自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役

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・「根室本線旧線の“狩勝峠”を訪ねて」
335.  プロローグ:狩勝峠からの大俯瞰(ふかん) ・新得−狩勝
-- (「日本三大
車窓風景・新日本八景(平原)--

〈はじめに〉
 写真の後にある〈撮影メモ〉では、列車の走行している位置を滝川起点キロポストで説明していますので、主要な構造物のキロポストを一覧しておきました。
〈キロポスト(落合-狩勝信号場−新内−新得(滝川起点)、標高の一覧〉
落合駅:キロポスト 滝川起点 108.2k、標高 413m。
狩勝信号場:119.0K
狩勝トンネル(標高 534m)
狩勝トンネル新得側出口:120K120m。
日本八景の標柱:120K850M
新内トンネル:121K700M、標高 471m。新内沢大築堤中央:122K41M
大カーブ開始点:124K(掘割部分へ入る。)
ダイカーブ終わり点:125K手前。
(新内駅-狩勝信号場 間: 8.7q)
新内(にいない)駅:127K700M、標高 334m)
(新内駅−新得駅 間:11.1km) 新得駅)
新得駅:138K800M、標高 187.7m。
〈キロポスト一覧終わり〉

〈0001:bO30752:山すそを回って現れたSL 〉


〈撮影メモ〉
 この撮影場所は、午前中粘った峠の尾根を撤退して、国道の狩勝峠からハエタタキ(鉄道の通信用の電柱)に沿って新得側の山を下って、狩勝トンネル入り口が見下ろせる付近です。山すそを巻いて登って来たのは上り貨物列車で、後補機付です。戦闘の機関車の走っている位置はキロポスト 滝川起点 120k550mの辺りです。
一番後ろの後部補機の右側に白いものが見えますが、 これが「阿寒岳を望む」の看板であって、ここの手前に「日本八景の一」の標柱があるはずです。

〈0002bO30753:狩勝トンネルまで150mを登る〉



〈撮影メモ〉
 前の寫眞からさらにカーブシテ右へ進んでいる。二つの白煙が交差して見得ている。先頭の機関車はキロポスト 滝川起点 120K270Mまで進んでいます。狩勝トンネルの新得側入り口は120K120Mですから、間もなくトンネルの入り口です。

〈0003:bO30754:高い石垣の崖下を登る〉



〈撮影メモ〉
 狩勝トンネル入り口の直前。近くの佐幌岳中腹の石切り場から運ばれて来た切り石で積まれている豪快な擁壁(ようへきを左に見ることができた。今では、こんなに高い擁壁を作ることは安全上作ることはできなくなっている。
〈0004:bO30756:峠のサミットは近い〉



〈撮影メモ〉
 既に列車の先頭はトンネルに入っていますが、後補機は奮闘を続けて居ます。
通って来たカーブしている線路が良く見えているショットです。後部補機の走っている位置はキロポスト 滝川起点 120k240mの所です。
ここでのキロポストの情報は「狩勝高原エコトロッコ鉄道」の増田さまからご教示を頂きました。
有難うございました。

〈0005:付録/写真展ポスター>




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〈紀行文〉
 私が北海道の狩勝峠の絶景を知ったのは、SL写真を撮り始めた昭和40年(1965年)の夏の頃だったと思う。たしか交友社刊行の季刊誌「SL」の創刊bP号(昭和40年夏の号)が出て、そこには宮田さん、三品さんなどによる「狩勝峠の冬の大俯瞰(ふかん)」の記事を読んだことからである。続いて翌年になると「鉄道ファン」誌のbU1号に北海道特集が発売された。その見開きのカラー寫眞に黒岩保美さま(常磐線を走った蒸気特急「ゆうづる」のヘッドマークをデザインしたことで知られる。)が1966年5月に撮影された根室本線「狩勝峠」の大カーブを登るDC特急「おおぞら」の姿が発表されていた。この狩勝峠へ向かって十勝平野のなかを登って来る根室本線のルートは間もなく勾配を緩和した新トンネルを通る新線に切り替えられる予定になっており、かの有名な“日本三大車窓風景”を車窓から眺めることが出来なくなるのであった。それは急こう配をプッシュプル(後補機付き)で登って来るSLたちの勇姿も消えてしまうことなのであった。そのような切迫した事態の中で、SL写真駆け出しの私は無謀にも梅雨のないと言われる北海道を狙って撮影に出かけたのは昭和41年7月のことで、新線への切り替えの僅か3か月前のことであった。実は、この時に二日間にわたって撮りまくったフイルムを古いアルバムの中から発見したのは2014年の秋に入ってからであった。近年(2012〜14年)に掛けて北海道内では、この根室本線旧線(
通称“狩勝線)の開業100年に当たることを記念して「狩勝峠鉄道写真展」が催されていたのだった。これと時を同じくして、私のHPに「狩勝峠訪問記」のシリーズがアップロード出来たのは幸いであった。このシリーズはプロローグを含めた5サイトにてご覧に入れたいと存じます。
先ず、ここではプロローグとして、峠からの大俯瞰の作品を掲げるとともに、狩勝峠を取り巻く北海道中央部の地形について語ったのちに、この根室本線の建設の歴史を振り返ってみましたので、長くなりますがご覧頂ければ幸いです。
 さて、東北への夜行に乗ったものの、翌朝に盛岡を過ぎた頃に沼宮内駅から発車するD51三重連の姿をどうしても撮りたくなって途ちゅう下車してしまった。その朝の撮影のてごたえに満足して青森行きの急行に乗り込んだ。函館から釧路行きの車中で、広島から来られた国鉄の方と知り合いとなる幸運を獲てその夜は新得機関区の宿泊所に一緒に泊めてもらった。その翌朝には上り貨物列車の後古期の直前に連結した緩急車に新内駅マテ添乗させてもらえることになった。この新得駅は十勝平野の北西の十勝川最上流の山間の標高 188mに位置しており、ここを北へ向かって出ると、北海道らしい大平原を直線でしばらく走り抜けて原生林の中を右に左にカーブを切りながら約6.7qを過ぎると最急勾配 25‰(の急勾配区間に突入した。やがて標高 334mの新内駅となった。このたった一駅間だが11キロメートルもあり、そのほとんどが連続の上り勾配だから真後ろを押し上げてくる補機のドラフトの咆哮(ほうこう)にはどぎもを抜かれた。次の狩勝信号場まで行かれると云う国鉄の方とお別れして下車した。
ここからは国道をひたすら徒歩で登り続けて峠へ向かった。一方、国道から見下ろせる鉄路は、新内駅から直ぐに再び25‰の勾配が始まり、急カーブを組み合わせて方向が180度も変わると云うΩ(オメガ)カーブの連続する“大カーブ”と呼ばれる箇所を通り過ぎる。続いて深い谷を横断するための高い築堤が築かれた新内沢大築堤をカーブしながら登り続けて行った。この築堤の高さは約80m近くあるとのことだった。そして新内トンネル(長さ 124m)を抜けて国道38号線が越えている狩勝峠の直下にあるサミットの狩勝トンネルへと登り詰めて行っているようであった。
 さて、国道の峠から見晴らしのきく尾根に登って雨模様の遠望風景を見ながら午前中を粘った。遠方に白煙が見えてから眼下を列車がトンネルに吸い込まれるまで30分位はゆうに掛かるようであった。辺りが静かなだけに貨物列車を牽引し、片や押し上げる二台のSLのドラフト音だけが姿が見えなくても風邪にのって波のように聞こえてきたのであった。やがて、天候の回復の兆しが現れてきたので、峠を少し下ってトンネルの入り口が見れるかしょで近くを登ってくる列車を何とか連者することが出来た。この時は、モノクロを装填したアサペンが故障してしまい、「FUJIカラー」を詰めていた予備のアサペンで連写していたことが幸いして、こに当時珍しかったカラー写真をおめに掛けられることになった次第なのである。 さて、ここからは狩勝峠を中心とした北海道中央部の地形について触れておきたい。
この北海道の地図を北を上にして眺めて見ると、この菱形の上の北端は宗谷岬であり、下の南端は襟裳岬(えりもみさき)に当たり、また右の東端は知床半島となり、左の西は日本海に突き出た尾花岬となっていた。北海道はその地質学的な歴史から,北海道中央部、北海道西部、北海道東部に分かれている。
中央部は石狩平野以東の地域で、道央に展開する主要な山岳地帯を含んでおり、網走西方から十勝川河口部に至る網走構造線を西縁とする。
人工衛星から見た北海道には南北の縦縞模様が際立っていると云う。それは、北海道中央部の山地では南北方向に延びる地質構造が東西に並列している特徴が見て取れるからであろう。先ず北東には北見山地が北端の宗谷岬から南へ、最高峰の天塩(てしお)岳(標高1558mを擁して走っており、それに並行して北西には天塩山地さ主要部の標高が500m程度で分布している。さらに中央西に主要部の標高が500-1000mほどの夕張山地が存在し、そして南西に標高が1500-2000mに達する日高山脈が襟裳岬に達している。
この北見山地の南部と日高山脈の北部との間に挟まれた山域が中央東に位置する石狩山地である。その主要部には大雪山火山群(大雪山の主峰は標高 2290mの旭岳である)と、十勝火山列(この主峰は標高 2077mの十勝岳である)が形成されており、その付近には大量の火山性堆積物が分布している。いずれの山地帯も沿岸部に向かって徐々に標高を下げ、山麓丘陵や段丘状地形を成している。特に石狩山地の南、日高山脈の東に広がる十勝平野は十勝川流域に形成された低平地で、ローム台地や砂礫段丘などの段丘状地形が発達しており、沖積低地は河口部に限られている。
ここで大雪山が「北海道の屋根」だとすれば、日高山脈は「北海道の脊梁山脈(背骨)と云えるであろう。日高山脈の北端で十勝連山に接する佐幌岳(標高 1059m)、その4q南の狩勝峠(標高 664m)から襟裳岬まで、北海道の半分を真っ二つに隔てる、細く鋭く続く長さ140qにもおよぶ大山脈が日高山脈なのである。この山脈の東側に雄大な十勝平野が広がっているのである。この道内の山の多くが火山なのに対し、この日高山脈は本州の北アルプスの飛騨山脈と同様の成因で、およそ1300万年前の造山運動によって生まれた褶曲(しゅうきょく)山脈であり、その山肌は鋭く険しい山容を見せているのである。
この石狩峠を通る国道38号線や鉄道の根室本線からの十勝平野の展望が“新日本八景”のなかの平原の部に入選したけしきであり、“日本三大車窓”に選ばれた風景なのであった。
ところで、この狩勝峠を越えたのは明治40年に旭川から帯広を経て釧路へ通じた官設鉄道の釧路線であって、道路の方は昭和6年になって初めて国道38号線の前身の路道が開通したのであった。そこで、最初に開通した鉄道建設の歴史的経緯を懐古してみたい。
この北海道では明治時代に入ると、明治政府は直ぐに北海道の資源開発のために開拓使と云う官庁を設けて北海道の開拓・経営に乗り出していた。その北海道で実際に汽車が走ったのは 1879年(明治12年)の手宮−札幌間(約35.9km)が最初であった。これは1882年(明治15年)に全通した官営幌内鉄道で、幌内炭鉱で掘り出された石炭を小樽港から積み出すために輸送する目的の鉄道であって、幌内−岩見沢−札幌-小樽間の路線であった。この鉄道は北海道開拓使が建設、運営した官営鉄道であった。当時は、このような鉄道を開拓のために各方面へ建設するには多額の費用が必要であったため、北海道における初期の交通運輸政策は港湾の整備と、そこからの幹線道路の開削に重きが置かれていたのだった。1882年(明治15年)になって、開拓使が廃止されて、札幌、函館、根室の三県制を経て、1886年(明治19年)には北海道庁が新たに設けられたその初代長官には北海路開拓を建策していた
岩村 通俊さん)が就任して、そこで、鉄道を中心とした拓殖政策に注目するようになった。早々に鉄道建設路線の検討が始められ、
@ 小樽−函館 
A空知太(そらちぶと/滝川南方)−旭川−十勝太(十勝川河口)−釧路−標茶−厚岸
標茶−網走
B 旭川−宗谷 
C 奈伊太(名寄)−興部−湧別‐網走
などのルート調査が続けられて、1893年(明治26年)12月頃までには完成させたとされている。
一方の明治政府は西南戦争などの内乱のため財政に余裕がなくなり、建設が進行中であった幹線鉄道の工事を1時中断せざるを得ない状況に立ち至っていた。これを打開するために、「鉄道は本来国が建設して運営すべきである」との従来の方針を変更して、必要時の国有化を条件に、国の援助も約した上で、民間の資本を集めて民営鉄道会社により鉄道線の建設と運営を委ねることにした。その第1号は東京−青森間の東北線の敷設を手始めとする日本鉄道会社がスタートしていた。
これが反映したのであろうか、北海道庁でも炭坑・鉄道の建設・運営を民間に委ねる方針が打ち出され、1889年(明治22年)11月には北海道炭礦鉄道会社が創立され、幌内炭鉱と官営幌内鉄道の譲渡が行われた。続いて、既にルートの測量が完了していた室蘭−岩見沢-上川(今の旭川)間の鉄道敷設の免許も交付された。そして空知・夕張などの炭鉱開発にともない、鉄道の延伸が順次進められてた。
やがて、二代目の北海道庁長官になった永山武四郎さんは1890年(明治23年)に警備と拓殖のため、民間会社を設立して道内に6つの鉄道路線を敷く計画を立案した。
しかし、後任の渡辺千秋長官は「北海道の早期開発のためには鉄道の敷設が急務である」とし、開拓のための奥地への鉄道建設を民間に委ねるのには無理があることと判断して、再び北海道庁自自身が鉄道の建設・運営を行う方針を打ち出した。(実際に、先に岩見沢−上川(旭川)間の鉄道敷設免許を得ていた北海道炭坑鉄道は資金難もあって、空知川の架橋工事計画が立てられず、その南岸に空知太「そらちぶと)駅を設けて終点にせざるを得なかった。)
そして 1892年(明治25年)までに「北海道中央鉄道」を提案した。これは空知太(そらちぶと)−永山、空知太−新得−大津−釧路−標茶−根室、標茶−網走間の延長550kmの路線が含まれていた。そして、同年5月に北海道線(殖民鉄道)として、「空知太(滝川付近)−釧路・標茶―根室・釧路−上川・上川―稚内・雨竜太−留萌・小樽−函館」などの区間の鉄道建設案を帝国議会に請願したが、議会では調査不充分として、法案の対象からは削除されてしまっている。
一方、国の官設鉄道でも北海道における鉄道網の建設計画を策定中であった。しかし、現地では「開拓のために先行投資して鉄道を建設すべきである」との意見であるのに対し、中央では「国家財政上、巨額の投資は不可能であり、まず開拓を進めて、その後、必要に応じて鉄道を建設しよう」との方針であったから、北海道の開発には鉄道網よりも港湾施設の充実と、そこからの幹線道路の建設を優先すべきであるとの意見を持つ勢力が強かった。それが反映されたのか、国が建設運営すべき鉄道の予定線を規定する鉄道敷設法が 1892年(明治25年)6月21日に公布、施行されたときには、北海道における予定線が除外されてしまっていた。このことは北海道における鉄道建設・運営を北海道庁が行なうことを認めた形と解釈されて、北海道の地元では鉄道建設の機運が盛り上がって行った。
そして、四代目北海道庁長官となった北垣国道さんは「北海道開拓意見書」を提出した。これには小樽−函館・空知太(滝川付近)−網走間が記され、開拓上最も急を要するのが鉄道敷設であり、次が港湾・排水・運河・道路であると述べている。これは明らかに港湾優先を撤回して鉄道を優先することを表明したのである。
そして、既に開通していた北海道炭坑鉄道の北の終点である空知太を起点に旭川に至る鉄道の建設計画の立案を帝国大学工科大学校の田辺朔郎(たなべさくろう)教授に委嘱したのであった。(この背景には、この路線の鉄道建設については以前に建設計画書を帝国議会に申請したが、計画が不完全として却下されてしまった経緯があったからである。)その「空知太−旭川間鉄道建設計画書」が明治27年8月に完成し、第9回帝国議会に提出され、これは明治29年2月になって可決されたのであった。
その他の路線についても、地元からの強い請願が続けられた。
また、日清戦争の勝利後でもあり、国家財政上にも多少の余裕もできた上、政府も北海道の開拓に力を注ぐ方針を示していたので、この議会に「北海道鉄道建設法案」が提出されるに至った。そして、明治29年(1896年)には、北海道鉄道敷設法が公布・施行され、北海道庁がその建設に当たることとなった。これには
 @ 旭川−十勝太−厚岸−網走間    507km
 A 利別−相ノ内及び厚岸−根室間   232km
 B 旭川−宗谷間              288km
 C 雨竜−増毛間               64km
 D 名寄−網走間              267km
 E 小樽−函館間              234km
などの約1,600qの鉄道予定線が規定された。その予定線の建設と、その工費3,300万円は明治30年から順次、財政の都合を見計い、公債を募集することに定められた。
 これをうけた北垣国道長官は先ず1896年(明治29年)5月に北海道庁内に「臨時北海道鉄道敷設部」を設置した。そして鉄道の計画・建設に当たる部長には先に鉄道建設計画の移植をしていた帝国大学工科大学田辺朔郎教授を登用したのであった。この田辺朔郎(1861-1944)さんは江戸の高島砲術家に生まれ、1883年(明治16年)に工部大学校を卒業し、後に北海道庁長官となる北垣京都府知事に請われて京都府御用掛となり、明治初期の大土木工事である琵琶湖疎水や水力発電所などを完成させた後、東京帝国大学工科大学教授となっていた。そして北海道の鉄道開発の基礎を築いた後、1910年(明治43年)に京都帝国大学教授に就任。大学退官後には大阪市営地下鉄などの各地の鉄道建設計画等に関与された明治の鉄道人の一人であった。
 この、34歳の若さで北海道鉄道敷設部長に就任した田辺さんは早くも鉄道敷設のためのルート調査に取り掛かった。道路も未整備で、ヒグマやオオカミが暮らす原生林が広がる北海道の大地を命がけで踏査し、地形、地質、鉄道建設による経済効果、建設時の資材の入手方法などを丹念に調査を進めた。
その田辺部長の予定線の調査から、
 @ 旭川−十勝太−厚岸−網走間    507km
 A 厚岸−根室間
 B 旭川−宗谷間              288km
を第1期線に編入し、
6月に既に建設が決まっていた空知太−旭川間を着工している。
やがて1897年(明治30年)11月には、“臨時”の組織から正規の北海道庁鉄道部へと格上げされた。その当時、北海道庁は内務省の管轄下にあり、内地の鉄道を管轄していた鉄道作業局は逓信省の管轄下にあると云う不都合が生じていた。そこで、翌年の11月からは鉄道部は独立し、北海道官設鉄道とし、逓信省の監督下に入ることになった。ただし、北海道庁の鉄道部長と北海道官設鉄道のトップとは兼務として、一貫した鉄道行政を進めることになった。この体制は7年後の明治38年4月までつづき、そして堂外の全国を管轄すしていた鉄道作業局の官設鉄道の中に統一された。この時には、線路350.2q、機関車31、客車42、貨車627輛が引継がれたと云う。
この経緯を調べると、明治政府は北海道の鉄道も早く内地に統一しようとしたが、当時の松本鉄道作業局長官は「北海道の鉄道は開拓事業との関係が密接だから、北海道の
主管官庁と分離して管理するのは有利ではない。」と強く反対していた。後に松本さんが退官すると、鉄道作業局と大蔵省から統一案が提出された。結局、移管は行なうが、鉄道の建設の順序や事業計画は逓信大臣が内務大臣と協議を行うことを条件に統一化が実施され、札幌に鉄道作業局出張所が設置された。

 さて、ここから狩勝峠を抜けて開通した十勝線の建設の歴史に入ろう。
そのベースとなる「北海道鉄道付設法」の冒頭には、
『一 石狩國旭川ヨリ十勝國十勝太及釧路國厚岸ヲ經テ北見國網走ニ至ル鐵道』(今の根室本線、釧網本線に相当)
『一 十勝國利別(現池田町域)ヨリ北見國相ノ内(現北見市域)ニ釧路國厚岸ヨリ根室國根室ニ至ル鐵道』(かっての網走本線、後の池北線、根室本線に相当)
が規定されていた。
これにより旭川から十勝の帯広、さらに釧路への鉄道建設が大きく動き出した。この十勝線の建設の狙いは単に道東へのルートを開くだけでなく、ここを起点としてさらに北のオホーック沿岸の北見、網走へのルート確保にあったのであった。奇しくも、国土地理院の前身である帝国陸軍参謀本部の陸地測量部から狩勝峠付近の「五万分の一地形図」が明治29年製版として発行された。その中には町はおろか、道の一本も描かれておらず、全てが佐幌原野と呼ばれた未開の地であったと伝えられていた。
 ここで、このルートの最大の難所と目されている石狩/十勝の国境にそびえる日高山脈越えについて述べることから始めよう。この道央の石狩と路東の十勝とを隔てている日高山脈を越えて往来する石狩アイヌと十勝アイヌの人々の通る踏み跡の存在が知られていたから、その人々を案内人として山越えを行った最初の和人(内地人)の記録が残っている。それは1858年(安政5年)の春に富良野岳方面からサヲロルベシベ(現在の狩勝峠の北約14q地点、標高 781m付近)を経て十勝川支流の佐幌川へ出たと云う松浦武四郎である。この人は「十勝日誌」をはじめとする地図、紀行文など大量の著作を表した江戸時代の探検家で、北海道」の名付け親となった人物である。
それから明治中頃までに、この山越えを成し遂げた多くの先人たちが残した記録も知られていた。そして最初の本格的な街道としての石狩道路が新得を経て旭川に通じたのは1899年(明治32年)のことであるから、丁度鉄道建設のためのルート調査が始まろうとしていた時でもあった。
この十勝国道とも云われた石狩道路は、十勝国の太平洋に面した港湾であった大津港の町をを起点に新得を経て日高山脈を今の狩勝峠の南に寄った鞍部で越えて南富良野へ出て、旭川に達しようとする街道であった。それは 1893年(明治26年)い大津より茂岩(豊頃)を経て芽室高台に至るまでの道路が完成していたが、これは、当初新得まで開通する計画だったものが、途中で予算を使い切ってしまった為に芽室で工事が止まっていたものである。それを 1898年(明治31年)10月にいたって工事を再開し、翌年に峠を越えて富良野まで全通して旭川方面への交通が開かれたものである。この峠越えのルートは「落合−串内(くしない)−広内(ひろうち:新得の西)−ペケレベツ(清水)」であった。実は、その二年後には十勝線が旭川から落合まで開通すると、この石狩道路は利用度が高くなり、新得側で収穫した作物をこの峠越えで落合駅に運んで出荷したり、また新得など十勝の北部への入植者たちが落合まで汽車に乗り、落合から狩勝越えして新得経由でそれぞれの入植地へ向かうようになったと云う。やがて大正9年には主要道道に昇格したのだが、1931年(昭和6年)11月に根室本線のトンネルの上の狩勝峠を越える路道(3年後に一般国道札幌根室線へ昇格)が開通してからは、廃道同然となってしまい、通称「旧狩勝峠」とか、「旧国道」などと呼ばれている。なお、2007年(平成19年)にはこのルート付近を北海道横断自動車道(道東自動車道)が開通しているから、道央/路東を結ぶ交通路としては価値の高いルートであったのである。
 それらの知見を検討した北海道官設鉄道では3つの鉄道建設ルートが選ばれていたようである。その第1は日高山脈の北端の佐幌岳の北側の鞍部を越える案、次は佐幌岳の南4qにある現在の狩勝峠の鞍部をを通過する案、最後が
更に南にある石狩道路が通じようとしていた鞍部を抜ける案であった。
そして明治30年から旭川〜釧路に至る建設ルートの実地調査が始まろうとしていた。その踏査隊は田辺部長以下、技師二人(三宅建築課長、杉本技師であるとも伝えられている)と数人の荷物運搬のチームであって、樹木が繁茂し見通しのきかない夏期を避け、初春の堅雪の季節に旭川を出発した。そこは無人の境でヒグマやオオカミが跋扈(ばっこ)する原生林や、蚊やアブや蜂が飛び交う湿地などの未開の地を歩き、天幕生活をしながら、困難な雪上踏査を続けるものであって、形、地質、経済効果、資材の入手方法など細部にわたって釧路までの間を20日間掛けて踏査したと云う。
そして、最も難航が予想されていた日高山脈越えのルート踏査のため踏査隊が落合から佐幌岳の山裾へと足を踏み入れた。
南富良野村史には、『線路の勾配を考えて佐幌岳北方の標高の低い地点で峠越えをさせようとしたが、余りにも迂回が甚だしいので採択を残念して、残る現在の狩勝峠と、石狩道路の峠のどちらかに絞られた』と記されている。
当初はサホロ岳の北方が最適かと見当をつけていたが、踏査の結果、現在の国道38号線にほぼ沿う旧狩勝トンネルルートを最適とすることになる。
その理由には諸説あるものの、当時の未熟な土木技術でのトンネル掘削は短いものしか出来なかったので、峠越えには可能な限り斜面を登りつめてから、短いトンネルで山頂を抜ける方法を採らざるを得なかった背景があったようだ。
これらの峠の標高は、現在の狩勝峠が644mで、石狩道路が692mであった。新得駅のホームに立って狩勝国境の左の山を仰ぐと石狩道路の鞍部の方が狩勝峠より低い稜線を見せているのだが、石狩道路の峠の方が約50mほど標高が高くなっていて、しかも石狩側の串内方は非常に緩やかな地形になっていて、山すそが太っていた。これに対して、狩勝峠のほうは険しい分、峰が細くなっており、ここへ標高ぎりぎりまでのぼりつめた線路から短いトンネルを掘削する方策を選んだと推察されるのである。
 この新しい峠に立った田辺朔郎部長は
『見おろせば 十勝くにはらはてもなし 野火かあらぬか煙たてるは』
との和歌を詠んで、境を接する石狩国と十勝国から一文字ずつ採って、この峠を『「狩勝峠』と命名したと伝えられている。後日談であるが、田辺さんが完成した鉄路で釧路を訪れた際、「12時間もの間さぞご退屈だったでしょう」との労いの声に「私が以前ここへ来たときは20日かかりました。昔日のことを思えばわずか12時間でこの地を通過するのはなんだかもったいないように思います」と応えたという。
 この選択された落合−新得間の峠越えの鉄道建設の指揮を担ったのは、あの踏査隊の一員であった杉本一技師であった。たしか、北海道鉄道70年祭りが旭川で催された際には鉄道功労者として杉本技師の顕彰が行われたと云われている。
この時に定められた道央の旭川と路東の帯広を結ぶ鉄道建設ルートは次のようであった。旭川から上川盆地内を辺別川に沿ってさかのぼり、現在の北美瑛付近に至るまでは平坦であったが、ここから25‰の勾配で山を越え、美瑛(びえい)に至る。ここから
 28.6‰の際急勾配で美馬牛峠(びばうしとうげ、標高 約300m)を越えて、富良野原野に出て下富良野に至る。そこから空知川をさかのぼって、金山からは東に方向を転じ、落合に至るものであった。
この先の落合−新得 間は日高山脈を後に狩勝峠と懐けられる標高 644mの鞍部を目指して、最大25‰を含む上り勾配を登りつめて、峠直下に延長954mとなる狩勝隧道(トンネル)を掘削して越えるルートが選ばれた。その十勝側の急斜面に沿って、峠から新得までの約20q弱の間、新内信号所構内を除いては連続する下り勾配となる。新得と狩勝の標高差は380mであり、25‰勾配が2.5q内外連続する区間は3ヵ所となった。また、曲線も連続し、最小半径180mが用いられており、方向が180度変わるオメガカーブが4か所もあり、谷を跨ぐための高い大築堤を設けなければならなかった。そして佐幌川に沿って延々と樹海の中を蛇行しながら新得へ至った。その先は十勝平野の西端を下って帯広に至る経路であった。
 その頃の北海道官設鉄道では既に建設が認可されていた空知太−旭川間の鉄道延伸工事を進めており、旭川開業は1898年(明治31年)の予定であった。それに、十勝・釧路の両国は産物も多く、その開拓の急務であることから、十勝線の建設に力を尽していたから、この田辺朔郎部長の調査結果を基に、北海道庁は1897年(明治30年)6月に旭川から狩勝峠を経て帯広に至る「十勝線」の工事に着手した。続いて3年遅れて釧路−帯広間にも着工した。そして明治34年に旭川−落合間が開通した。続いて、明治37年には一足早く釧路線が帯広まで開通した。やがて難工事を乗り越えて明治40年9月8日(日曜日)に落合-帯広間の通称 “狩勝線”が開通し十勝センが全通し、旭川-釧路間が釧路線となった。これにより函館−札幌−旭川−帯広−釧路間の北海道の鉄道幹線が完成した。
 この開通時の運転では、その本務機に前身の北海道官設鉄道がアメリカのボールドウィン社から1903年(明治36年)に輸入した7500型と呼ばれた車軸配置2-6-0(1C)、重量  40tのアメリカ古典機のスタイルをしたテンダー機関車が担当し、後補機は英国製のB6(後に1020型)と呼ばれた車軸配置 0-6-2(C1)、重量  49tのタンク機関車がバック運転で列車の後押しをした。その牽引力は現車で6両くらいが精一杯であったという。新得を出て次の新内で給水を受け、峠を越えた狩勝信号場でも給水と給炭が必要であったと云う。
その後の1913年(大正2年)には、函館本線の札幌と旭川の中間に位置する滝川駅を起点に空知川を坂のごって釧路線の下富良野駅とお結ぶ短絡線が開通して、釧路線は滝川−釧路間の「釧路本線」と、下富良野−旭川間の「富良野線」に分離された。その後釧路本線は根室まで延伸した1921年(大正10年)には釧路本線が「根室本線」と改称されたのである。
 さて、鉄道敷設へ着工してみると、平坦部の多い釧路線の工事が順調に進む一方、十勝線は狩勝峠という難所の工事に多くの時間を費やすこととなった。この狩勝峠のけわしい地形に線路を通すため、隧道(トンネル)や橋に加え、高い盛土の上に大きなS字カーブを設けた新内大築堤など、沢山の構造物を必要としたことが工事を一層難しいものにしていた。特に狩勝隧道の工事は、困難を極めたようであった。
 この落合−帯広間の完成まで足かけ7年の年月を要しているが、実際には日露戦争による中断期間も含むため、実態はわずかな期間で完成させた突貫工事そのものであったようだ。現在のような掘削機械がなかったこの時代、スコップとツルハシで土を掘り、モッコとトロッコで掘った土を運ぶことを人の手で繰り返す方法が行われた。当時は、労務者は不足し、年間の1/3以上は雪のため仕事にならないので工事はなかなか進まなかった。開拓当時のように囚人を使うこともできなくなり、「タコ部屋」労働や人柱などの話や、「枕木の数ほどの犠牲者が出た」と云われるほどの過酷な工事であった。特に隧道工事では、硬い岩盤と湧水に阻まれると云う難工事であった。
 開通したこのルートは十勝平野が一望でき、日本三大車窓にも数えられるなど乗客には大きな喜を与えたが、蒸気機関車の乗務員にとっては、路線の急勾配、急カーブ、冬季の凍結、それに加えて狩勝トンネルの断面は小さく急勾配で排煙も良くないため、特に落合方面に向かう列車は、上り勾配による速度低下と力行による排煙増加の上に上昇気流によるトンネル内の吹き返しが加わって、絶えず窒息の危険と隣り合わせの難所であった。この吹き返しを防ぐため、後に(昭和23年11月)に進徳側のトンネル入口に蛇腹状に上下する風よけのシートが設置された。
その後、太平洋戦争後に結成されたばかりの国鉄労働組合が最初の労働条件の改善要求として、狩勝トンネルの改築と手当の増額を当局に申し入れた。これが1947年(昭和22年)からの狩勝トンネル争議の始まりで、双方の不手際から交渉は長引いた。やがて職場放棄者が続出し、新得駅を通過する列車の運休、遅延が発生する事態となり、警察が介入し闘争は泥沼化して行った。
その後、トンネルの老朽化も激しくなり、漏水の凍結によるつららでの運行障害の問題もあったり、この区間での冬季の凍結や急勾配、急カーブによる輸送上のネックの解消のため、国鉄では新しいトンネルの建設に着手。1966年(昭和41年)10月1日より、新たに開通した新狩勝トンネルを含む勾配を緩和した新ルートへの切り替えが行われた。これにより狩勝トンネルはその使命を終えたのであった。
 この資料をまとめるのに多くの文献を参考にさせて頂きました。厚くお礼を申し上げます。

参考文献:
「鉄道旧狩勝線と石狩道路(十勝国道)の路線選定を考える」
 http://www.d4.dion.ne.jp/~s-sousai/sentei.htm

撮影:昭和41年(1966ねん)7月4日午後。

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・「根室本線旧線の“狩勝峠”を訪ねて」シリーズのリンク
336. 狩勝峠、新内沢大築堤を登る 新内-狩勝(信)
332. 狩勝峠、オメガカーブを登る T・新内−狩勝(信)
334. 狩勝峠、大カーブヲ登ル U ・狩勝(信)−新内
333. スイッチバックの狩勝信号場・落合〜新内 間
331. 狩勝峠のDC優等列車たち・新内〜狩勝信号
338. 上り貨物の緩急車に添乗して・新得→新内 間
337.狩勝峠スナップ アラカルト・新内−狩勝信号場