892)に公布された鉄道敷設法に「新潟縣下新津ヨリ福島縣下若松ヲ經テ白河、本宮近傍ニ至ル鐡道」としてリストアップされた。そして、明治30年(1897)に岩越鉄道(株)が設立され、明治32年には早くも郡山〜若松間が開通した。その先の新潟方面へのルートは当初、阿賀川に沿うように西へ直進して野沢(現在の西会津町)を通る最短ルートであったが、喜多方の人々の強い誓願を受け入れて北へ大きく迂回することにした。そして明治37年(1899)には若松〜喜多方間が開通した。しかし、それより西への延伸は行き詰まってしまっていた。所が、明治39年に岩越鉄道が国有化され、官設鉄道の岩越線として延伸工事が翌年から東西から開始された。そして、喜多方から阿賀川沿いまで出るための喜多方〜山都間の9.9kmは「慶徳超え」と呼ばれる山越えを強いられることになった。そして、松野トンネル(264.6m)と、谷を挟んで慶徳トンネル(708m)を貫くいて喜多方と山都との境界付近を直線で結ぶ「慶徳超え」と、それに広く深いU字型の一の戸川の谷を渡る「一の戸川橋梁」との二つの難工事を克服して、明治43年(1910)12月に開通した。しかし僅か8年後の大正6年(1917)3月に起こった大規模な地すべりにより松野トンネルの西側が埋没・崩壊して不通となってしまった。この不通区間を旅客は徒歩で、貨物は索道で連絡して急場をしのいでいた。しかし松野トンネルの復旧工事は成功せず、その地質不良地帯を迂回するルートが検討されて、疏水トンネルがある畑子沢沿いに盛土され、埋没した松野トンネルと相対していた慶徳トンネルの旧東口から100mほどの地点のトンネルの途中から逆S字カーブ(約5度)で掘り直すと云う突貫工事により線路の付け替えが行われ、1年以上過ぎた大正7年(1918)6月に全面復旧した。このため慶徳トンネルの長さは808.6mに伸長されている。現在も松野トンネル東側と旧慶得トンエル東側の坑口は草に埋もれながらも現存しているようだ。
 それに対して、もう一つの難工事であった「一ノ戸川橋梁」は明治43年に完成してから約一世紀を風雪にさらされながらも昔の偉容を誇っており、強いて変った所を云えば、川面からの高さ24mが川底の上昇により約17mとなったことや、前後のプレートガーーターの橋脚がコンクリート巻きとなったこと位であろう。
しかし、この建設工事も難渋をきわめたようだ。それは全長が445mと長い上に、高さが24mと云う高さで東洋1の規模であったからであろう。
 その15本もある橋脚は、花崗石(かこうがん)を一つひとつ積み重ねていく工法だった。花崗石の採石場所は、山都町の北に位置する宮古地区の沢や大平山一帯が当てられたが、ここで採石した岩が不足すると、高郷村の大谷という集落から、トロッコで原石のまま現地に運び込んだと云う。こうして積み上げて15本の橋脚を作り、何百何千という細丸太で足場を組み、アメリカから輸入された橋げたを架ける工事に入った。苦心の末に橋げたが1908年に架橋され、そして明治43年(1910)に喜多方〜山都間が開通した。このような長くて高い橋梁が求められたのは、下を流れる阿賀川の支流である一ノ戸川の流れる谷底が広く、川の左岸は水田が広がっているほどで、県道16号線(喜多方−西会津)も谷底を通過していたからであった。
 ここで山都付近の沿線風景を喜多方から野沢まで眺めてみよう。喜多方駅を出発して先方で飯豊(いいで)山の万年雪を水源とする濁川に架かる「濁川橋梁」(全長252m)を渡る。ここで右手に米坂へ通じる国道121号線大峠に続く吾妻山系の山々を遠望してから、しばらく走って大きく左カーブして約12‰の連続登り勾配を慶徳トンネル(全長808m)に向って登坂していく。「慶徳踏切」から「慶徳トンネル」までは、ほぼ平坦地形であるが、直線区間では吾妻山系を眺めることが出来る。慶徳トンネルを抜けるとSカーブしながら「川吉踏切」を過ぎて、更にSカーブを経て西南に走り、「原川橋梁」(全長181m)を渡り、さらに山都の小布施地区の「そば畑」の脇をかすめて、右に曲がると一の戸川の流れる谷を跨いでいる「一の戸川橋梁に差し掛かる。この橋はアンダー トラス形式であるため窓からは橋梁の美しい姿を見ることはできないが、右側の車窓には、雄大な飯豊連峰が眺められ、春なら残雪、秋は初冠雪を見せてくれる。そして左に向くとやがて「山都そば」と飯豊山神社登山で知られる山都駅に着く。しばらく開けた山あいを進むと、やがて広くゆったりと流れ下る阿賀川に沿うようになり、それを渡ったりして西会津町の中心である野沢駅へ向かうのだった。
 そこで山都駅で下車して一ノ戸川の河原に降り立って、鉄橋の下流側から北を望むと、橋脚の間から白い頂きの飯豊連峰が見える一方、まことに閑静な奥会津の山里の農村風景が展開するのだった。このようなレトロな形状の橋であり、上路式トラス橋は車両への展望を遮るものが一切無く、架線柱もないことから、絶好の列車撮影ポイントとして知られている。地元でも〈「山都の鉄橋」と呼ばれ大変親しまれている。今度は逆に、山都駅を発車して、この鉄橋を渡り霧同士を抜けて11,4パーミルの勾配の続く慶徳超えを目指してダッシュする蒸気機関車の吐き出す煙と、それに調和するように聞こえる排気のドラフトの音が広く開けた谷間にこだまするのも忘れ得ぬ印象であった。
 そう云えば、この一の戸川鉄橋を列車が通過するごとに響く音は、季節や天候によって微妙に変わり、天候が良い時は軽やかに、雨模様になると重く聞こえるなど、一ノ戸川のせせらぎと相まって、「福島の音風景」に選ばれていると云う。
 ここで、橋げたが16連もある長い橋梁の中間で河川を跨いでいる第7番目の最長支間には、複雑に鉄骨を組んだ橋げたを用いた「トラス橋」が採用されている。トラス橋ではげたの高さの分だけ橋脚の高さを抑えることができるため、経済的であるので、桁下に十分な空間がある場合などに採用される方式だそうだ。トラス橋には数々の形式があるが、プラットトラスは上下弦材に挟まれた鉛直材、そのはすに入れられた斜材から構成されている。これを改良したのが、ここに使われている「ボルチモア とらす」であって、平行弦の分格トラスである。圧縮力の加わる斜材が歪(ひず)むのを防ぐために、載荷弦側に副材を配置する。ここでは上路橋のため、副材は上弦側にある。これはアメリカ最古の公共鉄道会社で知られるボルチモア アンド オハイオ鉄道(Baltimore &  Ohaio RR)に基づいて名づけられた形式である。さらに部材の接合点(格点)がピンで止められている「ピントラス」と云う方式が採用されている。これは後に述べるが、クーパーの「200フィート標準設計」による American Bridge社製Baltimore trussが使われたのだった。
この方式は1900年頃までアメリカで普及していたトラス構造であるが、少し遅れて明治末期より日本にも導入されたが短命であったようだ。そのため橋梁技術の歴史を語る希有な遺産として重要なのであろう。
 この 岩越鉄道が国有化された明治の後半の日本では、鉄道創業時から技術面を担当してきたイギリス人のお雇い外国人、チャールズ・ポーナルが帰国した翌年の明治29年(1897)に、鉄道院は鉄道橋梁の設計をアメリカ人で1894年に鉄道橋梁の荷重計算を軸重の解析を進める手法を確立した第一留の橋梁技術者であったセオドア・クーパーと、米国土木学会代表を務めることになる鉄道橋梁設計者であるチャールズ・シュナイダーに委託する営団を下した。彼らは新たに日本の鉄道のために各種のトラス橋の標準設計を行った。それには支間 100、150、200、300(フィート)があったようで、約250連のトラス橋がアメリカのアメリカン・ブリッジ社などで製造されて全国の鉄道の延伸に使われたのであった。この技術者の指導により、理論に基づいた設計で外見は華やかさな部分がありながら構造力学的には勝れたアメリカ式が日本の鉄道橋梁の発展の基礎を築いたと云えるのであろう。その実証の事例として、標準設計の「支間 200フィート 上炉ぼるちもあ とらす」が磐越西線の一の戸川橋梁として存在し、しかも近代適橋梁には無い「ピン接合部の磨耗」などの多大なメンテナンスの苦労を払いながらも原型を保ちつつ風雪に耐えて現役で活躍している姿を見るにつけ大いに応援したいものである。

橋の諸元?:(数字)は支間番号
開通年月日:1910.12.15 材料 鋼
鋼重:(7)152.5tf
橋長さx幅員 :1458-9(444.627m) (橋台前面間長)、 線数 単線
形式:(7)単線上路分格プラットトラス(ボルチモア),
(1-6,8-16)単線上路プレートガーダー
 形式番号: (7)PD-5,
(1-6,8-16)作35年式50ft,80ft
橋床形式(形式名称): 開床
径間数x支間
(1)1×16.03m
(2-6)5×25.38m
(7)1×62.408m
(204'-9"),
(8-16)9×25.38m
 設計活荷重: (7)206000 lbs機関車×2+3000 lbs/ft
設計者/設計年: Cooper,Schneider/1898 
製作者/製作年:American Bridge/1908
架設者/架設年:下部工/橋台 切石積 下部工/橋脚 切石積
基礎工/橋台 直接 基礎工/橋脚 直接
起業者 鉄道院
 蛇足だが、同じトラスは磐西のほか中央東・西線、山陰線などで同時期に17連が輸入架設されているようで、ルートの変更や老朽化で架け替えられて、現役は同じ磐西の蟹沢橋梁(上野尻−徳沢)、秩父鉄道浦山川橋梁、安谷川橋梁(いずれも磐西の初代阿賀野川当麻橋梁の払い下げ品)などの4例が現存しているのみであることを付記した。

撮影:昭和45年(1970)

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・「奥羽・越後山脈を横断する磐越西線」シリーズのリンク
296. ぷろろーぐ:D50の賀状、磐越西線の「やま線」・郡山〜会津若松間
298. 磐梯熱海温泉街を登る・磐越西線/安子ケ島−磐梯熱海−中山宿
294.スイッチバックの中山宿駅にて・磐越西線/磐梯熱海−中山宿
297. 中山トンネルの先のSカーブを登る・中山宿→沼上(信)
287. 中山峠の沼上トンネルへ・中山宿→沼上(信)
288. 更科信号場界隈

■以下は管理者の心覚えです。
・磐越に支線 「川線」の乗り鉄風景
会津若松駅ではスイッチバックして喜多方へとしゅっぱつするのだが、その途中は会津盆地の水田地帯が広がっている。喜多方を出ると慶徳越えと呼ばれる山あいの中に入って行き、有名な一の戸川に架かるとアンダートラス鉄橋を渡れば山都駅である。ここを出ると下り列車の進行方向左手には阿賀川の流れが見えてくる。川は幅がとても広く、川面はひときわ穏やかである。やがて、静かに、豊かに流れていた阿賀川は、新潟県との県境近くに差し掛かる。駅で云えば上野尻駅を過ぎた辺りから、急に川幅が狭くなってきた。50mくらいあった川幅が、わずか数mに急変するのだった。この川幅が狭くなっているところは「銚子ノ口」と呼ばれる景勝地で、むき出しの岩肌をえぐる川の流れと秋の紅葉は、なかなかの景色で、走る車窓からも眺めることができる。徳沢駅を出ると、直ぐ鉄橋となり、ここを渡れば新潟県となる。銚子ノ口で狭くなっていた川幅は再び、広くなってきた。ここから先の馬下(まおろし)駅の辺りまで、名を阿賀野川と変えた川筋が車窓に寄り添って、美しい景色を愉しませてくれる。馬下駅の手前で阿賀野川と別れ、列車は越後平野に入って五泉駅を過ぎると新潟らしい水田が広がって来て、終点の新津駅は近い。