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 [ガーンです]と言われて前向きに歩んだ[その1年間]






 [ハイ乳がんです]といわれて!
 2006年、9月11日、検査を聞くため診察室の扉を開けた。
 まだ立ったままの状態で、
 ドクターから、[ハイ乳がんです]と言われた。
 え...と聞き返した、ハイ乳がんです。
 何の説明もなく一方的に、検査をします、
 予約しておきますから予約の日に検査をしておいてください。
 9月30日から抗がん剤の治療を始めます、1週間後に髪の毛が100%抜けます、
 かつらを買っておいてください。
 ガンが小さくなったら、来年の2月ごろ手術をします。
 その間に、全ての検査はしておいてください。
 9月30日、来る時は、抗がん剤の承諾書を書いて持って来て下さい。
 書類は全部、看護婦の方から渡しますので、外で待っていて下さい。
 一方的なドクターの言葉に、ただただ、聞くしかありませんでした。
 質問しょうと思ったら、次の患者がいるので書類を読んでくださいと言われて...
 それが他人事のような出来事の、物語の始まりでした。

 前日電話で姉に、検査の結果を聞きに行くと話し、
 [大丈夫、ガンなんかではないから、私1人で平気、大丈夫!と]
 しかし、待合室に姉はいました、姉は何かを察知したのでしょうか?
 結果を聞き、病院を出て食事をしたのですが、二人とも無言、何を食べたか覚えておりません。

 自分の意思を家族に伝える
 家に帰り家族に話しました。
 私は、[あのドクターとは相性があわないみたい]と一言、
 自分の想いを、家族は判ってくれました。
 翌日以前からかかっていた慶応病院のドクターの所に行き、
 [乳がんになってしまった]と、ドクターは冷静な判断で[乳腺外科に私の親友がいるからと]、
 山王病院を即、紹介してくれ、受診しました。

 他の病院に変わるため
 初めて宣告された病院から、レントゲン等の検査した書類を頂くのに
 何度も病院へ足を運びとても大変でした。
 全て娘が対応してくれ、
 他の病院に変わることの大変さを痛切に感じました。

 ドクターの診察で
 初めて告知されたドクターとは違い、初終笑顔の診察、
 その時初めてホッとして我に返ったのを覚えております。
 治療として
 抗がん剤で小さくしてから手術する方法と、
 初めから手術する方法と、2つの選択があるといわれ、
 即答できず、その日は一旦考えますと帰りました。
 考えても解決する事ではないのですが...
 1人になって、これからどの様にしたら一番ベストなのか、自分自身に聴いてみました。
 : 1つ目の治療の抗がん剤治療を、自分の左乳房に聴きました、[嫌だという声が]
 : 2つ目の手術は、何となく不安な返事が返ってきたのです、

 先祖のお墓参りに行く
 治療方針が決まらないまま、まずやった事、
 娘と一緒に先祖のお墓参りに行きました。
 日頃、何かあると、私はお墓参りに行って報告をしていたのです。
 ちょうど、9月22日が私の大好きだった祖母の50回忌、
 娘と2人で一番ベストな方法はどうしたらいいのと、祈り、乳がんを報告しました。

 主人のお墓に行って
 その足で、主人のお墓に行き報告、
 いつもの様に、周りの草を取っていて、気になる事が、
 ブロックの栄と、石塔の20cmの間に木が生えていたのです。
 その木は大分前から気になっていましたが、お参りするたびに、
 上に出ている部分をはさみで切っていました。
 娘がどうもあの木が気になると言い出し、2人で抜こうと思いましたが、抜けない、
 管理事務所に行って話した所、道具を貸してくれ、長い事かかって育った木は、
 根元は太くなっていた為、抜けない、それでも抜こうとして2人で周りの土を掘り起こした、
 深く根づいてその周りに、虫の卵がいたのです、
 娘は何かにとりつかれたように、ここにも、ここにも、と虫の卵をみつけ、
 その日は2人でとうとう夕方までお墓で作業をしていました。

 手術の1ヶ月前
 決心がつかないまま、何の自覚症状もない為、
 ひそかに、手術も抗がん剤もやらないで直そうという思いが心のどこかにあって、
 コンサートに行ったり、講演会に行ったり、学童クラブの子供達のお手伝いをしていた為、
 そのまま続けていたのです。
 この1ヶ月は自分自身の、最後の抵抗だったのかもしれません。
 
 手術決定
 乳がんですと言われて1ヶ月後の、10月17日診察、
 ドクターから、直径が大きく全摘手術がベストといわれました。
 私は、乳房に執着が特に強く、
 少しでも残して欲しいと自分の意思を通して、温存手術を希望したのです。

 手術時間6時間
 温存手術を終えたベッドの私に、
 ドクターが[よく頑張ったね]と、
 私[今、何時ですか]  [7時だよ]
 1時に病室を出て...2.3.4.5.6.7時、6時間、
 やはり [ガンだったのですね] と、
 その時まで、自分がガンだという事を認めていない、もう一人の私が居ました。
 ドクターいわく[根が深かった為、温存するのに大変だったよと]
 その時、家族の不安そうな顔が、作ったような顔が印象に残りました。
 という事で、1回目の手術は終わりました。

 手術後 リハビリを始める
 転移はなかったという事だけは聞いておりましたが、
 その後の事はドクターも、家族も何も話してくれない、
 不安があったが、3日目より病室で毎朝やっているラジオ体操をやり始め、
 夜になると六本木の夜景が目の前に見えて、別世界に来ているような日々を過ごし、
 7日目には、近くの乃木神社に散歩も出来るようになっていました。
 ゆったりと、のんびりした入院生活、10日目で退院ました。

 1週間後の診察
 組織検査の結果、
 温存した乳首の周りにガン細胞が残っているという、
 検査結果を聞き再手術をといわれました。
 その時、私は本当にガンだったのだ!初めてガンを認めた私でした。
 あの時、全摘をしていたらと家族から言われましたが、
 あの時は、あの時、そんな想いだったのだと、自分は納得していました。

 1回目の退院後 墓の大改築をする
 主人のお墓は、公園墓地で、墓の中は全部コンクリートでふさがれており、
 26年間お骨は、骨壷に入れられ、墓の棚の上にずっと置かれてあったのです。
 前から、骨壷から土に返してあげようと思っていたのでしたが、実行に移せないままでした。
 11月15日
 風水墓で全面的に大改造をする事になりました。
 娘と私の見守る中、工事開始、
 気になっていた木の根が、コンクリートを通り抜けてお墓の回り、根深い所まではびこっておりました。
 26年間骨壷の中に入っていた主人のお骨も、やっと土に返す事が出来、
 長い間きゅうくつだったでしょう、ごめんなさいと心の中で伝えました。
 墓の中は、底の部分のコンクリートを全部はがし土にして、炭を底全体にひきしめ、
 書いた写経をひいて、その上に方位盤をおいて、水晶を四隅に埋めたのです。
 一番上には、健康にいいという風水赤土を、その下に財運にいい黄色土を敷き完成しました。
 石塔が今までは五段になっていたのですが、4段がよいとのことで、
 いいという事を全て素直に受け入れ完成しました。

 急にふり出した大雨と、西の空に広かった綺麗な雲
 工事が終わった直後急に大雨、
 西の空に龍のような雲がもくもく上がって、それがとても綺麗なのです。
 供養が終わった瞬間、大雨は上がり快晴になり、
 あの不思議な現象は何だったのだろうと、そんな体験をしました。
 その時[ありがとう]と、主人の喜んでいる顔が浮かんだ事が思い出されます。

 お料理番組に出演
 がん告知されて悶々としていた時、お料理番組の依頼がありました。
 考えました、今の状態では私に出来ない、と、
 娘に話した所、あっさり[やってみたら][私が応援するよ]といってくれ、
 okサインを出し、手術1週間前に我が家での撮影に入りました。
 元々お料理が好きな私、近所のお年寄りの方にお弁当を作ってボランティヤでお届けしていたので、
 ガーンのことは忘れ、楽しく撮影する事が出来までした。
 その時のレシピは、
 全国お雑煮巡り、北海道、大阪、福岡、東京の4箇所、
 その東京のお雑煮でした。
 好きなこと、楽しいことをやっている時は、病気の事は忘れてしまうものです。
 緊張しましたが、とても楽しかった事だけを覚えております。

 12月16日、2回目の手術を終えて、
 2回目は、全摘手術なので短時間で終わり経過も順調で、
 7日目暮れには退院しました。

 J:COMテレビ放映
 1月1日からJ:COMテレビで、
 手術1週間前に撮影した、全国お雑煮巡りが1週間放映されたのです。
 その放映を見て、私の中で不思議な勇気がわいてきました。
 生きようと!
 その後2月にお雛様弁当、5月、7月家庭菜園で取れた料理レシピが放映され、
 自分の画面を見て、又、又、元気を頂いたのです。
 自分の画像を見て元気が出るなんて、普通なら可笑しいですね、
 私にとってテレビ出演は、
 病気を克服した一番の、大きな要因になった事は確かです。


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サン・オフイス
鈴木邦子

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