自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・奥の細道に沿った陸羽東線を訪ねて V
358. 鳴子峡谷をさかのぼって中山平へ ・鳴子−中山平
〈0005:bQ086-6-103:鳴子峡俯瞰〉



〈0001:bQ50831:大深沢橋からの俯瞰〉



〈撮影メモ〉昭和47-10-27.撮影。
国道47号に架かる大深沢橋の上からの紅葉の鳴子峡を俯瞰撮影しました。
谷底は紅葉の雑木で埋めつくされています。
鳴子トンネルを出て、第一大谷川鉄橋を渡り、直ぐに第1中山トンネルに入ります。
鉄橋の直ぐ下で大深沢川が鳴子領となっている大谷川に合流しています。
背後は山また山。

〈0002:bP60356:単機回送〉



〈撮影めも〉:昭和43-7-28.撮影。
764レ(単機回送)です。
この鉄橋は第2と第3中山トンネルとの間にあります。
中山川鉄橋は全長68 m、スパン長さ21mのプレートガーター桁3連の規模で、高さは20mに近いとおもわれます。

〈0003:bP60425:〉

〈撮影メモ〉:昭和43-7-28.撮影。
中山平駅への最後の登りです。この時は中山平温泉に泊まった時の早朝の撮影です。3761レ貨物列車。

〈0004:bP60446:中山平駅列車交換〉

〈撮影メモ〉:昭和43-7-28.撮影。
中山平駅における762レと3763レの交換。
右手前から左奥へ、手前にそくせんあり。次の線路を追いかけ気味に撮った貨物列車、灰色の煙が後ろへなびく。
次の線路をこちらに向かって来る列車、煙は見えないが、左下のドレーンが盛大に出ている。

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〈紀行文〉
この宮城県(陸奥国、明治以降は陸前国に)から奥羽山脈の大分水界である「中山越え」を越えて山形県(出羽国、明治以降は羽前国)へ抜ける今昔の交通路にとって最大の難所となっていたのは峠ではなくて、その手前を遮っていた鳴子峡を形ず作っている左岸に続く山地を「どのようにして」通り抜けるかであった。
この鳴子峡とは奥羽山脈の大分水界である中山越え付近を源に東へ流れ下り、鳴子温泉の手前で本流の荒雄川の右岸へ合流する大支流の大谷川(だいやがわ)が刻んで来たV字谷が上流の中山平温泉から鳴子温泉の手前までの約2.6qの間が白色凝灰岩を露出させた奇岩や絶壁が連続しレイル谷筋に懐けられた紅葉の名所であった。
この鳴子峡の存在する一帯を通過していた交通路には、古い方から第1に芭蕉が通ったと云う江戸時代の出羽仙台街道、第二が明治の中期にの馬車路としての仮定県道17号線(北羽前街道)で、改良前の国道47号線の砂利路である。第3に明治末期の陸羽東線の前身である陸羽線、第4ガ昭和40年代の中ごろに改良された国道47号線となるであろう。
 そこで、最初に唯一鳴子峡を鉄橋で横断している陸羽東線の通過しているルートを鳴子駅から中山平駅まで描写しておこう。
先ず、鳴子駅を出ると直ぐに左カーブし羽後街跨線橋で国道47号線の下をくぐります。ここから先は鳴子峡と呼ばれる渓谷沿いを走って山すそい沿って不動沢鉄橋、続いて水無沢鉄橋で深くて幅の広い渓谷を渡って、長さ1062mの鳴子トンネルに突入する。次に続く第1中山トンネルとの間に挟まれて長さ 49mの第1大谷川鉄橋が高さ24mで鳴子峡を渡って、直ちに第1中山トンネルに入って行く。このトンネル内で曲率半径300mの急カーブで温泉ガス地層を迂回しながらのトンネルが続き、再び大谷川左岸にでて中山平駅を目指して行く。この鳴子駅−中山平駅の間にあって陸羽東線が鳴子峡を横断する地点である第1大谷川鉄橋が
位置する地点での、それぞれの交通路がどこを通過しているかを比較してみよう。
最も南側で大谷川の右岸を登って来た陸羽センが、この地点で左岸へといちを変えている。この鉄橋の両側共にトンネルである。
その次に日田川を通じているのは最も古い江戸時代の街道で、この鉄橋の近くで左岸へ合流している大深沢の深い谷を九坂デ上下して通過していた。現在保存されている古をたどってみると、『関所を出て直ぐに、「尿前坂」に入ると道は段々と旧坂になり、石段となる。そして国道を横断して「薬師坂」に入り、かなり登った先が「岩手の関跡」といわれ、薬師堂跡があり、この後はしばらく平坦な森林の中の道が続き、やがて小深沢(こぶかざわ)のアップダウンの九十九折(つづらおり)の難所に入って行く。急な下り坂になってゆく。坂の最低部に沢があり、小さな橋が架かっている。ここが小深沢である。道はここからまた厳しい登りになる。登りきるとまた少し平坦な道が1.0kmほどの広葉樹林が続く。つぎは最大の難所と云われる
大深沢(おおふかざわ)のアップダウンで、登り下り十丁(約981m)もあった上に、この沢は軍事的な要所であったから橋は架けられておらず、歩渡(かちわたり)であったと云う。現在は小さな橋が架けられている。……』とあった。
その次が、それらを見下ろすような高さで大深沢の谷を一跨ぎしている現在の国道47号線である。まず大谷河を渡った国道は鳴子トンネルを抜けると小深沢橋を渡り、しばらく走ると深い
大深沢に架けられた長さ 99.7mのアーチ鉄橋である大深沢橋(1961年/昭和36年完成)がある。ここからの左手には大深沢が合流しようとしている本流の大谷川に架けられた陸羽東線の第1大谷川橋梁が真横に、遠く俯瞰(ふかん)できたのである。この鉄道の鉄橋は鳴子トンネルと中山トンネルに挟まれた所に架かっており、トンネルから飛び出した蒸気機関車が、次のトンネルに入ることを知らせる汽笛を鳴らす一瞬を撮る撮影名所として、また紅葉の鳴子峡の看板風景でもあった。最後が現在の国道47号線の大深沢橋が1960年代に開通する以前の旧道であって、大深沢の谷を上流側に迂回していた。これは明治に開かれた化成県道17号線のの馬車道を改良した道であって現在は大深沢遊歩道として整備されているようだ。
これらの道路が通じていた山地は、本流うである荒雄川の谷と支流の大谷川との間を隔てている大柴山(標高 1083m)、花渕山(標高 985m)などの宮地・虎毛山地の大谷川への急な斜面を横断していたのである。
それらの山々から深い谷を流食って大谷河へ向かって流れ下る急流は小深沢、大深沢、そして中山川などが深い谷をつくっていて、ここを上下して越えるのが才代の難所であったのである。それを鉄道は長大なトンネルト深い谷間に架ける鉄橋で、新国道もトンネルと
深くて広い谷を高架橋を設けて勾配を緩和させることに成功しているのであった。
そこで、鉄道の建設史に入る前に、江戸時代の元禄2年(1689年)に旅した「奥の細道」の紀行文を紹介してみた。
 芭蕉の旅は奥州平泉から一関に戻り、ここから奥羽街道に別れて岩出山を経て、鬼首峠方面に出羽街道を進んでいる。やがて、街道は荒雄川の左岸を進み、今の川渡駅の辺りを右にみて荒尾川の対岸に賑わっている鳴子の温泉場を眺めながら山裾を通って岩渕に出た。ここには渡船場があって、その対岸は中山越えから鳴子峡を流れ下って来る大谷側が荒雄川に合流する上流の地点の「尿前(にょうまえ)」であった。この地名は義経が奥州の平泉に落ちて行った際に、奥方が生んだ「亀若丸」が、はじめてここで尿をしたのが起源としているが、実はアイヌ語源説もあって、尿前を「シュッ(山裾)・オマ(にある)・イ(所)」「山裾の場所」としている。ここには仙台藩の関所が設けられていた。
ここで
出羽仙台街道は鬼首当家へ通じる出羽街道に別れて対岸へ「綱渡し船(両岸に太い綱を渡して、たぐって舟で渡河すること)」で荒尾川を渡りて行く。
さて、「尿前の関」からの「奥の細道」の
紀行文を現代語にしておいた。先ず芭蕉は、
『南部地方へ続く遠い南部街道を目の前にして、岩手の宿に泊まった。小黒崎・みづの小島という歌枕の地を過ぎて、鳴子温泉から尿前の関にかかって、出羽の国に越えようとしたのだ。
この街道はめったに旅人など通らない道なので、関守に不審がられて色々きかれ、やっとのことで関を越すことができた。
鳴子から羽前に出る中山越えの山道をのぼったところ、もう日が暮れてしまったので、国境を警護する人の家をみつけて、一夜の宿をお願いした。
三日間嵐となり、することもない山中に足止めされてしまった。
蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと 芭蕉 』
  一方、同行していた曽良の随行日記には山越えの難儀さが記録されている。
『宿の主人の言うことには、これから出羽の国にかけては険しい山道を越えねばならず、道もはっきりしないので案内人を頼んで越えたがよかろうということだった。
ではそうしようと人を頼んだところ、屈強な若者が反り返った脇差を横たえて、樫の杖を持って私たちを先導してくれた。
今日こそ必ず危ない目にあうに違いないとびくびくしながらついて行った。
主人の言ったとおり、高い山は静まり返っており、一羽の鳥の声も聞こえない。うっそうと繁る木々の下は、まるで夜道のように暗い。
杜甫の詩に「雲の端から土がこぼれるようだ」とあるが、まさにそんな感じで、篠の中を踏み分けつつ進んでいき、渓流を越え岩につまづいて、肌には冷たい汗を流し、やっとのことで最上の庄についた。
例の案内してくれた男は「この道を通れば必ず不測の事態が起こるのですが今日は何事もなく送ることができ幸運でした」と言ってくれ、喜びあって別れた。
そんな物騒な道と前もってきかされていたわけではなかったが、それにしても胸がつまるような心持だった。』。
本来ならば、この「中山越」地点より一つ南に奥州街道から分かれて山形の尾花沢へ通じていた「中出羽街道」を通る予定であったが、道が悪いと聞かされて経路を変更したと云うのが事実のようである。
 さて、お待ち兼ねの鉄道沿線の話題に入ろう。あの川渡駅を出ると荒雄川の左岸の山すそを進み、やがて左へ大きくカーブを切って広い川幅の荒雄川に架けられた第2荒雄川橋りょうを渡って、国道沿いの共同温泉で知られる赤湯温泉の一角をかすめて、荒雄川を見下ろしように河岸段丘を登り始める。さらにはいごの斜面を切り取って作った崖上を抜けて国道47号線を北羽前街陸橋で跨いで鳴子温泉に近ずいて行く。この前方には南斜面が鳴子スキー場となっている花淵山(標高 985m)の大きな山容が眼前に迫って見得た。そして荒雄川左岸の高い河岸段丘を広げて造成した鳴子駅構内に到着する。
ここを出て、直ぐに左カーブし国道47号線の下を抜けて左右にカーブしつつ山間を縫うように進む。国道を眼下に見下ろすような高い築堤やSカーブを経て、不動沢、水無川の深い渓流を渡り、全長 1,062mの鳴子トンネルに入る。この温泉街の山の上には鳴子公園があって、鳴子峡の俯瞰(ふかん)撮影が楽しめるようだ。この鳴子トンネルを“飛び出し”た所にあるのが峡谷となった大谷川(おおやがわ)の高さ24mもある断崖に架けられた第1大谷川橋梁を一瞬にして渡りつつ、左手に鳴子峡の絶景がチラリと眺められたと思うと直ぐに第一中山トンネルに突入するのである。この二つのトンネルに挟まれた長さ 49mの鉄橋を渡る瞬間には、煙と蒸気がまとわりついたSLが姿を見せる所で、鋭い汽笛と鉄橋を渡る轟音が谷間にこだますると云う効果音と「飛び出し」の光景が同時にが楽しめる絶景ポイントなのであった。特に紅葉の季節は陸羽東線の代表的シーンと云えるだろう。この情景を俯瞰できるポイントが改良された国道47号の大深沢の深い峡谷を一跨ぎする鉄橋の上に出現したことは何と幸いなことであろうか。
続いて第二中山トンネルを出入して、大谷川左岸をたどり、険しい峰や、そびえる奇岩の間を迂回して急カーブするやら、深く切り立った山腹を削ってできた高い築堤を経て進んで行く。そして中山川を渡り、第3中山トンネルを抜けて、18パーミルの登り勾配を登り詰めると明るく開けた中山の台地に到達する。やっと中山平駅の構内で水平になる。
こう云うと順調に工事が進んだように聞こえるが、早い時期の大正2年一月に起工した中山とんねるの掘削工事中に火山性の猛毒である硫化水素ガスの噴出に遭遇し、掘削を進めると益々激しく噴出が起こってきたので、工事を一時中断して、ガスの噴出の状態を調査した。その結果はトンネル予定線が火山ガス地帯を横断していることが判明した。そこで工事の請負契約を解除した上で、変更線路の選定に着手して、大正3年八月に新しい線路の実測が完了した。それはガスの発生に配慮して、大谷川の左岸絶壁をぬうようにして迂廻(うかい)して、第一・第二・第三中山トンネルを掘削し、その間に深い切り通し、高い築堤を設けると云うものであった。それが感じられるのは第1中山トンネルにはいって曲率半径300mと云うキュウカーブの存在することからであろう。この区間に使用する鋼材には腐食防止剤の塗布が徹底されたとものべられていた。これらの結果大幅な工事期間の追加と予算が費やされたと云う。
それとは別に、当時の「峠をを挟んだ16kmの間「」には馬車路としての仮定県道だい17号線が通ってはいたが、その途中にある集落は僅か数戸または十数戸の小集落が堺田や中山に点在するだけであったと云う寂しい山間であって、風雪の冬期間に入ると道路は途絶してしまい、工事資材、特に17箇所もあった橋梁材の運搬には多大な困難を伴ったことが特記されていた。

◆「・奥の細道に沿った陸羽東線を訪ねて  T〜E」のリンク
356. プロローグ/川渡駅にて・小牛田(おごた)〜新庄
357. 大崎平野を江合川(荒雄川)に沿ってさかのぼる・小牛田〜鳴子
358.鳴子峡谷をさかのぼって中山平へ・鳴子−中山平
359.中山平から大谷河をさかのぼる・中山平−堺田
360.大分水界のある堺田駅界隈(かいわい)・中山平〜羽前赤倉
-大分水嶺と国境線が異なる不可解なる峠 「中山越え」-
361. 赤倉温泉から小国盆地へ・羽前赤倉〜長沢