自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・「会津のけむり、(磐越西線/会津線/只見線)」

165.  南会津のモダンナ アーチ  ・会津線/糸沢→会津滝ノ原


〈0002:〉
南会津のアーチ橋 会津滝ノ原

〈0001:撮影場所不明〉
会津線の何処かなのだが思い出せないが、取りあえずアップしま

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〈紀行文〉
 金曜日、会社が終わると、駐車場から一直線にSL撮影行に出発することが多かった。国道4号線を北上して宇都宮から今市を経て国道121号線へ入り鬼怒川に沿うように谷間をさかのぼり、その上流で支流の男鹿川の流域を登りつめて山王峠の切り通しを夜半に抜けて会津へ入った。この峠の会津側は田島盆地の成員ともかかわりのある山王峠カルデラの残骸である急崖を通過する険しい下り阪であった。この350m程の標高差を一気に山王河に沿って下って月明かりの田島盆地に躍り出た。そこには輝いているようなた不気味な白亜の9連アーチ橋が現れ、国道は吸い込まれるように手前の架道橋の下を潜っていた。この余りにも突然の奇怪な光景に嫌気がさしたからであろうか、その後も田島以南への撮影には足が向かなかった。
所が、「蒸気機関車」誌上に発表された紅葉に染まる山を背景にコンクリートアーチ橋を登るC11の姿を見てから、このコンクリート アーチ橋のダイナミックで優美な外観に魅せられて、私も記録を残しておこうと考えが変わったのだった。
今回、発見された一枚のスライドは多分、昭和46年頃の撮影と思われるのは、そのスライド枠に通しbェないことから、35ミリカラースライド撮影の際末期の作品であることが判ったからである。このアーチ橋は今も、現役として健在であり、会津鉄道では「めがね橋」と通常呼んでいるとのことで、電化された橋上を浅草行きの直通電車が60km/hの制限速度一杯で軽快に上下している筈である。
よくよく見ると、橋は二つの部分から出来ており、田島方には長さ約12mのプレートガーターの「日光街道架道橋」があり、続いて全長 99.8mのRC上路充腹連続アーチと云う形式の「山王川橋梁」ガ勾配15パーミルを保ちながら高さ約10mの偉容を見せていたのであった。
 会津線滝の原方の糸沢〜会津滝の原間に架けられた「山王川連続コンクリート アーチ橋」が建設された背景を探っていたら、次のことが判ってきた。
この会津若松から会津田島への鉄道の建設運動が始まったのは、明治20年(1887)と云う早い時期で、日本中が鉄道建設の風潮に沸いていた時でもあった。その当時の会津では、羽前(山形県)-岩代(福島県)−下野(栃木県)の国々を貫通することから名付けられた「野岩羽鉄道」の実現を目指した活動が盛んであった。この構想は、奥羽本線の米沢から、喜多方-会津若松-会津田島-今市-鹿沼を経て、東北本線の古河までを短絡すると云う壮大な計画であった。
しかし、明治25年(1892)には、国が建設すべき鉄道路線を規定した「鉄道敷設法」が公布され、それには新潟ー会津若松-白川を結ぶ磐越西線が軍事上の必要性から規定されたが、地元が熱心だった「野岩羽線」は見送りになってしまっていた。その後、地方で高まる鉄道建設熱に対して、基準の厳しい軌道法や私鉄津敷設法に比べて建設が容易に可能な「軽便鉄道法」がやっと明治43(1910)年に制定された。会津では、この法律に基づいた軽便鉄道建設の機運が急速に高まり、その年には会津若松から会津田島を結ぶ田島鉄道や会津柳津を結ぶ柳津鉄道などの路線建設の計画が始まった。しかし実現が進まぬうちに、国鉄も軽便鉄道法に基づいて地方路線の建設を行う方針がたてられて、会津線として会津若松−会津柳津間と、会津線の西若松を起点として会津田島に至る支線を、軌間 1,067mmで共に計画された。
その後軽便鉄道方は地方鉄道法に格上げされ、さらに大正11(1922)年には改正道敷設法が公布されて、地方路線も国が建設すべき路線として規定されていた。そこには、会津線田島支線を延長した形の、『栃木県今市ヨリ高徳ヲ経テ福島県田島ニ至ル鉄道』が規定された。
そして、1927年(昭和2年)に西若松−上三寄(現在の芦ノ牧温泉)、1932年(昭和7年)に湯野上(現在の湯野上温泉)、1934年(昭和9年)に会津田島までが全通して、会津線田島方と呼ばれていた。
その先については、昭和11(1936)年の帝国議会において、「今市〜田島間」の鉄道建設予算が計上されたのだったが、その後に起こった太平洋戦争に阻まれて、その建設は進捗しなかった。戦後の昭和22(1947)年になって会津田島〜荒海(7.1km)がやっと開通に漕ぎ着けた。しかし、その先の荒海〜会津滝の原間約8.6km)は1941年(昭和16年)には路盤工事までは完成したものの、戦後の資金や資材などの不足から工事を中止せざるを得なかったようだ。
そして、1971年(昭和46年)になって会津線の本線であった会津線只見方が小出まで全通すると、こちらは只見線として独立し、残された会津線滝ノ原方は会津線となったのであった。
やがて、終点の会津滝ノ原の近くにあった古い八総(やそう)鉱山が住友金属鉱山によって大規模開発が進められたこともあって、昭和28(1953)年には荒海〜会津滝ノ原間が開通し、会津線は全通した。同時に、会津滝ノ原駅構内に会津若松機関区の機関車駐泊所、転車台が新設された。
 話を元に戻そう。このような戦後の資材不足により、川を渡る橋梁が鉄橋ではなくコンクリート橋で建設されると云う事例が多く見られるようになったのもこの頃からである。おそらく、会津滝ノ原線のコンクリート アーチ橋の採用も、鉄鉱材の不足や工事費を抑えるために現地で採れる砂利や砂を使って作ることに着目して架けられたのであろうと推察している。
 さてここで、田島から滝ノ原に向かう会津滝ノ原線の走る盆地の地形をみながら、そこを並行して流れる荒海川(あらかいがわ)を源流までさかのぼってみることにしよう。
 標高が約 550mである田島盆地を取り巻いている南側の山並みは、遠く尾瀬の東端に発し東北東へ向かう広義の越後山脈に含まれる帝釈山脈が栃木県と福島県の境を南から南東へ作りながら奥羽山脈/那須連山まで続いていた。この山脈は西から帝釈山・田代山と云った標高 2000m前後の山が続いており、さらに中央には荒海山(あらかいざん、標高 1581m)があり、その東に行くに従い徐々に標高を下げて山王峠で1000m未満となる。さらに東 6,9qほど先には標高 1,777mの男鹿岳(おじかだけ)がそびえている。この山の北麓に当たる田島盆地からは秀麗な山容が眺められる。この先の奥羽山脈には甲子旭岳が北へ続いている。
一方、田島の街の南西に約3kmにわたって稜線上に七つの峰があることから七ヶ岳と呼ばれる山々が栃木県との境をなす帝釈山脈の前衛的な位置にあって、只見川流域とを分けている。その南東面は約200mの断崖が続いており、その山稜の南西端に最高峰の一番岳(標高1636m)があり、ブナの原生林が残っている。今は東北百名山に選ばれているが、昔は山に棲む鬼伝説があり住民から怖がられていたと云う。
河川は、荒海山を源とする荒海河(阿賀川水系の本流)が流れ下っている。気候は、夏の朝夕はしのぎやすく、冬は厳しい日本海型に属している。
この盆地の中心である田島は鎌倉時代に源頼朝の奥州平定に従軍し領地を与えられた長沼氏が代々拠点としてきた地であり、ここに築かれた鴫山城跡がかっての情景を残している。また江戸時代には南会津一帯は幕府直轄地(天領」となっていて、田島は会津西街道の主要な宿場町として栄えた。しかし、昭和に入ってからの火災により、伝統的な街並みは失われてしまった。
 田島の市街地を抜け、会津鉄道に沿って山王峠に向けて国道121号線を南下するにつれて、荒海川の谷が開け、のどかで単調な景色が続くなかで、右側にゴツゴツした岩山を連ねる七ヶ岳が見えてくる。元会津西街道の山王峠を控えた糸沢宿のアッタ会津滝ノ原線の糸沢駅は会津鉄道になってから「会津七ヶ岳登山口駅」と改められている。
その谷が狭まった所に国道121号線と国道352号線(只見川を超えて新潟県長岡へ向かう)の分岐点がある。国道121号は左折気味に進んで会津鉄道のコンクリート アーチ橋を潜って三桜川に沿って山王峠を目指している。一方の国道352号線は直進で、荒海川の谷に沿って進むと、間もなく左手に青い屋根のおしゃれな会津高原駅が現れる。さらに只見河流域の舘岩方面に通じる中山峠に向かって1km余り進んだ左側に「荒海山登山道が分かれるので、そこを約4kmほど登ると、左側に旧住友金属鉱山の八総鉱山跡が現れる。
 会津滝ノ原駅で取り扱った貨物の主な発送素であった八総鉱山は、江戸時代より鉄砲弾薬用の鉛が採掘されていたと云う古い鉱山であった。明治に入ってから古河財閥の古河市兵衛が鉱業権を取得したが、足尾銅山開発に力を入れたことから、八総鉱山の開発の方は見送られていた。昭和25(1950)年になってから、住友金属鉱山が買収して銅山として開発に成功した。それは山を越えた只見川流域にある八総地区で掘り出された日産約500トンに及ぶ鉱石は通洞坑を通って田島側に設けられた選鉱場へ運ばれた。そして、浮遊選鉱法によって濃縮された銅、鉛、亜鉛、硫化鉄の粗鉱が会津滝ノ原駅を経て精錬所へ向かって出荷された。最盛期は昭和31年から6年間で年間16万1千257トンに達したと云う。かつては日本3大銅山の一つと言われた銅山だったが、鉱脈の枯渇により昭和44年に廃坑となってしまったのである。
 このような銅や亜鉛などの鉱物の産地として古くより知られていた荒海山は日本三百名山に選定されている会津の名峰だが、この山は奥深いところにあるために麓からは山頂は見えない。この山は東西に連なる帝釈山脈の中央部にある。この山頂部は緩やかな三角錐状をなしているが、山頂の南東約800mには、次郎岳とも呼ばれる1,560mの峰がある双耳峰である。その眺望は北西には七っガ岳、南に高原山、北東に那須連山、南から南西にかけては日光の山々が見渡せる。その山名は荒々しい谷に挟まれた山容を示しており、登山者には荒れ狂う海原を想像させる尾根歩きの山であったようだ。それはブナ林と「ャクナゲ」などが多く茂り、樹林帯が左右に切れ目なく続く1時間以上の稜線歩きを強いられるからであるようだ。ここは日本海側と太平洋側を分ける中央分水嶺上にあり、この山頂の石碑に「 大河の一滴ここより生る」と記されている。北側に降った雨は荒海川から阿賀川を経て日本海へ、南側に降った雨は男鹿川から鬼怒川、利根川を経て太平洋に注ぐ。
この荒海川は流域面積が国内8位の一級河川である阿賀野川の本流で会津地方の呼称である。荒会川は大川・阿賀川・阿賀野川と名を変えつつ、越後平野を抜け日本海に注ぐ。
この山の東を貫通する山王トンネルは鬼怒川から会津に至る野岩鉄道が分水嶺の下を走り抜けて栃木県日光市と結んでいるのだった。

撮影:1971年
アップ2009−09−27

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・「合図の煙(磐越西線/会津線/只見線)」シリーズのリンク
153. 奥会津の「一の戸川橋梁」 磐越西線・山都付近
143. 会津線 滝谷川橋梁の初夏 (只見線・滝谷〜会津檜原)
258.素晴らしきアーチ鉄橋の第一只見川橋梁・只見線/会津檜原−会津西方
169. カラー習作 「紅葉の会津線」 (会津線・湯の上→弥五島)
167. 大川ダムニ沈んだ二つの橋梁 (会津線・会津桑原→湯の上)
217.紅葉の闇川(くらかわ)橋梁・会津線(上三寄-桑原)
218.裏那須の紅葉、第6大河橋梁・会津線(楢原-会津落合)

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管理人のメモ〈忘備注記、0001:の画像内容〉
画像の模様:
手前の川の土手からとっている。
中州のある川には橋脚が10本もある潜没橋がかかっている。
対岸の田舎道から橋へ。その先に土手。左からsl白い煙から灰色に変わる。背景は近い山。みずは流れている。遠い。カラー。
撮影場所不明。