自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・奥の細道に沿った陸羽東線を訪ねて Z 番外編
368. 冬の最上川鉄橋 ・陸羽西線/津谷-古口-高屋
〈0001:bQ31111:雪模様の第1最上川鉄橋・津谷−古口 間〉
〈撮影メモ:昭和46年3月20日撮影〉
左手前から右奥へ。右手の川岸から撮っているらしい(丸太が積んである。
高い歴史を感じさせる橋脚が6本、河原は積雪で一杯だった。
曲弦トラスが右から3連、三番目のトラスは吹雪いているのか煙っている。
〈0002:bQ31132:〉
〈撮影メモ〉
除雪の行き届いた国道を延々とあるきつづけて、途中で一休みしていると短い列車が通り過ぎて行った。背後は一面の積雪の農地、遠くに民家がちらほら、遠い行き積雪の山並み。このやまなみは新庄盆地と庄内平野を分けている出は丘陵であろうか。
〈0003:bQ31133:角川鉄橋〉
〈撮影メモ〉
4本の橋脚の上に厚みのあるプレートガーター桁が印象的であった。黒から灰色の煙を後ろへなびかせた貨物れっしゃ、最後尾は未だ土手の上。遠くも積雪の山。さすが豪雪地帯だ。
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〈紀行文〉
奥の細道は鳴子温泉の近くの「尿前の関(シトまえのせき)」から中山越を抜けると陸羽東線から南西へ離れて奥州街道の尾花沢宿、山寺を訪ねてから再び北上して舟形宿で陸羽東線に再会し、新庄城下を訪れている。ここからは陸羽西線に沿うようにして最上川の全長15qの最上峡を船で下って清川宿からは庄内平野に出ると陸羽西線に分かれて出羽三山乾杯登山口の手向宿へと向かっている。そこで番外ケンとしてシリーズの末尾に陸羽西線:積雪の最上川を加えた次第です。
この陸羽西線は陸羽東線と同時に、酒田線として羽越本線よりも早く新庄−さかた間がかいつうして、本州の日本海岸の酒田港と太平洋岸の石巻港を東西に結ぶ横断路線として開通している。
何故か、急に思い立って未だ残雪の残る最上川を列車に乗って訪ねたのは昭和46年3月20-21日のことであった。取りあえず、後年、“奥の細道最上川ライン”の愛称が付けられることになる陸羽西線を最上川の絶景を期待しつつ新庄から最上川渓谷の区間を列車に乗っ見ることにした。
新庄駅をでた酒田行の列車は奥羽本線と並行して北北西へ走り山形県道34号新庄戸沢線をアンダークロスしてから奥羽本線と分かれて北西へ向きを変え指首野川を渡り左にかーぶして積雪が残る田園風景の中を進んで枡形駅となる。雪雲がなければ南西方向に牛が寝そべっているように緩やかな山すそをひいている月山(がっさん、標高 1,984m)が望めるはずなのだが。この先も県道と並行しながら金堀沢川を渡ると小さなトンネルを抜けて升形川を渡り羽前前波駅となった。ここを出てトンネルを抜け左カーブして南西に走り最上川支流の一級河川の鮭川を渡ると津谷駅となった。ここを出てS字カーブを描いて県道の古口大橋に並んで架かる第1最上川鉄橋で最上川を渡り、ミギカーブして国道47号線と並行して走ります。この大鉄橋は建設当初の酒田線(新庄-酒田間)で最上川を2回渡る最初の鉄橋です。ちなみに“第2”は余目〜酒田の間の羽越線に現存しているとのことであった。やがて広い構内に留置線もある沿線唯一の交換駅である 古口駅となった。ここは地域の中心で戸沢村役場のある元宿場で今は川下りの乗降点となっている。
ここまでの最上川右岸は新庄盆地の平地が広がっていた。ここを出て左に曲がると全長 114mの角川(つのがわ)鉄橋を渡り右カーブしてしばらく走り国道47号線を再びアンダークロスし、左カーブするして最上峡の領域に入った。その入り口に近い所に合流しているのが角川で、標高 1000m級の月山前連山を源流として流れ下り最上川左岸に注いでいる大支流であった。列車は右に国道を挟んで最上川が近ずいて来た。最上川の左岸の行く手には出は丘陵の一角である板敷山(標高 630m)が迫って来た。この先では、沓喰トンネル、高屋トンネル、板敷山トンネル、腹巻トンネルなどの数多くのトンネルやスノーシェードを抜け、線路に並行する国道の高架橋や、それに沿うような集落の家並みなどの相互の位置関係が目まぐるしく入れ替わった。それ故に車窓からの最上峡の絶景を直接眺められる時間はそれほど長くないのが難点であった。そのようにして高屋駅、清川駅となって最上川の渓谷は終わった。その先で最上川から分かれると間もなく狩川駅となり、庄内平野の水田地帯になった。終点の余目も近い。
ところで芭蕉の奥の細道と陸羽西線のルートが重なる区間は、駅で云えは古口から清川までの最上川沿いの区間である。この古口から清川までは両岸に山が迫り、右岸には道は全くない。左岸には現在でこそ国道47号線と陸羽西線が通ってはいるが、明治初期以前は古口・清川間は舟運しか行き来の手段はなかったのであった。
あの「奥の細道」によれば、元禄2年(1689年)6月3日(新暦7月19日)に芭蕉一行は
出葉三山の登山口である手向宿(鶴岡市羽黒)へ向かうため新庄城下を出立して、舟形街道の最上川の舟着き場のある本合海に到着した。ここから乗船して蛇行する最上川を西へ下るとやがて新庄藩の関そのアル古口宿の舟津司馬でげせん、関所改め後に再び船を乗り換えていよいよ難所の最上峡谷へと下った。この最上川の急流が、堆積岩を浸食して形成した峡谷であり、出羽山地を東西に分断している。この河床までの深さは20〜30mであるが、それに山峡の標高差が 60m〜80mが加わるため、見かけよりもかなり深い谷間となっている。最上川は古くから急流(日本三大急流の一つ)にも数えられ、舟下りが親しまれていた一方で、庄内と内陸部を結ぶ交通手段としても欠かせないものであった。
ここで芭蕉は
『五月雨を 集めて早し 最上川』
(さみだれを 集めて早し 最上川)
と詠んでいる。
一方、現在の観光舟下りでは「正調 最上川舟唄」が披露されると云う。
♪ (ヨーエ サノ マッガショ エンヤ コラマーガセ エエヤ エーエヤ エーエ エーエヤ エード ヨーエ サノ マッガショ エンヤコラマーガセー)
酒田(さがだ)さ行(え)ぐさげ達者(まめ)でろちゃ
(ヨイトコラサノセー)
この最上川は、その源を山形、福島県境の西吾妻山(標高2,035m)に発し、米沢盆地を北上した後、置賜白川等の支川を合流し、山形盆地で須川、寒河江川等を合流し、さらに北上を続け丹生川、最上小国川等、大小支川を合流した後、新庄盆地に入り、流路を北西に変え、鮭川を合流して最上峡を抜け、穀倉庄内平野を貫流し、酒田市において日本海に注いでいる。この下流に属する新庄盆地で陸羽西線は第1最上川橋梁で最上川を最初に渡っていた。私は古口駅で降りて国道を戻って積雪の堤防の土手に登って列車を待った。
この第1最上川橋梁は1913年(大正2年)に酒田線の新庄−古口 間の開通に先駆けて竣工した単線鉄橋であった。その形式は下路ピン結合Schwedlerトラス橋 スパン長さ
62.4m 4連 アメリカン ブッジ社製
プレートガーダー スパン長さ 19.2m
橋脚は井筒基礎方式の石済みであって、歴史を感じさせる。
上野形式の中にある 「シュウェドラートラス (Schwedler truss)」はアメリカの橋梁技術者 クーバーにより日本向けに標準設計されたトラス桁であって、曲弦トラスの別称として使われていた。
特にスパン長さ 200フイートの単線用の曲弦トラスは「クーパー トラス」が代名詞としてつかわれていて、数おおくがかせつされている。ここもの残っていた貴重な存在だったが1970年代にワーレン トラスに架け替えられてしまったのは残念である。重厚な歴史を感じさせる橋桁が今も開通当時をしのばせてくれる。
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・〈奥の細道に沿った陸羽東線を訪ねて T〜E〉シリーズのリンク
356. プロローグ/川渡駅にて・小牛田(おごた)〜新庄
357. 大崎平野を江合川(荒雄川)に沿ってさかのぼる・小牛田〜鳴子
358.鳴子峡谷をさかのぼって中山平へ・鳴子−中山平
359.中山平から大谷河をさかのぼる・中山平−堺田
360.大分水界のある堺田駅界隈(かいわい)・中山平〜羽前赤倉
-大分水嶺と国境線が異なる不可解なる峠 「中山越え」-
361. 赤倉温泉から小国盆地へ・羽前赤倉〜長沢