自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・奥の細道に沿った陸羽東線を訪ねて T
356.  プロローグ/川渡駅にて ・小牛田(おごた)〜新庄

〈0001:bQ057-6-101:前補機スタンバイ〉



〈撮影メモ〉:昭和43-7-27.影。

有明の月がそらにあった。C58 328号は前補機として連結完了、ナンバープレートに反射している赤色は出発信号柱の現示灯火です。

〈0002:bP60413:767レ川渡駅到着〉


〈0003:bP60365:給水中のC58〉


〈撮影めも〉:昭和43-7-27.撮影。
駅の西側のはずれからは構内の様子が良く見得た。その先には、タンク車と貨車を連結した機関車が左方向に向いて止まっていた。テンダーの上に助手が作業中、その向こう側に給水タンクとホースが見える。ここには簡単な石炭補給に給水、それに火床整理が可能で常時1人の職員が働いておられた。

〈0004:bP60421:C5819号川渡駅発車〉


〈0005:bQ50833:陽光をあびて、C58〉



〈撮影メモ〉:昭和47-3-26〜27.撮影。
撮影ばしょがあやふやなのですが、荒雄川左岸で、川渡駅を出てから荒れ雄川鉄橋との間ではなかろうか。
おそらく、陸東最後となった一連の撮影を切り上げて帰途の途中で立ち寄ったのではと思っているのですが。

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〈紀行文〉
 昭和43年のことだったが、東北本線の奥中山のD51三重連の撮影行に向かう途中の前哨戦として、C58重連の走る陸羽東線を初めて訪ねたことがあった。金曜日のく夕方に埼玉を出発して国道4号線をひたすらほくじょうし、仙台の市街を越えてしばらくすると左へ分岐する宮地県道17号岩出山吉岡線(現 国道457号線)に入った。ここは旧 出羽仙台街道と云われた日本海岸の酒田港と太平洋岸の仙台城下とを結ぶ道筋の一部なであった。やがて陸羽東線沿線の岩出山に出てから、脇目も振らずにC58重連の仕立て駅である川渡(かわたび)駅に向かった。
うんよく、丁度前補機となるC58 328号が前部に連結を完了して出発を待つばかりの所に遭遇した。未だ有明の月がのこっているのを背景にナンバープレートを輝かせている前補機のフロントをカラーで撮ったのだった。
この写真をプロローグとして冒頭に掲げた。
 ところで、この陸羽東線は東北の二大商港で有名な太平洋岸の石巻と日本海岸の坂田とを結ぶ奥羽横断鉄道ルートの中核をなす線区であるから、当時の貨物列車の運行本数も随分とおおかったようだ。
特に、鳴子駅こ先の大分水嶺の堺田駅までの10.4qの区間は最急勾配18.2‰の、トンネル、橋りょうの続く最大の難所であった。これも明治末期のトンネル掘削技術の進歩に加えて、ルートの選択されたサミットが比較的標高差の小さい大分水界だったことから再急勾配を18.2‰(55分の1)に抑えることができたのであった。
この起点である東北本線の小牛田駅で仕立てられた貨物列車は川渡までの平坦な路線をC58単機牽引でおよそ約700噸を牽引して2たであろうが、この先のサミットまではC58を補機として付けても牽引力不足となったことから、川渡では貨車の編成替えがおこなわれていた。
また、時には、小牛田から牽引して来た貨物列車を川渡で二つに分割し、後半を川渡に留置し、前半を牽引して堺田駅まで登っり、牽引して来た貨車を境田駅の側線に留置してから、機関車は単機で川渡まで戻ってゆく。それに続いて前補機の仕業を川渡〜堺田を行なってから、午後になって川渡に留置していた貨車を牽引して堺田に登って、日中の長い時間を堺田駅で過ごした貨車を連結して、新庄に向かって峠を降りて行くと云う運用も残っていたようであった。実は、このように『重量貨物列車を勾配の麓駅で定数におさまるよう二本の列車に分割して運転し、その頂上駅にて再び併結の上で勾配を下る輸送方式』は蒸気機関車の時代には線の区輸送力の確保、機関車や乗務員の運用効率の向上を目的に各所の峠で行なわれていたとのことであった。
このためであろうか、川渡駅構内には機関車駐泊所が併設されていて、給水や簡単な給炭がおこなわれるなどして、機関車の動きが活発だったので、楽しいひとときを過ごせたのであった。
 さて、ここからは陸羽東線の誕生の経緯についてしらべたのでご披露しておきたい。
あの日本鉄道の上野から青森間の東北線の建設が進んで全通する明治24年(1891年)が迫って来ると、既に南北の両方から着工している福島〜青森間の奥羽線を含めての“東北縦貫線”同志を連絡する奥州横断路線の建設の機運が高まっていた。
当時の鉄道当局では、国が建設すべき鉄道路線を規定する法律『鉄道敷設法』を制定すべく、全国の鉄道建設要望の路線ルートの調査を始めていた。 それの候補の一つに宮城県と山形県を結ぶ横断鉄道のルート調査が行われていた。そのため東北地方を南北に貫く脊梁である奥羽山脈を横断している古来からの道筋を北から調べて行った。先ず岩手・秋田・宮城の県境に位置する栗駒やま(標高 1627m)の西の鞍部には秋田県の湯沢と宮城県の栗原を結ぶ花山峠(標高 742m、小安街道、国道398号線)があり、その先で秋田県から宮城変にまたがる虎毛山地を過ぎた先には、平安の昔からの秋田県の湯沢と宮城県の鳴子とを結んでいた鬼首峠(おにこうべとうげ、標高 820m、出羽街道、仮定県道第二号線(羽後街道:台-鬼首峠)、国道108号線)が通じており、さらに鬼首カルデラの外輪山として残っている須金岳(須金岳(すがねだけ、標高 1253m)を過ぎると、西へ神室山系の尾根を分ける。その先は外輪山の主峰である禿岳(かむろだけ、標高 1,261m)のけわしい尾根を下れば、山形の最上町と鳴子町の鬼首を結ぶ花立峠(標高 796m、山形・宮城県道63号最上鬼首線)となる。さらに登って小柴山(標高 1,055m)から鬼首スキー場のリフトの終点の近い鍋倉山(標高 1094m)があり、さらに東北方向へ大柴山(標高 1083m)、そして南斜面に鳴子スキー場が開かれている花渕山(はなぶちやま、標高 985m)などの宮城・虎毛山地が続いている。少し戻って小柴山と鍋倉山との中間から南へ延びる尾根が奥羽山脈の大分水嶺となっていて、その先の鞍部に出羽仙台街道 中山越(標高 349m、仮定県道第十七号線:古川-山形県の堺田、北羽前街道、国道47号線)の峠に出る。続いて尾根を登って「みみみず山)(標高 862m)を過ぎた先には、田代峠(標高 541m、山形・宮城県道262号最上小野田線)がある。ここは昔は山形側から馬が、宮城側から米が運ばれた地元の道筋であった。この先は翁山(標高 1059m)があり、次の鞍部にはは鍋越峠(標高 513m、中羽前街道、国道347号)となる。ここは中山越が開かれるまでの仙台(陸奥)と尾花沢(出羽)を結ぶメインルートであった。続いて火山群の主峰である船形山(標高 1500m)かあって、次の面白山(標高 1,264m)との鞍部には仙台と山形を最短で結ぶ作並街道の関山峠(旧道:の標高 712m、明治13年(1880)に馬車路の旧 関山隧道(標高 650m)が開通:5年後に仮定県道、国道48号)が通じていた。このルートには後に、交流電化の元祖で知られる仙山線が全長 5361mの面白山トンネルを設けている。
このような背稜である奥羽山脈の地形から、奥州横断鉄道建設のルートには標高が最低く、しかも将来の国道となるべき仮定県道第17号線(北羽前街道)が既に開通シテイル「中山越」が選択されたようである。
ここで、先に頻出している聞きなれない“仮定”の意味をのべておこう。実は、明治9年の法律で道路は国道、県道、里道の三種に分けられることとなった。そして国道と県道の各路線については各府県に調査、図面の調製をさせて、明治18年には改めて路線番号による路線認定を全国的に行う予定であったが、各府県の調査が間に合わず、明治18年の路線認定は国道のみに限られた。従って、全国の全ての(明治)県道は正式に政府によって認定されたものではなく、各府県が独自に指定していたものであることから「仮定」の文字が付されているのである。
 話を本筋に戻そう。そして、1892年に法律第4号として公布された「鉄道付設法」には奥羽線として次の路線が規定された。
『宮城県下石巻ヨリ小牛田(日本鉄道東北線)ヲ經テ山形県下舟形(奥羽線)ニ至ル鐵道』、『奥羽線(福島〜山形〜秋田〜青森 間)より分岐シテ山形県下酒田ニ至ル鉄道』

その後、地元からの長年にわたる熱心な建設誘致運動が展開された。そして1912年(大正元年)になってやっと地元資本によって仙北軽便鉄道が小牛田〜石巻 間 27.9qが軌間762oでひと足早く開通した。それに前後して、1910年に残った牛田〜新庄間と新庄〜酒田間が同時に第1期建設予定線に格上げされた。
この路線は宮城山形両県境を陸羽両国の分水嶺を突破し新庄町にいたり、更に西方遠くは日本海の要港である酒田町に至る路線と連携する計画であり、東は小牛田町より私設仙北軽便鉄道線路を介して太平洋岸石巻港に達し、太平洋と日本海を連絡する奥羽地方における本州縦貫山脈横断の鉄道であった。
そして、直ちに新庄、小牛田の両端から着工し、8年間の難工事の末に全通して陸羽東線となったのである。
この経路の難工事の商才は次のサイトニ譲ることにするが、この線区の特徴は奥羽山脈と云う本州の脊梁を横断しているのに際急勾配を18.2パーミルに抑えるのに成功しれいることと、主要な駅である中新田(後の西古川)、岩出山、池月、川渡、鳴子(後の鳴子温泉)、堺田、羽前向町(後の最上)にはワム車換算にて30両程度となる270mの線路有効長に、上下本線と別に用意された副本線と云う構内廃線の規模は太平洋と日本海の両岸を直結する物量幹線としての輸送能力の潜在力を増加させようとする意図によるもの思うのだがどうであろうか。

参考文献:
・「陸羽東線建設概要」鉄道省新庄建設事務所発表(1917年)
所載は、河北新報新聞:1917年10月27日号から31日号。
「新聞記事文庫:陸羽東線建設概要 (一〜三)」  http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00099424&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA

・「70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film 堺田 (陸羽東線) 1971」
http://monochromeyears.blog.fc2.com/blog-entry-286.html堺田 (陸羽東線) 1971
・untitled : 陸羽東線:花渕山俯瞰【撮影編】
 http://blog.livedoor.jp/assagai/archives/51863196.html

◆「・奥の細道に沿った陸羽東線を訪ねて  T〜E」のリンク
356. プロローグ/川渡駅にて・小牛田(おごた)〜新庄
357. 大崎平野を江合川(荒雄川)に沿ってさかのぼる・小牛田〜鳴子
358.鳴子峡谷をさかのぼって中山平へ・鳴子−中山平
359.中山平から大谷河をさかのぼる・中山平−堺田
360.大分水界のある堺田駅界隈(かいわい)・中山平〜羽前赤倉
-大分水嶺と国境線が異なる不可解なる峠 「中山越え」-
361. 赤倉温泉から小国盆地へ・羽前赤倉〜長沢