自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・「根室本線旧線の“狩勝峠”を訪ねて」
333.  スイッチバックの狩勝信号場 ・落合〜新内 間

〈0001:bO31114:落合からの25‰を登る下り貨物列車〉(狩勝M7)


〈撮影メモ〉(モノクローム、コ横)
 新ルートで改良工事中の国道38号線に上って狩勝信号場から落合側を撮りました。列車の左下に見える道は当時の国道38号線で、今日(2015年)では廃道となってしまいました。25‰の急勾配を登ってやって来たのは下りの“ぷっしゅぷる”(前引く後押し)貨物列車です。先頭の本務機から後部補機まできれいに入っています。この先頭の機関車の位置は滝川起点 118k370mで、狩勝信号場の構内まであと500mほどです。背後に見える尖った山が狩勝信号場付近である証拠です。実は落合〜狩勝信号場間には25パーミルはそれほどなく、信号場の手前1km区間だけが25‰で、この列車は信号場までの唯一の25‰を登っている最中です。

〈0002:bO30714:下り旅客列車がバックで引き上げ線へ〉カラー


〈撮影メモ〉(カラー、よこ)
下り普通列車が一旦折返し線に入り、その後通過列車待ちのため
引込2番線へバックで引上げている最中です。機関車はD51重連で前補機です。この本務機、補機の両方の機関士が窓から顔を出して後方を見ています。一番後ろにはダブルルーフの客車でした。左側の信号機が下がっているのが、引き込み線への進入の(あかし)証です。背後には信号場の本屋が見え、その下の小屋が保線区の詰所です。この下り函館発釧路行きは14:29発です。また、国鉄職員の子供たちが汽車を見守っている情景も捉えられています。

〈0003:bO30723、上り普通列車進入〉




〈撮影メモ〉(カラー、横)
 上りの普通列車が狩勝トンネルの落合側を出た直後で、狩勝信号場内の滝川起点 119kのキロポストの辺りを走っています。先頭は小樽築港所属C57138号機で小樽〜釧路間のロングラン機関車です。当時唯一のC57牽引の普通旅客列車 420レということになるとおもいます。列車のもう少し後ろに、狩勝トンネルの入り口がありますが、カーブのためみえていません。

〈0004:bO31112:特急「おおぞら」DC通過〉


〈撮影メモ〉(モノクローム、よこ)
 狩勝信号場を通過する下り特急「おおぞら」です。助手が走行中に腕を出してタブレットを受け取っているシーンです。先頭車両の位置は狩勝信号場内ですが、滝川起点 118k930mの地点です。左側に鉄道官舎が良く見えています。
この前後の情景は、先ず狩勝信号場に入るのは下り急行「かりかち」です。一度、折り返し線に入ってから引き込み線(待避線)に入って、上り特急「おおぞら」の通過を待ってから、狩勝トンネルに向かって発車して行きました。

〈0005:bO30864、落合方から信号場へ登って来る下り列車〉




〈撮影メモ〉(カラー、縦)
 これは狩勝信号場から落合方向を撮影しています。 左側に見える道路は国道38号線で現在は道路が改良され、この部分は廃道になり、自然に戻ってしまいました。右側の斜面に石のようなものがごろごろしているのが見えますが、
これは狩勝トンネルの改修工事によって廃棄されたレンガや
コンクリートで、ここがゴミ捨て場だったようです。やって来たのは下り後補機付きの貨物列車です。戦闘の位置は滝川起点 118K650mです。
この後、狩勝信号場の折り返し線に入り、バックして引き込み2番線に進入します。

〈0006:bO31115:



〈撮影メモ〉(ものくろ、縦)
 狩勝信号場を工事中であった新国道から撮影しました。落合から登ってきた下り列車が狩勝信号場の折り返し線に着き、引込線へ入って退避している所です。
上り貨物列車が前を落合に向けて坂を下って行ってしまいました。
退避している下り貨物列車本務機の安全弁から勢いよく出ている蒸気は迫力があります。

〈0007:bO31116:〉


〈撮影メモ〉(ものくろーむ、よこ)
一枚前の寫眞と同じ場所から撮影したものです。狩勝信号場引き込み線2番センで登り列車通過後に、新内方面に向けて発射して行く下り貨物れっしゃです。
これを見送って狩勝峠に別れを告げた。

〈0008:bO30721:保線作業中の狩勝信号場のひととき〉


〈撮影メモ〉〉
山間なのに意外と広い構内を持った狩勝信号場では保線作業の真っ最中でした。雨上りの水たまりが出来ているのがわかります。右側に駅舎と人の立っている短いホームが見える。遠くから旅客列車が白煙を上げてやって来る。
この写真は、2015年4/13〜5/31に札幌で開催される『狩勝峠鉄道写真展 U、信号場の詩』んのポスターに採用された写真です。

撮影:昭和41年7月5にち。
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〈紀行文〉
狩勝峠の二日目は大カーブでの大俯瞰を撮り終えて直ぐに新内駅から狩勝信号場に向かうべく普通列車に乗り込んだ。そして線路脇にある「狩勝峠」の碑を車窓から撮ったりした。狩勝トンネルを抜けると直ぐにスイッチバックの折り返し線が現れて来たが、列車は本線から引き上げ線に入ってホームに停車した。ここには昭和の初めころからホームの存在がしられていたが、正式に仮乗降場となったのは戦後の1951年(昭和26年)のことだそうだ。当時の時刻表の索引地図には仮乗降場を示す「(仮)狩勝」と記されており、ホームの鳥居型駅名標には最上段に「かりかち信号場」となっており、信号場の文字が入っている珍しいものだとか。
この信号場がやふ目を終える3か月前の当時は一日4往復の普通列車が停車して旅客の乗降が行なわれていたのだった。ここのスイッチバック信号場での列車交換風景が“狩勝峠撮影行”のスイナーレとなったのである。
 さて、道央の旭川から路東の帯広を目指した北海道官設鉄道の十勝線が明治34年(1901年)には美瑛びえい)を経て富良野盆地の西南の標高 413mの落合駅まで開通した。その先は、空知川の源流の一つであるベイユルシエベ川に沿った谷をさか登って、日高山脈の鞍部の下をトンネルで抜けてから、急斜面の山肌を延々と下り続けて十勝平野の西北端の新得に至る予定ルートは約28kmの距離があった。そこで峠の西側に狩勝、十勝側に新内(にいない)の二つの停車場が設けられることになった。この当時は“信号所”と云う駅の種別が存在シナかったから、旅客や貨物の取り扱いを行わない駅も停車場と称していた。
この最初の狩勝停車場は狩勝峠の峠直下を貫く狩勝隧道(ずいどう)の落合側出入り口付近にスイッチバック方式で急勾配の途中に設けられた。ここは十勝線の狩勝峠のほぼサミット的の位置にあって、その前の最大勾配 25‰を含む長い勾配区間に挟まれていた。そこで蒸気機関車への給水給炭所と云う旅客も貨物おも取扱わない停車場(駅扱い)そして明治40年(1907年)9月の落合帯広 間の開通と同時に開業している。
そして大正11年(1922年)4月からは狩勝信号場となった。
私が訪れた昭和41年7月には、通過が可能なスイッチバック方式の配線が整えられていた。その配線は、新内方に折り返し線が並行し、折り返して本線とクロスして落合方にある2本の引き込み線へ接続していた。落合方からの下り列車は、折り返し線で折り返して本線を横断して引き込み線へ入り、待機した後直接新内方へ出発。新内方からは、直接引き込み線へ入って待機した後、本線を横断して折り返し線で折り返して落合方へ出発した。引き込み線に並行して留置線が1本用意されていた。ここの配線では片開き分岐器の組み合わせと単なる交差で構成されていて、シーザス くろっしんぐ(両渡付き交差)は存在していなかったようである。それだけに、信号場のスペースは広くて、待避線から折り返し線の先まで入れると1.5kmほどもあった。このスイッチバック式の信号場内はほぼ平坦であった。そして引き上げ線に寄った東側に信号場の本奥が構えられていて、建物の壁には“狩勝峠”の看板が掲げられていた。
また、信号場の西側の山肌には国道38号線が通じていたが、周囲には民家、商店、学校などは全く無く、駅員9家族、保線員21家族の30世帯が生活する鉄道官舎は東側に集まっていて24時間休みの無い列車や鉄路を守るための拠点としての役目を果たしていた。
やがて、1966年(昭和41年)10月1日に根室本線の新狩勝ルート開業により廃止されることになった。
その後の根室本線旧線(通商 狩勝線:落合−狩勝信号場−新内−新得 間)は現在はレール、橋桁などは撤去されてしまっているが、
2006年に経済産業省より近代化産業遺産として認定されており、続いて2009年11月には土木学会選奨土木遺産に選定されている。現在信号場の本奥の跡地に案内看板が建てられているが、九位は自然にもどりつつある。それに狩勝信号場から落合駅までの間には煉瓦や切り石積のアーチ橋梁や橋台などが現存しているようである。
また、この狩勝信号場の現役時代の情景は、いまも現役で施設が残されている石北本線の常紋信号場を一回り大きくゆったりとした行啓とそっくりであることを記しておこう。

撮影:昭和41年(1966ねん)7月5日。

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・「根室本線旧線の“狩勝峠”を訪ねて」シリーズのリンク
335. プロローグ:狩勝峠からの大俯瞰(ふかん)・新得−狩勝(信) 
--「日本三大車窓風景・新日本八景(平原)--
336. 狩勝峠、新内沢大築堤を登る ・ 新内-狩勝(信) 
332. 狩勝峠、オメガカーブを登る T・新内−狩勝(信) 
334. 狩勝峠、大カーブヲ登ル U ・狩勝(信)−新内 
331. 狩勝峠のDC優等列車たち・新内〜狩勝信号 場 

〈撮影メモも〉
 狩勝信号場を工事中であった新国道から撮影しました。落合から登ってきた下り列車が狩勝信号場の折り返し線に着き、引込線へ入って退避している所です。
上り貨物列車が前を落合に向けて坂を下って行ってしまいました。
退避している下り貨物列車本務機の安全弁から勢いよく出ている蒸気は迫力があります。

〈0007:bO31116:〉
フイルムから入れる。

〈撮影メモ〉
一枚前の寫眞と同じ場所から撮影したと思われます。
狩勝信号場引き込み線2番センで登り列車通過後に、新内方面に向けて発射して行く下り貨物れっしゃです。
これを見送って狩勝峠に別れを告げた。
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〈紀行文〉
狩勝峠の二日目は大カーブでの大俯瞰を撮り終えて直ぐに新内駅から狩勝信号場に向かうべく普通列車に乗り込んだ。そして線路脇にある「狩勝峠」の碑を車窓から撮ったりした。狩勝トンネルを抜けると直ぐにスイッチバックの折り返し線が現れて来たが、列車は本線から引き上げ線に入ってホームに停車した。ここには昭和の初めころからホームの存在がしられていたが、正式に仮乗降場となったのは戦後の1951年(昭和26年)のことだそうだ。当時の時刻表の索引地図には仮乗降場を示す「(仮)狩勝」と記されており、ホームの鳥居型駅名標には最上段に「かりかち信号場」となっており、信号場の文字が入っている珍しいものだとか。
この信号場がやふ目を終える3か月前の当時は一日4往復の普通列車が停車して旅客の乗降が行なわれていたのだった。ここのスイッチバック信号場での列車交換風景が“狩勝峠撮影行”のスイナーレとなったのである。
 さて、道央の旭川から路東の帯広を目指した北海道官設鉄道の十勝線が明治34年(1901年)には美瑛びえい)を経て富良野盆地の西南の標高 413mの落合駅まで開通した。その先は、空知川の源流の一つであるベイユルシエベ川に沿った谷をさか登って、日高山脈の鞍部の下をトンネルで抜けてから、急斜面の山肌を延々と下り続けて十勝平野の西北端の新得に至る予定ルートは約28kmの距離があった。そこで峠の西側に狩勝、十勝側に新内(にいない)の二つの停車場が設けられることになった。この当時は“信号所”と云う駅の種別が存在シナかったから、旅客や貨物の取り扱いを行わない駅も停車場と称していた。
この最初の狩勝停車場は狩勝峠の峠直下を貫く狩勝隧道(ずいどう)の落合側出入り口付近にスイッチバック方式で急勾配の途中に設けられた。ここは十勝線の狩勝峠のほぼサミット的の位置にあって、その前の最大勾配 25‰を含む長い勾配区間に挟まれていた。そこで蒸気機関車への給水給炭所と云う旅客も貨物おも取扱わない停車場(駅扱い)そして明治40年(1907年)9月の落合帯広 間の開通と同時に開業している。
そして大正11年(1922年)4月からは狩勝信号場となった。
私が訪れた昭和41年7月には、通過が可能なスイッチバック方式の配線が整えられていた。その配線は、新内方に折り返し線が並行し、折り返して本線とクロスして落合方にある2本の引き込み線へ接続していた。落合方からの下り列車は、折り返し線で折り返して本線を横断して引き込み線へ入り、待機した後直接新内方へ出発。新内方からは、直接引き込み線へ入って待機した後、本線を横断して折り返し線で折り返して落合方へ出発した。引き込み線に並行して留置線が1本用意されていた。ここの配線では片開き分岐器の組み合わせと単なる交差で構成されていて、シーザス くろっしんぐ(両渡付き交差)は存在していなかったようである。それだけに、信号場のスペースは広くて、待避線から折り返し線の先まで入れると1.5kmほどもあった。このスイッチバック式の信号場内はほぼ平坦であった。そして引き上げ線に寄った東側に信号場の本奥が構えられていて、建物の壁には“狩勝峠”の看板が掲げられていた。
また、信号場の西側の山肌には国道38号線が通じていたが、周囲には民家、商店、学校などは全く無く、駅員9家族、保線員21家族の30世帯が生活する鉄道官舎は東側に集まっていて24時間休みの無い列車や鉄路を守るための拠点としての役目を果たしていた。
やがて、1966年(昭和41年)10月1日に根室本線の新狩勝ルート開業により廃止されることになった。
その後の根室本線旧線(通商 狩勝線:落合−狩勝信号場−新内−新得 間)は現在はレール、橋桁などは撤去されてしまっているが、
2006年に経済産業省より近代化産業遺産として認定されており、続いて2009年11月には土木学会選奨土木遺産に選定されている。現在信号場の本奥の跡地に案内看板が建てられているが、九位は自然にもどりつつある。それに狩勝信号場から落合駅までの間には煉瓦や切り石積のアーチ橋梁や橋台などが現存しているようである。
また、この狩勝信号場の現役時代の情景は、いまも現役で施設が残されている石北本線の常紋信号場を一回り大きくゆったりとした行啓とそっくりであることを記しておこう。

撮影:昭和41年(1966ねん)7月5日。

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・「根室本線旧線の“狩勝峠”を訪ねて」シリーズのリンク
335. プロローグ:狩勝峠からの大俯瞰(ふかん)・新得−狩勝(信) 
--「日本三大車窓風景・新日本八景(平原)--
336. 狩勝峠、新内沢大築堤を登る ・ 新内-狩勝(信) 
332. 狩勝峠、オメガカーブを登る T・新内−狩勝(信) 
334. 狩勝峠、大カーブヲ登ル U ・狩勝(信)−新内 
331. 狩勝峠のDC優等列車たち・新内〜狩勝信号 場 
338. 上り貨物の緩急車に添乗して・新得→新内 間
337.狩勝峠スナップ アラカルト・新内−狩勝信号場